【テサロニケの信徒への手紙1・2】反キリスト【最大の希望】#12

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パウロは励ましと勧告の言葉の中で、終わりの時の諸事件の中でも最大の事件であるイエスの再臨を含む諸事件について記しています。

今回の聖句においても、パウロは終わりについて述べてはいますが、強調点は先のそれとは少し違っています。一つの理由としては、彼がテサロニケの信者と共にいたときに、すでに詳細について語ったことがあげられます。もう一つの理由としては、この聖句における彼の目的が牧会的なもの、つまり信者の心を落ち着かせ、終わりの時の諸事件に対してもっと忍耐するように説得し、この件に関して出回っている偽りの教えについて彼らを警告することにあったことがあげられます。

今回の聖句の冒頭部分には(IIテサ2:1、2)、たとえば私たちの主の来臨(Iテサ4:15)、集合(Iテサ4:17)、主の日(Iテサ5:2)といったテサロニケIの4:13~5:11を思い起こさせるいくつかのギリシア語が含まれています。今回の聖句は、ある程度、パウロが先に述べたことをさらに明らかにしてくれます。彼はその中で、今日の私たちが理解する必要のある真理を啓示しています。

問題(2テサ2:1―3)

問1

パウロがテサロニケIIの2章で扱っているテーマは何ですか。それらはどんな意味で今日の私たちとも関係がありますか。

これらの聖句には、教会がイエスの再臨に関して質問をしていたという明らかな証拠は見られません。パウロ自身、ある問題に気づき、それについて述べています。「みもとにわたしたちが集められる」という考えは、パウロが先の手紙で書いていることを想起させます(Iテサ4:15~17)。

これらの聖句の中で、パウロの言葉はイエス御自身によって与えられた警告を思い起こさせます(マタ24:1~14)。テサロニケの信者は、パウロが最初の手紙を書いた後、間もなくして受けた相反する情報によって、「すぐに」動揺していました。

パウロは彼らの混乱の原因を特定していません。それは彼にも啓示されていなかったかもしれません。「霊」という言葉によって(IIテサ2:2)、彼は預言的な教え、つまり偽預言者の教え、またはパウロの最初の手紙についての誤解に言及しているように思われます。第2の考えられる原因は、語られた言葉、つまり信者の間で口から口へと伝えられた教えです。「わたしたちから書き送られたという」手紙ということによって、パウロは自分の名前で捏造された手紙、または自分の本物の手紙の誤った用い方に言及しています。

牧師がどれほど注意深く教会を見守っていても、誤った考えが入り込む道はいくらでもあります。信者にとっては、自分で聖書を注意深く調べるよりも、人の話やうわさを信じるほうが楽です。斬新な考えもある点では聖書的に見えるかもしれませんが、聖書の教えに照らし合わせてみると均衡を欠くことがあります。

テサロニケの問題は後者であったように思われます。テサロニケの信者はイエスの再臨とそれに先立つ諸事件について多くの正しいことを知っていました。しかし、彼らは均衡のとれた見方をしないで、教えの一点だけを過度に強調する傾向がありました。彼らは再臨の徴を追い求めることに関するイエスの警告に注意を払いませんでした(マタ24:4~8)。その結果、彼らはテサロニケIの中でイエスの来臨の遅れを嘆いています(Iテサ4:13~15)。この章の中で、彼らは自分たちがすでに終末の諸事件のただ中にあると結論を下していたように思われます。

パウロの短い回答(IIテサ2:3、4)

『テサロニケの信徒への手紙I』と『テサロニケの信徒への手紙II』との間の短い期間に、テサロニケ教会の信者はパウロが最初の手紙の中で書いたことの意味をめぐって混乱していました。再臨は近い、あるいは再臨は何らかの密かなかたちですでに来てしまったと、彼らは考えました(IIテサ2:2)。それに対して、パウロは短く答えました。「そのようなことはあり得ません。まだ起きていないことはたくさんあります」。パウロが広範囲にわたって終末の諸事件について書いた背景には、こうしたテサロニケにおける混乱がありました。もしパウロが書いていなかったなら、それが私たちのために残されることもなかったでしょう。

問2

テサロニケIIの2:3、4を読んでください。パウロはこれらの聖句の中で「不法の者」について何と言っていますか。ここに、パウロが論じていることを理解する助けになるどんな原則が述べられていますか。

