中心思想
イスラエルの最も重要な祭りである過越は、奴隷からのと解放と小羊の死による初子の救いを記念するものでした。この年ごとの祭りは、イエスが過越の犠牲となって私たちをあがなってくださるその時をさし示していました。
序言
自由な民となってエジプトを出るほぼ一年前まで、イスラエルはその救いが近いということをはっきりと示されていませんでした。彼らは長いあいだパロの奴隷となって、解放されるという望みのないまま厳しい迫害のもとで仕えてきました。しかし、短い期間ですが、神のさばきがエジプト人に下りました。彼らは今、自由の身となって、約束の地をめざして旅立ちます。(実際にそこに入るのは40年以上も後のことになりますが)
モーセは死ぬ直前、自分たちを解放してくださった神のすばらしい導きを回顧して、民にこう語っています。「主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである」(申命記7:7, 8)。
神がイスラエルを救われたのは、彼らにそれだけの力があったからではありません。事実、彼らは何度も神の愛に背いています。神はただ恵みによって彼らを救われたのです。神は彼らを愛し、彼らにあわれみを約束されました。
神はこれと全く同じ理由から私たちを救ってくださいました。私たちは神の恵みにあずかる資格がありません。私たちは神の愛と罪からの救いを受ける価値のないものです。私たちが背いたにもかかわらず、神は私たちを愛し、御子を過越の小羊としてつかわしてくださいました。そして,御子は私たちに代わって死んでくださいました。私たちは神の、はかりしれない恵みによってサタンと罪から解放され、約束の地へ導いていただいたのです。
パロへの警告(出エジプト11:1ー10)]
九つの恐ろしい災害のもとでも、パロはかたくなに神のみこころに抵抗しました。国土は荒廃していましたが、彼はなお降伏することを拒否しました。やがて最も恐ろしい災いが注がれようとしていました。
質問1
この十番目の災害はエジプト王がとった過去のどんな行為と関連がありますか。これはどんな霊的原則を描写していますか。出エジプト記1:15,16、ガラテヤ6:7
パロはかつて、すべてのへブルの男の子を殺せと命じていました。彼は今、自分自身の初子が死ぬことによってその残虐行為の災を刈り取ることになるのでした。それくらいの思い切った手段をとらないかぎり、彼は決して神のみこころに従わなかったでしょう。パロは神に反抗し続けることによって、 主の保護を失っていました。神のあわれみを拒む罪人は自らの選択の必然的な結果を受け入れなければなりません。神はあらかじめモーセを通して、反抗し続けることの恐ろしい結果について警告しておられました。
質問2
この最後の災害はイスラエルと神とのあいだのどんな特別な関係について教えていましたか。出エジプト4:22,23
「イスラエルの解放を叫ぶ要求が、はじめてエジプト王に示されたとき、最も恐ろしい災いの警告が与えられた。モーセは、 パロに次のように言うように命令された。「主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。もし彼を去らせるのを拒むならば、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺すであろう』(出エジプト記4:22,23)」(『人類のあけぼの』上巻314 ぺージ)。
質問3
神がパロに最終的に服従の機会をお与えになったとき,パロはどんな態度を示しましたか。出エジプト記10:28,29
パロは罪を重ねることによってその恵みを台無しにしました。彼のためにできることはもう何もありませんでした。神は今、ご自分の民を奴隷から解放されるのでした。
同様に、終末が近づくと、神は罪人に悔い改めを促されますが、大部分の者はかたくなに心を閉ざし、その生活から聖霊を閉め出してしまいます。恩恵期間が閉ざされるとき、神は直ちにご自分の民をその束縛から解放されるでしょう。
イスラエルへの警告(出エジプト記12:1ー28)
出エジプトは新しい国民としてのイスラエルの出発点でしたので,神はその解放の月(アビブ,のちにニサン)を聖なる年の始まりとするように命じられました。毎年この月に、年ごとの祭り・安息日のなかで最初にして最も重要な過越が祝われることになりました。過越は記念祭であり、同時に予型でもありました。それはエジプトからの奇跡的な救出を記念するとともに、過越の小羊イエス・キリストによってなされる罪からの救いをさし示すものでした。
