【ヘブライ人への手紙】われらの犠牲・救い、イエス【聖所のテーマ】#10

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この記事のテーマ

【中心思想】

イエスは私たちを救うために、みずから進んでご自分の命を捨て、最高の犠牲となられました。彼の犠牲は、ほかのすべての犠牲にまさるものです。

「イエスは飢えることによってその働きを開始されたが、なおも命のパンである。イエスは渇くことによって地上における働きを終えられたが、なおも生きた水である。イエスは疲れ果てられたが、なおも私たちの安息である。イエスは貢ぎ物を払われたが、なおも王である。イエスは悪霊に取りつかれていると非難されたが、なおも悪霊を追い出された。イエスは涙を流されたが、なおも私たちの涙をぬぐってくださる。イエスは銀貨30枚で売り渡されたが、なおもこの世を救ってくださった。イエスは小羊として屠殺人のもとに連れてこられたが、なおも良い羊飼いである。イエスは死なれたが、なおもその死によって死の力を滅ぼされた」(ナジアンゾスの聖グレゴリオス、紀元381年)。

これまでの研究でも、ある程度イエスの犠牲について学んできました。今回は、『ヘブライ人への手紙』に述べられているイエスの犠牲に関する重要な思想についてもう少し詳しく学びます。

血の重要性

「雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです」(ヘブ10:4)。

地上の犠牲制度において用いられていた動物の血が罪を「取り除く」ことができなかったのはなぜですか。

「血」を意味するギリシア語は『ヘブライ人への手紙』に21回出てきますが、そのほとんどは9章に集中しています。ヘブライ9:7に始まる血の主題は9章の中心的な主題となり、18節から章の終わりにかけて絶えず繰り返されています。また、ヘブライ9:22には「血を流す」という独特の表現が用いられています。

以下の聖句は血に関して何と述べていますか。血が重要なものと考えられているのはなぜですか。ヘブ9:7、18~22、ヘブ12:24         

新しい契約と同様、古い契約は血によって批准されました。ヘブライ9章の「契約の血」は古い契約をさしますが、同10~13章はイエスの血と新しい契約に焦点を合わせています。

ヘブライ9:7、18、22には「……なしには」という語が含まれています〔英語聖書参照〕。古い制度においては、大祭司は血を携えること「なしには」至聖所に入ることができませんでした。古い契約は血「なしには」始まりませんでした。血を流すこと「なしには」赦しはありません。血は不可欠です。

ヘブライ9:7~14は、動物の血を献げることとイエスの血を献げることとを対比し、それによって古い制度の限界を明らかにしています。ヘブライ9:18~21は、契約と旧約の聖所の発足に関連して、血の重要性を強調しています。最後に、ヘブライ9:22は基本的な原則について述べています――罪の赦しは血、すなわちイエスの血を流すことによってのみ可能です。イエスの血だけが罪から清める究極的な力を持ちます。

キリストの流された血の効力

私たちは血に対して否定的な考えを抱きがちです。それが暴力、死、戦争などを連想させるからです。しかしながら、『ヘブライ人への手紙』においては、血は非常に肯定的な意味を持ちます。

イエスは御自分の流された血によって何を成し遂げられましたか。ヘブ9:12、ヘブ9:14、ヘブ13:12   

上記の聖句に述べられている内容を要約してください。これらのキリストの御業はあなたにとってどんな意味を持ちますか。

「キリストの血は命を与え、希望を与える。それは人間を罪の苦境から救うという神の永遠の目的を完全に成し遂げる。……新約聖書の中で『ヘブライ人への手紙』ほど、カルバリーの地位を高める書巻はほかにない。それはキリストの血の究極性と十全性に関するメッセージを旧約聖書と著しく対照的な言葉で説明しているので、信者はみな絶対的な確信を抱くことができる(」ジョンソン『絶対的確信をもって』112,114ページ)。

ヘブライ10:29を読んでください。この手紙に述べられている希望に照らすとき、この聖句はどんな意味を持ちますか。

イエスの血は清めます。それは罪人と聖所を清め(ヘブ9:14)、救いをもたらします。しかし、もしイエスの血がそれを受け入れる人たちを清め、救うとすれば、それを拒む人たちはその結果、すなわち永遠の滅びに直面しなければなりません。イエスは私たちが永遠の命の源である御自身から離れることを望まれません。

キリストのいけにえ(ヘブ10:12)

