【出エジプト記・民数記】紅海における危機【解説】#5

目次

中心思想

神の民が自分の努力に頼ることをやめ、全的に神に信頼するとき、神は彼らを救ってくださいます。

序言

人間が学ばなければならない教訓のなかで最も困難な教訓は、たぶん全的に神に信頼するということでしょう。人間は生まれながらにして自分の力に頼ろうとする傾向を持っています。幼い子供でさえすぐに親に頼らないで何事でも自分でやろうとします。ある程度までは、そうした欲求も正常で健全なものです。子供たちが責任感を持つことは必要なことです。しかし、神との関係においてすべてのことを自分の力でやろうとすることは非常に危険です。神は私たちに分相応の責任を取ることを期待されますが、「わたしから離れては,あなたがたは何一つできない」ということもご存じです(ヨハネ15:5)。これは肉体的にも霊的にも真実です。

神はイスラエルをエジプトから導き出すとすぐに、彼らを計画的に困難な状況に置かれました。彼らの前方は海で、後方はエジプト軍で、両側は山で阻まれていました。イスラエルは最初から、(敵からの、欠乏からの、また罪からの)救いが自己依存からでなく神から来ることを学ばなければなりませんでした。この教訓は当時と同じく今日も必要なものです。神の民が世の終末時代の混乱した状況に近づくにつれて、それはいっそう不可欠なものとなるでしょう。彼らは危機のときに全的に神に信頼する必要があります。

「紅海渡渉(としょう)は宗教的に見ても文学的に見ても,聖書のなかで最もすばらしい物語の一つである。エジプト人の滅亡は巧みに描写されている。イスラエルにとって、それは国家的にも霊的にもきわめて重要な出来事であった。カルバリーであがなわれた教会にとってはそれはあらゆる敵に対する最終的な勝利を予告するものであった。この出来事は聖書のほかの箇所でもしばしは言及されている(ヨシュア記24:6ー8,ネヘミヤ記9:11,詩篇66:6,へブル11:29)(W・H・ギスペン『出エジプト記』135ページ)。

神の導き(出エジプト記13:17ー14:4)

イスラエルがエジプトを出るとすぐに、神は進むべき道を示されました。神は最初のうちはモーセに直接指示を与えて彼らを導かれました(出エジプト記14:1,2参照)。それからしばらくすると、こんどは雲の柱によって彼らを導かれました(出エジプト記13 : 21,22参照)。

エジプトを出て東に行くには三つのルートがありました。「ペリシテびとの国」(13:17)を通過する最も北寄りの行路は、カナンへの最短にして最も直線的なルートでした。その距離はおよそ160マイル(257キロ)でした。第二の、「シユルの道」(創世記16: 7)は広い砂漠を横断する中央のルートでした。第三の、「紅海に沿う荒野の道」(出エジプト記13:18)は、カナンとは逆に南に下るルートでした。神がイスラエルを導かれたのはこの最後の道でした。一つの理由は、彼らが北の好戦的なペリシテ人と戦う用意ができていなかったことと、もう一つの理由は、神が紅海のそばで彼らに信頼という教訓を教えようとしておられたからです。

質問1
パウロはイスラエルを導いた「雲の柱」(出エジプト記13:21)について、どんな興味深い見方をしていますか。1コリント10:1ー4

「昔の車隊ではしばしば、道なき荒地を通って軍隊を進軍させるために煙や火の信号が用いられた。しかしながらイスラエルの雲と火の柱は、 通常の方法でつくられたものではなく、キリストの臨在の奇跡的な現れであった」( 「S D A 聖書注解』第1 巻 5 6 2 ページ) 。

イスラエル人を約束の地に導いた雲の柱についての歴史的記録が最後に出てくるのは、民数記16:42においてです。放浪の旅のあいだ、昼は雲の柱が彼らを導き、夜は火の柱が彼らを守りました(民数記9:15-23参照)。民が神に背いたときでさえ、雲の柱は共にあって彼らを導きました。

イスラエルが行進を始めると同時に、神はモーセに対して、南に方向を変え、海を左手に見て進むように命令されました(出エジプト14:1,2参照)。これは民にとっては理解に苦しむ行動だったでしょう。まっすぐ進んでいれば五、六日でカナンに到着することができたのに、神はあえてその道を変更されました。彼らはやがて危険な立場に身を置くことになります。一 「ミグドル〔国境の要さいとつながった塔〕と海との間に」宿営したからです(出エジプト記14:2)。南側は山でさえぎられています。自分自身の知恵に従っていたなら、彼らは決してこのルートを選ばなかったでしょう。神はより大きな祝福のために、私たちを困難と思われる道に導かれることがしばしばあります。イスラエルがそうであったように、私たちによって唯一の安全な道は、たとえその理由がわからなくても、神の導きに従うことです。(箴言14:12、イザヤ30:21参照)

