【テサロニケの信徒への手紙1・2】永遠の友【最大の希望】#6

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これらの聖句を読むとき、テサロニケの信者はパウロにとって単なる教会員ではなく、彼の友人であることがわかります。パウロとこれらの信者との間には、深い、感情的な絆があり、パウロは自分が彼らに対して抱いている愛を彼らの心に強く印象づけることによって、その絆を強調しています。彼の言葉は深い誠意に満ちたものですが、同時に信者を来るべき批判に備えさせるものとなっています。パウロは祈りをもってこの部分を書き始め、祈りをもって締めくくっています。ある意味で、この部分全体は祈りの心をもって書かれています。パウロがこのように祈りを強調している背景には、テサロニケの信者にイエスの再臨において「聖なる、非のうちどころのない者」となってほしいという願いがあります(Iテサ3:13―同2:19、20参照)。

パウロとテサロニケの信者との友情は地上の友情よりも深いものです。それは地上の時間と歴史を超えて続く友情です。パウロはテサロニケの信者と永遠に住む日を待ち望んでいます。ある意味で、手紙全体に流れている、彼らの信仰と行いに対するパウロの強い関心はこの願望から出ています。パウロは彼らを愛し、彼らがキリストの再臨に対する備えをするように望んでいます。

ユダヤの人たちの模範(1テサ2:13―16)

テサロニケIの2:13~16を表面だけ読むと、神を喜ばせ、新しい信者に配慮するという先のテーマ(Iテサ2:1~12)から逸れているように思われます。しかし、13節以後も、テサロニケの信者が使徒たちと、使徒たちがテサロニケに伝えた福音とにどのように応答したかというテーマは続いているのです。

14節から、パウロは模倣のテーマに戻ります。テサロニケにおける迫害は先のユダヤにおけるクリスチャンに対する迫害の繰り返しでした。一部のユダヤ人はユダヤ地方のユダヤ人クリスチャンを迫害し、異邦人とユダヤ人の隣人たちは一緒になって主に異邦人からなるテサロニケのクリスチャンを迫害しました。パウロはここで、クリスチャンの迫害が一つの大きな型に従っていることを明らかにしています。キリストに従う人たちは反対や迫害に遭うことになっています。

テサロニケIの2:14~16を読んでください。パウロはここで、自分の伝道旅行につきまとい、使徒たちに対する不和と反対の種を蒔いたあるユダヤ人の集団について自分の思いを述べています。これと同じような聖書の個所(マタ23:29~38参照)はユダヤ人に対する迫害を「正当化」するために大きく歪められ、曲解されてきました。しかし、このような普遍的な適用はパウロの意図を超えたものです。パウロがここで述べているのはユダヤ当局のことです(テサロニケIの2:14で「ユダヤ人」と訳されている言葉は「ユダヤ(地方)の人たち」と訳すこともできます)。彼らはローマ人と協力してイエスを殺害し、あらゆる手を用いて宣教の働きを妨害した人たちでした。事実、イエスが御自分を殺そうとした者たちについてすでに言われたことを、パウロは繰り返しているように思われます(マタ23:29~36)。

パウロ自身、ユダヤ人であったことを、私たちは覚えねばなりません。彼は特定の人々全体を責めているのではありません。イエスもユダヤ人でした。最初の弟子たちもユダヤ人でした。初代教会の中核となっていたのはユダヤ人でした。パウロに関して言うなら、彼が出会ったすべてのユダヤ人―たとえばシラス、バルナバ、テモテ―は永遠の友となりうる人たちでした(ロマ9:1~5、11:1~12、24~32参照)。

地上のすべての人のために、「キリストは……死んでくださったのです」(ロマ14:15、Iコリ8:11)。特定の人々全体に対して偏見を抱くことは、十字架の下で生きる人たちにふさわしいことではありません。

パウロの希望と喜び(Iテサ2:17~20)

テサロニケIの2:17~3:10までの14節の中で、パウロは自分がテサロニケの信者から引き離されたことを年代順に記しています。この部分全体に流れているテーマは友情です。これらのテサロニケ人は単なるパウロの教区民ではなく、真の友人です。この部分全体に脈打っているのは深い思いやりの心です。

パウロは、自分がこれから書き送ろうとしている教会に対するすべての勧告と批判(Iテサ4、5章)を、彼らに対する自分の愛と関心に照らして読んでほしいと願っています。この愛のゆえに、彼はテサロニケの教会に勧告を与えるにふさわしい者とされたのです。愛の心から出ているとき、勧告は喜んで受け入れられます。

