【出エジプト記・民数記】解放者を備えられる神【解説】#1

目次

中心思想

私たちが罪の束縛の中にあっていかに絶望していようとも、神は私たちを救うことのできるあがない主を備えておられます。

序言

モーセの時代におけるイスラエルの救いを現在の私たちの経験と比較する場合、私たちはしばしば予型を用います。これはつまり、旧約聖書の特定の出来事・人物・制度が救いの計画と結びついた新約聖書や終末時代の出来事の象徴となるように神によって計画され統制されているという意味です。たとえば、パウロによれば、出エジプトの経験は罪から救われ永遠の救いにあずかるクリスチャンの経験についての予型あるいは予表です(コリント第1・10:113参照)。今回は、イエス・キリストの予型あるいは予表としてのモーセについて考えます。

予型論とは、新約聖書そのものが旧約聖書を解釈する方法のことです。しかし、私たちは予型論を寓愉(ぐうゆ)と区別する必要があります。寓愉は推測やあいまいな類似物によって架空の対比を試みることですが、予型論は聖書そのものに記された明確な類推にもとづくものです。

束縛と抑圧(出エジプト記1:1-22)

(本文に入るまえに必ず各項の聖句をよく読んでください)

1.奴隷となるイスラエルの子ら(1:1-14)

出エジプト記1:1―6は創世記の最後の五章を要約したもので、以後の記録のお膳立てをしています。ここと創世紀46:27に、エジプトに移住したヤコブの家族は七十人と書かれていますが、これには妻・娘・男女の奴隷・その家族・雇人などは含まれていません。出エジプ卜記の冒頭の部分に、創世記15:7-16に記されてある神のアブラハムヘの予告が成就しつつあるのを、また創世記に述べられている大争闘—女のすえとへびのすえとの継続的闘争—の進展を見ることができます。

質問1

出エジプト記に記録されている苦難は今日のクリスチャンにとってどんな意味を持ちますか。それは私たちと関係がありますか。もしあるとすればどんな点においてですか。黙示録12:7―18

聖書は罪を束縛と、また罪のとりこになる荷を奴隷と呼んでいます(ヨハネ8:34、ローマ6:16参照)。イスラエル人がエジプトの奴隷となっていたように、私たちも罪の国の奴隷になっています。神は私たちをそこから救うと約束しておられます。キリストにあって、私たちはアブラハムの子孫です。アブラハムに対する神の約束は私たちに対する約束でもあるのです。イスラエルに対する神の救いのうちに、神が私たちに対する約束を成就するために今日どのように働かれるかを見ることができます。神は私たちのために一人のあがない主—モーセより力あるおかた—を備えてくださいました。そのおかたは私たちを罪から約束の地へと導き出してださいます。

質問2

罪はどんな報酬を支払いますか。聖書はなぜ「罪の歓楽」と言っているのでしょうか(へブル11:25)。

罪がもたらす楽しみは本物のように見えますが、実際には、神が被造物を幸福にするためにお与えになったものの偽物です。この正しい見方からすれば、いくら悪に仕えることが罪によってゆがんだ人間には歓楽に見えようとも、「不信実な者の道は滅び」なのです(筬言13:15)。罪は人をだんだん苦難に導くものであってその最終的な結果は永遠の死です。この世に生まれた者はみな、イスラエル人がエジプトで体験したものよりもずっと恐ろしい束縛のもとにあります。キリストはこの罪の奴隷という束縛から私たちを解放してくださったのです。

2.死の布告(1:15-22)

イスラエルを滅ぼすサタンの計画は失敗しました。エジプト人がへブル人を圧迫すればするほど、彼らは増加しました。女と子供を含めた総人口は少なくとも二百万はあったでしょう(民数記1:46)。神の祝福はサタンの攻撃にまさっていました。サタンはつぎにパロを動かして、すべての男の子を殺させます。パロのこの行為は、罪が次第に増して、その犠牲者をだんだん深い淵に引きずり込む様子を例示しています。イスラエルに対するパロの態度が次第に硬化していることに注意してください。1強制労働(11節)、2苦役をともなった労働(13、14節)、3助産婦たちに男の子を殺させる(16節)、4すべてのエジプト人に、へブルの男の子を殺せという布告を出す(22節)。

