【出エジプト記・民数記】岩からの水【解説】#7

目次

中心思想

私たちのからだは水を必要とし、神はこの必要を満たしてくださいます。このことはいのちの水であるイエス・キリストに対する私たちの必要を例示しています。私たちの霊的渇きをいやすことができるのは神だけです。

序言

今回は、時間的にほぼ四十年はなれている2つの似通った出来事について学びます。1つは、イスラエルがエジプトを出てまもなく起こった出来事、もう1つは彼らの旅の岐後の行程において起こった出来事です。どちらも水の欠乏がその原因でした。イスラエル人は水がなくなったため、神と神によって立てられた指導者モーセに反逆的な態度をとります。最初のときに反逆した人たちは、神の超自然的な力によってエジプトの奴隷から解放された人たちでした。二番目のときに反逆した人たちは、エジプトを出たときまだ二十歳になっていなかった彼らの子供たち、途中で生まれた人たち、それに入り混じった群衆でした。彼らはみな小さいときから神の奇跡的な導きを目撃していました。荒野の行進と神の絶えざる守りしか覚えていない人もたくさんいました。神の摂理のしるしを目の当たりにしていながら、困難に会うと、親も子供も試練に耐えることができませんでした。問題や試練に会うときに神に信頼するのが困難と思っている人々にとって、彼らの経験は教訓になります。

水は堆命を維持するうえで欠かせないものです。それは神からくる祝福に対する魂の必要を象徴しています。神の祝福を受けなければ、霊的生命は干上がり、死んでしまいます。旧約聖書において、 水はよく霊的生命の象徴として用いられています(詩篇1:1-4、23:1-3、エレミヤ書2:13、イザヤ害55:1参照)。 十字架以後、私たちは生ける水としてのイエスをさらにはっきりと理解することができるようになりました。

レピデムでの争いと試み(出エジプト記17:1―7)

1. 民の反逆(17:1―3)

マナが初めてイスラエルに与えられたのは、エジプトを出て六週間目ぐらいの頃で、場所は「エリムとシナイとの間に.あるシンの荒野」においてでした(出エジプト記16:1参照)。彼らは「シンの荒野を出発し、旅路を重ねて」(出エジプト記17:1)、シナイに到着し、エジプトを出てから3カ月目に山の前に宿営しました(出エジプト記19:1、2参照)。これらの出来事はわずか数週間のうちに相次いで起こりました。出エジプト記17:1には、休息期間をはさんでシンの荒野からシナイヘと、宿営地から宿営地へと、ゆっくり旅を続ける群衆の光景が描かれています。

解説

「レピデムは草木の多い、シナイ半島でも最も美しい谷、ワディ・フェーラーンであった可能性が強い。それから、イスラエル人は決して干上がることのない川と多くの泉を持った谷の最も肥沃な場所に宿営したのであった。その川と泉とやしの木はたぶんアマレク人の支配下にあったのだろう。彼らはやがて出て来て、イスラエル人を攻撃する(出エジプト記17:8-16)。それでイスラエル人は泉を失い、谷のやせた場所に追いやられ、飲み水さえ手に入れることができなくなった」(W・ H・ギスペン「出エジプト記』164ページ)。

もしこの推測が正しければ、すぐ近くにありながら手に入れることのできない水にいらだったイスラエル人がモーセに対して激怒したとしても不思議ではありません。彼らはエジプトを出るのでなかったと言います。さらに、モーセはわざと自分たちを滅ぼそうとしているのだと非難します。激しい争いのためにモーセの生命は危険になりました。

質問1 
イスラエル人は実際にはだれに反逆していたのでしょうか。彼らの言葉はどんな心の思いを示していましたか。出エジプト記17:2、 7

解 説 

「人々は、のどのかわきのあまり、神を試みて、「主はわたしたちのうちにおられるかどうか』(出エジプト記17:7)「もし神がわたしたちをここにつれてこられたのだったら、なぜパンと|可じように水をお与えにならないのか』と言った。このような不信の表明は罪悪であって、モーセは神の刑罰が彼らの上にくだることを恐れた」(「人類のあけぼの』上巻346ページ)。

2. モーセの応答(17:4―7)

質問2 
この問題に対するモーセの対応から、私たちはどんな重要な教訓を学ぶことができますか。出エジプト記17:4

私たちは緊急事態におちいると、しばしば自分の技能、財力、能力に頼って、自分自身の力で問題を解決しようとします。神は私たちに神から与えられた判断力を用いるように期待されますが、私たちは神から離れて自分の判断に頼ってはなりません。