問1

テサロニケIの2:17~20を読んでください。パウロはここで今日の私たちにも大いに関係のあるどんなことについて述べていますか。

17節の主な動詞(ふつう、「離される」または「引き離される」と訳される)は孤児になるという考えから来ています。突然、テサロニケを去らねばならなくなったとき、パウロは、あたかも両親が死んだかのような深い喪失感を味わいました。彼が信者に会いたいと切に願ったのはそのような深い寂しさからです。両者は顔を会わせることはできませんが、心の中ではそうではありません。パウロは再訪の遅れをサタンのせいにしていますが、彼のこの言葉は大争闘の現実を示すもう一つの聖句です。

しかしながら、テサロニケの信者に会いたいというパウロの願望は単なる日常の関係を超えたものです。それは終末に思いを向けさせるものです。パウロは再臨のときに彼らをイエスに「見せびらかす」ことを楽しみにしています。彼らはキリストのためのパウロの宣教の確証であり、最終的な喜び、また誇りです!自分の生涯が人々の生き方に大きな変化をもたらしたという証しを、パウロはそこに求めています。

これらの聖句はまた、優先順位をはっきりさせることを私たちに教えています。この世における私たちの存在は「霧」にすぎませんが(ヤコ4:14)、それは永遠の結果をともなった霧です。パウロの関心、パウロの優先事項は永遠のもの、永続的な価値と重要性を持つものにあります。結局のところ、この世界の最終的な運命について考えるなら、失われた魂の救い以上に重要な問題はありません。

代わりにテモテを派遣する(1テサ3:1―5)

問2

テサロニケIの3:1~5とマタイ24:9~22を読んでください。パウロはテサロニケの信者と自分自身の苦しみをどんな大きな背景の中で理解していますか。

パウロはテサロニケの信者と離れていることに我慢ができなかったので、テモテと共にアテネにいることをあきらめても、彼らの状況に関する最新の情報を手に入れようとします。テサロニケの信者に会いたいという強い願望のゆえに、パウロはテモテと共にいることよりも信者の状況を知ることの方を選んだのでした。テモテの役目はパウロの代役、代理となることだったので、パウロは最大限、テモテに教会の権威を委ねようとしています。テモテはパウロの「兄弟」、「神の奉仕者」、「福音の協力者」です。これは非常に高い評価です。パウロは、テモテの使命が困難なものとなることを知っていたので、テモテが、あたかもパウロ自身が来たかのように歓待されるように最善の努力をしています。

テサロニケIの3:3、4には、もしパウロ自身が行くことができたなら、テサロニケの信者に語っていたと思われることが記されています。彼らの苦しみについてパウロが語っていることは、マタイ24:9~22と同様、終末に関する聖句によく見られるものです。苦難は突如として訪れるのではありません。私たちはみな、それについて警告されています。

クリスチャンの苦難は、真心からキリストに従う者たちが迫害に遭うことになる終末の諸事件を思い起こさせます(黙13:14~17参照)。実際に苦難に遭ったなら、私たちはそれを預言の成就、また失望でなく励ましとして理解すべきです。預言の目的は将来に対する私たちの好奇心を満足させることではなく、私たちが日ごとに直面する試練の中にあって確かな確信を与えることです。

パウロは5節で、テモテを遣わすもう一つの動機を明らかにしています。テサロニケの信者が自分たちの経験する困難のために信仰を放棄してしまうことを、パウロは憂慮しています。テサロニケに対する自分の宣教が無駄になり、徒労に終わってしまうことを、彼は心配しています。

テモテの訪問と結果(Iテサ3:6~10)

問3

テサロニケIの3:6~8を読んでください。テモテはテサロニケの信者を励ますために遣わされました。テモテの報告のどんな点がパウロに喜びと励ましを与えましたか。つまり、テモテはテサロニケの信者のうちにパウロのよしとするどんなことを見ましたか。

6節の「ところで……今」という表現は非常に意味深長です。パウロはテサロニケの信者に手紙を書き始めるまで、無為に時を過ごしていたわけではありません。テモテからの知らせを受け取るとすぐに、彼は『テサロニケの信徒への手紙I』を書きました。

問4

テサロニケIの3:9、10から、パウロの祈りの生活についてどんなことがわかりますか。このことは私たちにどんな教訓を与えてくれますか。

「いつも」とか「絶えず」といった言葉が用いられていないことから(Iテサ1:2参照)、ここでのパウロの喜びと感謝には、彼がテサロニケの信者のために祈るときにいつも感じていた絶えざる喜びと感謝を超えた新しい何かがあったように思われます。テサロニケIの3:9、10にある喜びと感謝はテモテの知らせに対する直接的な反応です。

