【出エジプト記・民数記】カナン途上での背信と懲罰【解説】#12

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中心思想

荒野におけると同様、クリスチャンの生涯においても、背信は矯正を必要とします。私たちが自分に招く災難は神に対する信仰と信頼の欠如からきています。しかし、もし私たちがそれらの困難を通して悔い改めと信仰の復興を学ぶなら、その結果は今までの苦しみを補ってあまりあるものとなるでしょう。

序言

今回の研究は、出エジプト記と民数記の年代的順序を一時的に離れます。背信とその結果という共通のテーマを持った五つの出来事を一括して扱うためです。これらの出来事のうちの二つは、シナイ山を出立してからカナン国境で信仰のつまづきを経験するまでのあいだに起こったものです。三つは荒野を放浪しているときに起こりました。それらはみな背信の結果としての懲罰を例示しています。イスラエルのたび重なる失敗と回復を通して、その歴史を特徴づけている浮き沈みの型を見ることができます。

懲罰は神の愛のしるしです。「主は愛する荷を訓練し、受け入れるすべての子を、むち打たれるのである」(へブル12:6)。 それはまた、神がわたしたちのうちに価値と希望を認めておられるしるしです。神が私たちを懲らしめられるうちは.神がなお私たちのうちに強い品性を発達させ、私たちをふたたび倒れることのないようにご自分にしっかりと結びつけるために働いておられるのです。

それからずっと後のことですが、神は粘上の器を造る陶器師の幻を通して、エレミヤにこの真理を教えておられます。陶器師の手にあった器に大きなひびが入り、それは役に立たなくなります。しかし、陶器師はその器を捨てる代わりに、もういちどそれをろくろにかけ、全く新しい器―主の家で用いられる器―に造り変えました(エレミヤ書18:1―6参照)。 背信は神でさえ元通りに戻すことのできない結果を招くことがあります。それは私たちを神の本来の目的に合わないものとします。しかし、もし私たちが懲罰を受け入れて、喜んで造り変えられるなら、陶器師である神はふたたび私たちを有用なものに造り変えてくださいます。

今回あつかう五つの事件に登場する人物はみな、堕落を越えて取り返しのつかない背信にまで進んでいます。これらの実例は私たちに悔い改めの必要性を教えています。懲罰によってさらに罪の深みに落ち込んでいくか、それとも罪を悔い改めるかは、私たちの決心ひとつにかかっています。

火によって焼かれる(レビ記10:1―11)

質問1
ナダブとアビフはどんな罪を犯しましたか。その原因は何でしたか。レビ10:1、9

アロンの上の二人の息子であるナダブとアヒフが聖なる務めを遂行するにあたって、なかば酒によっていたことは、9節に強く暗示されています(エレン・ホワイトもこのことを支持しています—『人類のあけぼの』上巻427ページ参照)。 彼らは酔っていたので数日前に神ご自身によって点火された祭壇の聖なる火を用いることを怠りました(レビ記9:24参照)。 彼らは神の明らかな命令にそむいて、料理用の火から取った普通の炭火を用いました。

彼らは父アロンや兄弟たちと共に、七日間の清めの日を経て、神によって幕屋の務めに召されたばかりでした(レビ記8章、9章参照)。 彼らは火が天から祭壇に下るのを見ていました。彼らは選ばれて、モーセと共に神を礼拝するためにシナイ山に登っていました(出エジプト記24:1参照)。 しかし彼らは、祭司として初めて聖なる務めに携わろうとしていたのに、事もあろうに酒に酔ってしまったのです。

質問2 
神はアロンに、自分の息子たちの死に対してどんな態度をとるように言われましたか(レビ記10: 6、7)。 それはなぜですか(3、10、11節)。

もしアロンが人間的な感情をあらわにすることを許していたなら、疑いもなく多くの人々が神に不平・不満をこぼし始め、多くの人の肉体的・霊的生命を失う結果になっていたかもしれません。罪に対する正当なさばきが下された場合には、当人の罪を助長するような誤った同情を表すことを控えるべきです。