質問3

イスラエル人はヨセフの時代に神の奇跡的な導きによってエジプトに来ました。それなのになぜ、彼らは過酷な圧迫に苦しまなければならなかったのでしょうか。神の導きに従うとき、私たちは苦しみを免れることができるでしょうか。神は私たちをいつでも悩みから守ってくださるでしょうか。それとも特別な理由から悩みに会わせられることがあるでしょうか(詩篇34:19、コリント第1・10:13参照)。

世が終末に近づくにつれて、神の民の状況は次第に厳しくなるでしょう。一つには世界全体が堕落するからですが、もっと詳しく言えば、古代イスラエルのそれに似た迫害と圧迫が終わりの時代の神の民に対して工えられるからです。しかしながらこれは、神が私たちをお見捨てになったことを意味するものではありません。罪が完全に熟してから、神は罪の歴史を終わらせるために行動されるのです。

解放者の誕生(2:1―10)

イスラエルの苦難が最高点に達したと思われるとき、神は世に一人の解放者、救出者をつかわされました。モーセはイエス・キリストの予型、予表でした(申命記18:15、ヨハネ1:21—23、5:46、使徒行伝7:37参照)。もちろんモーセの経験はすべての点においてキリストの型というわけではありませんが、両者の生涯・働きは以下の点で非常によく似ています。

1.サタンは支配君主による死の布告をもって、生まれたばかりのモーセとイエスを滅ぼそうとした(出エジプト記l:15、16、マタイ2:16)。

2.どちらも捕虜を解放する使命をおびていた(出エジプト記3:9、10、イザヤ書6:1、2、ルカ4:18)。

3.モーセは神の民の一員となるためにエジプトの王座に対するすべての権利を放棄した。イエスは人類の一員となるために天の王座を捨てられた(へブル11:24-26、ピリピ2:6-8)。

4.モーセは「キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの’煮にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである」(へブル11:26)。イエスは地上の王国を受け入れるようにというサタンの誘感に抵抗された。彼は「自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわ」なかった(へブル12:2)。

5.モーセは自分の働きに備えるためにミデアンで四十年を過こし、イエスはその働きに備えるために荒野で四十日を過ごされた(使徒行伝7:29、30、マタイ4:1、2)。

6.モーセとイエスは共に神と罪深い人類とのあいだの仲保者であった(出エジプト記32:31、32、へブル3:5、6)。

質問4

もしモーセの家族が神の計画に協力していなかったならどうなっていたでしょうか。神から最初に選ばれた人が受け入れなかったために、ほかの人が選ばれたという例をあげることができますか。

私たちの行動や選択は神に対する私たちの個人的関係と救いに影響を与えることはあっても、神の計画を最終的に決定づけるものではありません。もしモーセの家族が神の計画に協力していなかったなら、神の目的は別の方法で達成されていたことでしょう。しかしながら、モーセとその家族は取り返しのつかない損失をこうむっていたことでしょう。私たちが神の恵みによって自分でできることを、神が私たちに代わってなさるということはめったにありません。むしろ、神はその力によって私たちの働きを祝福することによって、私たちと共にお働きになるのです。

質問5

ヨケベデがモーセをパピルスで編んだかごの中に入れたのはどんな動機からですか。出エジプト記2:3

パロはヘブル人の男の子をナイル川に投げ込めと命じていました(出エジプト記1:22参照)。モーセの母は確かにその通りにしました。彼女は自分の子供を川の中に置きました—あしで編んだかごの中に入れて。エジプト人がパピルスで舟を作っているのを見て、ヨケベデはこの計画を思いついたのかもしれません。あるいは、神からの啓示を受けたのかもしれません(パロの娘をモーセのかごの所に導いたのは天使でした—『人類のあけぼの』上巻277ページ参照)。彼女のこの行為は計画的なものだったように思われます。彼女はパロの娘がいつも水浴びに来る場所にかごを置きました。彼女はミリアムを近くに待機させました。ミリアムはパロの娘が赤子を見つけたときに何と言うべきかを、あらかじめ母親から教わっていたのでしょう。

王女は事情をすぐに察知しました。また、赤子を育てる者としてだれを雇うべきかも理解しました。その策略は目に見えていましたが、彼女はその精神に同情しました。王女は何も知らないふりをしていなければなりませんでした。なぜなら、へブル人を助けることは父の命令に背くことだったからです。王女の支払った報酬は一種の法的関係を示しています。—モーセは彼女のものとなるのでした。

