【出エジプト記・民数記】天からのパン【解説】#6

目次

中心思想

神は私たちの必要を満たしてくださいますが、私たちの欲求は必ず満たしてくださるとは限りません。

序言

荒野でイスラエルに与えられた奇跡の食物についての記事を読むと、イエスの地上生涯における二つの出来事を思い出します。一つは奇跡によって自分自身のためにパンを備えるという荒野における誘惑(マタイ4:1-4、ルカ4:1-4)であり、もう一つは五つのパンと二匹の魚をもって五千人の人々(女と子供を含まない)に食べさせるという奇跡です(ヨハネ第6章)。イエスはこの二つの出来事をイスラエルに与えられたマナと結びつけておられます。荒野でサタンの最初の誘惑を退けたとき、イエスは申命記8:3の言葉を引用しておられます。それは、モーセが以前にマナを通してイスラエルに与えられた神の教えを要約するときに用いた言葉でした。イエスはまた五千人に食物を与えられたあとで、自分は天から下ってきたまことのマナーいのちのパンーであると言われました。今回は、このマナの奇跡と現代のクリスチャンの経験との関連を明らかにするために、これらの新約聖書の出来事についても学びます。

人間の魂は物質的な食物以上のものを渇望しています。もし自分のからだだけに食べさせて魂を飢えさせるなら、本当の意味で栄養を取っているとは言えません。魂のすべての機能は、霊的生命を力づけ、ささえ、神によって可能な完全さにまで成長させてくれる食物を必要とします。品性形成に役立つものはすべて、信仰 希望、愛、知識。そのほかあらゆる美徳を養うのに役立ちます。良心をより鋭敏(えいびん) にするのに役立つものはすべて、判断力を高め、きよい生活を送る力を魂に与え、魂を天国に入るのにふさわしいものとするのに役立ちます。

信仰のつまずき(出エジプト記16:1―10)

質問1
エジプトから持ってきた食糧が底をついたとき、イスラエル人は何と言いましたか。このことは私たちに何を教えていますか。出エジプト記16:1―3

わずか数週間前に紅海において神の驚くべき救いを見ていたにもかかわらず、将来の飢えが心に重くのしかかり、食糧の備えがないことを知ったとき、イスラエルの民は落胆しました。彼らはモーセに向かって(そして間接的に神に向かって)つぶやき始めます。「エジプトの地で……主の手にかかって死んでいたら良かった」(3節)という彼らの不平は、紅海においてつまずいたときに口にしたそれとほとんど同じものでした。

イスラエル人がこれほど早く神の力あるわざを忘れ、その愛と力を疑うということは信じがたいことのように思われるかもしれません。しかし、私たちも神から与えられた祝福をときどき忘れてはいないでしょうか。イスラエル人のつぶやきと同じく、私たちのつぶやきと信仰のつまずきは過去における神の導きを忘れることから来ます。

質問2
神はイスラエル人の不信仰にどのように応じられましたか。出エジプト記16:4、5

イスラエル人に対する神の思いやりと忍耐は注目に値するものでした。これは私たちの失敗に対しても言えることです。神はイスラエルの不信仰を責める代わりに、彼らが困難に直面したときにいつでも助けを与えられました。そうすることによって、神は彼らに神と指導者に信頼することを教えようとされたのです。

満たされた物的・霊的必要(出エジプト記16 : 11―30)

1. 天よりのパン(16:11―15)

聖書はマナを、露がかわいたあとに地に残る「薄いうろこのようなもの」(「霜(しも ) のような薄い鱗片(りんぺん) 」―新国際訳)と表現しています(14節)。それはまた、コエンドロの実のように白くて、「蜜を入れたせんべい」のような味、と描写されています(31節)。それは焼くことも煮ることもできました(23節参照)。詩篇78:25はそれを「天使のパン」と呼んでいます。

質問3
マナは私たちの物的必要に対する神の関心についてどんなことを教えていますか。マタイ6:31-33

神の民は天のカナンへの旅を続けるあいだにさまざまな困難に直面することでしょう。しかし神は、かつてイスラエル人のためになされたように、神の民の物的必要を確実に満たしてくださいます。私たちのパンと水は尽きることがありません。

