十字架、そして復活【マタイによる福音書—約束されたメシア】#13

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ある英国の雑誌に、「科学のために献体してくれませんか」という広告が掲載されました。科学者たちがエジプトのミイラ化を研究しており、末期の病を抱えていて、死後に献体する覚悟のあるボランティアを探しているというものです。広告によれば、この科学者たちは、エジプト人のミイラの作り方の秘密を解明したので、その死体は「可能性として数百年間、あるいは数千年間さえ、保存されるだろう」と信じている、ということでした。

私たちクリスチャンは、自分の死体を保存してもらうことを心配する必要がありません。それよりもはるかに良いことを、神が約束なさっているからです。私たちの罪の罰を御自身に受けられたイエスの死、それに続く、「眠りについた人たちの初穂」(Iコリ15:20)となられたイエスの復活は、私たちの死体が古代のファラオのように「保存される」のではなく(しかも、そのような死体はあまりきれいではありません)、永遠に生きる朽ちない体へ変えられるための道を開きました。

私たちは今回、マタイによる福音書の最後の数章を通して、私たちの主の死と復活に関する尽きぬ真理と、これら二つの出来事が私たちにもたらす希望について研究します。

イエスかバラバか

問1

マタイ27:11〜26を読んでください。人々に与えられた選択肢と、彼らが下した選択の裏には、どのような深い意味がありますか。

中央の十字架につけられるのは、殺人者バラバのはずでした。両側の犯罪者たちは、たぶん彼の仲間だったのでしょう。バラバは姓であって、名ではありません。バラバ(英語でBarabbas)の「バー(bar)」は、‘SimonbarJonah’が「ヨナの子シモン」を、‘Bartholomew’が「トロメオの子」を意味するように、「〜の子」を意味します。つまり、バラバは「アッバ(abbas)の子」(「父の子」)という意味でした。初期の多くの写本は、バラバの名を「イェシュア(イエス)」と記録しています。当時、イェシュアというのはよくある名前で、「ヤハウェは救う」という意味です。ですから、バラバの名前は、「ヤハウェは救う、父の子」という意味になります。まさに茶番です。

「この男〔バラバ〕は自分がメシヤであると主張していた。彼は、これまでと異なった秩序をうちたて、世直しをする権限をもっていると主張した。悪魔的な欺瞞のもとに、彼は窃盗や強盗によって手に入れることができる物は何でも自分のものだと主張した。彼はサタンの媒介によってふしぎなわざを行い、民衆の中から信者を獲得し、ローマ政府反対を扇動していた。宗教的な熱心さという仮面のもとに、彼は反逆と残酷なことしか考えない強情で命知らずな悪人だった。この男と、罪のない救い主とのどちらかを選ばせることによって、ピラトは、人々のうちに正義感をめざめさせようと考えた。彼は民衆が祭司たちや役人たちに反対して、イエスに同情するようにしたいと望んだ」(『希望への光』1063ページ、『各時代の希望』下巻244ページ)。

ピラトは間違っていました。人々は聖霊に導かれていなければ、ここでの群衆のように、間違った霊的選択を必ずするでしょう。結局のところ、私たちはみな、キリストかバラバか、キリストか堕落して腐敗したこの世か、命か死かを、選ばなければなりません。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」(ヨハ3:19)。

十字架につけられた私たちの身代わり

「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マタ27:45、46)。

マタイは、神学者たちが「遺棄の叫び(thecryofdereliction)」と呼んできたものを記録しています。遺棄という言葉は、見捨てること、何かを放置すること、何かが困った状態にあることを意味します。ここでの場合、イエスが父なる神によって見捨てられたとお感じになっていると理解できるでしょう。あのとき、大地を覆った暗闇は神の裁きを象徴していました(イザ13:9〜16、アモ5:18〜20、エレ13:16)。イエスは罪の結果を、父なる神からの完全な隔離の結果を、御自身の身で体験しておられました。彼は私たちのために、私たちが受けるはずであった罪に対する裁きを受けていたのでした。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(ヘブ9:28、さらにIIコリ5:21も参照)。十字架の上で、イエスは詩編22:2〔口語訳22:1〕の言葉を用いられました。罪による神からの隔離という、人間が体験すべきものを特別な形で体験しておられたからです。「むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(イザ59:2)。