質問3
聖なる物を尊ぶということに関して、この経験はどんなことを教えていますか。レビ記10:3

私たちは神の神聖さと偉大さについてもっと深い理解を持つ必要があります。神は「心砕けて、へりくだる者」の近くにおられることは確かですが、同時に「高く、聖なる所」に住む「いと高く、いと上なる者」であることも事実です(イザヤ書57:15)。

「神に真の崇敬の念を抱くということは、神の無限の偉大さと神の臨在を自覚することによるのである。すべての者は見えない神に対して、こうした思いを心から抱かなければならない。祈りの時間と場所は神聖である。なぜならば、神がそこにおられるからである。そして、崇敬の念が態度とふるまいにあらわされるときに、その感じはさらに深まるのである。『そのみ名は聖にして、おそれおおい』と詩篇記者は言っている(詩篇111:9)。 そのみ名を語るとき、天使たちは彼らの顔をおおうのである。もしそうであるならば、堕落した罪深いわれわれは、どんな崇敬の念をもって、それを、われわれの口にしなければならないことであろう」(「国と指導者』上巻23ページ)。

神聖な聖所の務めを始めるにあたって、これらのアロンの子らは神の神聖さと神の定められた礼拝の計画を全く無視しました。彼らの不敬行為から生じる恐るべき結果を防止する方法は、彼らを直ちに処罰する以外にありませんでした。

不満によって滅ぼされる(民数記11:4―35)

質問4 
イスラエルがシナイを出てからしばらく後に、どんな不満が生じますか。それはだれから始まりましたか。民数記11:4―6、出エジプト記12:38

肉食は元来、神が人間にお与えになったものではありませんでした。しかし、罪の侵入とともに、動物を殺して食べることが一般的になります。洪水後、一定の規定に従っていれば、神は肉を食べることをお許しになりました(創世記9:1-5参照)。サタンにとって、食欲は初めから人間を罪に、誘惑する効果的な方法でした。

質問5
食べ物についてつぶやいた結果、イスラエルはどうなりますか。民数記11:18―20,33,34

民数記第11章はつぶやきで満ちています。モーセでさえ、自分の荷は重すぎると言って神につぶやいています(民数記11:10―15)。私たちは自分の重荷にばかり目が行き、とかく不平を言いがちです。反面、与えられた祝福を認めてそれを感謝することが何と少ないことでしょう。

「ユダは、ぶつぶつ言う舌、不平を鳴らす者、自分の欲望のままに歩む者たちについて語っている(ユダ16節)。 彼はここで、とくに聖書が……自分の運命を嘆く者たちと呼んでいるこの民のことを言っているように思われる。彼らは決して満足することができなかった。彼らはつねに神の知恵よりも自分たちの知恵を尊んでいたので、神ご自身でさえ彼らを喜ぶことがおできにならなかった。神は神ご自身の方法で私たちをお救いになるか、さもなければ全くお救いにならないかのどちらかである。それが神の無限の知恵による計画なので、私たちがそれ以外の方法で救われることは不可能である。私たちはしばしば、『みこころを成させたまえ』と祈る。しかし、私たちの心と口をそれに応答させることはめったに.いやほとんどない。私たちはあらゆる祈りにおいて、完全に神のみこころにかなうことだけを求めるように留意すべきである。もし私たちの祈りと願望がその通りこたえられるなら、私たちの滅びは避けられないであろう」(「アダム・クラーク聖書注解」第1巻656、657ページ)。

イスラエルの民は1ヶ月のあいだうずらを与えられますが、ついには飽きてしまいます。最も反逆的だった人々はそれを食べ尽くさないうちに死にます(民数記11:33参照)。 食欲をほしいままにしに、さらに多くの人々が死にます。しかし、このときもマナが与えられていたことは確かです。この懲罰から学んだ人々は新たな感謝をもって神から与えられた食物に帰ったことでしょう。

故意に安息日を破った者たちの石打ち(民数記15:32―36)

