【列王記・歴代誌】ユダの王ヨシャファトの盛衰ー反逆と改革【解説】#7

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【ユダのヨシャファト王】

ユダのヨシャファト王の時代は読んでいて飽きることがありません。紀元前872年から同848年までの彼の治世は、霊的浮き沈み、栄枯盛衰(えいこせいすい)に満ちています。彼のような人生を送った人はまれです。今回はユダの王ヨシャファトの浮き沈みを中心に学びます。人はなぜ極端から極端へと揺れ動くのでしょうか。ヨシャファト王をそのような状況に追いやったのは何だったのでしょうか。彼の浮き沈みからどんな教訓を学ぶことができるでしょうか。どんな理由があったにせよ、彼の人生は興味深い事例研究の対象となりうるもので、ある意味で私たちすべての人の霊的生き方を映し出しています。時代の流れの中で彼のとった行動や思考に私どもへの教訓があります。今回の研究では、聖書がヨシャファト王を称えている理由、ユダにリバイバルと改革をもたらそうとした統治の初期と成功の原因、過ち、行政の原則を研究しましょう。宗教改革後に直面したユダへの脅迫、勝利の鍵などの物語も、私たちが今日学ぶべき教訓を含んでいます。

ユダのヨシャファト王(歴代下17:1~6)

歴代誌下17章の初めの6節は非常に意味深長です。神はヨシャファトと共におられました。それは、ヨシャファトが生まれる前から神によって選ばれていたからではありませんし、傑出し(けっしゅつ)た指導力を持っていたからでもありません。また生まれながらに善を行う傾向を持っていたからでもありません。彼がただ神に従い、「父祖ダビデがかつて歩んだ道」(3節)を歩んだからです。ここに「祝福と刑罰」の主題が啓示されています。それは申命記(特に28章)にはっきりと記され、列王記と歴代誌において繰り返されている主題です。原理は「従うなら祝福を受けるが、背(そむ)くなら刑罰を受ける」であって、きわめて単純明快です。

問1

「祝福と刑罰」の原則は現代の私たち自身と教会にどのように当てはまりますか。申命記28章の原則はそのまま私たちに当てはまらないとしても、その原則はどんな意味で今も生きていますか。新約聖書の次の聖句はこの原則に関してどんなことを教えていますか。マタ23:37~39、ガラ6:7、8、フィリ3:16~19、ヘブ2:1~3

歴代誌下17章で最も感動的なのは、おそらく6節の「ヨシャファトの心は主の道にとどまって高められ……」という言葉でしょう。「高められ」のヘブライ語はしばしば“尊大”を表す否定的な言葉ですが、ここでは積極的な意味に用いられています。ヨシャファトの心が高められたとは、彼が主の道において高められ、主を喜んだということです。つまり彼は神の御心を喜んで行ったのでした。彼は反逆が国家と個人にもたらした悲惨な結果を見て知っていたのでしょう。彼はダビデのように断言することができました。「わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み……」(詩40:9)。

主の律法の書(歴代下17:7~10)

「彼らは主の律法の書を携え、ユダで教育を行い、ユダのすべての町を巡って、民の教化に当たった」(歴代下17:9)。

王ひとりの力ではリバイバルも改革も成し遂げることはできません。どのような改革を望んでも、またどれほど神の祝福を求めても、自分の力だけでは不可能であることをヨシャファトは知っていました。そこで、聖書にあるように、彼は「主の律法の書」を携えた教師たちを全国に遣わしました。聖書のどの書が用いられたかは明らかではありませんが、重要なのは神の御言葉である聖書がリバイバルと改革の基礎になっていたということです。

問2

イエスは「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している」と言われました(ヨハ5:39)。聖書はそれ自身が目的ですか。それとも目的のための手段ですか。もし目的のための手段であるとするなら、その目的は何ですか。

ヨシャファトの心は主と一つでした。その結果として彼は主に従いました。彼の信仰はその行いにおいて表されました。「信仰もこれと同じで、行いが伴わないなら、信仰は死んだものです」(ヤコ2:17)。

確かに私たちは行いによらず、信仰によって救われます。しかしこのことは、行いが救いをもたらす信仰と無関係であることを意味しません。善行が救いの基礎でないからといって、行いが救いの経験において何ら役割を果たさないということではありません。行いは私と贖い主との内面的関係が外に表れたものです。つまり、行いは信仰の表現、信仰の体現、信仰の真髄、信仰の実践です。行いは信仰が現実化されたもの、信仰が実体化されたもの、私たちの言葉と告白が有形化されたものです。行いは信仰を表現し、強化する手段です。ヨシャファトはこの重要な霊的真理のすぐれた模範でした。

「主の預言者はいないのですか」(歴代下18:6、19:1~3)

