【列王記・歴代誌】南王国の滅亡ー反逆と改革【解説】#13

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「彼らはわたしの民となり」

「しかし今や、お前たちがバビロンの王、剣、飢饉、(ききん)疫病に(えきびょう)渡されてしまったと言っている、この都について、イスラエルの神、主はこう言われる。『かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植える』」(エレ32:36~41)。エレミヤはこの時代のユダに対する憂国の預言者でした。

今回の研究ではヨシヤ統治の基礎、彼の後継者、この時代の預言者たちのメッセージについて調べてみましょう。罪、反逆、背教を繰り返す民への神の使命は何でしたか。

ヨシヤと過越祭(歴代下35:1~19)

1世紀のユダヤの歴史家ヨセフスによれば、ヨシヤは生まれながらにして高徳、すぐれた気質の持ち主、ダビデを人生の模範として生きたと言われています(『古代誌』X、Ⅳ)。ヨシヤは勤勉に、忠実にユダを改革しようとしました。しかしエレン・ホワイトによれば、ユダには最終的な滅びを逃れる望みがほとんどないことを、彼は知っていました(『国と指導者』下巻23、24ページ参照)。

問1

歴代誌下35章にある過越祭についての記録を読んでください。過越祭を行った王がほかにいなかったでしょうか(歴代下30章参照)。過越祭がリバイバルにとって重要な意味を持つのはなぜですか。それは何を象徴していますか。

ヨシヤの計画したリバイバルは(異教の慣習を取り除くことのほかに)律法と聖所の儀式に重点を置いていました。聖所の儀式は、基本的には、救いの計画の原型、すなわちイエス・キリストの福音です(Ⅱテモ2:8、ヘブ4:2、黙示14:6)。したがって、ヨシヤの目指したリバイバルは、真の信仰と礼拝の基礎である律法と福音を強調することにありました。

ヨシヤの死(歴代下35:20~27、36章)

ヨシヤがエジプトのファラオ・ネコとの戦いで死んだことに関しては、歴代誌のほうが列王記よりも詳しく記録しています。エジプトの王ネコは、西に進出しつつあったバビロニアに対抗するためにアッシリアと手を結びました。バビロニアはやがてエジプトにとって脅威となるはずでした。ユダは地理的にバビロンとエジプトにはさまれた格好になりました。エレミヤによれば、パレスチナに強力な親エジプト政党が成立します。この政党と親バビロニア政党との争いの結果、ユダヤ社会は分裂し、エルサレムはバビロニアの捕囚となり、滅ぼされるのです。

問7

ヨシヤはエジプト軍との戦い(前608年)において戦死します(歴代下35:20~24)。ユダに信仰と礼拝を回復しようとした善良な王が、なぜこのような不遇な死を遂げなければならなかったのでしょうか。それは本当に不遇な死だったのでしょうか。歴代誌下34:28はヨシヤの運命を理解する上でどんな助けになりますか。

ヨシヤの治世下、この地域の政治的、軍事的状況は大きく変わりつつありました。100年ほど前にイスラエルを滅ぼした北の大国アッシリアは衰退していました。そのため、一時的であったにせよ、ヨシヤがユダを改革することが容易になったはずです。しかしながら、アッシリアが衰退すると同時に、バビロニアが台頭してきました。言うまでもなく、これは南王国を滅ぼし、多くのエリート階級を捕囚としたあのバビロンです。ダニエル書はこの出来事を背景としています。

ヨシヤの死後しばらくして、ユダは滅ぼされます。彼の後に4人の王が即位しています。

  1. ヨアハズ(歴代下36:2、3)
  2. ヨヤキム(歴代下36:4~8)
  3. ヨヤキン(歴代下36:9、10)
  4. ゼデキヤ(歴代下36:11~14)

憐れみ深い神、反逆的な民

「先祖の神、主は御自分の民と御住まいを憐れみ、繰り返し御使いを彼らに遣わされたが、彼らは神の御使いを嘲笑(あざわら)い、その言葉を蔑み(さげす)、預言者を愚弄(ぐろう)した。それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった」(歴代下36:15、16)。

この聖句は聖書の中で最も悲しい聖句の一つでしょう。聖句は南王国だけでなく、天でのルシファーに始まり、この世の終末に至るまで、大争闘のドラマ全体に当てはまるものです。