イスラエルの解放のときが来ました。彼らの準備には霊的な面と肉体的な面が含まれていたことに注意してください。彼らは過越の小羊を用意し、その血を門柱につけなければなりませんでした。これは神の救いを霊的に受け入れることの象徴でした。彼らはまた手につえを取り、すぐに出る備えをしている必要がありました。終末時代にあって主の出現を待ち望む私たちも、永遠に備えて霊的・肉体的準備をしている必要があります。
イスラエル人は過越の象徴的意味を完全には理解できなかったでしょう。神の小羊についての、また救いの計画におけるその役割についての啓示は漸進的なものでした。
過去の小羊の象徴はキリストにおいて成就しました。
- 出エジプト記12:3ー ヨハネ1:29、イザヤ53:7
- 出エジプト記12:5ー1ペテロ1:18,19
- 出エジプト記12:6ーマタイ27:46ー50
- 出エジプト記12:7ー1ペテロ1:2
- 出エジプト記12:10ーヨハネ19:31
- 出エジプト記12:46ーヨハネ19:36
エレン・ホワイトは「人類のあけぼの』上巻318ー322ページにおいて、過越が教える教訓として次のような事がらをあげています。
1.血を塗るために用いられたヒソプは清めの象徴でした。
2.小羊はほふるだけでなく、食べなければなりませんでした。同じように、神の民はイエスのゆるしを信じるだけでなく、そのみことばによって絶えず養われる必要があります。
3.小羊にそなえて食べた苦菜は罪に対する神の民の悲しみを表していました。
4.過越のあいだパン種を除くことは罪を除くことを表していました。
5. イスラエル人は小羊の血を門柱に塗ることによってその信仰を示しました。同じように、イエスの血に対する信仰によって救われた私たちは自分のわざによって信仰をあらわします。
イスラエルの解放(出エジプト記12:29ー42)
真夜中に、滅ぼす天使は神が警告されたことを実行しましたー悔い改めていないエジプト人の初子、およびその家畜の初子はみな滅ぼされました。エジプトの災害のうちで最も恐ろしいこの災害はエジプトの神々に対する攻撃において最高潮に達しました(出エジプト記12:12参照)。パロは神とみなされていました。同様に、王位を継承するその長子も神聖視されていたことでしょう。エジプト人は聖なる牛アピス、聖なる雄羊、雌牛、蛇、ワニ、猫などの動物を崇拝していました。自分自身を、またその崇拝者たちを守ることのできないこれらの動物の初子も滅ぼされました。
解説
「滅ぼす天使がエジプトを行き巡り、血によって守られていないすべての初子のひたいを打ったのと全く同様に、よみがえりのともなわない第二の死はキリストの血によって罪から清められていないすべての者に臨むのである」(ステファン.N・ハスケル『十字架とその影』95ページ)。
イスラエル人がエジプトを去るとき,「多くの入り混じった群衆」も一緒でした(出エジプト記12:38)。これは真の神をあがめるようになったエジプト人たちでした。彼らの中には明らかに、災害から逃れようと思った人々、混乱にまぎれて逃亡しようとした奴隷や捕虜、さらにはただこの出来事に興奮して加わった人々などがいたことでしょう。旅の途中でイスラエルを悩まし、彼らの心を神から引き離そうとしたのはこれらの群衆でした。
制定された記念祭(出エジプト記12:43 ー13:16)
過越についての教えは一時的なものではないことを、神はイスラエルに教えておられます。この祭りは、過越の小羊であるイエスこ自身がおいでになって、その象徴的意味を成就し、かつ、より深い意味を教える新しい儀式が定められるときまで大切に続けられるのでした。
質問4
過越はどれほど広範囲に及ぶものでしたか。それはイスラエル人のためだけのものでしたか。出エジプト記12:43,44,48,49
解説
「外国人は過越の祭りに参加することができなかった。しかし、昔のレビの儀式にはいくつかの規定があって、外国人であっても一定の形式・儀式を守るならば,イスラエル人となって、過越に参加することができた。罪は人間を神の子らに約束された祝福から除外する。しかし、罪に対するいやしがある。……『もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる』〔1ヨハネ2:1〕」(ステファン.N・ハスケル『十字架とその影』99ページ)。
質問5
イエスはその死の直前、過越に代わるどんな儀式を制定されましたか。マタイ26:1ー29
解説
「キリストは、二つの制度とその二大儀式の転換期に立っておられた。神のきずなき小羊であられるキリストは、罪祭としてご自分をささげようとしておられた。こうしてキリストは、四千年の間キリストの死をさし示してきた型と儀式の制度に終止符をうたれるのであった。弟子たちと過越の食事をされたとき、主は、過越節の代わりに,主の大いなる犠牲の記念となる式をお定めになった。ユダヤ人の国民的祭典は永久に過ぎ去るのであった。そしてキリストがお定めになった式が、どの国どの時代においても弟子たちによって守られるのであった」(『各時代の希望」下巻130, 131ページ)