質問3
使徒パウロはイスラエルの必要と挑戦に対する神の応答の方法に関して、私たちにどんな霊的教訓を与えていますか。彼はクリスチャンについて何と言っていますか。1コリント10:14、11

解説

「清水をイスラエルのために流れ出させたのは、キリストが、ご自分のみことばによってなさったのである。……彼は、霊的祝福と同様に、すべての物質的祝福の源である。真の岩なるキリストは、彼らの放浪期間を通じて、彼らと共におられたのである。……打たれた岩は、キリストの型で、この象徴によって、最も尊い霊的真理が教えられた。打たれた岩から生命を与える水が流れ出たように、『神にたたかれ』『われわれのとがのために傷つけられれわれの不義のために砕かれた』キリストから、失われた人類のための救いの川が流れ出たのである(イザヤ書53:4、5)。岩が一度打たれたように、キリストも「多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた』のである(へブル9:28)」(「人類のあけぼの」下巻8、9ページ)。

モーセはこの奇跡が起こった場所をマッサ(争い)とメリバ(試み)と名づけました。人々がここで神と争い、神を試みようとしたからです。

神の民も天のカナンに向かう途中で、同じような困難な状況に立たされるでしょう。しかし神は、必要な時に水が奇跡的に与えられると約束しておられます(イザヤ書33:16参照)。

カデシでの争いと試み(民数記20:1―13)

イスラエル人はほぼ四十年後にカデシに着きます。レピデムで神を試みた二十歳以上の人々はこの頃までには荒野で死んでいました。彼らの子孫は今、ほとんどカナンの境界にまで来ていました。神は四十年にわたって彼らをマナで養い、必要なときには奇跡的に水を流れさせられました。彼らは自分たちの先祖が持つことのできなかった信仰と服従を身につけていたでしょうか。

1.民の反逆(20: 1ー5)

解説

「へブルの軍勢がカデシに到着する少し前に、宿営の外にわいていた泉の水が枯れた。……彼らは、すでに、カナンの山々の見えるところにきていた。彼らは、あと数日の行進で約束の国の境に着くことができた。……奇跡的な水の流出が止まったことは喜ぶべきことで、荒野の放浪が終わったしるしであった。……彼らは、しばらくの間、見るところによらず、信仰によって歩かなければならなかったのである。彼らは、この第一の試練にあって、父祖たちと同じ狂暴で忘恩の精神をあらわした」(「人類のあけぼの』下巻11-13ページ)。

質問4 
水がかれたとき、人々は何と言ってモーセを、ひいては神を非難しましたか。民数記20:2―5

人々は四十年前の父祖たちとほぼ同じようなことを言っています。イスラエル人はまたしても試練のもとで誘惑に負けてしまいました。

2. モーセの応答(20:6―13)

モーセは四十年前と同様に、今回の危機に際しても主の導きを求めています。

質問5
今度の神の命令は先のときとどこが異なっていますか。この違いにはどんな意味がありましたか。民数記20:8(出エジプト記17:5、6と比較)

この象徴の意味は明らかです。私たちの救いの岩であるイエスは一度だけ打たれることになっていました。彼は私たちに永遠のいのちを与えるために十字架の上で死なれました。彼を何回も十字架につけるようなことをすべきではありません。私たちは信仰をもって言葉を語るだけでよいのです。そうすれば、永遠のいのちの水は私たちのものとなります。

質問6 
イエスはどのようにこの真理を当時の人々にお語りになりましたか。それはいつのことで、どんな特別な意味を持っていましたか。ヨハネ7:37、38

仮庵の祭りはユダヤ人の三大宗教祭の一つでした。これは、彼らの先祖が四十年にわたるカナンへの旅のあいだ仮の、移動式の小屋に住んだことを記念するものでした。ユダヤ人の規定に従って、人々は祭りの八日間、屋上や通りや丘の中腹に木の枝やしゅろの葉で作られた仮小屋の中で生活しなければなりませんでした。仮小屋での生活は彼らの先祖のカナンへの旅を思い起こさせるものでした。仮小屋は太陽をさえぎってはならず、屋根も夜、星が見えるくらいに薄くふかなければなりませんでした。

