【出エジプト記・民数記】燃える柴での召し【解説】#2

目次

中心思想

神はありふれたものや卑しい人々を用いて、驚くべきみわざを達成されます。神はモーセに特別な責任をお与えになりました。同じように、神は私たちひとりびとりに対しても特別な計画を持っておられます。

序言

大オーケストラの指揮者が突然、盛り上がりの最中に演奏を中止させました。「ピッコロはどうした!」、と彼は叫びましたこの最も小さな楽器のかすかな音色が聞こえなかったからです。オーケストラの楽器と同じく、人間はみな神の働きのなかで大切な役割を与えられています。

モーセがイスラエルを救うために神によって召されたように、すべてのクリスチャンは神から何らかの働きを与えられています。神の与えられる働きで必要でないものはありません。より大きな働きへの神の召しに備える最善の方法は、すでに与えられている毎日の働きを忠実に続けることです。神の召しがしばしば日常の務めに携わっている人々に与えられていることに注目してください—ペテロ、ヤコブ、ヨハネは漁をしているときに、サウルはいなくなった家畜を捜しているときに、ダビテとモーセは羊を飼っているときに、マタイは税金を集めているときに、それぞれ神の召しを受けています。私たちは神の恵みによって日常のきまりきった務めをキリストのための胸おどらせる奉仕に変えることができます。平凡なクリスチャンであっても、神の御手のうちにあるときこの世の知恵と力に打ち勝つことができます。

劇的であろうとなかろうと、神が私たちにお与えになった働きは終末時代の世界の救いという神の大きな目的のなかで大切な役割を果たすのです。今回は、モーセの召しとそれに対する彼の態度について学ぶことによって、神の働きにおける私たちの責任を果たすことの重要性を学びます。

燃える柴でモーセを召される神(出エジプト記3:1—10)

神がモーセにお現れになったことは重要な意味を持ちます。この前に神がお現れになったのは、ヤコブがエジプトに入る前に見た夜の幻においてでした(創世記46:2-4参照)。そのとき神は、ヤコブを大いなる国民とするという約束を繰り返しておられます。神は今、モーセに現れてこの約束を確認し、それを成就し始められます。

出エジプト記3:1……ホレブはシナイ山の別名です(出エジプト記19:11、申命記4:10参照)。モーセはのちにここで神と会い、十戒を受けます(出エジプト記3:12参照)。

出エジプト記3:2……「主の使」は三位一体の神の第二位であるイエス・キリストです(「人類のあけぼの』286、364、434、ページ参照)。

質問1

神はどんな異例な方法でご自分をモーセに現されましたか(出エジプト記3:2)。この燃え尽きることのない柴にはどんな意味がありましたか。1コリント1:27

「このとげを持った柴は世から卑しめられ軽べつされていたイスラエルの民にたとえることができるかもしれない。柴を燃やしはしてもそれを燃え尽きさせることのない火は、洗練するための苦難を表すと考えることもできる。柴が燃え尽きてしまわなかったように、主は徴らしめの炎によってこ自分の民を死に渡されることはない」(「SDA聖書注解』第1巻509ページ)。同じように、神の民は終末時代になると厳しい試練にさらされますが、主の御手に支えられて無事に切り抜けることができます(詩篇第91篇、イザヤ書43:1―3参照)。

例話

スコットランド教会は、迫害によって洗練されてきたことを覚えるために、その旗に燃える柴の紋章を織り込んでいます。そこには、「柴は焼け尽きなかった」と書かれています。

神はまたモーセに、もし神がありふれた柴さえこのように奇跡的な方法で用いることができるのなら、自分も同じように特別な方法で用いてくださるということを理解させようとされたのかもしれません。神はモーセをイスラエルの解放者となるという大きな責任に召しておられました。神が共におられるならすべてのことは可能であるということを、神はモーセに確信させようと望まれました。神は私たちひとりびとりが神の導きに従って働くことを望んでおられます。イスラエルを救出するようにという神の召しを受けたとき、モーセは言い訳をしています。だからこそ、このような確信が彼に必要だったのです。

出エジプ卜記3:10……エジプトを出て四十年目に与えられたこのような神の召しは、八十歳の羊飼いにとっては青天の霹靂(へきれき)のような出来事だったにちがいありません。彼はどうしてこの責任を受け入れることができたでしょうか。神はしばしば私たちを不可能に思われる働きに召されます。

言い訳をするモーセ(出エジプト記3:11―4:17)

1.わたしは何者でしょう(3:11—4:17)

モーセはいつでもこれほど謙虚な人間であったわけではありません。四十年前には神がいま与えようとしておられる特権を手に入れることばかり考えていました。神の導きの先回りをしてエジプ卜人の監督を殺しました。へブルの同胞が自分を支持してくれるだろうという彼の期待は裏切られました。そのモーセが、神から確かな召しを受けているにもかかわらず、今度はイスラエルの解放者となることをためらっていました。