質問6
聖さん式は今日の私たちにとってどんな二重の意味を持っていますか。1コリント11:23ー26
過越がそうであったように,聖さん式も過去と未来をさし示しています。それは十字架における神の小羊イエスの死を象徴すると同時に、ご自分の民に最終的な自由を与えるためのイエスの再臨をさし示しています。小羊イエスは十字架においてサタンを打ち破り,勝利を確定されました(へブル2:14,15参照)。しかし、そこで勝ちとられた自由もイエスが栄光のうちにおいでになるまでは完全に実現することはありません。
主は過越というよく知られた象徴を選び、それに新しい意味をお与えになりました。彼は過越を、過越の小羊イエスによる救いのわざを記念する新しい儀式に変えられました。その夜、弟子たちはイエスの言葉を完全に理解することはできませんでしたが、のちにはその意味を理解するようになります。
質問7
「わたしの肉を食べ, わたしの血を飲む者には, 永遠の命があり」というイエスの言葉は何を意味するのでしょうか(ヨハネ6:54)。
この象徴は聖さん式に参加することを意味します。私たちは聖さん式にあずかることによってイエスの死を自分自身のものとして受ける決意を再確認するのです。私たちが食べたパンとぶどう液が文字通りからだの一部となるように、それらが象徴するイエスのからだと血が霊的に、私たちの生命の一部となるのです。
ヨハネによる福音書第15章で、イエスはこの真理を別のたとえによって教えておられます。「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木とつながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ災を結ぶことができない。……人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる」(4,6節)。私たちはキリストによってのみ、いのちを持つのです。彼のいのちを自分自身のものとする、つまり信仰によって彼につながることによって、私たちは永遠のいのちにあずかるのです。
質問8
私たちは過越の小羊であるキリストとどのような関係に入るべきであると、パウロは教えていますか。1コリント5:6ー8
過越の前にはユダヤのすべての家庭からパン種が除かれました。この儀式の前夜になると、一家の父親はろうそくをともしてパン種が少しでも残っていないか捜すふりをしました。それから彼は次のように唱えました。「私のうちから取り除かれないまま残っているパン種はすべて、地のちりのようにむなしくなれ」。パウロがここで述べているのはこの習慣のことです。「古いパン種を取り除きなさい。……ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか」(1コリント5 : 7, 8 ) 。
瞑想 1コリント11:23ー30。
「救い主が一週の六日目の金曜日に十字架につけられたのは偶然ではなかった。神は何世紀にもわたって,過越の翌日、つまりアビブの月の第十五日を儀式的な安息日として守るように定めておられた。それは、真の過越であるキリストが安息日の前日にささげられる事実を予表していた。過越の小羊であるキリストは二つの夕のあいだつまりその日の午後三時にほふられた。大いなる実体の小羊であるキリストは天と地のあいだで罪深い人間のための供え物となって、午後三時頃、『すべてが終わった』と叫び、ご自分のいのちを罪のための供え物としてささげられたのである。このとき祭司たちは神殿の中で小羊をほふる準備をしていたが、彼らはその働きを阻止された。すべての自然が神の御子の苦痛の叫びに応答した。地が揺り動き,目に見えない手が神殿の幕を真っ二つに引き裂いた。それは,予型が実体によって満たされたことの明白なしるしであった。影はその実体によって満たされた。人間はもはや動物のささげ物によって神に近づくのではなく、はばかることなく恵みの座に来て、『われらの過越キリスト』の尊い御名においてその願いをささげることができるのである」(ステファン・N・ハスケル「十字架とその影」97,98ページ)。
まとめ
私たちの過越であるキリストは私たちのための犠牲となって、私たちを解放してくださいました。十字架上で勝ちとられた勝利は、イエスが私たちを天のカナンに導くために来られるときに完全に私たちのものとなります。それまで、私たちは彼にあって自由に生き、信仰をもって天を待ち望むのである。
*本記事は、安息日学校ガイド1998年1期『約束の地をめざして』からの抜粋です。