『ヘブライ人への手紙』9章はおもに血の概念について述べていますが、10章では「いけにえ」「献げ物」「献げる」という言葉が多用されています。10章の前半は、古い契約のいけにえの不十分さについて論じています。10節以降では、イエスの一度限りのいけにえが古い幕屋における儀式と対比されています(ヘブ10:10~18参照)。

すでにふれたことですが、重要なので繰り返します。キリストのいけにえは一度限りのものでした。このいけにえは、旧約の制度におけるように、何度も繰り返す必要がありませんでした。

キリストが一度だけ死なねばならなかった事実を『ヘブライ人への手紙』が強調しているのはなぜだと思いますか。キリストの一度限りのいけにえが旧約の制度にまさるのはなぜですか。

イエスはいけにえとして一度だけ御自身を献げられました。つまり、イエスは私たちが自らの罪のために受けるべき刑罰を私たちに代わって受けられたのです。彼は私たちのために犠牲となられました。罪は死をもたらします。しかし、イエスは私たちに対する愛のゆえに、私たちに代わってその死に直面されました。彼は私たちの受けるべき刑罰を受けられました。これがイエスの犠牲の本質です。

ご自身を献げられたと言われていますが(ヘブ9:28)、ほかの聖句によれば、それは自発的なものでした。ヘブライ9:14には、イエスは「永遠の“霊”によって、御自身を傷のないものとして神に献げられた」とあります(ヘブ10:12参照)。これらの聖句は、イエスが恥辱と苦難と死を自発的に受け入れられたことを示しているように思われます。

重要なのは、イエスの犠牲が十二分なものであったということです。それは一度だけ献げられたいけにえです。その結果、私たちは聖なる者、完全な者とされ、赦しにあずかります(ヘブ10:10、14、18)。

清めの思想(ヘブ10:22)

神の救いの行為は様々な方法で描写されています。聖書は、たとえば「義認」「贖い」「贖罪」「身受け」「キリストにあって」といった様々な象徴や表現を用いて、一つの同じ結果について描写しています。もう一つの表現が『ヘブライ人への手紙』の中で強調されている「清め」の思想です。

ヘブライ1:3、9:13、14、22、23、10:2、22を読んでください。それらは汚れと清めについてどんなことを教えていますか。

義認は、人が義と宣告される法的な過程を描いています。贖いは、何かが「買い戻される」方法を説明しています。赦しは負債の返済を暗示します。しかし、清めは不浄や汚れの除去を示唆します。そして、『ヘブライ人への手紙』は人類が清めを必要としていると教えています。

「清め」の思想が最初に出てくるのは手紙の冒頭においてです。まずイエスを創造主として紹介した後、その御業にふれ、御子が初めに「人々の罪を清められた」と述べています(ヘブ1:3)。このように、清めは手紙全体の基調となっています。

「キリストはその贖いによって、第1に、罪全般を清められた。この御業は十字架上の犠牲によって可能となったが、最終的には宇宙を罪から清める結果となる。第2に、個人を罪から清められた。この御業も十字架によって可能となったが、なおも進行中であり、最後の魂が救われるまで完結しない」(『SDA聖書注解』第7巻397ページ)。

「人は汚れから贖われるのではない。それは、汚れを赦され、汚れと和解し、あるいは汚れにかかわらず義とされるのではないのと同じである。もし人が汚れたなら、清められねばならない。汚れや堕落が除去されねばならない。そして、『ヘブライ人への手紙』の著者は主張する。この清めは血、比類ない清めの力であるキリスト御自身の血による、と」(ウィリアム・ジョンソン『ヘブライ人への手紙の争点』89ページ、1989年)。

私たちの創始者また完成者、イエス

「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」(ヘブ12:2)。

ヘブライ12:1~4を読んでください。この部分が信仰の勇者について記した有名なヘブライ11章のすぐ後に来ていることに注目してください。

ヘブライ12:1で、著者はキリスト者の生涯を「競走」にたとえています。信仰によって生きるという文脈の中で、この言葉をどのように理解したらよいでしょうか。

著者は、まず読者の関心を様々な聖書の人物に向け、続いて「信仰の創始者また完成者」であるイエスに向けています。「創始者」という言葉はまた、「考案者」「創設者」「先駆者」を意味し、「完成者」は「完結者」を意味します。このことからわかることは、私たちの救い、信仰、確信、個人的清めはすべてイエスから来るということです。イエスは私たちの救いを開始し、それを完成してくださいます。それはすべてイエスに依存しています。イエスにおいて、私たちの贖いは完成しました。私たちのなすべきことは、信仰をもってイエスに信頼し、信仰によって生き、イエスの力によって耐え忍ぶことです。