興味深い点がいくつかあります。第1に、「先祖の神を求め」たヨシャファトが(歴代下17:4)、政治的同盟関係を強固なものにするために、自分の息子ヨラムをアハブ(イゼベルの夫)の娘アタルヤと結婚させていることです。それは「神の指示によるもの」ではありませんでした(『国と指導者』上巻161ページ)。

第2に、彼がラモト・ギレアドを攻めるためにアハブと軍事同盟を結んでいることです。これも神の是認されることではありませんでした。しかし、いくぶん不安を感じたのでしょう。ヨシャファトは戦いに出かける前に主にお伺いを立てています。北王国の400人の預言者は「攻め上ってください」と言います(歴代下18:5)。異教のまじない師たちの声に疑問を感じたヨシャファトは、「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と尋ねます(6節)。主の預言者ミカヤが連れて来られます。ミカヤは初めアハブの望むような返答をします。ミカヤの皮肉を見抜いたアハブは本当のことを言うようにミカヤに求めます。ミカヤは了解し、戦いに行くべきではないとはっきり告げます。これに怒ったアハブはミカヤを獄につなぎます。

一方、ヨシャファトは主から警告されていたにもかかわらず、戦いに出かけます。戦う前に、アハブは変装し、ヨシャファトには王服を着たまま戦うように言います。ヨシャファトはなぜかそれに同意します。戦いの最中に彼は敵に包囲され、殺されそうになります。彼が助けを求めて叫んだところ、「主は彼を助けられた。すなわち神は彼らをヨシャファトから引き離された」(31節)。その後、アハブはシリアの射手が何気なく放った矢にあたって死にます。ヨシャファトは無事、宮殿に帰りますが、先見者ハナニの子イエフから厳しく叱責されます。「そのため、主の怒りがあなたに下ります」(歴代下19:2)。

問3

歴代誌下18章を読み、ヨシャファトが犯した過ちを書き出し、彼の良い行いと比較してください。ヨシャファトがアハブと軍事同盟を結んだのはどんな動機からだったと思いますか(歴代下18:1~3参照)。

司法制度の改革

聖書には書かれていませんが、ヨシャファトは先の愚行(アハブとの軍事同盟)を叱責(しっせき)されたために以前にも増して主に熱心に従ったと思われます。彼が主の御心に従って司法制度を改革しようとしたことが、これで説明がつきます。いずれにせよヨシャファトは裁判制度に抜本的な改革が必要であると考えました。

問4

ヨシャファトによる司法改革はどのようなものでしたか(歴代下19:4~11)。この改革を申命記16:18~20、17:8~13にある教えと比較してください。

この改革は司法制度の道徳的な面に強調が置かれていました。「自分が何をすべきか、よく考えなさい」(歴代下19:6)、「注意深く裁きなさい」、「不正も偏見も収賄(しゅうわい)もない」(7節)、「忠実に、全き心をもって務めを果たせ」(9節)、「主に罪を犯して、怒りがあなたたちと兄弟たちの上に降りかかることのないように、彼らを戒めなさい」(10節)、「勇気をもって行え」(11節)。

問5

特に歴代誌下19:7に注意してください。ヨシャファトはここで何を言おうとしていますか。次の聖句を参照してみましょう。申命10:17、ヨブ8:3、34:19、エフェ6:9、Ⅰペト1:17

主は裁判官たちにご自身の品性を表すように望まれました。不正や偏見のない態度で人々を裁くことです。歴代誌下19:10に注意してください。ヨシャファトはこれらの指導者たちに、人々を裁くときには、彼らの罪の結果について警告するように、そうしなければあなたがたも責任を問われ、自らの上に怒りを招くことになると教えています。何という大きな責任でしょう。

「あなたたちの戦いではなく、神の戦いである」(歴代下20章)

20章は次の言葉をもって始まっています。「その後、モアブ人とアンモン人が……ヨシャファトに戦いを挑ん(いど)だ」。ヨシャファトがこれらの改革を行ったとき、国は大きな危機に直面しました。つまり、王と国民が心から主に仕え始めたとたんに、信仰の試みが襲ってきたのでした。個人の人生においてもこのような経験がよくあるのではないでしょうか。

ヨシャファトと民はこの危機にどう対処したのでしょう。王は恐れ、主を求め、断食を呼びかけ(3節)、民を集め(4節)、祈り(5~13節)、主を礼拝し(18節)、賛美しました(19~21節)。彼らはすべての用意ができていました。

「ヨシャパテは勇猛果敢な人であった。……彼はどんな敵にも対応する準備が整っていた。しかし彼はこの危機において、肉の腕に頼らなかった。彼は……イスラエルの神に対する生きた信仰によって……これらの異教徒に勝とうと望んだのである」(『国と指導者』上巻164ページ)。