神との日ごとの歩みのなかで、私たちは人生の必要を満たしてくださる神に信頼することができます。詩篇記者は言っています。「わたしは、むかし年若かつた時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が食物を請(こ) いあるくのを見たことがない」(詩篇37:25)。私たちはよく自分の物的必要を心配します。しかし、私たちの必要を知っておられる神はその必要を満たすと約束しておられます。

解説

「救い主はご自分に従う者たちにこの世のぜいたくを約束されなかった。彼らの食事は質素であり、また乏しいことさえあるかしれない。彼らは貧乏な境遇にとじこめられているかもしれない。だがキリストのみことばには、彼らの必要が満たされることが保証されており、キリストは、彼らに、この世のよいものよりもはるかによいもの、すなわちご自身の臨在といういつまでも続く慰めを約束しておられる」(「各時代の希望」中巻108ページ)。

イスラエルは四十年の間、天からのマナを食べました。彼らがカナンに入ったとき、「マナの降ることはやみ、イスラエルの人々は、もはやマナを獲なかった。その年はカナンの地の産物を食べた」(ヨシユア記5:12)。神は私たちの物的必要を満たすと約束しておられますが、ほかの手段が与えられている場合には奇跡をなされません。主は私たちに、日ごとの食物を求めるように勧めておられます(マタイ6:11参照)。

2.霊的な試み(16:16―21)

超自然的なマナの賜物が与えられたのは、イスラエルの物質的必要を満たすためだけではなく、彼らに神を敬い神に従うことを教えるためまた尊い霊的教訂||を与えるためでもありました(4節参照)。

質問4
神はマナにおいてどんな大切な霊的真理を啓示されましたか。ヨハネ6:31―59

「マナと供えのパンは、共に、われわれのために常に神の御前におられる生きたパンであられるキリストを示していた。キリストご自身「私は天から下ってきた生きたパンである」と仰せになった(ヨハネ6:48-51参照)」(「人類のあけぼの』上巻418ページ)。

質問5
サタンの荒野における救い主に対する第一の誘惑は何でしたか。イエスはそれをイスラエルに与えられたマナとどのように関連づけておられますか。ルカ4:1―4、申命記8:3

イエスは申命記8:3のモーセの言葉を引用することによって、石をパンに変えよというサタンの誘惑に抵抗しておられます。「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」。モーセによれば、これが神がマナによってイスラエルに教えようとされた教訓でした。

解説

「救い主は、ご自分がイスラエルにお教えになった教訓をいま実行された。……宇宙の注視の中で、イエスは神のみこころからすこしでも離れるよりは、どんな目にでも会う方がわざわいでないということを証明された。……この世において信加できる唯一のものは、神のみことばである。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう』(マタイ6:33)。

サタンとの最後の大争闘において、神に忠実な者は、この世の一切の支持がたたれるのを見る。彼らは地上の権力に従うために神の律法を破ろうとしないので、売ることも買うことも禁じられる。ついには、彼らを殺せとの布告が出される(黙示録13:11-17参照)。しかし忠実な者には、「このような人は高い所に住み、堅い岩はそのとりでとなり、そのバンは与えられ、その水は絶えることがない」との約束が与えられている(イザヤ書33:16)。この約束によって神の子らは生きるのである」(「各時代の希望』上巻132、133ページ)。

信仰は不可欠の要素です。食糧が乏しくなったときにへブル人がつぶやいたのは、信仰がなかったからです。イエスは荒野で誘惑に会われたときにも、信仰に満たされていました。彼は四十日間、食物がなくても、不平をこぼされませんでした。

質問6
イエスが奇跡によって五千人に食物を与えられたとき、人々は最初どんな反応を示しましたか。これはどんな霊的危険を示していましたか。ヨハネ6:14、15、26、27

私たちは「パンと魚」だけのためにイエスを求めることがあります。人々のイエスに対する関心が利己的で物質的なものであったということは、イエスがこの奇跡によって教えられた霊的真理を、彼らが喜んで受け入れようとしなかったことから明らかでした。イエスが富と名声に対する自分たちの世的な欲求を満たしてくれないということを知ったとき、彼らはイエスから身を引きました。私たちは自分がどんな動機からイエスに従おうとしているのか、また人々をどんな動機づけによってイエスに導こうとしているか、注意深く吟味してみる必要があります。