エレン・ホワイトは、まだ地上に入り込む前の、ごく初期段階の大争闘に関連して、次のように述べています。「神は、大いなるあわれみをもって、長い間ルシファーに対して忍耐された。彼は、最初不満の念にかられたときも、あるいは忠誠な天使たちの前で虚偽の主張をしはじめたときでさえ、その高い地位からすぐに追い出されるようなことはなかった。彼は長い間天にとどまっていた。何度も何度も彼には、悔い改めと服従の条件のもとに許しが提供された。彼にそのまちがいを自覚させるために、無限の愛と知恵であられる神だけが考えだすことがおできになるような努力が払われた。不満の精神というものは、それまで天で見られたことがなかった」(『各時代の大争闘』下巻232ページ)。

創造主は被造物〔ルシファー〕に懇願(こんがん)し、赦しをお与えになりました。しかし、被造物〔ルシファー〕はそれを拒否しました。同じ行為が何度、地上でも繰り返されてきたことでしょうか。

問8

神が御自分の民に悔い改め、服従、赦しを受けるように懇願されるのに、民が神を侮り、拒否した他の例を聖書からあげてください。時代が変わろうとも、人間の本性は同じです。今日の私たちはどうですか。カインは神の懇願を拒みました(創世4章)。

問9

歴代誌下36:16の最後の句を文字通りに訳すと、「いやしがなくなるまでに」となります(エレ14:19参照――同じ語が2回使われています)。なぜ「いやしがなくなった」のでしょうか。実際にいやしがなくなったからですか。それとも病人がいやしを拒んだからですか。

「良いものを食べる」

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。/銀を持たない者も来るがよい。/穀物を求めて、食べよ。/来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。/なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。/わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。/あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」(イザ55:1、2)。

問10

神が無償で与えてくださる乳、ぶどう酒、穀物とは何のことですか。神がすべての人に食べるように勧めておられる「良いもの」とは何ですか。それが「無償」なのはなぜですか。

ユダの運命がいかに暗いものであろうとも、主は国民また個人としての彼らに懇願することを決して止められませんでした。「ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ」(イザ1:1)の治世において働いたイザヤは、自らの上に滅びをもたらす無益で空虚な行いを離れるようにユダの民に対して雄弁に訴えました。

イザヤ55:1、2の言葉は、イザヤのメッセージの本質をよく表しています――あなたを満足させることも、最も基本的な必要すら満たすこともできないもののためになぜ労するのか。それらの必要を豊かに満たしてくださるのは主だけだというのに。紀元前7世紀のユダに住んでいようと、21世紀のアルゼンチン、フランス、ザイールに住んでいようと、イザヤのメッセージはすべての人に当てはまります。

問11

イザヤ30:7、41:29、44:9、52:3、57:13、59:4を読み、それらのメッセージに共通している基本的なテーマを書き出してください。

「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(エレ32:38)

ローマ人によって十字架にかけられたとき、イエスは次のように祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。これらの人たちがイエスの言葉を軽んじ、イエスの教えを拒絶し、イエスの使者を侮り、最後にイエスを十字架にかけたときにも、主の願いはただ一つ、これらの罪人が、その罪にもかかわらず、赦されることでした。

新約聖書の神、イエス・キリストにおいて御自身を啓示される神は旧約聖書の神と異なる、と主張する注解者がいます。つまり、前者は旧約聖書に見られる「しかめ面(づら)をした、苦情ばかり言う、脅迫的な」神よりも、優しく、愛と赦しに満ちているというのです。しかしながら、たとえばエレミヤ書32:36~44などを読むと、旧約聖書にも新約聖書と同じ憐れみに満ちた神を見ることができます。それは、十字架の上で御自分の敵を赦されたお方と同じ神です。

問12

エレミヤ32:36~42を読んでください。主は御自分の民に何と言っておられますか。どんな約束を与えておられますか。それらはどんな意味でキリストの品性を表していますか。