これはふりではありませんでした。イエスは罪に対する神の怒りを本当に耐えていました。私たちの罪に対する罰が彼の上に下され、彼の魂を狼狽と恐怖で満たしました。イエスは御自身にかかる私たちの罪の重みに耐えておられました。私たちが赦されるためには、父、子、聖霊の神のうちのお1人が罪の罰に苦しむ必要があったのですから、神の目に罪はなんとひどく映ったことでしょう。

しかし、このような恐怖の中にもかかわらず、イエスは「わが神、わが神!」と叫ぶことがおできになりました。その身に起こっていたあらゆることにもかかわらず、イエスの信仰はもとのままでした。苦しみを味わい、父なる神に見捨てられたと感じたにもかかわらず、彼は最後まで忠実でした。

裂けた垂れ幕と岩

それぞれの福音書記者は、さまざまな視点からイエスの物語を書きましたが、全員が彼の死に焦点を合わせています。しかし、神殿の垂れ幕が裂けたあとに、墓が開いたことを記録しているのは、マタイだけです。

問1

マタイ27:49〜54を読んでください。これらの出来事には、どのような意味がありますか。それらはどんな希望を私たちに指し示していますか。

イエスは、彼の言葉の真の意味を知らない群衆が、「エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」(マタ27:49)とあざけった直後に亡くなられました。彼らの嘲笑は、イエスがいかに多くの同胞から誤解されていたかを示す絶好の、しかし嘆かわしい、さらなる一例でした。

次にマタイは、神殿の垂れ幕が上から下まで裂けたことを記録しています。この象徴的意味は明白です。救済史において新しい時代が始まったということです。長い間、イエスを指し示してきた犠牲制度は、もはや必要ありません。古い地上の予型は、今やはるかに良いものによって置き換えられました。

問2

ヘブライ8:1〜6を読んでください。これらの聖句は、地上の聖所の制度に起こったことや、それに置き換わったものを理解するうえで、いかに助けとなりますか。

マタイは、垂れ幕が裂けたことだけでなく、岩が裂け、墓が開き、死者の中で復活した者があったことも記録しています。それらはひとえに、イエスが私たちの罪の身代わりとして死ぬことで成し遂げられたことの成果として起こりえた出来事でした。つまり、私たちはマタイによる福音書のここで、古い制度では起こりえなかったことが起きているのを見ています。「雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです」(ヘブ10:4)。言うまでもなく、イエスだけが罪を取り除くことがおできになり、私たちにとって、イエスが私たちの罪を取り除くことの大いなる結果、大いなる約束が、死からの復活です。その約束がなければ、私たちには何もありません(Iコリ15:13、14、19参照)。昔のこれらの復活(人数はわかりませんが)の中に、私たちはこの時代の終わりにおける私たちの復活の希望と約束を見ることができるでしょう。

復活されたキリスト

キリスト教信仰は十字架だけでなく、空の墓穴にも重点を置いています。実のところ、クリスチャンでない人を含む世界中の大半の人々は、ナザレのイエスという名の人が十字架で死んだと信じています。イエスが生きた時代から間もなく、例えば、ローマの歴史家タキトゥス(西暦57〜117年)による次のような記述を見いだすことができるからです。「ネロは……これに大変手のこんだ罰を加える。それは、日頃から忌まわしい行為で世人から恨み憎まれ、『クリストゥス信奉者』と呼ばれていた者たちである。この一派の呼び名の起因となったクリストゥスなる者は、ティベリウスの治世下に、元首属吏ポンティウス・ピラトゥスによって処刑されていた」(『年代記』(下巻)岩波文庫、269ページ)。

当時も今も、イエスという名の歴史的人物が有罪判決を受け、十字架につけられたことに関して議論されることは、ほとんどありません。

多くの人が悩んでいる点は、復活——ある金曜日の午後に死んだナザレのイエスが、次の日曜日に生き返ったということ——です。ユダヤでは、ユダヤ人がローマ人によって十字架にかけられるというのは、ごくありふれた出来事でした。しかし、十字架にかけられたあと、死から復活したユダヤ人というのはどうでしょうか。そうなると話はまったく別です。