イスラエルが奇妙な、遠回りの道を選んだのは、パロに彼らが道に迷って混乱していると思わせるためでしたー「彼らはその地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった」(出エジプト14:3)。彼らはパロの計略にはまってそこに着いたように見えるかもしれませんが、それは実は神の導きに従った結果でした。神は彼らにご自分の守りに信頼することを教えようとされたのです。

パロの追跡(出エジプト記14:5ー9)

変わることのない反逆心をあらわにしてパロは、かつて奴隷であったイスラエル人が混乱と苦境におちいっているのを見て、戦車と歩兵を集め、イスラエル人を処罰し、奪還するために出発します。ヨセフスは,エジプト車は騎兵五万と歩兵20万であったと言っています。この数字は誇張されたものであったかもしれません。いずれにしてもエジプト軍は、 数の上では自分たちよりもずっと多くても、訓練されておらず、しかも戦いを好まないヘブル人など問題ではないと考えたことでしょう。

質問2 
私たちは今日、イスラエルが紅海で経験したようなどんな危険に直面していますか。将来、どんなことが起こるでしょうか。1ペテロ5:8

罪の束縛から解放され、キリストにある自由な生活を始めた人たちを、サタンは追跡します。パロと同様に、サタンは容易にはその捕虜を解放しませんし、激しく戦うことなく敗北を認めることもありません。彼は誘惑し、疑わせ、失望させることによって私たちに忍び寄ってきます。絶望と思われる状況に立たされたときの唯一の頼みの綱は、「かたく立って,主が……なされる救を見」ることです(出エジプト記14:13)。

世の終わりのときが近づくと、サタンは悪人を用いて神の民を追い回し、そのいのちを奪おうとします。

神の励まし(出エジプト記14:10ー18)

高尚な霊的経験のあとに失意が訪れることがよくあります。これはある意味で強い興奮に対する反作用とも言えるものですが、同時に神に対する私たちの信頼を失わせようとするサタンの働きである場合もあります。

エジプト脱出後のイスラエルも、これと同じ経験をしています。「奴隷から解放された初めの喜びはうすれていた。砂漠、山、海の恐怖、それに軟弱な砂と転がる石の上を長期間進んできたことからくる疲労、飢え、渇きのゆえに、エジプトの家と奴隷の生活さえ今は魅力的なものに思えた。これは先祖に約束された地にいたる道ではない。これ以上この方向に進んで行くことは不可能である。自由の三日間は奴隷の家でのすべての苦難よりも悪かった」( ダニエル・マーチ『聖書の夜景』1 3 0 ページ) 。

砂煙をあげて近づいてくる敵の軍勢を見たとき、イスラエル人の失望は恐怖に変わりました。南は山で、東は海でさえぎられ、そして自分たちの進んできた北の方からはパロの戦車と騎兵が押し寄せてきていました。四方を困難と危険でとりまかれた彼らには、一つの方向(上)しか残されていませんでした。神に助けを求める以外に道はありませんでした。

質問3 
非常事態のなかで民はどうしましたか。出エジプト記14:10―12

彼らの祈りは信仰からではなく恐怖から出たものでした。荒野放浪期に見られた彼らのつぶやきはこのときから始まりました。民はあたかもモーセがその不幸の元凶であるかのように彼を責めました。彼らはエジプトの奴隷であったほうが良かったと言いました。

質問4
信仰の危機を乗り越えられることができるか否かは何によって決まりますか。マタイ7:24ー27

「夏には常緑樹とほかの木々との間に著しい違いがないが、冬のこがらしが吹く時になると、常緑樹は変わらないが、ほかの木々は葉が落ちて裸になる」(「各時代の大争闘』下巻369 , 370ページ)。人生の危機に対する備えをしておくのは今です。私たちは霊的成長のための機会を日ごとに生かすべきです。イエスは私たちの力です。私たちはイエスに日ごとに自分のうちに生きていただき、将来に対する備えをしていただく必要があります。

神がイスラエル人をその旅の初めに紅海の危機に会わせられたのは、彼らに神に頼ることを教えるためでした。彼らは紅海において全く絶望的な状況に立たされました。どんな人間的努力も彼らを救うことができませんでした。終木時代の神の民も彼らを滅ぼそうとする悪の勢力に対して同じく絶望的な状況に置かれるでしょう。神が救いのわざを開始される前に、へブル人は自分たちの無力さを認識する必要がありました。そうすることによって初めて、彼らは神に完全に信頼することができるのでした。

