【エステル記】プリムの祭り【3章解説】

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3:6ただモルデカイだけを殺すことを潔しとしなかった。彼らがモルデカイの属する民をハマンに知らせたので、ハマンはアハシュエロスの国のうちにいるすべてのユダヤ人、すなわちモルデカイの属する民をことごとく滅ぼそうと図った。

3:7アハシュエロス王の第十二年の正月すなわちニサンの月に、ハマンの前で、十二月すなわちアダルの月まで、一日一日のため、一月一月のために、プルすなわちくじを投げさせた。エステル3:6ー7(口語訳)

目次

ことごとく滅ぼそう

この時代、個人は一族や民族を代表し、その集団が受けた報酬や刑罰を分かち合っていました。そのため、このような虐殺がしばしば行われたのです。

この事件の半世紀ほど前、クセルクセスの父ダリウス・ヒスタスペスの即位時にマギの大虐殺があり、さらにその半世紀前にはスキタイの大虐殺がありました[1]

「モルデカイの属する民をことごとく滅ぼそうと」、ハマンが図ったように(エステル3:6)、サタンもキリストに属しているというそれだけの理由で、神の民を滅ぼそうとするのです(黙示録12:17)。

くじ引き

古代の人々がエステル記にあるような方法でくじを投げていたことがわかっています。エール大学の考古学収蔵品のなかに六面体のかたちをしたさいころが収められていますが、それにはプル、つまり「くじ」という言葉が二回、刻まれています。それはシャルマネセル三世(紀元前八五八年から同八二四年にかけて支配したアッシリヤの王)の高官「イァハリのさいころ」と呼ばれるもので(す)[2]

ある学者は旧約聖書に登場するウリムとトンミムも、このくじと同じような働きをしていたのではないかと考えていますが(箴言16:33)[3]、このウリムとトンミムは単なるくじや占いとは異なる使われ方をしていました。

胸当ての左右には特に輝いた二つの大きな宝石があった。これはウリムとトンミムと呼ばれていた。これによって神のみこころが大祭司を通して知らされた。決定すべき問題が主の前に持ち出されたとき、右の宝石の周囲に光輪がかかれば、これは神の是認もしくは認可のしるしとなり、左の宝石にかげりができれば、これは拒否もしくは認可されないしるしとなった[4]

通常、くじや占いは人間からのアクション(サイコロを投げるなど)を必要としていましたが、このウリムとトンミムは、人間からのアクションを必要とせずに使用されていました。

また、くじ引きが行われた記録は聖書の中で何か所か登場しますが、現代においてくじで神の意志を確かめ、物事を決めることについては賛否があります。

主はでたらめなやり方で働かれることはない。最も熱心な祈りをもって、主を求めなさい。彼は思いに印象を与え、語る言葉を与え、話し方を導いてくださる。……私はくじ引きに信頼しない。我々は聖書の中に、教会のすべての義務に関し、「主はこう言われる」と明確に書かれた言葉を持っている。……多くの祈りをもってあなたの聖書を読みなさい[5]

旧約聖書の中において、くじが引かれている場面は大きく分けると、聖所の儀式や奉仕に関係するケースと嗣業の分配です。特に嗣業の分配は、争いを避けるために、あえてくじにしたのかもしれません。

加えて、サウル王の選出やアカンの罪を明らかにする際などにもくじが引かれていますが、すでに主によって決められていたことを考えると、くじによって「決めた」とは言えません。

また、士師記にあるギベアとの戦いの記録にも、くじが出てきていますが、これはウリムとトンミムのことを指している可能性があります[6]

これらのことを踏まえると、人間の手が介入する手段において、物事を決めていくことが日常的であったとは考えにくいです。

使徒言行録1章21節―26節には、くじを引いて使徒を選ぶ場面が出てきますが、これも無作為に選んだわけではありません。2人まで彼らは候補者をしぼりますが、最後の決断を下すことができなかったのです。

もしかすると、これはイスカリオテのユダの件が影響しているのかもしれません。

イエスが弟子たちを按手礼のために準備しておられたとき、召されていないのに仲間に加わりたいと強要したものがあった。それはイスカリオテのユダという男で、自らキリストの弟子と名乗っていた。……弟子たちは、イエスの働きに大きな助けになる人物として、彼をイエスに推薦した[7]

彼らは自分の人間的な決断が、ユダの裏切りとキリストの十字架を招いたと考えたのかもしれません。だからこそ、最後の決断を下せずに、くじを引いたのではないでしょうか。

この場合、どちらの候補者も使徒となる条件は満たしていました。ただ、彼らは最後に神に委ねたいと考え、くじを引いたのです。考えて考え抜いた結果、神に最後の決断を委ねたともいえるでしょう。

これらのことを考えると、聖書を通じて一から物事を決めるときに、人間の手が介入する曖昧な手段を用いて、物事を決めたケースはほとんどないのです。

まとめ

わたしたちは、神のみ心を求めるときに曖昧なしるしに意味を持たせようとするときがあります。

しかし、神のみ心を求めるとは、熱心な祈りと聖書の言葉にもとづくものなのです。熱心に祈り、聖書を学んでいくときに、「これがみ心ではないかと考えられます」という確信が生まれてくるのです。

感じとか気分は人が主に導かれている確実な証拠ではない。サタンは嫌疑をかけられていなければ、気分や感じを与える。これらは安全な道案内ではない。すべての人は信仰の証拠を徹底的に知るべきである[8]

参考文献

[1] Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 3, pp. 472–473). Review and Herald Publishing Association.

[2] ジェラルド・ウィーラー『平凡な人々、非凡な生涯』96ページ

[3] Rubin, B. (Ed.). (2016). The Complete Jewish Study Bible: Notes (p. 1232). Peabody, MA: Hendrickson Bibles; Messianic Jewish Publishers & Resources.

[4] エレン・ホワイト『人類のあけぼの』文庫版、中巻141ページ

[5] エレン・ホワイト、Letter 37,1900年

[6] Nichol, F. D. (Ed.). (1976). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 2, p. 415). Review and Herald Publishing Association.

[7] エレン・ホワイト、『各時代の希望』上巻、378―381ページ

[8] エレン・ホワイト、Testimonies, vol.1、413ページ

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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