しかし、復活されたイエスという信仰がなければ、私たちはキリスト教信仰を持っていないことになります。パウロは、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。……この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(Iコリ15:14、19)と記しています。イエスの死はそのあとに復活が続かねばなりません。私たちの保証は彼の復活にあるからです。

イエスの復活という物語に関して、私たちには二つの選択肢があります。第一の選択肢は、今日、有名な人物が死んだときにその記憶をとどめておこうとするように、この物語を、イエスの数少ない孤独な弟子たちが彼の記憶をとどめておくために書いた感傷的な宣伝物だと見なすこと。第二の選択肢は、驚くべき出来事——これまでに生きたあらゆる人間に関係しているとあとから理解された出来事——の目撃談として、この物語を文字どおりに受け取ることです。

問3

マタイ28:1〜15を読んでください。なぜイエスは女性たちに、「喜びなさい」(9節、英訳聖書)と言われたのですか。主が復活し、戻られたことは、彼らにとって喜びだったでしょうが、イエスの復活を喜ぶ真の理由は何ですか。

大宣教命令

多くの人にとって、イエスがなさった最も理解しがたいことの一つは、福音の働きを人間に託して天に戻られたことです。私たちはなんとしばしば、イエスや自分たち自身を失望させることでしょう。そして四福音書が示しているように、イエスの初期の弟子たちも例外ではありませんでした。しかし、キリストはこの働きを私たちに託すことで、私たちに対する愛と、私たちが彼を必要としていることを示されたのでした。

問4

マタイ28:16〜18を読んでください。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(18節)というイエスの言葉とダニエル7:13、14を比較してみてください。これらの聖句は、どのように関係していますか。

問5

この福音書の最後の節であるマタイ28:19、20を読んでください。イエスは何とおっしゃっていますか。彼の言葉と私たちとは、どのように関係していますか。

エレン・G・ホワイトは、イエスが復活されたあと、ガリラヤのその山には500人ほどの信者が集まっていたと述べています(Iコリ15:6参照)。イエスの宣教命令は弟子たちだけでなく、すべての信者に対してのものでした。「救霊の働きが牧師だけに負わされていると考えるのは重大な誤りである。天の霊感を受けた者はすべて福音をのべ伝える責任が負わされる。キリストの生命を受ける者はみな同胞の救いのために働くように任命される。教会はこの働きのために設立されているのであって、聖なる誓約によって教会に加わるものはみなそのことによってキリストと共に働く者となることを誓ったのである」(『希望への光』1110ページ、『各時代の希望』下巻368ページ)。

問6

あなたは、自分がキリストの共労者であると、どのくらいの頻度で考えますか。どのような具体的な方法で、あなたはもっと積極的に福音をこの世に伝えることができるでしょうか。

さらなる研究

ほかの福音書記者と同様、マタイはイエスの復活について書きましたが、彼も仲間の記者と同様、その復活の意味についてはほとんど何も記していません。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネはキリスト教信仰の中核である復活の物語を書いたにもかかわらず、それに神学的説明を何一つ加えていません。復活の意味についての最も詳しい説明は、パウロの書簡から得られます。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(Iコリ15:20〜22)。

パウロはまた、私たちは「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」(コロ2:12)と記し、ペトロも、この重要な主題について次のように述べています。「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです」(Iペト3:21)。

福音書記者たちがなぜ細かい説明をしていないのか、私たちにはわかりませんが、ある学者たちは、このことを彼らの物語が真実であることのさらなる証拠と見なしてきました。出来事のあと何年も経ってから書いているのに、なぜ彼らはその機会を用いて、復活に関して人々に信じてもらいたいことを詳しく説明しなかったのでしょうか。もしそれがうそや出まかせなら、彼らが伝えたいように伝えるために、なぜその機会を利用しなかったのでしょうか。彼らはそうせずに、復活の物語をごく単純に、何ら神学的説明で飾り立てようとせずに語っています。

*本記事は、安息日学校ガイド2016年2期『マタイによる福音書』からの抜粋です。

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