【ヘブライ人への手紙】イエスと私たちの将来【聖所のテーマ】#13

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この記事のテーマ

【中心思想】

クリスチャンが、現在この世界で、神の民であることの特権をどれほど享受し楽しんでいるとしても、彼らの究極の希望は、すべての約束が最終的に実現するキリストの再臨にあります。

『ヘブライ人への手紙』が、たとえば地上の聖所の務めやキリストの死といった過去の出来事についてどれほど詳しく述べていようとも、もしそこで終わっていたなら完全とは言えません。それゆえに、著者は、将来の出来事、特に救いの計画の頂点となるイエスの再臨に目を向けます。イエスの再臨がなければ、クリスチャンの希望は空しいものです。「希望」という言葉がこの手紙に5回使われているのはそのためでしょう。クリスチャンにとって、この希望とは新天地で神と共に永遠に住むことです。それは、神の民がエデンにおける人類の堕落と最初の救いの約束以来、熱心に待ち望んできたものです。

今回の研究の中で、次のことを考えてみましょう。なぜ『ヘブライ人への手紙』の著者は、彼が終わりの時代に生きていると言っているのでしょう。聖書が救いを現在の現実として語りながら、同時に、将来の希望としている理由は何でしょうか。聖所は、イエスの再臨とどのようなつながりがあるのでしょうか。

終わりの時

ヘブライ1:2、9:26を読んでください。紀元1世紀が終わらないうちに「終わりの時代」「世の終わり」と言っていますが、このことは何を意味しますか。

キリストの初臨は画期的な出来事でした。イエスの働きによって、全く新しい霊的秩序が始まりました。イエスは罪と苦しみを完全に終わらせるために自ら苦しみ、死なねばなりませんでした。最高の犠牲が払われました。罪の代価が支払われました。イエスの一度限りの犠牲によって、救いが確実なものとなりました。新天地が実現する前に、これらのことがなされねばなりませんでした。このような意味において、使徒は自分の時代を「世の終わり」と呼んだのです。たとえ再臨が何世紀も後のことになろうとも、です。

Ⅰペトロ1:18~20を読んでください。ペトロがイエスの死を「終わりの時代」と結びつけていることに注目してください。

『ヘブライ人への手紙』の著者が読者に知らせたかったことは、古いものが終わり、新しい何か、より良い何かが、イエスによって始まったということでした。つまり、読者が特定の時代にいうよりも、むしろ読者が新しい霊的時代にいるということです。

「キリストの初臨によって、新しい時代が始まった、あるいは古い時代と重なった。これら二つの時代は、古い時代が完全に終わる再臨の時まで並行して存続し続ける。したがって、クリスチャンは同時に二つの世界に生きることになる。……イエスは一つの文章に二つの思想を結合することさえおできになった。『はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である』(ヨハ5:25)」(ジョン・ポーリェン『聖書の終末論』77、78ページ、1994年)。

「すでに」と「まだ」

新約聖書、とりわけパウロの書簡には、「すでに」と「まだ」の思想、つまり「私たちはすでに救われているが、まだ最終的には救われていない」という思想が見られます。たとえば、ローマ8:23、24には次のようにあります。「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです」。キリストを信じる信仰によって、私たちはすでに救われ、今も永遠の命にあずかっています。しかしながら、最終的な救いはまだ先のことです(ヨハネ5:24、マタイ19:29も参照)。

この「すでに」と「まだ」の対立概念は『ヘブライ人への手紙』の中でどのようなかたちで出てきますか。それはどのように理解すべきですか。ヘブ12:28 、ヘブ11:13~16    

聖書にはいろいろな対立概念が出てきますが、それらはどれも正しく理解するなら互いに調和するものです。問題は、一つの側面だけを見て、ほかの側面を見ないことにあります。

たとえば、イエスは地上におられたとき、完全に神であり、完全に人でした。聖書は人間によって書かれましたが、神の言葉です。神は時間を超越したお方ですが、時間の中で人間と接しられます。私たちは信仰によって救われ、行いによって裁かれます。人間の頭脳で神と救いの計画を完全に理解することはできません。互いに対立する概念が見つかったときには、それを矛盾と考えるのではなく、より大きな全体の別の側面と考えるべきです。