彼らの信仰には、何が欠けていたのでしょうか(Iテサ3:10)。直近の聖句は何も述べていません。後でわかるように、彼らの信仰に対するパウロの関心は神学的なものではなく、むしろ実際的なものでした。4章と5章を見ると、彼らは自分の行いを信仰と一致させる必要がありました。彼らは愛と信仰を持ち、「主にしっかりと結ばれて」はいましたが、なお経験すべき重要な成長があることが後に手紙の中で明らかになります。

パウロの新たな祈り(1テサ3:11―13)

イエスの再臨は霊的成長のための力強い動機です。虐待や抑圧の行為はすべて裁かれます。愛と親切の行為はすべて認められ、報いられます(マタ10:42参照)。つまり、どれほど些細なものであっても、この世におけるすべての行為は究極的な計画の中で意味を持ちます。

しかし、パウロにとって同じく重要なこと、そして今回の研究で強調されていることは、再臨が家族や友人との輝かしい再会であり、彼らの関係はイエスの御業のゆえに永遠に続くということです。クリスチャンの関係には期限がありません。それらは永遠に続くように計画されています。

問5

テサロニケIの3:11~13を読んでください。テモテの到着後、パウロはテサロニケの信者のための祈りの中にどんなことを含めていますか。

テサロニケIの3:11~13は、ほとんど礼拝後の祝祷のように聞こえます。もちろん、パウロはテサロニケに戻って、教会の信仰に足りないものを補いたいと願っています(Iテサ3:10)。しかし、たとえ戻れないとしても、テサロニケの信者がお互いに対して、また自分たちの出会う隣人やすべての人に対して豊かな愛を持ち、その愛に向かって成長する者となるように、パウロは神に嘆願することができます。この愛はイエスの再臨において彼らの品性の重要な構成要素となります。いくぶん理解に苦しむのは、イエスが「すべての聖なる者たちと共に来られる」という13節のパウロの言葉です。新約聖書の中では、「聖徒」あるいは「聖なる者たち」という言葉はふつう人間に対して用いられます。一方、新約聖書にある再臨の聖句はふつう、人間ではなく天使をともなって来られるイエスについて描写しています(マタ24:30、31、マコ8:38、13:27)。とするなら、この聖句における「聖なる者たち」とはだれのことでしょうか。

この問題の解決法は、パウロが13節でゼカリヤ書14:5の言葉を取り上げ、それをイエスの再臨に適用していることを理解することです。旧約聖書の「聖なる者たち」は天使として理解するのが一般的です(申33:2、ダニ7:10参照)。一方、新約聖書は「聖なる者たち」という言葉に新しい意味を与えています。彼らはイエスによって義とされた人間です。しかしながら、パウロはテサロニケIの3:13において、旧約聖書の定義に戻って、「聖なる者たち」という言葉を神のみ前に立つ天使という意味に用いています。この意味において、彼らはイエスの再臨において、神であり人であるイエスと共に来るのです。

まとめ

「パウロがコリントに滞在しているあいだに、シラスとテモテがマケドニヤから下ってきたことは、パウロを大いに励ました。2人は、福音宣伝者たちがテサロニケをはじめて訪問したとき真理を受け入れていた人々の、『信仰と寛容』の『よきおとずれ』を彼に携えてきた。パウロは、試練と逆境の真っただ中にいて、変わることなく神に忠実につかえている信者たちへ、優しい同情の心を向けた」(『希望への光』1452ページ、『患難から栄光へ』上巻276ページ)。

「天からの真の愛は、利己的でもなければ、変わりやすいものでもない。人の称賛に左右されるものでもない。神の恵みを受けた人の心は、神に対する愛と、キリストが身代わりになって死なれた人びとに対する愛とにあふれる。人に、自分を認めさせようと努力することもない。人々が、自分を愛し喜ばせるからとか、また、自分の価値を認めるから、その人々を愛するというのではなくて、彼らがキリストによってあがなわれたものであるという理由に基づいて、彼らを愛するのである。

自分の動機や言行がどんなに誤解され、悪く言われても、それにこだわることなく、平静に自分の道を進んでいくのである。彼らは、親切と同情の念、へりくだった思いを持つとともに、希望に満たされ、常に神のあわれみと愛とに信頼している」(『希望への光』1221ページ、『キリストの実物教訓』75ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2012年3期『テサロニケの信徒への手紙Ⅰ,Ⅱ』からの抜粋です。

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