目に見える戦い、見えない戦い【マタイによる福音書—約束されたメシア】#5

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生活スタイル、人間関係、仕事、優先順位、娯楽、友人……などに関して、私たちは毎日、重要な選択をしています。これらの選択の重要性を真に知るためには、それらの選択が実際には何に関する選択であるかをきちんと理解する必要があります。私たちはカーテンを開いて、見えないものを見る必要があります。なぜなら、私たちの目に見えるものに大きな影響を与えている見えない現実があると、聖書は教えているからです。

私たちは科学の時代に生きていますが、目に見えない現実を信じることに苦労する必要はありません。X線、電波、無線通信などを知っている私たちは、目に見えないものを簡単に信じているにちがいありません。私たちが見る衛星放送、私たちがかけたり受けたりする携帯電話の通話など、私たちはこれらの見える(あるいは、聞こえる)体験を現実のものとする見えないものが存在するという前提(仮定)のもとで活動しています。

確かに、キリストとサタンの大争闘は、私たちが毎日体験する見える世界の見えない背景を生み出しています。私たちは今回、マタイによる福音書(やほかの書巻)の聖句を調べてみます。こういった目に見えない勢力を明らかにし、それらが地上での私たちの生活や選択にどう影響しているかを示すためです。

マタイ11:11、12

聖書は神の御言葉であり、その中に救済計画が明らかにされています。しかし、聖句の中には理解しにくいものもあります。ですが、自然界の生物のあらゆる側面の中に、私たちは理解しがたいものを見いだすのですから、それは意外なことではありません。霊的で超自然的な真理や現実を私たちに明らかにする神の御言葉のいろいろな部分は、どれだけ一層理解しがたいことでしょう。

エレン・G・ホワイトはこのような考えをはっきり述べています。「最も下等な生物についてでさえ、どんなに賢明な哲学者でも説明に苦しむ問題を投げかけています。どこを見ても、私たちの理解し得ない驚異があるのですから、霊界において私たちの測り知ることができない不思議があるからといって驚くことはないではありませんか。問題はただ、人の知力が弱く見解が狭いことにあるのです。神は聖書の中に聖書が神よりのものである証拠を十分与えておいでになるのですから、神の摂理をことごとく了解できないからといってみ言葉を疑ってはなりません」(『希望への光』1972ページ、『キリストへの道』改訂版160、161ページ)。

例えば、聖書全体の中で最も難解な聖句の一つは、マタイ11:11、12です。「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」

問1

これらの聖句を一読してください。あなたが理解できる部分、理解できない部分はどこですか。

いくつかの聖書は、12節を次のように訳しています。「バプテスマのヨハネの時代から今日に至るまで、天からの国は力強く前進しており、暴力的な人々がそれを攻撃している」「バプテスマのヨハネが宣べ伝え始めたときから今に至るまで、天の国は力強く前進しており、暴力的な人々がそれを攻撃している」

イエスはここで、私たちに何を言っておられるのでしょうか。

闇の前線

長年にわたって、聖書を学ぶ者たちはマタイ11:12と格闘してきました。なぜなら、ここで御国と人々を描写している言葉が、肯定的な意味でも否定的な意味でも使われうるからです。「ビアゾマイ」というギリシア語の動詞は、「力強く前進している」とも「暴力を受けている」とも意味が取れます。さらに「ビアステス」というギリシア語は、「力強い、熱心な人たち」とも「暴力的な人たち」とも取れます。

それゆえ、この聖句は、柔和でおとなしい天の国が暴力を受けていて、暴力的な人たちがそれを攻撃しているという意味なのでしょうか。それとも、天の国は肯定的な意味で力強く前進しており、それを奪い取っている力強い人たちというのは、実のところ、キリストに従う者たちのことなのでしょうか。

キリストに従う者たちは、御国の追及において、これほど攻撃的に、暴力的にさえ、なりうるのでしょうか。

問2

次の聖句を読んでください(マタイ10:34、黙示録5:5、ミカ2:13)。

これらの聖句は、上記の最後の疑問に多少なりとも光を投げかけるどのようなことを述べていますか。

ある人たちは、マタイ11:12の最も可能性の高い解釈は、「ビアゾマイ」(通常、肯定的)と「ビアステス」(通常、否定的)の最も一般的な使い方を適用することだ、と主張してきました。それに従えば、次のような解釈になります。天の国は、「闇の前線を押し返し続けてきた聖なる力と偉大なエネルギー」によって力強く前進しているが、その一方、「暴力的で強欲な人たちがそれを奪おうとし続けてきた」(D・A・カーソン『新国際訳聖書による講解者の聖書注解——マタイによる福音書』266、267ページ、英文)。

