【出エジプト記・民数記】カナン国境における不信【解説】#10

目次

中心思想 

イスラエルが約束の地を目前にして不信仰におちいったため、その時代の人々はだれひとり安息に入ることができませんでした。神は今日、私たちに安息―現世の霊的安息と来世の永遠の安息―を与えておられます。私たちはイスラエルと同じ選択―信仰か不信仰かーに直面しています。

序言

神はご自分の民をエジプトを出てから数か月のうちに約束の地に導く計画でした。聖書の記録に注意してください。イスラエルはエジプトを出て「三月目」にはシナイに到着していました(エジプト記19:1)。 彼らがそこに宿営しているあいだに律法が与えられ、聖所が造られました。聖所は解放後の二年目の初めに完成しています(出エジプト記40: 17参照)。 その後ほぼ二か月かかって、祭司の任命や過越の祝い、さまざまな規定が制定されています。「第二年の二月二十日に」は、聖所の上の雲が前に進み、シナイでの宿営が終わったことを告げます。その十一日後に(「人類のあけぼの」上巻463ページ参照)、群衆はカナンの南の境、パランの荒野にあるカデシに天幕を張っています。したがって、エジプトを出てからカナン国境に着くまでにほぼ十五か月もかかっていることになります。

エレン・ホワイトは1883年に次のように書いています。「もしアドベンチストが1844年の大失望後も信仰にかたく立ち、心を一つにして、道を切り開く神の摂理に従い続けていたなら、……彼らは神の救いを見、主は彼らの努力によって力強いわざをなし、働きは完成し、キリストはご自分の民に報いを与えるためにすでにおいでになっていたであろう。……キリストの来臨がこれほど遅くなることは、神のみこころではなかった。……四十年にわたって、不信仰、つぶやき、反逆が古代イスラエルをカナンの地から閉め出した。これと同じ罪のために、現代のイスラエルは天のカナンにまだ入ることができないでいる。どちらの場合も.神の約束が間違っていたのではない。私たちがこれほど長いあいだ罪と悲しみの世に閉じ込められているのは、主の民のうちに見られる不信仰、世俗心.献身の欠如、争いのせいである」(『セレクテッド・メッセージズ』第1巻68、69ページ)。

このことを念頭において(へブル4:1の言葉を読むとき、私たちはそこに新しい意味を発見することができます。「それだから。神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか」。

カナンの偵察(民数記13:1―25)

この危険で気を使う任務のためにパランの荒野、カデシで逆ばれた十二人の斥候は、四十日かけてカナンの地を500キロ近く歩き回りました。彼らは南端から北に向かってレバノン山脈のあいだの峠に登り.そこからダマスコの北のハマテの人口(21節)まで行きました。彼らの任務はカナンの土地とその住民を渦くること、そこに入る最良の道をさぐること、それを攻略するときに直面する問題と必要な準備を確かめることにありました。全員が一緒に行動すれば怪しまれるので、たぶんそうはしなかったことでしょう。

質問1
斥候たちはそこで何を見ましたか。民数記13:21-24

例話

彼らは棒をもってふさのぶどうの枝をかつぎましたが、これは一人で運ぶには重すぎたからではなく、ぶどうの実を傷つけないためでした。 1819年に、8.6キロの重さのぶどうのふさがロッキンガム侯爵に贈られたことがあります。それは32キロの趾離を4人の男たちによって、二人ずつ交替でかつがれてきました。記録によると、これまでで最も大きな黒ぶどうのふさは10キロちょっとの重さがあったそうです。斥候たちはまた、ざくろといちじくを持ち帰りました。

偵察結果の報告(民数記13:26―33、14:6―9)

1.多数派の報告(13:26-29、31-33)

質問2 
十二人の斥候のうちの十人はどんな報告をしましたか。民数記13:31―33

十人の斥候は自分たちの見たことをありのままに報告しました。カナンの地はまさに乳と蜜の流れる肥沃な地でした。彼らは敵の防御施設を見た通りに報告しています。このことは、カレブとヨシュアが彼らの説明に反論していないことからも明らかです。彼らはまたそこに住むさまざまな部族について説明しています。しかし、十人の斥候たちの結論には信仰が欠けていました。

失望は失望を生み、事実に対して目を閉ざさせます。斥候たちはカナンの地の豊かさを証言していました。そこから携えて来たぶどうなどの果物がその証拠でした。それなのに彼らは失望のあまり、その地はそこに住む者たちを養うことのできない地、「そこに住む者を滅ぼす地」であると主張しています。(民数記13 : 32)。 彼らの言うように、もしその地が「不毛の」地なら、そこには巨人のような人間が住んでいるという彼らの報告は前後矛盾することになります。

彼らが悲観的な見方をすればするほど、状況が困難に見え、最初いだいていた良い印象が薄れていきました。その結果、イスラエルの強い期待は失望に変わってしまいました。

解説

「イスラエルの人々は、大きな希望をいだいていた。そして、期待に胸をふくらませて待っていた。……人々は、……斥候たちがモーセに報告している言葉を一言も聞きもらすまいと、熱心に耳を傾けた。……人々は熱狂した。彼らは、主の声に心から従って、今すぐにも、その地を占領するために出かけようとした。……ここで事態は一変した。斥候たちがサタンにそそのかされて失望し、彼らの不信を口にしたとき、人々の希望と勇気は絶望に変わった。彼らの不信仰は、会衆の上に暗い影を投げ、選民のためにくり返し表わされた神の大きな力を忘れさせた」(「人類のあけぼの」上巻463―465ページ)。

2. 少数派の報告(13:30、14:6―9)

