この記事のテーマ
【中心思想】
『ヘブライ人への手紙』は、私たちの大祭司であられるイエスについて繰り返し述べていますが、同時に、イエスを王として描写しています。
世界の歴史の中で、王は長い間、変化に富んだ役割を果たしてきました。王は権力を持っているために、その品性はしばしば国民の運命を決定することがありました。イスラエルは指導者としての士師に満足することなく、王を求めました。そして、彼らは王を得ました。事実、多くの王を得ました。
聖書はイエスを一人の王として紹介しています。イエスは王の中の王です(黙17:14、19:16)。『ヘブライ人への手紙』の中で、祭司にして王なるイエスは慈悲深い支配者以上のお方として紹介されています。イエスは、その支配、統治、働きの性質のゆえに、私たちのために多くのことがおできになります。今回は、王としてのイエスの役割について学びます。
王なるイエス(ヘブライ1章)
ヘブライ1章は主イエス・キリストへの「賛美」を含んでいます。神はキリストによって私たちに語られました(2節)。キリストは父なる神の完全な現れです(3節)。2節と3節において、キリストの存在が要約されています。それによれば、キリストは先在し、地上の生涯を送り、天に上げられました。彼は神と共に統治・支配されるお方であり、天使よりもはるかに優れたお方です(4節)。
ヘブライ1:5~14はなおもイエスを賛美します。(1)イエスは御子である(5節)。(2)イエスは礼拝を受けるべきお方である(6節)。(3)イエスは永遠から永遠にわたって王また神である(8、9節)。(4)イエスは創造主である(10~12節)。(5)イエスは神と共に支配し、すべてのものは彼に従う(13節)。
イエスが王であるという思想はこの手紙全体に流れている思想ですが、特にヘブライ1章において顕著です。「これらの言葉のうちに、主イエスの全能性が描かれている」(『SDA聖書注解』第7巻921ページ、エレン・G・ホワイト注)。
著者は至るところで(ヘブ1:3、13、8:1、10:12、12:2)、イエスが神の「右の座」に着いておられると述べています。これは地理的・空間的なイエスの位置を意味するものですか。それとも天におけるイエスの権威を強調するものですか。
興味深いことに、イエスは『ヘブライ人への手紙』の中で一度も「王」と呼ばれていません。しかし、さまざまな表現からイエスが王であられることは明らかです。第1章のどんな表現がそのことを示していますか(ヘブ2:7、8、10:13参照)。
この手紙は至るところで、イエスが王であられることを暗示しています。イエスの玉座は永遠に続きます。イエスは王冠をいただき、すべてのものは彼に服従します。イエスは明らかに宇宙の王です。
『ヘブライ人への手紙』における王の主題は、詩編2、45、110編を含む旧約聖書の数々の聖句にもとづいています。事実、詩編110編はこの手紙全体に用いられているだけでなく、ヘブライ1章の基礎にもなっています。ヘブライ1:3は詩編110:1を暗示し、ヘブライ1:13は詩編110:1から来ています。詩編110:1に関連したヘブライ1:3と同1:13との間に、イエスの王権に言及した6つの旧約聖書の引用が見られます。
詩編110編を読んでください。ここにはどんな重要な思想が述べられていますか。ダビデは何と言っていますか。あなた自身の言葉で言い換えてください。
詩編110編は新約聖書の中で広範囲に引用されています。1節は王の即位について、4節は彼に祭司の職権が授けられることについて、その他の聖句は王が世界を統治することについて述べています。この王はまた、とこしえの祭司です。祭司にして王――これは驚くべき思想です。なぜなら、ダビデの家系に属する王が祭司を兼務したことはイスラエルの歴史にないからです。ここに、メシアに関する預言を見ることができます。この約束はメシアにのみ当てはまります。
マタイ22:41~45を読んでください。イエスは指導者たちに、御自身のどんなことについて語っておられますか。
古いユダヤ人の考え方によれば、メシアは二人いることになっていました。一人は王なるメシア(ユダ族出身)で、もう一人は祭司なるメシア(レビ族出身)です。『ヘブライ人への手紙』の中では、これらが一人のメシア、祭司にして王なるお方、イエスに統合されています。これは『ヘブライ人への手紙』全体に流れているテーマです。