将来の出来事

「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです」(ヘブ11:16)。

終わりの時代について、また「すでに」と「まだ」について研究するなら、イエスが終わりの中心であることがわかります。「新約聖書を正しく理解するなら、イエス・キリストが終わりそのものであることがわかる」(ポーリェン、81ページ)。

『ヘブライ人への手紙』は将来のどんな出来事について記していますか。ヘブ9:28、10:37、ヘブ9:27、10:27、30、ヘブ11:26   

使徒はキリストの再臨、死者の復活、裁きに言及していますが、『ヘブライ人への手紙』にも聖書のどの書簡にも、その予定表は載っていません。終末の諸事件がいつ起こるかを知ることよりも、清い生活を送ることの方がより重要だからです。聖書がキリストの再臨に備えるように教えているのはそのためです。

『ヘブライ人への手紙』には、将来の裁きがしばしば出てきます。ヘブライ10:27の「審判」は、いわゆる「執行審判」をさしていると考えられます。焼き尽くす火のことが書かれているからです(黙20:9、10参照)。それがいつ、どのようなかたちで起こるかについては書かれていませんが、はっきりしていることがいくつかあります。

  1. 神は審判者となられる(ヘブ12:23)。
  2. 神は報復される(ヘブ10:30)。
  3. 神は御自分の民に報いられる(ヘブ11:26)。

天の都

次の聖句は天の都について述べています。それらの共通点と相違点は何ですか。ヘブ11:10~16、ヘブ12:18~24、ヘブ13:12~14      

新約時代のクリスチャンと同様、旧約の信者も天の都への道を歩んでいます。ヘブライ11:10~16には、真の故郷、天の祖国、神の都に向かって巡礼の旅をするアブラハムと族長たちの姿が描かれています。神の民はみな、もし最後まで耐え忍ぶなら、同じ目的地に到達します。これが『ヘブライ人への手紙』の中心テーマです――あきらめてはなりません!

ヘブライ12:18~24は新しい契約の共同体を描写しています。興味深いことに、ここにはシナイ山の燃える火、暗闇、暴風、恐怖がシオンの山、天のエルサレムと対比されています。ここでも、著者は詩的で力強い言葉を用いて、古い生き方と新しい生き方とを対比し、読者がイエスのおかげで旧約時代の人たちよりも優れた真理の啓示を与えられていることを明らかにしています。事実、彼らがすでに神の都に到達したものとして描かれています。「新しい契約の民は……すでに天のエルサレムの入口に到着し、……自分たちが受けようとしている『揺り動かされることのない御国』(ヘブ12:28)の啓示をただ待っているだけである」(W.L.レイン『ヘブライ人への手紙9~13章』466、470ページ、1991年)。

ヘブライ13:12~14は、イエスが追放された地上のエルサレムと「来るべき」将来の都、神の忠実な民に約束されている都とを対比しています。

聖所と再臨

これまで学んできたように、『ヘブライ人への手紙』は地上の聖所の務めと切り離して理解することができません。事実、ユダヤ人の犠牲制度を理解することなしには、救いの計画、特に罪に対する身代わりの死としてのキリストの死を理解することは困難です。救いの計画全体が旧約の聖所において啓示された思想と象徴にもとづいて組み立てられているからです。これらの思想と象徴はキリストにおいて実現します。

私たちはまた、この手紙が過去(キリストの死)と現在(天におけるキリストの働き)について記している一方で、将来、つまり再臨と再臨にかかわる事柄に目を向けていることについても学びました。

このように、著者は再臨を聖所と結びつけています。もし聖所が救いをさし示し、救いが再臨において完成するとすれば、必然的に聖所は再臨と結びついていなければなりません。聖所を再臨と切り離すことは論理的に無理というものです。再臨を信じる私たちアドベンチストが聖所のメッセージを世に宣べ伝えるのはそのためです。