質問3
カレブとヨシュアの楽観的な報告は何にもとづいていましたか。民数記14:8、9

民数記13:30と13: 31のきわだった対照に注目してください。一方には信仰と勇気が見られますが、他方には不信仰と失望しか見られません。これらの態度は今日でも教会のなかに見られるものです。いつの時代にも、神の民の直面している困難な問題をとりたてて強調する人たちがいます。彼らは自分たちの兄弟姉妹の信仰を弱めることによって大きな害悪をもたらしているのです。

しかしまた、教会には次のように言う人たちがいることも事実です。「主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」。 「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」(民数記14: 9、13:30)

「信仰について語るようにしよう。そうすれば、信仰を持つようになる。決して神の働きに失望するようなことを考えてはならない。疑いの言葉を語ってはならない。それは語り手と聞き手の心にまかれた碗のように、失望と不信の実をもたらす」(『伝道』633ページ)。

明暗を分けた決定(民数記14: 1―5、 10―45)

1. 不信仰による反逆(14:1―5、10)

質問4
人々の反逆はどんなかたちで表されましたか。民数記14:1、 2、4、10

神は彼らにカナンにおける安息を約束しておられました。しかし、彼らは困難を見て、神に対する信仰を失いました。エジプトを出て以来、神は数々の奇跡を行い、また超自然な方法でその力をあらわすことによって彼らを守ってこられました。しかし.彼らは不信仰のゆえにこれらすべてのことを認めることができませんでした。

2. 不信仰に対する刑罰(14:11―38)

モーセはふたたび不従順なイスラエルのために執り成します。モーセは数か月前にもそうしたように、イスラエルから相続権を奪い、モーセを大いなる新しい国民の指導者にしようという神の提案を拒否します。もしそのようなことをすれば、神ご自身が不評を買うことになる、と主張することによって、モーセは神に抗議します。このような無我の執り成しは、明らかに神がモーセに期待しておられたものでした。神はモーセの嘆願に答えて、民をゆるされます。

質問5 
イスラエルをゆるされた神は、なぜ彼らが力ナンに入ることをお許しにならなかったのでしょうか。

ゆるしは必ずしも人間を罪の結果から免れさせてくれるとは限りません。「彼らがはいることのできなかったのは.不信仰のゆえである」(へブル3 : 19)。 彼らは不信仰のゆえに神の導きに積極的に従うことができませんでした。彼らはその後、神の命令にそむいてカナンを攻めていますが(民数記14 : 40―45)、 このことは彼らが依然として不信仰の問題を克服していなかったことを示しています。

質問6 
イスラエルに課された刑罰はどんな点において彼らの罪にふさわしいものでしたか。民数記14:2、3、28―34

罪とは基本的に、神の意思に反して自分の意思を通そうとすることです。罪の刑罰の大部分は罪そのものの結果です。罪人が自分の意忠を通そうとするとき、その決定の必然的な結果を身に受けるのです。「悔い改め」が自分の犯した罪を心から悔いる行為でなく、
自分の犯した罪の結果を免れようとする行為になっている場合がしばしばあります。(ガラテヤ6:7、8参照)

質問7
へブル4:1には、イスラエルの失敗にもとづくどんな警告がクリスチャンに与えられていますか。

へブル人への手紙第3章、第4竜には、イスラエルの失敗がクリスチャンの信仰を励ます材料として用いられています。この手紙の著者は、イスラエルが約束された安息に入ることができなかったこと。神が彼らの時代の人を一人も安息に入らせないと厳粛に誓われたことを記しています(へブル3 : 8-11)。

「へブル書の勧告はもともと、使徒時代のユダヤ人信者に与えられたものであった。……使徒時代の教会においては一般的に.主の約束された再臨は長く遅れることはないと信じられていた。……しかし、キリストが天に昇られてからすでに三十年以上が経過しており、……しかもキリストがすぐに来られるというしるしも全くなかった。当時、明らかに長く、意外に思われたこの遅れのために、信仰に迷いを感じた人々がいたであろう。『最後までしっかり』としなさいという勧告はたぶん、動揺を感じていたこの人々をとくに意識したものであっただろう。天の法廷におられる私たちの大祭司キリストの働きをはっきりと理解することは、彼らに『キリストにあずかる者』となる確信を与えるものであって(へブル3:14)、 彼らの信仰の確かな基礎となったことであろう。……イエスの再臨がたとえ遅れることがあっても、神の安息に今……信仰によって入ることは彼らの特権であった。使徒時代の教会に与えられたこの勧告はとくに今日の教会にふさわしいものである」( 「SDA聖書注解』第7巻416ページ)。

3.度重なる反逆(14:39―45)

質問8 
イスラエルは自分たちの不信仰に課せられた刑罰に対してどんな態度をとりましたか。民数記14:39、40、申命記1:41比較
私たちが神の御旨に逆らって自分の思いを通そうとしているかぎり、サタンは私たちが何をしようとも意に介しません。

イスラエルは完全に敗れ、悲しみのうちに荒野に戻って来ました。それは四十年にわたる放浪の始まりでした。信仰に富んだ少数派の人々の意見に従っていたならどんなによかったことでしょう。

まとめ

現代のイスラエルは不信仰のゆえに、神が意図された以上に長く罪の荒野にとどまっています。私たちは使徒の言葉に注意を払う必要があります。「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(へブル3:15)。 今日、二種類の報告がなされています。私たちは個人として、また教会として、不信仰の報告を信じるか信仰の報告を信じるかを決定しなければなりません。

*本記事は、安息日学校ガイド1998年1期『約束の地をめざして』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次