イエスの王権
私たちクリスチャンはキリストの永遠の先在を信じています。キリストは被造物ではありません。彼は永遠の昔から、支配者としての力をもって父なる神と共におられました。しかしながら、『ヘブライ人への手紙』の著者は受肉以前の御子の支配の性質や範囲について議論していません。
むしろ、著者にとって重要なのは、キリストの最終的な統治がその死、復活、昇天の後に始まったこと、つまり「人々の罪を清められた後」(ヘブ1:3)に神の右の座にお着きになったときであるということでした。受肉と死による恥辱の後に、復活と昇天がありました(ヘブ2:6~9)。まず十字架があり、それから王冠がありました(ヘブ12:2)。
使徒言行録2章33~35節を注意深く読んでください。ペトロはここで、キリストの即位について何を言おうとしているのでしょうか。
ペトロがここで詩編110:1を引用していることに注目してください。これは、イエスが復活と昇天の後に王の地位に高められたことを意味します。地上におけるこの出来事の目に見えるしるしが、五旬祭における聖霊の賜物でした。ペトロは使徒言行録5:30~32で同じ主題について述べています。
このように、イエスは人類に救いをもたらした後で王となられました。したがって、救いと王権とは密接な関係にあります。救いの結果が永遠に続くように、イエスの王権も永遠に続きます。イエスは今、天使、聖なる者たち、天上の世界を支配しておられますが、敵はなお存在します。しかし、敵は最終的にはイエスの権威を認めます。イエスが宇宙の統治を完全に実現されるのはまだ先のことです。千年期の終わりに、罪と罪人は滅ぼされ、大争闘の諸問題は解決し、神と神の統治が永遠に擁護されます。
王なるイエスの品格(ヘブ7:1―3)
次の聖句は王なるイエスの特性について何と述べていますか。ヘブ1:8、ヘブ1:12、ヘブ2:9、10、12:2、3、ヘブ7:1~3
王の名は良し悪しさまざまな感情を呼び起こします。私たちは、イエスがどのような王であられるかを理解する必要があります。王なるイエスに関して、五つの基本的な特性があげられています。
平和の王(ヘブ7:1、2)メルキゼデクと同様に、イエスは平和の王です。“サレム”はヘブライ語のシャロームと関係があり、平和、完全、幸福を意味します。健康、繁栄、友情、救いという意味もあります。イエスは最高の平和の実現者です。
義と公正の王(ヘブ7:2、1:8)イエスは正しく、絶対的に公正なお方です。えこひいきされることはありません。イエスは義なるお方であって、私たちは彼の義のゆえに神との正しい関係に入ることができます。イエスは義を愛し、罪を憎まれます(ヘブ1:9)。
自己犠牲的な愛と慈しみ(ヘブ1:3、2:9、10、12:2~6)イエスのうちには、利己心や自己中心性はありません。彼は他者のために生きておられます。彼は苦しみと死を避けられません。
その苦しみと死が人数の多少にかかわらず人々に救いをもたらすときは特にそうです。
謙そんと奉仕の精神(ヘブ2:11)イエスは宇宙の至高の主です。それにもかかわらず、彼は私たちを兄弟・姉妹と呼ばれます。彼は王の中の王でありながら、私たちのための僕と呼ばれています。彼は指導者の最高の模範です。
不変性(ヘブ1:12、13:8)これは、イエスの愛、慈しみ、正義が決して変わらないという意味です。私たちはいつでもイエスに信頼することができます。
私たちの王、イエス
王なるイエスの特性について学びましたが次は、私たちのためのイエスの働きについて学びます。行動は品性から出ます。したがって、行動と品性の間には密接な関係があります。私たちはイエスのすばらしい特性について学びました。問題は、それが私たちとどんな関係にあるかということです。
次の各聖句は後にあげたテーマについて何と教えていますか。
ヘブ5:9、7:25(救い)ヘブ12:2(信仰)
ヘブ10:14(清め)ヘブ4:15(近い関係)
ヘブ2:16、4:16(助け)ヘブ11:16(未来への備え)