次の聖句において、『ヘブライ人への手紙』の著者は聖所と再臨とをどのように結びつけていますか。ヘブ9:24~28、ヘブ10:11~13、ヘブ12:22~24      

キリストの再臨は、キリストが十字架上で成し遂げられたことと、大祭司として天の聖所でしておられることとが完成するときです。したがって、キリストの死と大祭司としての働きは、再臨がなければ何の意味もありません。

最終的に救いが実現するのは、イエスが来られて、御自分の民をシオンの山、天のエルサレムに連れて行かれるときです。彼らはそこで神と共に暮らします。聖所についての教えと終末の出来事についての教えは一つであって、切り離すことのできないものです。

まとめ

私たちはこの世界にあって、よそ者、また仮住まいの者として生きながらも、なお、最終的な目的地である天の都に向かって前進しています。私たちは、まもなく、神と顔と顔を合わせて相まみえるのです。

「私たちは家路にある。私たちのために死ぬほどに、私たちを愛してくださったお方は、私たちのために都をお建てになった。新エルサレムは私たちの安息の場所である。神の都には、悲しみはない。悲しみの叫び声、砕かれた希望と裏切られた愛の挽歌は永久に聞かれることがない。まもなく、苦しみの衣服は婚礼の衣服に変えられる。まもなく、私たちの王の戴冠式を見る。その命をキリストと共に神の内に隠された人たち、この世において信仰の戦いを立派に戦い抜いた人たちは、神の国において贖い主の栄光をもって輝くであろう。

永遠の命の希望の中心であるお方にお会いする日は、そう遠くはない。このお方の御前にあっては、この世のどんな試練や苦しみも無に等しい。『だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない」』(ヘブ10:35~37)。見上げなさい。見上げなさい。あなたの信仰を絶えず増し加えなさい。この信仰を細い道の導き手として、神の都の門を通り、贖われた者たちのために用意された、はるかかなたの、栄光に満ちた、広く無限の未来に向かって歩みなさい」(『教会へのあかし』第9巻287,288ページ)。

ミニガイド

『ヘブライ人への手紙』が与えるチャレンジ

(1)天国を先取りする

パウロがユダヤ人クリスチャンに与えたチャレンジは、彼らの思考と生活を、古い秩序から新しい秩序へシフト(移行)させることでした。型と儀式の制度がどのようにして実体であるキリストにおいて成就したかを丹念に示したあとで、パウロは、いよいよ、具体的例証にはいります。それが、11章です。

ヘブライ11章の中で、パウロは、ユダヤ人クリスチャンにとって大きな尊敬の対象である聖徒を列挙します。アベルから始まるこのいわば「聖人列伝」を通して、これらの人々が古い秩序の時代に生きながら、すでに新しい秩序を「先取り」していたとパウロは言います。これは強力な説得力を持っていたに違いありません。その中心となるメッセージが11:13~16のみ言葉です。

この手紙が書かれた時代よりも、もっと御国の到来が近づいている時代に生きる私たちにとって、毎週の安息日が、神の国の先取りの経験となるように、毎度の聖餐式が、天での晩餐の先取りとなるよう求めてまいりましょう。

(2)イエスの辱めを担い宿営の外に出る

ガイドに強調されている再臨待望の実現は、私たちの行動なくしてはありえません。ヘブライ13:12、13から与えられる霊的教訓は、そのことを教えているように思えます。

これと関連して、最後にパウロは、「指導者」について二度触れています(13:7,17)。彼の度重なる強調は、聴衆の注目と喚起を促す手法です。かつてある方が韓国のSDAの人に、日本伝道が(韓国に比べて)なぜ振るわないかを尋ねた時、「聖なる日(安息日)と聖なるもの(什一)と聖なる人(牧師・伝道者)を敬うことです」と答えられたという話を聞いたことがあります。もちろんそれだけが伝道不振の原因ではないでしょう。しかし、考えさせられる言葉ではありませんか。指導者にも足りないところは多くあるかもしれませんが、神様に立てられた器として尊敬し、みわざのために心を合わせて働く時に、大きな祝福が与えられると信じます。

*本記事は、安息日学校ガイド2003年3期『聖所のテーマーヘブライ人への手紙』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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