【出エジプト記・民数記】「わが民を去らせよ」【解説】#3

目次

中心思想

人間がいかに妨害しても、ご自分の民を救う神の約束は成就します。神に反抗する者たちは滅びますが、神を受け入れて神に従って生きる者たちは救われます。この世のどんな力もそれを阻止することはできません。

序言

聖書に記録されている奇跡は私たちが考えるほど多くはありません。それらの大部分は三つの時期に大別できますが、どれも神の介入を必要とした時期です。(1)イスラエルが国家として形成されるモーセの時代、(2)預言者の権威が確立されるエリヤとエリシャの時代、(3)この世があがなわれるキリストの時代。このシリーズではこのうちの最初の時期を扱っています。今回の研究では、エジプトにおける神の奇跡的な介入について学びます。それはご自分の民を救うためのものでした。

モーセとアロンがイスラエルを解放するようにという神の要求をパロに伝えたとき、高慢な王はヘブルの奴隷の苦役を増すことによってそれに対抗しました(出エジプト記第5章参照)。モーセとイスラエル人にとっては、事態はさらに悪化したように思われました。

神はモーセの疑問に答えて、繰り返しイスラエルを救出すると約束されます。また、パロは強制されるまで従わないであろうと説明されます。これは、神がご自分を唯一の真の神としてお示しになる機会、また正直なヘブル人やエジプト人にとっては神のあわれみを得る機会となるのでした。

この状況は再臨直前における神の民の経験に似ています。神がご自分の民を罪に満ちた世から解放しようとされるとき、そして神の民が神に忠実であろうとするときに、彼らは激しい反対に直面します。世はパロのように、「わたしは主を知らない。またイスラエルを去らせはしない」と豪語します(出エジプト記5:2)。聖徒たちにとって、神に対する忠誠は事態を悪化させる結果になるように見えます。しかし、神はふたたび一連の災害によってご自分の力を示し、ついにはその民をお救いになります。ヨハネは黙示録第16章において出エジプト記の物語を引用し、不信仰な世界に注がれる最後の恐るべき出来事を描いています。ここに記された最後の七つの災害のうちの五つが、エジプトに下った災害とよく似ています。

災害についての一般的注意

それぞれの災害について考える前に、以下のことがらを確認しておきたいと思います。

1.これらの災害が与えられたのは神の力とさばきを示すためだけではなく、神のあわれみをも示すためでした。

2.だれがパロの心をかたくなにしたのでしょうか。出エジプト記8:15、32、9:34などでは、パロが神の力を見ながらその心をかたくなにしたと書かれていますが、ほかの箇所では、が王の心をかたくなにされたので彼はイスラエルを去らせようとしなかったと書かれています(出エジプト記4:21、7:3、9:12、10:20参照)。これは多くの聖書研究者を困らせる点です。なぜなら、それではパロは神の手にある道具にすぎなくなるからです—彼は神にあやつられて神に反抗し、つぎにはそのために罰せられることになります。

第一に、旧約時代の多くの人々は神が万物を完全に支配しておられると信じていたことを、私たちは心にとめるべきです。彼らは神がすべての出来事を知っておられること、また神がそれらの、いわば責任者であることを信じていました。このため旧約聖書はしばしば、ご自分が立てた人々を用いて活発に働かれる神について語っているのです(サムエル記下24:1、歴代志上21:1、イザヤ書45:7参照)。

第二に、パロがかたくなに抵抗したのは、災害において現された神の力のためでした。同じ太場の光がろうを溶かし、粘土を固めるように、神のさばきと聖霊の力も人間の心に異なった影響を及ぼすのです。

3. ここで学ぶ九つの災害は次の表のように整理することができます。災害はだんだんひどくなっています。最初の三つは、あまり気持ちのいいものではありませんが、それでも実際に生命を脅かすほどのものではありませんでした。二番目の三つは肉体的な害をもたらし、また財産にも影響を与えました。三番目の三つはエジプトの自然現象によるものというより、宇宙全体がエジプト人に挑戦しているような観があります。どの場合も、災害は次第に深刻さを増しています。表をよく比較して、ほかにどんな特徴があるか調べてみましょう。

災害警告ゴセンの地魔術師パロ方法
最初の3つ水が血になる強い免れないまねる拒否アロンのつえ
最初の3つかえる弱い免れないまねる拒否アロンのつえ
最初の3つぶよなし免れない失敗拒否アロンのつえ
2番目の3つあぶ強い免れるやや従うつえ不使用
2番目の3つ疫病弱い免れる拒否つえ不使用
2番目の3つ腫物なし免れる辞退拒否つえ不使用
3番目の3つひょう強い免れる罪を告白モーセのつえ
3番目の3ついなご弱い免れる干渉罪を告白モーセのつえ
3番目の3つくらやみなし免れる偽りの約束モーセのつえ