問6

歴代誌下20:4には、人々は「主を求めて集まった」とあります。彼らはどのようにして主を求めたのでしょうか。「主を求める」とはどういう意味でしょうか。私たちは今日、どのようにして主を求めたらよいでしょうか。主を求めるという実際的な方法、手段について考えてみましょう。

ヨシャファトの祈りを読んでください(歴代下20:6~12)。彼はこの祈りの中で二つの点を強調しています。神の力と人間の弱さです。ヨシャファトがここで取った行動を、アハブがラモト・ギレアドに対して取った行動と比較してください。

まとめ

ヨシャファトの改革運動は大いに成功しました。彼は大部分の高台を取り除き、バアル礼拝の一部であった神殿男娼制度を廃止しました(列王上22:46)。彼はすぐれた軍事指導者また政治家として国を治めました。「王国の全土において、人々は神の律法について教えを受ける必要があった。彼らの安全はこの律法を理解することにかかっていた。その要求に人々の生活を合致させることによって、彼らは神と人間との両方に対して誠実になるのであった。ヨシャパテはこの事を知っていたので、聖書に関する教育を十分に人々に与える方法を講じた。……そして多くの人々が、神の要求を理解することに努めて、罪を捨て去るに及んでリバイバルが起こったのである」(『国と指導者』上巻159ページ)。

ヨシャファトはまた外国との交易を行いましたが(列王上22:48)、これはあまり成功しませんでした。神のお喜びにならない民との共同事業だったからです。

彼はユダの司法制度を改め、すべての民のために公平な法律を定めました(歴代下19:4~11)。主は彼の行いをほめておられます(3節)。

エレン・ホワイトは、ヨシャファトが北方同盟軍の攻撃を受けたときに取った行動に関して次のように述べています(歴代下20章)。「ヨシャパテが王として繁栄したのは、彼が国民の霊的必要のために賢明な処置をとったことに負うところが多かったのである。神の律法に従うことには大いなる利益がある。神の要求に従うときに改変の力が働いて、人々の間に平和と善意をもたらすのである。神のみ言葉の教えがすべての人々の生活の支配的影響力となり……今日、国家的また社会的生活の中に存在している罪悪は消滅してしまうことであろう」(『国と指導者』上巻159ページ)。

ミニガイド

【列王記と歴代誌】

私たちが使っている聖書はどちらも「上」と「下」に分かれていますが、昔のヘブライ語聖書はそれぞれ1巻にまとまっていました。現在の聖書は前3世紀にギリシャ語を使うユダヤ人たちのために訳されたギリシャ語訳聖書(70人訳)で、キリストの時代に一般に使われていた旧約聖書です。両方ともイスラエルとユダ両王国の歴史を並列記述で扱っていますが、人物の取り上げ方や内容の細かい部分では多少の違いが見えます。著作の時代も、著者も明確ではありませんが、列王記はエレミヤ、歴代誌はエズラが著作または編纂し(へんさん)たというのがユダヤ人の伝統的な理解です。ただし歴代誌はダビデから始まるダビデの系統を年代順にたどっており、この辺に著作の意図があるように思われます。

【ヨシャファトの改革】

ヨシャファトの宗教改革で気になるのは、歴代誌下17:6では「彼は聖なる高台とアシェラ像をユダから取り除いた」とあるのに、後出の20:33では「しかし、聖なる高台は取り除かなかった。民はまだ先祖の神に揺るぎない心を向けてはいなかった」、列王記上22:44も「しかし、聖なる高台は取り除かなかった。民は依然として聖なる高台でいけにえをささげ、香をたいていた」という点です。SDA聖書注解は偶像礼拝の中心は除いたが、地方まで行き届かなかったと説明しています。いずれにしても彼の改革は細部まで徹底できなかったのかもしれません。偶像礼拝はそれほど根が深かったと思われます。聖なる高台旧約の中で“高き所”と書かれていることもありますが、山の頂とか丘の上に作られた“青空の中での礼拝”の場所です。神はモーセにカナンの地に入るときは「高き所を破壊しなければならない」(民数33:52、口語訳)と警告しました。それらはバアル、アシェラなどの異教礼拝のシンボル、場所だったのです。近年になってペトラ、ゲゼルなどの考古学発掘により、こうした場所が明らかになりました。そこには神々または男性、女性をあらわす2本の柱が立っており、祭壇、血の犠牲のための流し場、受け皿、犠牲を処理する石の台、水槽などが完備していました。ここで礼拝の儀式として不潔、不道徳な性の倒錯が繰り広げられたのでした。学者たちはそこでの詳細をそのまま翻訳することを拒んだほどです。神が偶像を破壊するように命じたのには理由がありました。王も預言者も祭司もこの種の礼拝をストップさせる義務がありました。

*本記事は、安息日学校ガイド2002年3期『列王記と歴代誌ー反逆と改革』からの抜粋です。

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『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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