13週にわたって「主の目に悪とされることを行った」王たちについて、憎むべき悪を行ってきた民について学んできました。彼らはみな神の御言葉を侮り、神の教えを拒絶し、神の使者をあざけりました。しかし聖句の中に、その御言葉を侮られ、教えを拒絶され、使者をあざけられた神が、御自分を侮り、拒絶し、あざけったその民のために、なおも希望と回復といやしの約束を与えておられます。イエスに目を向けてください。いかに価値のない者であろうと、イエスは御自分の救いを受け入れる者たちに喜んでいやしと赦しと回復を与えてくださいます。そのとき初めて、エレミヤ32:36~42の言葉の意味を理解することができます。

このように、列王記・歴代誌のメッセージは神の民の背信と罪に関するものというよりも、むしろ神の憐れみと赦しに関するものです。神は罪人の私たちを愛しておられます。神は私たちを深く愛するゆえに、私たちを滅びに陥れる罪を見過ごし、沈黙なさいません。

まとめ

ネブカドネツァルがネコを打ち破ったカルケミシュの戦い(前605年)は、バビロニアにとっての転換点となりました。エレミヤ書はユダ国内における親エジプト勢力と反エジプト勢力の争いを要約しています。エレミヤは主の導きによって、バビロンが勝利し、エジプトが自分たちを救うことができないことを民に告げます(エレ2:36)。

「エホヤキムの治世の最初の数年は、切迫する滅亡の警告に満ちていた。預言者たちによって語られた主の言葉が、まさに成就しようとしていた。長い間、最高位を誇った北方のアッスリヤ王国は、もはや諸国を支配しなくなった。ユダの王がいたずらに寄り頼んだ南方のエジプトは、やがて決定的打撃を受けるのであった。全く予期しないところから、新しい世界国家、バビロン帝国が東方から起こって、急速に他のすべての諸国を征服するのであった」(『国と指導者』下巻43ページ)。

ミニガイド

【南の国ユダの最期】

ヨシヤのあと、子ヨアハズが3か月王位にあり、次いで弟ヨヤキムが11年王位にあり、その子ヨヤキンが3か月、そして叔父であるヨシヤの子ゼデキヤが11年治めて、ついにユダ王国最後の王となりました。

当時、アッシリア帝国は衰亡の道をたどり、代わってオリエントに支配を広げたのはバビロニアです。エジプトもアジアを狙っ(ねら)ており、ユダの王はエジプトに助けを求めて失敗し、ついにバビロンのネブカドネツァルによって征服されました。バビロンは3回にわたり、ユダを攻めます。第1回は前605年で、このときダニエルらがバビロンに捕囚となりました。第2回は前597年でエゼキエルが連れ去られました。そして第3回は前586年のことで、このときは3年に及ぶエルサレム包囲で、神殿も町も城壁も完全に破壊されてしまいました。ゼデキヤは王子たちを次々に殺害され、最後に目をくりぬかれて鎖でつながれ、バビロンに捕囚となりました。悲劇的な滅亡はエレミヤの「哀歌」に見ることができます。バビロンに連れて行かれた民は「バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。/わたしたちを捕囚にした民が歌をうたえという。/どうして歌うことができようか/主のための歌を、異教の地で」(詩編137編)と嘆いています。敗戦の苦しみを味わったユダ民族の悲惨を私たち日本人も経験しましたが、内容は比べられぬほど重く、暗く、耐え難いほどの苦悩でした。

しかし、預言者エレミヤは希望を語りました。70年ののちに「あなたたちをエルサレムに連れ戻す」との「平和の計画、将来と希望を与える」約束です(エレ29:10~14)。第1回攻撃から70年を経た前536年、ペルシアのクロスはユダヤ人に母国帰還を許し、自治を認める布告を出しています。同じころ預言者ダニエルは「油注がれた君(メシア)の到来」による解放を予告しました(ダニ9:25)。どちらもバビロン捕囚のさなかでの神の言葉でした。ユダに神は再び機会をお与えになったのです。こうしてイエス・キリスト来臨の準備が着々と進みました。バビロン捕囚以降、滅亡から学んだ教訓としてユダヤ民族はきっぱりと偶像礼拝を捨て、2度と同じ過ちを犯していません。確かに偶像はなくなりましたが、今度は異常なほどの執念をもって律法に従おうとする律法主義が民の間に浸透し、形式や外見という新たな偶像が心を占め始めました。悲しむべき人間の努力です。

*本記事は、安息日学校ガイド2002年3期『列王記と歴代誌ー反逆と改革』からの抜粋です。

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