質問6
民数記15:32―36で安息日を破った人はなぜこれほど厳しく処罰されたのでしょうか。

イスラエルの放浪期に安息日を守らなかった人はほかにもいたはずです。それらの人はみな即座に処罰されたでしょうか。この事件がとくに取り上げられているのは、民数記15 : 27―31に記された故意の罪についての教えを例示するためでした。この人は神に反抗して、故意に、またあからさまに安息日を汚しました。彼はカナン国境における背信を理由にイスラエルの民を四十年も荒野に閉じ込めた神の決定に対して怒りを感じていました。これは偶然の罪や無分別な罪というより計画的な反逆でした。

石で撃たれた冒涜者(レビ記24:10―16)

冒涜の罪には、十戒の第三条で禁止されているような不敬な方法で神の御名を用いること以上のことが含まれます。この男はイスラエルの裁判官の決定に激怒し(「人類のあけぼの」下巻3ページ参照)、 神の御名を汚し、神ご自身をのろったのでした。

解説

「このようなきびしい刑罰が、興奮のあまり口にした言葉に課せられるなら、果たして神は愛と正義の神であろうかという疑問をもつ人々もあろう。しかし、神に敵意をいだいて発した言葉は大罪であることを示すことは、愛も正義もともに要求するところである。最初の違反者に与えられた罰は、他の者に対して、神のみ名を敬わなければならないという警告であった」(『人類のあけぼの』下巻4ページ)。

火のへびにかまれる(民数記21:4−9)

質問7 
イスラエルが毒へびにかまれたのはなぜですか。民数記21:5

イスラエルが荒野を旅するあいだ、神は彼らをへびから守ってこられました。しかし、神はいま彼らの忘恩とつぶやきを見て、彼らから保護を取り去り、神の守りのない旅がどのようなものであるかをお示しになったのでした(申命記8: 15参照)。 多くの人々が毒へびのかみ傷による激しい炎症がもとで死にました。

後世のイスラエル人は青銅のへびを造るようにという神の命令に戸惑いを感じてきました。神が地上のいかなる像をも造ってはならないと、はっきり禁じておられたからです。律法学者たちはこれを、死にかけている人たちにいのちを与えたのはへびではなかったと説明しました。イスラエルは青銅のへびを見上げることによって、この不思議な命令を下した神に信頼しなければなりませんでした。彼らにいのちを与えたのは神の言葉に対するその信仰でした。律法学者の言うとおりです。

質問8
イエスはニコデモとの会見において、この出来事を何と説明しておられますか。ヨハネ3:14,15

解説

「人々は、蛇そのものには彼らを助ける力がないことをよく知っていた。それはキリストの象徴だった。滅ぼす蛇の形に作られた像が彼らのいやしのためにあげられたように、『罪の肉の様』につくられたおかたが彼らのあがない主となられるのであった(ローマ8:3)。イスラエル人の多くは、いけにえの儀式そのものに彼らを罪から解放する力があると思っていた。青銅の蛇に価値がなかったように、いけにえの儀式そのものにも価値がないことを彼らに教えようと神は望まれた。それは彼らの心を救い主に向けるのであった。きずをいやされるためであろうと、罪をゆるされるためであろうと、彼らは神の賜物キリストへの信仰をあらわす以外に自分では何もできなかった。彼らは仰いで見て、生きるのであった。)(『各時代の希望』上巻206ページ)

瞑想

「将来の混乱と苦悩の時代に、国が始まって以来なかったような苦難の時代に、信仰をもって仰ぎ見る者たちが生きるように、高く揚げられた救い主がすべての国々の人々に示されるであろう」(「教会へのあかし』第8巻50ページ)。

まとめ

イスラエルの経験は私たちに、背信が必ず懲罰を招くということ、また悔い改めがゆるしと回復につながるということを教えています。イスラエルがどれほどひどく堕落しようとも、もし悔い改めて自分の罪を告白するなら、神は喜んで彼らをお受け入れになっていたことでしょう。私たちを神から引き離す唯一のものは故意の罪です。それは悔い改めを拒む罪です。

*本記事は、安息日学校ガイド1998年1期『約束の地をめざして』からの抜粋です。

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