3節と4節は原文では不完全な文になっています。ギリシア語には「その日は来ません」が欠落していて、ほとんどの翻訳で補足されています[英語聖書参照]。パウロはイエスの来臨の前に起こる出来事を列挙しています。まず「神に対する反逆」(ギリシア語で“アポスタシア”、「背信」)が起こり、それから「不法の者」が出現します。この出来事はテサロニケIIの2:8~10で、イエスの来臨直前におけるサタンの働きとして描写されています(水曜日の研究で詳しく学びます)。しかし、この悪が出現する前に、「秘密の力」と抑止力の期間があります(IIテサ2:6、7)。

4節は不法の者についての説明です。この者は一定の期間、隠れて活動しますが、その後、終わりにおいて現れます。彼は神に反抗し、自分自身を神よりも高め、神殿に座り込み、自分こそ神であると宣言します。この聖句は旧約および新約聖書の聖句への言及で満ちています。「反抗する者」はゼカリヤ書3:1のサタンを思い起こさせます。自分自身を神よりも高めること、天の神殿における神の地位を奪うことはダニエル書8章の小さな角を想起させます。自分自身を神とすることはイザヤ書14章とエゼキエル書28章のサタンを思い起こさせます。それはまた、ダニエル書11:36~39の冒瀆的な権力を示しています。このように、不法の者についての描写はサタン自身と、キリスト教の歴史の過程におけるサタンの邪悪な代理者の両方を表す要素を含んでいます。

抑えられている者(2テサ2:5―7)

問3

パウロによれば、彼の時代の世界の情勢はどんな二つのことによって特徴づけられますか。これらの聖句の中に、大争闘がどのように現されているのを見ますか。IIテサ2:6、7

これらの聖句を先の聖句と結び合わせると、パウロが自分の時代から終わりの時までの歴史を三つの段階に要約していることがわかります。最後の段階は再臨において始まります。この段階の前に、不法の者(IIテサ2:3、2:8)が現れます。この段階の前に、秘密の力を抑えている者の時代があります(IIテサ2:6、7)。パウロがここで言っていることの意味を完全に理解したいところですが、これらの聖句には不明な点がいくつかあります。抑えている力は6節では中性ですが(もの)、7節では男性です(人)。不法の者(男性、8節)は7節では中性になっていて(「不法の秘密の力」)、しかも抑えている力が取り除かれるのか、自ら立ち退く権威を持っているのかは明らかでありません(7節―英国標準訳は正確に「取り除かれるまで」と訳しています)。

これらの聖句にある抑えている者、あるいは抑えている力とは、だれのことでしょうか。それはパウロの時代に存在したものです。それは律法を高く掲げており(不法を抑える力、7節)、神の時の使命を帯びており、サタンの働き(9節)を抑えるだけの力を持ったものです。

問4

新約聖書のほかの聖句によれば、再臨を押しとどめているものは何ですか。マタ24:14、マコ13:10、黙14:6、7

新約聖書の多くの部分では、再臨に至る数々の出来事は最終的な福音の宣布の後に起こっています(マタ24:14、マコ13:10、黙14:6、7)。とするなら、ここでは、神御自身がパウロの言っている「抑えている者」、つまりすべての人が福音を聞く機会が与えられるまで、最後の諸事件を押しとどめている方であると考えられます。

反キリストが現れる(IIテサ2:8~10)

問5

テサロニケIIの2:8~10を読んでください。これらの出来事をどのように理解しますか。「自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかった」という一節はどんな重要なことを教えていますか。

不法の者がテサロニケIIの2:3、4に出てきました。キリスト教の大部分の歴史を通じて、彼は神の律法を侵害し(特に安息日)、キリストにのみ属する権力を強奪するために働いてきました。ダニエル書7:20~25(小さな角)や黙示録13:1~7(海の中から上ってきた獣)といった聖句の中で、この同じ権力は異教ローマ帝国の崩壊後、宗教的権威と世俗的権威を結集して、神の聖なる者たちを迫害するために働いています。これらの預言のすべての特徴を備えた歴史上の唯一の権力は教皇制です。中世の、また現代の多くの解釈者たちはこの制度を反キリストと認めています(大多数のクリスチャンがこの解釈から離れたのは過去の1、2世紀だけです。終末の諸事件についての私たちの理解に照らして考えると、これは興味深い変化です)。教皇制が持つこの特徴は、不法の者が男性(人)であり、同時に中性(世界的権力、制度)であるというテサロニケII、第2章の特徴と一致します。

7節にある「不法の秘密の力」は彼の活動にふさわしいものです。しかし、再臨直前の、歴史の終わりになると、神と神の律法に対する、さらに世界的で、公然とした挑戦が見られるようになります。これらの聖句やその他の聖句(ダニ7章、黙13章)に見られる権力の継続性は、教皇制が終わりの時にも重要な役割を果たすことを暗示しています。