この部分の前後関係、また『ヘブライ人への手紙』全体の内容からも明らかなように、私たちがイエスに協力するときに初めて、イエスは私たちのうちに働くことがおできになります。

ヘブライ12:2~4を注意深く読んでください。著者はここで何と言っていますか。イエスの生涯と働きのどんな点に読者の関心を向けていますか。また、特にどんな点を強調していますか。

まとめ

かつてある人が次のように書きました。「もしわれわれの最大の必要が情報であるなら、神はわれわれのために教育者を送られたであろう。もしわれわれの最大の必要が科学技術であるなら、神は科学者を送られたであろう。もしわれわれの最大の必要がお金であるなら、神はわれわれに経済学者を送られたことであろう。もしわれわれの最大の必要が楽しみであるなら、神はわれわれに芸能人を与えられたであろう。しかし、われわれの最大の必要は、赦しであった。そこで、神はわれわれに救い主を与えられたのである」(作者不詳)。

『ヘブライ人への手紙』は、キリストという一度限りの犠牲を強調することによって、私たちの救い主が何をしてくださったかを教えています。

「私たちの救い主は聖所におられる。……救い主は私たちのために執り成す大祭司であって、私たちのために贖いのいけにえを献げ、御自身の血の効力をもって私たちのために嘆願しておられる。両親は自分の子供たちにこの救い主を示し、彼らの心に救いの計画を教えなければならない。……神の独り子が正義を満たすために、また神の律法を擁護するために、人の反逆のゆえに御自身の命を献げられた事実を絶えず子供たちと青年たちの心に示すべきである。……キリストが苦難に遭われたのは、彼に対する信仰を通して私たちの罪が赦されるためであった。キリストは人の身代わり、また保証となられた。彼は全く無実であったのに、刑罰を受けられた。刑罰を受けるべき私たちが解放され、神に従う者となるためである。……キリストは私たちの唯一の救いの希望である。……人は悔い改め、心から罪を悔い、神の贖いのいけにえとしてのキリストを信じ、神が人と和解されたことを悟る」(『キリスト教教育の原理』369ページ)。

聖書語句辞典で「救う」「救い」「救い主」を引いてみてください。また、『ローマの信徒への手紙』が救いについて何と教えているか調べてください(ロマ5:9、10、8:24、9:27、10:9、13、11:14、26)。

ミニガイド

『ヘブライ人への手紙』の中のキリスト(7)――われらの犠牲

聖書の宗教は、ある意味で「血」の宗教です。しかも「命に至らせる血」の宗教です。

アダムの堕落後に神ご自身によって定められた犠牲制度(創世記3:21)に始まり、救いの計画がより組織的かつ包括的に示された聖所の儀式に至るまで、それらの儀式の中心に、いつも「血」がありました。その根底には、宇宙の大問題である「罪」の問題があることは言うまでもありません。すなわち、罪の問題の解決のために「血」は不可欠でした。そして『血は命』(申命記12:23)です。

人類歴史の当初から繰り返された、文字通り血なまぐさい儀式を通して、罪の忌まわしさと、犠牲の動物とその血が指し示すメシア(キリスト)の代償死が教えられました。

黙示録の記者ヨハネは、その序文に、『わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に……栄光と力が世々限りなくありますように』(1:5~6)と述べていますが、実に、聖書は、創世記から黙示録まで、全体が罪の唯一の解決としてのキリストの「血」を描いています。

この「血の宗教」の本質を、旧約と新約とのつながりの中で最も体系的に提示しているのは、ヘブライ9章、10章と言えるでしょう。そこでパウロは、最初の契約の聖所で罪過のために献げられた血が、人類の罪のために献げられるキリスト『ご自身の血』をあらわし、その血によって、主は『永遠の贖いを成し遂げられた』と述べています(9:12)。実際、彼は、これら二つの章の中で、『ただ一度』(9:28)のキリストの死が、罪の問題に(犠牲制度との関連において)永遠に終止符を打ったので、キリストに結ばれた者は『聖なる者とされ』(10:10)、信仰によってキリストと共に、天の『聖所に入れると確信』(10:19)できるのだ、と言っています。

このように『ヘブライ人への手紙』は「カルバリー」を高め、さらに恵みの座にまで読者を伴います。そこで主は、アベルの血よりも力強く語るご自身の血をもって父の前にとりなしをしておられます。この主を仰ぎつつ忍耐強く走り抜こうと勧めています。

*本記事は、安息日学校ガイド2003年3期『聖所のテーマーヘブライ人への手紙』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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