質問5
ろうばいした民の非難に対して、モーセはなんと答えましたか。出エジプト記14:13,14

これは、イスラエル人がその危機に際して何もしなくてよかったということを意味するものではありません。それは、彼らをパロの手から救うことができるのは神だけであったという事実を強調しています。信仰をもって前進していくときに、これは彼らの勇気のみなもととなるのでした。雲の柱が彼らをここに導いていたからこそ彼らは神の導きのうちに安心して休むことができたのです。

跡の渡渉(としょう) (出エジプト記14:19―22)

雲は威厳をもってイスラエルの民の後方に移動し、彼らをエジプト軍からさえぎりました。エジプト軍から見れば暗黒の雲でしたがへブル人にとっては光でした。暗く、渦巻く霧がエジプト人の方向感覚を狂わせたので、彼らは追跡を続けることができませんでした。

災害において神がエジプト人を滅ぼすために用いられたつえが、こんどは神の命令によってイスラエルに救いをもたらすために用いられました。激しい風によって分けられた海の水は、両側に壁のようにそそり立ちました。また、その風によって海底が乾き、通行が楽になりました。絶望的な状況にあって、神は逃れる道を備えてくださいました。

質問6
パウロはこの出来事を引用して罪の力についてどんなことを教えていますか。1コリント10:13

解説

「クリスチャンの生涯は、しばしば危険にさらされ、義務を果たすことが困難に思われる。……それにもかかわらず、神のみ声は明らかに『前進せよ』と語っている。われわれの目が、暗黒を貫いて見ることができなくても、また、冷たい波を足もとに感じても、われわれはこの命令に従わなくてはならない。……すべての不安のかげが消えうせ、失敗や敗北の危険が全くなくなるまで服従をのばすものは、絶対に服従することはない」(「人類のあけぼの』上巻334ページ)

神の救い(出エジプト記14:23―31)

イスラエル人が対岸に着いたときには、夜が明けていました。イスラエル人を追って海に入ったエジプト人は最初、雲に行く手をはばまれて、イスラエル人を見失ったことでしょう。しかし状況が明らかになると、彼らはなおもイスラエル人を追跡します。神が彼らの戦車を軟らかくなった海底のぬかるみにはまらせられたので、彼らは混乱におちいります。詩篇77:16―20には、雷と稲妻をともなった激しい嵐が地をゆるがしたと記されています。

恐ろしくなったエジプト人は危険から逃れようとします。彼らがまたイスラエルの全能の神と戦っていることに気づいたときはすでに遅すぎました。モーセがつえを差し伸べると、水はもとの所に戻り、エジプトの全軍をのみ込んでしまいました。

紅海での歌(出エジプ卜記15:1―21)

生々しい描写をもったこの詩的な賛歌は、イスラエル人がこのとき経験した恐怖、勝利、感謝、救出の気持ちを如実に表現しています。それは民族の勝利をうたった歌のなかでも最も古いものの一つです。

質問7
ヨハネはこの歌を用いて、終末における神の民の経験をどのように描写していますか。彼はどんなことをつけ加えていますか。黙示録15:2―4

解説

「この歌と、この歌が記念する大いなる解放は、へブル人の心にいつまでも消えない印象を与えた。この歌は、代々にわたりイスラエルの預言者や歌人たちによってくり返し歌われ、主は、彼によりたのむ者の力であり、救いであることをあかしされた。この歌は、ユダヤ民族だけのものではない。それは表の敵がすべて滅び神のイスラエルが最後に勝利をおさめる未来をさし示している。パトモスの預言者は、白い衣をまとった多くの人々が敵に『うち勝』ち『神の立琴を手にして』、『火のまじったガラスの海』のそばに立っているのを見た。『彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌っ』た(黙示録15:2、3)」(「人類のあけぼの』上巻332ページ)。

「それは、モーセと小羊の歌、すなわち、救いの歌である。十四万四千のほかは、だれもその歌を学ぶことができない。なぜなら、それは彼らの体験 ―他のどの群れもしたことのない体験 ― の歌だからである」(「各時代の大争闘』下巻430ページ)。

神の恵みによって終末の苦難を耐え抜いた者たちは、昔のイスラエルのように対岸に立ってモーセの勝利の歌をうたうことでしょう。しかし、この歌は小羊の歌でもあります。なぜなら、神の小羊キリストが絶望的な状況にあって彼らを奇跡的に救出してくださるからです。

まとめ

今回は、イスラエルの歴史における神の最も目ざましい救いの一つについて学びました。現代の私たちには火と雲の柱による導きは与えられていませんが、その代わりに聖霊による神の臨在を与えられています。紅海におけるエジプト車の出現は、いちどはその手から解放された占い敵がふたたび私たちを支配しようとするときに経験する試練のときを思い起こさせます。しかし、私たちが神に全面的に信頼するとき、神は必ず逃れの道を備えてくださいます。

*本記事は、安息日学校ガイド1998年1期『約束の地をめざして』からの抜粋です。

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