祭りのあいだ毎日、神が特別に岩から水を出させてくださったことを記念する儀式が執り行われました。

解説

「人々は手にしゅろや柳の枝を持って神殿に集まり、それらの枝をもってついたてか屋根のようなものを造り、大きな祭壇の回りを行進した。同時に、1人の祭司が1リットルほど入る金の水差しを持ってシロアムの池に下り、それに水を入れた。それから水の門を通り、人々がイザヤ書12:3―『あなたがたは喜びをもつて、救の井戸から水をくむ』―を吟唱(ぎんしょう) するなかを元の場所に戻った。水は神殿に、そして祭壇に携え上られ、神へのささげ物としてそこに注がれた。……『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい』というイエスの言葉は、このことを背景としていた。イエスは、いわば次のように言われたのである。『あなたがたは肉体のかわきをいやす水のために神に感謝と賛美をささげている。もし魂のかわきをいやす水がほしいのならわたしのもとに来なさい』。イエスはこの劇的な瞬間を用いて人々の思いを神と永遠のものに対するかわきに向けようとしておられた」(ウィリアム・バークレイ「ヨハネによる幅音害』第1巻262ページ)。

質問7
ヤコブの井戸におけるサマリヤの女との対話のなかで、イエスはご自分の与える水の特徴について何と言っておられますか。ヨハネ4:13、14

解説

「イエスは、一杯のいのちの水を受けるだけで十分であるという意味のことは言われなかった。キリストの愛を味わう者はたえずもっと求める。だがそれ以外のものは何も求めない。彼には世の富も栄えも楽しみも、魅力がない。彼の心は「もっとあなたを』とたえず叫びつづける。魂に必要をお示しになるおかたが、その飢えとかわきを満たそうと待っておられる。……飲んでも飲んでも新しい水がいつでもわいている」(「各時代の希望』上巻221ページ)。

質問8
黙示録には、小羊に忠実な者とそうでない者とがどのように対照的に描かれていますか。黙示録21:6-黙示録14: 9、10、16:3-6比較)

終末における第二と第三の災害は海、川、流れを血に変えます。その理由が黙示録16:5、6では、聖徒たちの血を流した者たちに血を飲ませるためであると説明されています。第三天使は黙示録第14章で、神に対する背信の印を受けた者たちは神の怒りのぶどう酒を飲むと宣言しています。

これとは対照的に、小羊の血で自分の衣を洗う者たちは思いのままにいのちの水を飲むことができます(黙示録21:6参照)。ヨハネは天の約束の地、新エルサレムを次のように描写しています。「御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。…・・御霊も花嫁も共に言った、『きたりませ』。また、聞く者も「きたりませ』と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水が欲しい者は、価なしにそれを受けるがよい」(黙示録22:1、2、17)。

質問9
モーセが神の言われた通りに岩に命じなかったためにどんな結果になりましたか。民数記20: 12

ほんの一瞬、神に従わなかったために、モーセとアロンは私たちの救いの岩なるキリストに対して与えられた象徴的意味を無にしてしまいました。私たちは信仰の人モーセの犯したこの過ちをささいなことと考えるかも知れません。しかし、その罪を罰しないで放っておいたなら、彼のような卓越した指導者の罪は民の反逆を助長していたことでしょう。モーセはその言葉によって、水を出したのは自分だという印象を与えました。民は神よりもモーセに従おうとしていました。神はこの状態を正すために、モーセは民をカナンに導き入れることができないと宣言されたのでした。自分たちの旅を無事に導いてくださったのは神であるということを、彼らは理解する必要がありました。モーセに対する神のこの叱責は、生活のあらゆる面において神に従うことの大切さを教えています。

瞑想

「かわききった荒野にわき出て、荒れ果てた地に花を咲かせ、死にかけたものに生命を与えるために流れ出た新鮮な水は、キリストだけが与え得る神の恵みの象徴である。これは、命の水のように魂をきよめ、生きかえらせ、力づける。キリストが内住しておられる者のうちには、つきない恵みと力の泉がある。イエスは、真心から彼を求めるすべてのものの生活を楽しくし、その道を照らしてくださる。イエスの愛を心に受け入れるならば、それは、永遠の命に至るよいわざとなってわき出る。それは、泉がわき出た魂を祝福するばかりでなくて、その生きた水は、正しい言葉や行為となってわき出て、回りにいるかわいた人々をうるおすのである」(「人類のあけぼの』下巻10ページ)。

まとめ

現代の霊的イスラエルは決して尽きることのないいのちの水の泉を持っています。私たちの現在の、また永遠の魂の必要は、霊的な岩であるイエスによって満たされます。彼はかわいている者すべてに思いのままに飲むように招いておられます。

*本記事は、安息日学校ガイド1998年1期『約束の地をめざして』からの抜粋です。

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