この解釈は、マタイによる福音書の、より幅広い福音に合致しているように思えます。実際、この解釈は、より大きな全体像、つまり光と闇、キリストとサタンの戦いという全体像、聖書の中に行き渡ってはいるものの新約聖書の中で明確にされている主題を捉えてもいるのです。確かに、見えるにしろ、見えないにしろ、私たちがみな関与し、いずれかの側につき、日々体験している一つの戦いがあります。起こっていることを私たちがどれほど理解していようと、していまいともです。大争闘のただ中に生きるというのは、まさにそういうことです。

「闘争世界観」

昨日考えたように、マタイ11:12の究極的な意味が何であれ、それは大争闘の現実を明らかにするのに役立ちます。それは(ほかの聖句からもわかるように)一つの争闘、戦いを描写しており、その戦いの中心は、キリストとサタンの戦いです。

問3

次の聖句は、大争闘の現実についてどのようなことを教えていますか。マタイ12:25〜29、イザヤ27:1、Iヨハネ5:19、ローマ16:20、創世記3:14〜19、エフェソ2:2、6:10〜13

これらの聖句は、(アドベンチストでない)現代の神学者の1人が「闘争世界観」と呼んだものに言及している(旧新両約聖書の中の)多くの聖句の一部にすぎません。その世界観は、宇宙の中の超自然的勢力の間で進行している戦いが存在する、私たちがみな何らかの形で巻き込まれている争闘が存在する、という考えです。言うまでもなく、このような概念はアドベンチストにとって目新しいものではありません。それは私たちの教会のごく初期から、私たちの神学の一部でした。確かに、私たちの先駆者たちは、この教会が正式に発足する前からすでにそれを持っていました。

闘いが激しくなるとき

すでに触れたように、マタイ11:12におけるイエスの言葉は、神の国が争いや戦いなくして設立されないという事実を明らかにしています。その戦いが大争闘であり、それはこれまでも、そして今も激しく続いていると、私たちは理解しています。それは、罪やサタンや失われた者たちが最終的に滅ぼされるまで続きます。そして時折、この戦いは途中で極めて激しくなります。

私たちは大争闘の現実と、それがいかに激しくなりえるかを、イエス御自身がマタイ11:12で言われたこととの関連で理解できます。

マタイ11:1〜12を読んでください。さまざまなレベルで展開されている大争闘の現実を、私たちはここで目にします。まず初めに、ヨハネを投獄させるよう指導者たちに吹き込んだのはだれだと、私たちは考えるでしょうか。私たちはこの箇所で、ヨハネを打ちのめすだけでなく、イエスへの信仰をくじこうとするサタンの企てを見ることができます。何しろ、イエスの先駆けであるヨハネがこのような運命に遭うのなら、人はイエス御自身にどんなことを望みえるでしょうか。

さらに、サタンがイエスの弟子たちやヨハネの弟子たちに、次のような疑問を自問させたことは間違いありません。「このナザレのイエスが多くの不思議な業を行うことができ、しかもすごい力を持っているのなら、彼はなぜヨハネのような忠実で善良な男、彼のいとこを、牢獄でやせ衰えさせているのだろうか」

さらに、ヨハネの心に疑いを植えつけていたのはだれだと、私たちは考えるでしょうか。「なぜ私はここにいるのだ。なぜ彼は私を解放してくれないのだ」と思い悩むヨハネが、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(マタ11:3)と尋ねたのも無理はありません。このヨハネが、イエスにバプテスマを授け、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタ3:17)と宣言する天からの声を聞いたヨハネと同一人物であることを忘れないでください。しかし今や、これまでに起こったあらゆることのために、彼は疑いで満たされていました。言うまでもなく、ヨハネの状況は深刻でしたが、その状況は(少なくともしばらくの間)さらに悪くなろうとしており、疑惑をふくらませ続ける一方でした(マコ6:25〜28)。