解説

「今やヨケベデは深く感謝して、この安全で幸福な任務にとりかかった。彼女は、その子を神のために教育する機会を忠実に活用した。彼女は、この子が何か大いなる働きのために守られたことを確信した。……そのために、彼女はほかの子供たちよりも、もっと熱心に注意深く教育をほどこすようになった」(「人類のあけぼの」上巻277ページ)。

救出のための準備(出エジプト記2:11-25)

1.自分で選択したモーセ(2:11-14)

モーセの母はモーセの初期の教育を担当することを許されました。モーセが十二歳になったとき(『人類のあけぼの』上巻278ページ)、パロの娘はモーセを引き取り、一緒に王宮で生活しました。エジプトの祭司たちが彼の教育を引き継ぎました。モーセは、当時の世界で最も発達した文明の学問と考えられていた神学、天文学、医学、数学、軍事科学、法律などを教え込まれました。

質問6

モーセはどんな動機から抑圧された自分の同胞と運命を共にする決心をしましたか。へブル11:24-27

モーセの信仰は何に基礎を置いていたのでしょうか。彼は母の教えを信じ、神の救いの約束を信じ、この働きに対する神の召しを信じ、そして神の支えを信じていました。状況を合理的にながめていたなら、へブル人と運命を共にするようなことは何も認められなかったでしょう。しかし、彼は信仰の目をもって永遠の世界をながめ、「キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである」(へブル11:26)。私たちも終末時代にあってこのような信仰を持つ必要があります。この世のあらゆる誘惑が私たちの「報いを望み見」る目をさえぎります。私たちは今、変わることのない信仰を養うことによってのみ、正しい選択をすることができます。モーセはエジプト人を殺すことによって、神の抑圧された民と運命を共にするという決定的な選択をしました。彼は同胞が自分を指導者としてエジプト人に反抗するものと考えていました。しかし、モーセもイスラエルの民もまだ用意ができていませんでした。罪と自己は神の恵みによって克服される必要があります。

2.ミデアンヘ逃れる(2:15—22)

モーセは東に、それから南に逃れ、シナイ半島のミデアンの地に来ました。ミデアン人はケトラによるアブラハムの子孫でした。モーセはそこで四十年間(使徒行伝7:23、30参照)羊飼いとして過ごし、エジプトの進んだ学問によってさえ得られなかった教訓を学びます。彼はそこで二人の男の子―「外国の寄留者」を意味するゲルショム(出エジプト2:22)と「神はわが助け」を意味するエリエゼル(出エジプト記18:3、4)—をもうけますが、これらの名はミデアンでのモーセの四十年間の態度と霊的成長を物語っています。

神はイスラエルを覚えられる(2:23—25)

質問7

イスラエル人はどんなことによって神の助けの必要性を認めましたか。出エジプト記2:23

エジプトのイスラエル人はかなり、エジプトの神々を礼拝するようになっていました。エホバについての知識はあいまいになっていました。四十年の準備期間はモーセのためばかりでなく、イスラエルのためにも必要でした。エジプトの王が死ぬと、イスラエル人に対する圧迫も軽くなるだろうと、彼らは期待しました。しかし、苦難が相変わらず続くと、彼らはついに天の神—彼らの先祖の神—が唯一の望みであることを悟ります。彼らは神に求め、神はその声を聞かれます。神は決してご自分の民を忘れておられたわけではなく、ただ彼らが自分の必要に気づいて神の導きを求めるまで彼らのためにお働きになることができなかっただけのことです。

質問8

エジプトにおけるこの待望期間はイエスの再臨における明らかな「遅延」についてどんなことを教えていますか。2ペテロ3:3-13

再臨が期待した以上に遅れているために不審に思っている人々がいます。しかし、神はご自分の民をエジプトにおいても、この終末時代においても忘れてしまわれたわけではありません。神の民が用意さえできていたなら、イエスはすでにおいでになっていたことでしょう。

モーセが神から与えられた役割を果たす用意ができ、民が神の導きに従う用意ができたとき、神は力強い方法で彼らの救いのために働かれました。現代についても同じことが言えます。

まとめ

神が古代エジプトのご自分の民に示された摂理的な守りのうちに、私たちは神がいかに私たちを愛しておられるかを知り、また救いの前に訪れる困難な時期にも神が共におられるということを確信することができます。神は私たちのためにモーセよりもはるかにまさったあがない主を備えてくださいました。彼は私たちを天のカナンに導いてくださるでしょう。

*本記事は、安息日学校ガイド1998年1期『約束の地をめざして』からの抜粋です。

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