『ヘブライ人への手紙』はイエスについて書いていますが、決して孤立したイエスではありません。それは恐るべき罪の結果から私たちを救うために働いておられるイエスについて書いています。永遠の滅びから私たちを贖ってくださるイエスについて、またイエスが今、私たちのために何をしておられるのかについて書いています。イエスは、私たちがこの世にあって生きるのを助けてくださいます。イエスはまた、私たちが信仰の戦いを戦い抜き、最後まで耐え忍んで栄光の冠を受けるために必要な平安と力と確信を与えてくださいます。
これが『ヘブライ人への手紙』のメッセージです。これが、パウロが当時の信者に書き送ったメッセージであり、同時に今日の私たちに書き残したメッセージです。
まとめ
イエスは単なる王でないばかりか、最も力強い王でさえありません。キリストは、祭司にして王なるお方です。主は、祭司としてだけでなく、王としてもご自分を人類に結びつけられます。祭司にして王というこのお働きによって、キリストは、あがないの計画の次の段階にお入りになります。『ヘブライ人への手紙』の読者は、王なるキリストの内に、完全なゆるしと、救いと、助けと、理解と、力を見いだすのです。
「わたしは、あらゆる種類の花が満ちている別の野原を見た。そしてわたしは、花を摘みながら、『これは、しぼむことがない』と叫んだ。次にわたしは、この上もなく美しい背の高い草の生えた野原を見た。それは、生き生きとした緑色で、銀と金を反映し、誇らかに揺れ動いて、王なるイエスに栄光を帰していた。それから、ライオン、小羊、ひょう、おおかみなど、あらゆる種類の動物がいっぱいいて、みな仲良く一緒にいる野原に入った。われわれが、動物たちの中を通ると、彼らは静かについて来た。それからわれわれは森に入ったが、それは、この地上の森のように暗くはなかった。それは明るく、一面に輝いていた。木の枝は揺れ動いていた。われわれはみな、『心を安んじて荒野に住み、森の中に眠る』と叫んだ。われわれは、森の中を通り抜けてシオンの山へ向かって行った」(『初代文集』68、69ページ)。
「天国への道は険しい。野バラやイバラが途中に生えている。しかし、私たちは快活にその荒れた道をたどることができる。栄光の王、イエスが私たちの前にそこをたどられたことを知っているからである」(エレン・G・ホワイト『レビュー・アンド・ヘラルド』1852年6月10日)。
ミニガイド
問題解決の鍵――キリスト
『ヘブライ人への手紙』の著者が相手にしている会衆について描いた次の言葉は、今日の私たちにとっても示唆的です。
「(彼らは)霊的葛藤に疲れ、祈りの生活をどうにか続けようとする努力に疲れ、……彼らの手は萎え、膝は弱くなっている(12:12)。礼拝の出席者は減っている(10:25)。彼らは自信を失いつつある。ここでの脅威とは、憔悴し、やがて擦り切れてしまって、掴んでいるロープの端を手から放り出し、漂流しようとしていることである。歩くべき道を歩くことに疲れ、彼らの多くはあちこち歩き回ってみようと思うようになり、教会を去り、信仰から離れようとしている」(T.G.ロング『ヘブライ人への手紙』24、25ページ)。
このような問題に対して、パウロが示した解決の処方箋は、手紙の冒頭から最後まで、徹頭徹尾「キリスト」でした。
今期のガイドは、題目的に取り上げられており、文脈にそってその意味を明らかにしていく厳密な意味での釈義ではありませんが、その上に立って、全体をキリスト中心の説教として位置づけていることに大きな価値があります。私たちも、この視点をしっかりととらえたいものです。
『ヘブライ人への手紙』の中のキリスト(1)――われらの王
『ヘブライ人への手紙』は、初めから壮大なキリスト論を展開しています。パウロはまず、「終わりの時」への言及によって、神の最高の啓示・キリストの到来を、救いの歴史における決定的な転換点として位置づけています。われわれはもはや影の時代ではなく、成就の時代に生きているという興奮が伝わってきます。続いて、著者は、創造、犠牲制度の完成としての十字架による贖罪、復活、昇天、とりなしを通して、キリストが預言者の中の預言者であり、祭司の中の祭司であり、王の中の王であると力説します。しかもこれらのことは、預言の成就として起こったことを、旧約聖書からの数々の引用によって示し、キリストこそが真のメシアであることを強調して、ユダヤ人クリスチャンの注意を喚起します。これは、現代に生きる私達にとっても大きな励ましです。
*本記事は、安息日学校ガイド2003年3期『聖所のテーマーヘブライ人への手紙』からの抜粋です。