4.それぞれの災害は現実のもので、ひどい苦痛をともないましたが、同時にそれらはエジプトの宗教に対する挑戦でもありました。これらの災害はエジプトの偽りの神々に対してエホバの力を証明しました。

5.最初の九つの災害は神の奇跡的な行為でしたが、それらはまた自然に発生する病気やすでにエジプトにあった疫病とも関係がありました。それらは、これまでにない激しいものであった点において、また神の代弁者モーセの言葉によって発生・消滅したという点において、神のさばきと考えられました。

さらに、それらの災害は明らかに自然現象を越えた超自然的な性質を含んでいました。

6.これらの災害は九か月から十か月、続いたと思われます。最後の災害と過越はイスラエルの宗教暦の最初の月となるアビブ(のちにはニサンと呼ばれた)に起こりました。これは三月の末から四月の初めに当たります。したがって、これらの災害は前の年の初夏に始まったことになります。

最初の3つの災害(出エジプト記7:14―8:19)

1.水が血に変わる(7:14―25)

ナイル川は6月から秋にかけて、上流の川底から出る粉状の赤土のために、また水を赤くする細かい藻のために赤みがかった色になりました。

質問1

この災害が単なる自然現象ではなかったということは何によって明らかですか。

もしモーセが毎年おこる出来事をナイル川に命じていたなら、たとえそれがいつもより激しいものであっても、エジプト人にあまり強い印象を与えることはできなかったでしょう。毎年おこる「赤ナイル」でさえ、この災害のように川の中の魚を殺すことはありませんでした。19―21節には、池の水、また器にくんでおいた水でさえ血に変わったと書かれています。川の水が赤くなることがあったにしても、器にくんでおいた水まで赤くなることはなかったはずです。

この不快な水の変化は七日間にわたって(25節)人々を苦しめ、悩ませました。エジプト人は砂を掘って水を濾過(ろか)し、飲み水を得たようです(24節)。

この災いは肉体的な苦痛以上に、聖なるナイル、大いなる水の神ハピ、そして聖なる魚(それらは汚染された水によって死んだ)への攻撃でした。エジプトの恵みのみなもとであったナイル川は、いくつかの名前や象徴とのもとで崇拝されていました。パロはナイルの神をあがめる宗教的な祭りを何回か行っていました。ナイル川をたたえる歌が碑文に残されています。

質問2 

エジプトにおけるこの最初の災害は最後の7つの災害のどれに相当しますか。この災いの理由としてどんなことがあげられていますか。黙示録16:3―7

エジプトの第一の災害は終末の第二、第三の災害と同じです。エジプトの災害が文字通りのものであったという事実は、終末の七つの災害も文字通りの出来事になることを裏づけています。これらの災害は神の民に対する迫害の結果として起こります。罪なき者たちの血を流したため、悔い改めていない世はその行為の正当な報いを受けるのです(黙示録13:10参照)

2. かえる(8:1―15)

ナイル川が毎年はんらんすると、おびただしい数のかえるが出てきました。両生類の災害は古代においては珍しいことではありませんでした。しかし、この異常な数と、かえるが神の言葉によって出現・消滅した事実は、この出来事が超自然的なものであったことを示しています。魔術師たちも(最初のときと同様に)ある程度までこの災害をまねましたが、かえるの洪水から国を救うことができませんでした。パロはモーセにかえるを取り除くように頼むことによって、神の力を認めました。

この災害もまたエジプトの神々に対する攻撃でした。この世界はかえるの頭をした女神ヘクトによって創造された、とエジプト人は信じていました。かえるはエジプトの多産の象徴として崇拝されていました。かえるを殺すことを禁じられていたエジプト人は、自分たちの家に侵入してくるかえるの群れを耐え忍ばなければなりませんでした。

3. ぶよ(8:16―19)

欽定訳聖書はユダヤの歴史家ヨセフスの記述とヘブルの聖書註解者たちの見解に従って、この災害をしらみと訳しています。ヘブル語ではより正確に「ぶよ」あるいは「砂蚤」と訳しています。エジプト人はこのような害虫をとくに嫌いました。祭司たちはこうした昆虫から身を守るため1日おきに全身をそったと言われています。しかし、彼らはもちろんのこと全国民が、神殿の聖なる動物たちと同じく、この害虫に悩まされました。

質問3 

魔術師たちはこの奇跡的な災害をまねることができませんでした。彼らはその理由をどのように説明しましたか。出エジプト8:19

それぞれの組の三番目の災害と同じく、この災害は警告なしに来ています。

二番目の三つの災害(出エジプト記8:20―9:12)

この二番目の三つの災害は人間ばかりではなく財産にも及んでいます。しかし、イスラエル人の住んでいた地区は災害を免れています。モーセはもはや、つえを用いていません。そのつえに魔力があるのではないということを確認するかのようです。

1. あぶ(8:20―32)

旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書は、「犬ばえ」を意味する特別な言葉を用いています。これは大型の、毒を持った昆虫で、刺されると赤く腫れ上がりました。犬ばえはよく人間の鼻やまぶたを刺し、眼病や失明の原因となりました。ある人々はこれをコガネムシによる災害と考えます。コガネムシは太陽神ケプラの化身と考えられていました。

モーセはパロにこの災害について十分に警告していました。また、神はエジプト人とイスラエル人とを区別されるということについても警告していました。最初の三つの災害はエジプト人と同様に、イスラエル人にも降りました。しかし、両者のあいだにははっきりした相違が見られました。イスラエル人は彼らの王(神)の祝福にあずかり、エジプト人は彼らの王(パロ)の呪いにあずかるのでした。

質問4

パロの態度には、罪の影響力についてのどのような重要な原則が示されていますか。箴言5:22

2. 疫病(9:1ー7)

ここで用いられている語は「災害を意味する一般的なヘブル語で、エジプトのすべての家畜に及ぶ伝染性の病気であったことを示しています。これは動物崇拝を根底からくつがえすものでした。エジプト人はとりわけ子牛、雄牛アピス、雌牛の女神、それに雄羊を崇拝しました。

質問5

この経験は終末時代にどのようなかたちで繰り返されますか。神の民に対してどんな特別な警告が与えられていますか。黙示録18:1ー4

この終末時代にあって、人々はやはり自分の財産や快楽を神としています。神は終末時代のバビロンを滅ぼされます。また、人々が自らの上に破壊的な災いをもたらすことによって蓄えてきた富を滅ぼされます。バビロンからいま離れることによってその災いを免れるように、神は強く勧めておられます。

3. はれもの(9:8ー12)

これと対応するのが黙示録16:2の「ひどい悪性のできもの」です。この災いは獣の刻印を持つ人々とその像を拝む人々の上に下っています。この災害は所有物ばかりでなく、初めて人間を直撃しています。ー「うみの出るはれものとなった」(出エジプト記9:10)

三番目の三つの災害(出エジプト9:13ー10:29)

この最後の3つの災いにおいて、モーセは再びつえを用いることによってエジプトに災害を下らせています。これらの三つの天罰は自然そのものによるだけあって非常に恐ろしいものになっています。

1. 雹(9:13ー35)

31、32節には、この時期にどんな作物が生育していたかが記録されています。このことから考えると、この災害が下ったのは晩冬の一月末か二月初めだったことになります。それは出エジプトの二、三ヶ月前に当たります。

質問6

神はどれほどはっきりした警告をパロに与えておられましたか。何が論点になっていましたか。出エジプト記9:14ー19

2. いなご(10:1ー20)

ふつうエジプトにいなごが出現するのは二月か三月の初めです。いなごは現在でもこの地方で深刻な問題を起こしています。モーセの警告を聞いたパロの家来たちは、イスラエルを去らせるように王に強く求めました。「エジプトが滅びてしまうことに、まだ気づかれないのですか」と彼らは言っています(7節)。

3. くらやみ(10:21ー29)

くらやみは三日に及んでいるので、それは日食のせいではありません。多くの注解者は,この時期(四月)に「エル・ハムシン」と呼ばれる暑い南風が、ときには五十日にもわたってエジプトを悩ませることがあるという事実を指摘しています。それ以上にひどいのは「サマム」と呼ばれる熱風で、これは一回に十五秒か二十秒くらいしか続きませんが、ちりの雲を運んできて太陽の光をさえぎってしまいます。「そのくらやみは、さわれるほどである」という表現は(21節)、このような風によって運ばれたちりの雲を連想させます。この災害に関して、エレン・ホワイトは次のように述べています。「空気もまた息がつまるようであったので、呼吸するのも困難であった」(『人類のあけぼの』上巻312ページ)。神は風を用いて暗やみを送られたのでしょう。しかし、この暗やみは次の三つの点において超自然的なものでした。(1)それは長期間つづいた。(2)それは非常に激しいものであった。(3)それはモーセの言葉によって始まった。もしそれが超自然的なものでなかったなら、エジプト人に影響を与えることはなかったでしょう。

この奇跡的な暗やみは、エジプト人の主神であった太陽神ラーに真っ向から対抗するものでした。エジプトの王はみな、自分自身を「ラーの子」とみなしていました。太陽神の大敗によって、パロは最後の譲歩をし、女と子供は男たちと共に行って神に犠牲をささげてもよいが、家畜は残していかなければならない、と言います。モーセがこの提案を拒むと、パロは激怒して、「わたしの所から去りなさい。心してわたしの顔は二度と兄てはならない」と警告しました(28節)

まとめ

エジプトを襲った恐るべき災害は復讐心に燃える神による一方的な刑罰ではありませんでした。それはエジプトのイスラエル人に対する扱いとパロの神に対する不従順から来る必然的な結果でした。終わりの七つの災害も、世界的な背信と罪に対する執着の結果として悔い改めない世に注がれるのです。

*本記事は、安息日学校ガイド1998年1期『約束の地をめざして』からの抜粋です。

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