勝目のない戦い

歴史を通じて、人間はずっと戦争をしてきました。人間性の中の何かが一つの人間集団に、別の人間集団を略奪し、強奪し、虐殺したいと思わせます。キャサリン・テートは、彼女の父親であるイギリスの哲学者バートランド・ラッセルに関する本の中で、第一次世界大戦の勃発に父親が憂慮していたことを記しています。ドイツとの戦争の見通しについて、イギリスの人々が町の通りで喜んでいたからです。「父は、楽天的なビクトリア時代のオートマチックな進歩に対する信念、つまり全世界は、まもなく、英国が辿った古代の野蛮から文明化された民主政治へという賢明なコースを辿るだろうという確信とともに大きくなった。ところが、突然、父はわが愛すべき同国人たちが、たまたまドイツ語を話している多数の人間同胞を殺戮する見通しがたったとして、街頭で踊り回っているのを見たのである」(『最愛の人——わが父ラッセル』社会思想社、69ページ)。この同じ考えを、歴史上のほとんどあらゆる人々に拡大してみてください。そうすれば、堕落した人間性の現実を、最も尊大で悲劇的な形で見ることができます。

ところで、このような人間が起こすほとんどの戦争において、その結果を前もって知っている人はいません。人々は、自分が勝ち組になるのか、負け組になるのかを知らぬまま戦争に行きました。

私たちの宇宙の「闘争世界観」において、私たちには一つの大きな強みがあります。いずれの側がすでに勝っているかを、私たちは知っているからです。キリストは私たちのために決定的な勝利を収められました。十字架のあと、だれが勝者であり、だれがその勝利の成果を共有できるのかということについて、疑問は残っていません。確かに、サタンの戦いは勝目のない戦いです。

次の聖句は、大争闘の結果について教えています(ヘブ2:14、Iコリ15:20〜27、黙12:12、20:10)。天での戦いに負けたように、サタンは地上での戦いにも負けました。しかし、憎しみと復讐の念を持って、彼は食い尽くせる者たちを今もなお探し回っています(Iペト5:8参照)。キリストの勝利がどれほど確定していようと、戦いは依然として激しく、私たちの唯一の防御策は、自分自身(心と体)を勝ち組の側に置くことです。私たちはそれを日々の選択によって行います。私たちは、勝利が保証された勝ち組の側に自分を置く選択をしているでしょうか。それとも、敗北が確実な負け組の側に自分を置く選択をしているでしょうか。この質問に対する答えに、私たちの永遠の運命はかかっています。

さらなる研究

私たちの中に、大争闘の現実を知らない人がいるでしょうか。私たちはこの戦いについて知っています。なぜなら、日常的にそれを心の中で感じているからです。私たちは壊れた世界、不安と苦しみでのろわれた世界に住んでいます。それは、1匹の蛇が園の中央にある1本の木に制限されている世界ではなく、蛇たちが園の至る所をこれまで走り回ってきた世界です。あらゆる形で忍び寄る誘惑のささやきにあふれた世界、信仰と祈りに熱心でない者たちをたやすくわなにかける世界です。イエスが、私たちを待ち受ける多くのわなに陥らないように「目を覚まして祈っていなさい」と言われたのも不思議ではありません。そしてあらゆるわなの中でも、クリスチャンにとっておそらく最も危険なのは、あなたが誘惑に負けるとき、「おまえはひどすぎる。おまえを腕の中に迎え入れてくれる恵みの神などいない」といううそを信じ込むわなでしょう。耳元でささやくこのような声をこれまでに聞いたことのない人がいるでしょうか。ある意味において、そのような感想は間違っていません。あなたが誘惑に陥るとき、たとえ一度だけでも、あなたは立ち直れないほど度を越してしまったからです。だからこそイエスはおいでになり、私たちがこれまで負けてきた場所で勝利を収め、その勝利を私たちに提供なさいます。福音とは、まさにこれです。大争闘の中で、私たちが自力でできないことをイエスがなさったのです。しかしその一方で、私たちは自分自身をイエスの側に置くような選択を、日々、刻々する必要があります。私たちがそうするのは、御言葉に従い、私たちが手にできるとイエスによって保証された勝利の約束を自分のものとして求めることによってです。終始、私たちの救いの保証として、彼の功績にのみ頼りながらです。

*本記事は、安息日学校ガイド2016年2期『マタイによる福音書』からの抜粋です。

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