考察

イエスはヨハネ6:51で、「それを食べる者は、いつまでも能きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」、と言っておられますが、これは何を意味するのでしょうか。53-56節、35節と比較してください。

解説

「イエスの肉を食べ、その血を飲むということは、キリストを自分自身の救い主として受け入れ、キリストがわれわれの罪をゆるしてくださることと、彼のうちにあるときわれわれが完全であるということとを信じることである。キリストの愛を見つめ、これについて瞑想し、これを飲むことによって、われわれはキリストの性質にあずかる者となるのである。肉体にとって食物がなくてはならないように、魂にとって、キリストはなくてはならないものである。食物は、われわれがそれを食べて、それがわれわれの生命の一部となるのでなければ、何の役にもたたない。同様にキリストは、もしわれわれが彼を自分自身の救い主として知るのでなければ、われわれにとって何の価値もないのである。理論的な知識はわれわれに何の益も与えない。キリストのいのちがわれわれのいのちとなるためには、キリストを食べ、キリストを心に受け入れねばならない。キリストの愛、キリストの恵みを同化しなければならない」(『各時代の希望」中巻138ページ)。

質問7
神が、マナを集めることに関してイスラエルに与えられた命令から、私たちはどんな霊的教訓を得ることができますか。出エジプト記16:21

民は毎朝、マナを集めなければなりませんでした。翌日まで残ったものは(安息日を除いて)食べることができませんでした。私たちもイエスとの毎日の経験が必要です。毎朝、いのちのパンを食べ私たちのいのちとしなければなりません。一日のパンで二日もたせることはできません。

マナと安息日(16:22-30)

質問8 
イスラエルがカナンめざして旅を続けていたあいだ、安息日の神聖さを教えるために毎週、どんな三重の奇跡が起こりましたか。出エジプト記16:23―30

神は四十年のあいだ、つぎの方法によって安息日の神聖さを教えられました。(1)金曜日には普通の日の二倍、マナが降った。(2)安息日にはマナは全く降らなかった。(3)普通の日はだめだったが、金曜日から安息日にかけてはマナは腐らなかった。

へブル人はシナイで十戒を与えられる前から、安息日を知り、それを守っていました。安息日は創造の記念としてエデンで制定されたものでしたが、へブル人はエジプトにいるあいだにこの聖なる義務を忘れてしまっていました。ほかの真理に対しても、神の礼拝に対しても同じでした。彼らが荒野をさまよった目的の一つは、忘れていた真理に関して神から再教育を受けるためでした。

拒絶された賜物(民数記11:4―34)

飢えに直面したときに喜んでマナを受けたイスラエル人も、人間の弱さを反映して、やがて奇跡によって与えられた食物では満足できなくなり、エジプトで食べた食物がたべたいと不平をもらします(民数記11:4-6参照)。とりわけ彼らは肉を食べたがりました(18節)。

質問9
いろいろな食物を望むこと、エジプトでよく食べた食物を思い出し、それをほしがることは悪いことだったでしょうか。彼らの不満はどこに原因がありましたか。

第一に、神から与えられたすばらしい食物に不満を述べるということは、感謝の気持ちがないことの表れでした。それは神の導きに対する不信、疑い、不満の気持ちの表明でした。詩篇78:18-21に書かれているとおりです。

第2に、彼らはマナを拒むことによって、いのちのパンであるイエス・キリストを拒んでいたのです。もし神が備えてくださった救い主を拒んで、自分で良いと思うものに心を向けるなら、私たちも同じ過ちを犯すことになります。イザヤは言っています。「なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる」(イザヤ書55:2)。

無償で与えられた神の恵みの賜物を拒み、エジプトの食物を求めた者たちはその罪のために死にました。永遠のいのちを与えるために天から下ってこられたまことのパンであるイエスを拒む者たちも同じ運命をたどります。

まとめ

神はこれまで私たちの霊的・物的必要を豊かに満たしてくださいました。しかし、霊的なものが物的なものにまさるように、霊的な食物も物的な食物にまさります。来たるべき大争闘においても、神は私たちの霊的・物的必要を満たし、飢えや渇きのない約束の地に私たちを導いてくださいます。

*本記事は、安息日学校ガイド1998年1期『約束の地をめざして』からの抜粋です。

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