問6

最終的な偽りは歴史上のどんな神の働きを模倣しますか。IIテサ2:9を使徒2:22と比較

今日の聖句は幕を引いて、歴史の中で諸国民の間で働いてきた者の背後にあるより大いなる反キリストを見させてくれます。サタン自身、終わりの時における偽りの創始者であり、完成者です。イエスの来臨が近づくにつれて、彼は最後の絶望的な働きを強いられます。彼は思い切った行動に出て、自ら地上におけるイエスの働きをまねます(金曜日の研究参照)。偽りの奇跡によって、彼は人々の関心を福音(イエスの生涯、死、復活)から、また再臨そのものから逸らそうとします。

真理と虚偽(2テサ2:10―12)

テサロニケIIの2:10~12を読んでください。11節は、多くの人が非常に難解に感じる聖句です。パウロはあからさまに述べています。「神は彼らに強力な惑わしを送られ、彼らは偽りを信じるようになります」(IIテサ2:11、英語新国際訳)。自動的に、次のような疑問が生じます。「真理の神が惑わしを送られるのは何ゆえか。神が終わりにサタンと同じことをされるのは何ゆえか(」IIテサ2:11をIIテサ2:9と比較)。

今日の聖句の中で、パウロは幕を引き、キリストとサタンの大争闘を垣間見せてくれます。これには、地上と地上歴史の出来事以上のものが含まれています。サタンは神を気まぐれな者、いばりちらす者、うそつきとして非難してきました。神が地上歴史の最後の危機において悪人に惑わしを「送られる」のは、神が偽る方だからではありません。むしろ、神は悪人が真理よりも偽りを選ぶのを許し、それによって彼らがすでに行ってきた惑わしの結果を明らかにされるためなのです

(IIテサ2:12)。神はただ、彼らが自分たちの悪事の結果を見るのをお許しになるだけです。終わりの時の諸事件はサタンと彼に追従する者たちの心と品性をすべての人の目にはっきりと見させてくれます。

惑わしの過程は、人々が福音を拒むときに始まります。10節で、悪人は真理を愛することを拒んでいます。テサロニケII・2章の終末論的な勢力[による働き]の背後には、福音における救いの提供があります。教皇制はその教えと活動を通して福音を侵害してきました。テサロニケIIの2:8~12に描かれている最後の諸事件によって明らかにされるまで、この働きは続きます。このように、福音の最終的な宣布は(マタ24:14、黙14:6、7)、最後の裁きと終わりの時の惑わしとのために舞台を用意するのです。

結局のところ、大争闘がこの地上でどのような政治的、宗教的な現れ方をしているかにかかわりなく、政治的な出来事ではなくイエス・キリストの福音が、つねにキリスト教の歴史を通じて善と悪との決定的な分かれ目となってきました。反キリストはイエスの生涯と死、天における支配を強奪することによって、その真の特性を現します。このドラマに登場するその他のすべての役者は補助的な役割を果たします。

まとめ

「使徒パウロは、彼の時代にキリストが来られると期待しないようにと、教会に警告した。『まず背教のことが起り、不法の者……が現れるにちがいない』と彼は言っている(IIテサロニケ2:3)。大背教が起こり、『不法の者』の長い支配期間の終わったあとで、初めてわれわれは、主の再臨を期待することができる。『不法の秘密の力』、『滅びの子』とも言われている『不法の者』とは、1260年の間、至上権をふるうと預言された法王権のことである」(『希望への光』1766ページ、『各時代の大争闘』下巻50ページ)。

「欺瞞の一大ドラマの最後を飾る一幕として、サタンはキリストを装うであろう。……やさしい同情のこもった調子で、彼は、救い主が語られたのと同じ祝福に満ちた天の真理を幾つか述べる。彼は人々の中の病人をいやし、それから、キリストらしくみせかけながら、安息日を日曜日に変えたことを主張し、すべての人に対して、自分が祝福した日を聖とするようにと命じる。……聖書を熱心に研究し、真理の愛を受けたものだけが、世界をとりこにする強力な惑わしから守られる」(『希望への光』1903、1904ページ、『各時代の大争闘』下巻398~400ページ)。

「真理を伝えるときには、他教会を―それがたとえローマ・カトリック教会であっても―個人的に攻撃してはなりません。神の天使たちは他教派の中に、最大限の注意を払うことによってのみ到達しうる多くの人がいることを知っています。それゆえ、語る言葉に気をつけなさい。……これらの主題に関しては、沈黙が雄弁です。多くの人が欺かれています。愛に満ちた口調と言葉で真理を語りなさい」(『伝道』576ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2012年3期『テサロニケの信徒への手紙Ⅰ,Ⅱ』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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