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エステル記3章1節ー5節
3:1これらの事の後、アハシュエロス王はアガグびとハンメダタの子ハマンを重んじ、これを昇進させて、自分と共にいるすべての大臣たちの上にその席を定めさせた。 3:2王の門の内にいる王の侍臣たちは皆ひざまずいてハマンに敬礼した。これは王が彼についてこうすることを命じたからである。しかしモルデカイはひざまずかず、また敬礼しなかった。 3:3そこで王の門にいる王の侍臣たちはモルデカイにむかって、「あなたはどうして王の命令にそむくのか」と言った。 3:4彼らは毎日モルデカイにこう言うけれども聞きいれなかったので、その事がゆるされるかどうかを見ようと、これをハマンに告げた。なぜならモルデカイはすでに自分のユダヤ人であることを彼らに語ったからである。 3:5ハマンはモルデカイのひざまずかず、また自分に敬礼しないのを見て怒りに満たされたが、
ハマンへの敬礼
すべての大臣の上にハマンという男が就任します。このハマンもおそらくは、低い地位から昇進した人物でした[1]。ハマン自身か、彼の両親が戦争で捕らえられ、捕虜としてペルシャに連れてこられたのです[2]。
王がハマンに敬礼することを命じていることから、ハマンの人徳がない人物であり、また低い身分からの成り上がりであったことが垣間見えます。
このハマンにモルデカイはひざまずかず、敬礼もしませんでした。
なぜ、モルデカイがこのような行動に出てかははっきりとは書かれてはいません。イスラエルの人々は、それが堕落した王であったとしてもひれ伏し(サムエル記上24章8節)、また異邦人であっても、目上の人や敬意を払うべき人々の前ではひれ伏していました(創世記23章7節、33章3節)。
このモルデカイの行動を考える上で、ヒントとなるのが、エステル記3章3節の言葉でしょう。
……なぜならモルデカイはすでに自分のユダヤ人であることを彼らに語ったからである。
エステル記3章3節
ここから大きく分けて二つの説が考えられています。
1. 民族的な対立が原因という説
1つめは、民族的な対立が原因であったという説です。
ユダヤの伝統によれば、ハマンはアマレク人の王アガグの血筋でした[3]。
アマレク人はその悪から、「そのすべてを……滅ぼしつくせ」(サムエル記上15章3節)と神に言われていました。しかし、それを聞いていたにも関わらず、サウルとその民は次のような行動を取ります。
しかしサウルと民はアガグをゆるし、また羊と牛と最も良いもの、肥えたものならびに小羊と、すべての良いものを残し、それらを滅ぼし尽くすことを好まず、ただ値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽くした。
サムエル記上15章9節
サウルは自らの利益のために、アガグをゆるしてしまったのです。ここから始まる民族的な確執がこのときに表面化しているのではないかとある学者たちは考えています[4]。
しかし、イスラエル王国の初期の確執が王国滅亡後、さらに年月を経てもなお存在することに疑問を呈する学者もいます。
ハンメダタ(ハマンの父)、ハマン、それにハマンの10人の子ら(エステル記9章7―9節)の名前はみな、立派なペルシャ名であって、アガグびとをペルシャ人と区別すべき理由は何もない[5]。
H・L・エリソン『バビロンからベツレヘム』58ページ
2. 宗教的行為であったという説
2つめが、ハマンが要求した行為が宗教的行為であったという説です。
モルデカイはハマンに、何の危害も加えたのではなかった。彼はただ、ハマンに礼拝的敬意を表さなかっただけであった[6]。
エレン・ホワイト『国と指導者』下巻、205ページ
ハマンが受けた「敬礼」は、他の箇所では「礼拝」や「拝む」と訳されていることから(創世記22章5節、出エジプト記32章8節など)、本来は神に与えられるはずの敬意をハマンが求めたのではないかと考えられるのです。
アラム語訳旧約聖書タルグムには、ハマンが神の権威を主張したことが暗示されています。……タルグムにはさらに、ハマンが自分の着物に偶像をつけていたことが示唆されています[7]。
ジェラルド・ウィーラー『平凡な人々、非凡な生涯』93ページ
民族的な確執があったにせよ、宗教的な行為であったのもまた事実です。
宗教的な理由で拒んだからこそ、ハマンはモルデカイのみならず、その宗教を信じるユダヤ人を滅ぼそうとしていくのではないでしょうか[8]。
当時は、今とは異なり、個人主義ではなく、集団意識の中で人々は暮らしていました。つまり、自分自身を個人としてではなく、家族・民族・国民の一員と考え、その集団の受けるべき報酬と刑罰を分かち合っていたのです[9]。
まとめ
エステル記3章3節、4節でモルデカイを同僚たちが説得している描写が出てくることは、モルデカイが高く評価されていたことが示唆されています[10]。ひざまずくことを強制しなければ保てない栄誉を持つハマンと、仲間たちに慕われるモルデカイの対比がここで見ることができます。
また、ハマンがモルデカイに怒りを発した場面でも、言語的な工夫が見られます。
私たちは翻訳された聖書でエステル記を読んでいるので、著者が用いている文学的手法に気づきません。著者はここで、ハマンという名を音のよく似たヘマ(怒り)という語と並列的に用いています[11]。
モルデカイが怒りを買ったのは、彼の傲慢さからではありませんでした。それは仲間に慕われる姿からも明らかです。ただ、神を信じるものという点において、ハマンは怒ったのでした。
このエステル記3章は、終わりの時代を連想させます。
「わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう」(マタイによる福音書24章9節)と、終わりの時代に迫害が起こることを預言して、キリストは言われました。
この迫害は「キリストの名のゆえ」に起こるのです。ハマンが怒るのと同じように、サタンもまた自らが礼拝されない状況に対して怒るのです。
参考文献
[1] Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 3, p. 472). Review and Herald Publishing Association.
[2] Easton, M. G. (1893). In Illustrated Bible Dictionary and Treasury of Biblical History, Biography, Geography, Doctrine, and Literature (p. 307). New York: Harper & Brothers.
[3] Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 3, p. 472). Review and Herald Publishing Association.
[4] Bush, F. W. (1996). Ruth, Esther (Vol. 9, p. 379). Dallas: Word, Incorporated.
[5] H・L・エリソン『バビロンからベツレヘム』58ページ
[6] エレン・ホワイト『国と指導者』下巻205ページ
[7] ジェラルド・ウィーラー『平凡な人々、非凡な生涯』93ページ
[8] Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 3, p. 472). Review and Herald Publishing Association.
[9] ジェラルド・ウィーラー『平凡な人々、非凡な生涯』95ページ
[10] Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 3, p. 472). Review and Herald Publishing Association.
[11] ジェラルド・ウィーラー『平凡な人々、非凡な生涯』94ページ