「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」というモーセの反論は自らの無力さを認める健全な気持ちから出たものであったかもしれませんが、それには挫折の気持ちも感じられます。そこには、「主よ、私が四十年前にイスラエルを救出しようとして失敗したのをお忘れになったのですか」という含みがあるように思われます。

私たちはときどき、過去の失敗と現在の状況を見て失望することがあります。そのようなとき、モーセのように叫びたくなります。

「主よ、私は何者でしょう。私があなたから与えられたこの責任を遂行するのでしょうか」。

もし、モーセがあくまでも羊飼いのままでいると主張していたならどうなっていたでしょうか。エジプトにおける感動的な対決の場面、過越と出エジプト、紅海における奇跡的救出、岩からの水、天からのマナ、神ご自身の指によって書かれた十戒の石板、聖所の建設—彼はこれらの経験にあずかることができなかったでしょう。モーセが数多くの困難、試練、悲嘆を経験したことは事実です。しかし、神のみこころに従った結果、彼の生涯は計り知れないほど豊かに、また満足のゆくものになりました。

人間的に考えれば、四十年も羊を飼っていた男にこのように大きな使命を受け入れるように求めることは愚かなように思えます。世界最強の王に向かって、その国の労働力また富のみなもとの大部分を解放せよと命令するのです。モーセが、「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか」と答えたとしても不思議ではありません(出エジプト記3:11)

質問2

神はモーセの最初の弁解に対して何と言われましたか。出エジプト記3:12

神はモーセの自己評価に反論されませんでした。その代わりに彼と約束なさいました。「確かにその通りだ。あなたは弱く、この仕事には向いていない。だが、わたしはあなたと共にいる。あなたは一人でパロのところに行くのではない。わたしもあなたと一緒に行くのだ」。

2. あなたはどなたですか(3:13)

モーセの二番目の言い訳は最初のそれに対する神の答えから出たものでした。彼はまだいくぶん神の召しを受け入れるのをためらっていました。

質問3

モーセはなぜ神の御名についてたずねたのでしょうか。彼は本当に神を知らなかったのでしょうか。それとも、もっと詳しいことを知ろうとしたのでしょうか。

モーセは神の御名を、また神がどなたであるかを知っていました。しかし彼は、「やがて直面する多くの困苦のことを考えた。そして、盲目的で、無知で、不信仰な自分の民のことを考えた。しかもその多くは、神についての知識をまったく持っていないのである」(『人類のあけぼの』上巻288ページ)。モーセが神の誠意と能力について疑ったことにはたぶん一理あったでしょう。彼の言い訳の背後には「あなたが本当に私と共に行かれるのですね?本当にあなたを信じてもいいのですね?」という疑いの気持ちがありました。

モーセはたぶん四十年前にイスラエルの民を救出しようとして失敗したときのことを思い出していたことでしょう。「主よ、あなたはあの時どこにおられたのですか。なぜ私を助けてくださらなかったのですか。こんどこそ助けてくださるという保証があるのですか。あなたはどなたですか。あなたはどのような神ですか」。私たちもときどきこのような疑いを抱くのではないでしょうか。

質問4

神はモーセの二番目の言い訳に対して何とお答えになりましたか(出エジプト記3:14-16)。神はなぜこのようにお答えになったのでしょうか。

モーセは神が本当に信頼に足るおかたかということを問題にしていました。そこで神はモーセに、ご自分が彼の祖先にどのようなことをされたか、彼らが神に信頼し従ったときどれほど大きなわざをされたかを改めて知らされたのです。

「わたしがどのような神であるか知りたいと思うのか。わたしが信頼できるか否かを疑っているのか。わたしの記録を見てみなさい。わたしはアブラハムをウルの父の家から嗣業(しぎょう)として与えた未知の国に導いた神である。わたしは彼を栄えさせ、年齢的に不可能であったにもかかわらず彼に息子を与えた神である。わたしはその約束の子イサクの神である。わたしはじかに導いて彼に妾を与え、彼の生涯を導いた。わたしはヤコブの偽りと巧妙な態度にもかかわらずヨセフによってイスラエルを飢饉から救ったあのヤコブの神である。そして、モーセよ、わたしはあなたの神でもあるのだ。わたしはあなたのために同じような力あるわざをするであろう。わたしの名はヤーウェーである。わたしはここにいる。わたしはあなたのいる場所にいる。わたしは実際にいる」。語っておられるのは三位一体なる神の第二位の神でした。この同じイエスは今日、私たちに対して、「あなたの必要が何であれ、あなたの状況がどうであれ、わたしはあなたと共にいる」と言われます。

困難なときがこようとも、主はかつて信仰音のためになされたのと同じ素晴らしい方法で私たちのために働いてくださるでしょう。

3. 彼らは聞き従わないでしょう(4:1)

モーセの三番目の言い訳は、自分にはイスラエル人の関心と尊敬を集めるだけの能力がないというものでした。

「たとえ私が行くとしても、またあなたが私と共に行ってくださるとしても、民は私を受け入れてはくれないでしょう。私に名誉と権力があったときですら私を支持してくれなかったのですから、羊飼いである今はなおさら私に耳を傾けてくれないでしょう。私にはあなたの期待にこたえるだけの資格はとてもありません」。

質問5

神はモーセの三番目の言い訳に対して何と答えられましたか。出エジプト記4:2ー9

神はときには奇跡的な方法によって私たちの問題を解決し、みこころを示されます。しかしながらそれ以上に、私たちの心に印象を与えたり、摂理的な導きを与えたり、ほかのクリスチャンの勧告を用いたり、私たちのために機会を与えたり、あるいは可能と思ったことを不可能にしたりというように、あまり目立たない方法で私たちを導いてくださいます。それらはモーセが行った奇跡ほど超自然的なものではないかもしれませんが、神から与えられたものであることには変わりありません。

4.私は話せません(4:10)

これまで雄弁に反論してきたモーセが口下手だという理由で言い訳をするのは妙な気がします。ある聖書学者たちは、モーセは四十年もエジプトを離れていたので、自分はもはやエジプトの言葉をうまく話せないと考えていたのではないか、と言います。私たちもモーセのように、自分は能力がないので重い責任や大きな挑戦を受け入れる資格がないと感じるかもしれません。しかし神は、それまでと同じく今度もモーセの言い訳をお受け入れになりませんでした。

質問6

神はモーセの四番目の言い訳に対して何と答えられましたか。出エジプト記4:11、12

神の計画を遂行するうえで私たちの果たす役割はそれを受け入れること、そして信仰をもって、神に信頼して前進することです。自分の全力を尽して神に協力すれば、成功するか否かは神の責任です。私たちの務めは自発的に行って語ることです。私たちに語るべき言葉を教え、聖霊によってその言葉を効果あらしめるのは神の務めです。そのように考えるなら、私たちの重荷は軽くなります。

5. ほかの人をおつかわしください(4:13)

モーセの最後の言い訳は必死の嘆願になっています。改訂標準訳では、「ああ、わが主よ、お願いです、ほかの人をおつかわしください」となっています。新国際訳ではただ、「ああ主よ、どうかほかの人をそのためにおつかわしください」となっています。

神はどの反対にもうまく対処しておられます。モーセにはもはや言い訳のしようがなくなります。しかし、彼はまだ行く気になりません。仕方なく神に、ほかの人をお捜しくださいとたのんいます。モーセの最後の言い訳は、もっと資格と影響力を持ったほかの人—だれでもよい—を捜してくださいという単なる要求になっています。もちろん、神はいつでもほかの人を見つけることがおできになります。しかし、神はモーセに行ってほしいと望んでおられたのです。神が私たちを特定の任務に召されるのは、私たちに神の計画を遂行してほしいと望まれるからです。たとえ私たちよりも才能のある人であっても神が私たちに望まれる働きは私たちにしかできないのです。

質問7

神はモーセの最後の言い訳に対して何と答えられましたか。出エジプト記4:14-17

神はモーセの兄弟アロンをつかわすことに同意されますが、モーセの責任を解かれたわけではありませんでした。アロンの助けがあったにしても、責任はなおモーセにかかっていました。神は私たちと共にいてその働きを助けると約束しておられます。しかし、私たちにはほかの人の助けが必要です。一緒に働いてくれる人が必要です。神は私たちの要求にこたえて、助け手を与えてくださるでしょう。モーセの場合はそうでした。イエスものちにご分の弟子たちを二人ずつつかわしておられます。モーセはやがて、人間の助けに頼らないで神の働きを遂行することを学びます。神は私たちに必要な助けを与えると約束しておられます。神はほかの人々を私たちの助け手としてお用いになることができますが、私たちは人間にではなく神に頼ることを学ばなければなりません。

エジプトに帰るモーセ(出エジプト記4:18―31)

神はモーセのすべての言い訳に答えられました。モーセはそれ以上、反論することができなくなりました。それ以後のモーセの行動は彼が神のみこころを受け入れたことを示しています。彼はミデアンを去る用意を整えて、イスラエルの解放者としての働きを遂行するためにエジプトに戻ります。

解説

「モーセは、パロに対する任務を帯びて、非常に危険な立場におかれることになった。彼の生命は、聖なる天使たちに守られていたからこそ安全であった。しかし、当然果たすべき表務を怠っていては安全ではなかった。なぜなら、彼は、神の天使たちに保謹されることができないからであった」(「人類のあけぼの』上巻292ページ)。

出エジプト記4:29-31……四十年前とは異なり、イスラエル人は今度はモーセとアロンの使命を受け入れました。モーセも民も必要な教訓を学んでいました。神の救いが示される時期が来ていたのです。

まとめ

世から弱くて愚かな者とみなされているものを用いて、世から強くて賢い者とみなされているものを打ち倒すのが、神のやり方です。神は平凡なクリスチャンを用いて非凡なことをなされます。神はモーセを召されたように、私たちひとりびとりをもご自分の働きのために召しておられます。

*本記事は、安息日学校ガイド1998年1期『約束の地をめざして』からの抜粋です。

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