福音は語るだけでなく実践すべきもの
テサロニケにおけるパウロの経験は、良い模範が言葉によるあかしをいかに強化し、支持するものであるかをはっきりと証明しています。パウロの模範は、世に神をあかしするという、すべてのクリスチャンのあるべき姿を例示しています。テサロニケの信者もパウロの模範に従ってすべてをキリストにささげ、キリストをあかしすることによって、ほかの地方の信者の模範となりました。
アウトライン
1. 模範の力(Iテサ1:6―8)
2. 勤勉についてのパウロの模範( Iテサ2 : 9 )
3. 感謝についてのパウロの模範( I テサ1 : 2、7―9 )
4. 誠実についてのパウロの模範( I テサ2 : 3、4 )
5. 謙遜についてのパウロの模範 (Iテサ2:1―20)
福音を生きる
良い説教は良い模範によって初めて真理となります。その証拠に、テサロニケ人への手紙はパウロのさまざまな勧告ばかりでなく、それを生活の中で実践したパウロの姿をも描写しています。パウロはテサロニケ人にいかに生きるべきかを教えたばかりでなく、その方法を実際に示しました。彼は模範によって教えたのです。もちろん、パウロはキリストだけがただひとりの完全な模範であることをよく知っていました。彼はピリピ人への手紙3:13、14 などで、自分はまだ完全な者になっていないと告白しています。それにもかかわらず、彼はキリストにあって豊かに成長する経験にあずかっていました。そして、自らの霊的勝利の経験によって積極的に人々の信仰を力づけようとしたのでした。
パウロの模範
ほかの手紙にはあまり見られないことですが、パウロはテサロニケ人への手紙の中でとくに、自分自身の生活を誠実の模範、神の救いの力の証拠として示しています。それは高慢やうぬぼれではありません。彼はただ理解しやすいあかしをもって信者を励まそうとしたのです。その目的は、理想的なクリスチャンの生き方を身をもってあかしすることにありました。それは神の民の最高のあかしです。
模範の力(Iテサ1:6〜8)
質問1
パウロは福音の影響力について何と述べていますか。彼と彼の共労者はテサロニケ人にどんな影響を与えましたか。Iテサ1:6 (Iコリ11 :1比較)
人は神の模範を見る以前に人間の模範を見る
テサロニケ人がパウロにならう者となったのは、パウロがキリストにならう者であったからです。人々は私たちの代表するおかたについての印象を抱く前に、まず私たち自身についての印象を抱きます。ここで重要なことは、聖霊の臨在と力が個人の生き方と密接なつながりを持っていることを、パウロが認めていたということです。
目に見える説教
「ならう者」は「従う者」と訳すこともできます。テサロニケ人は回心して、以前の信仰と儀式を捨て、食事、言葉、衣服、態度においてパウロと彼の仲間にならう者となり、キリスト教の生活様式に順応していきました。影響力はすべての人に与えられたタラントです。それは救霊つまり、私たちの子供たち、隣人、伝道集会や聖書研究に出席している人々のための働きにおいてとくに重要なものです。私たちはみな次のように言うことができます。
「どんな場合でも、聞く説教よりも見る説教のほうがいい。ただ道を教えるよりも一緒に歩いてくれるほうがいい。聞いたことよりも見たことのほうが受け入れやすい。立派な勧告は心を迷わせるが、模範はいつでも明確だ。とりわけ、説教者は自らの信仰を生活に実行する人でなければならない。善が実行されるのを見ることはすべての人に必要なことだからである」(エドガー・A・ゲスト『エドガー・A・ゲスト詩集』599、600ページ)。
質問2
テサロニケで働いていたときの自分の生活について、パウロは何と言っていますか。Iテサ2:10
彼の生き方には、ためらいやあいまいさが全くありませんでした。テサロニケにおけるパウロの働きには陰口をたたかれるようなことは何もありませんでした。それどころか、彼の生活は積極的な献身と犠牲の生活でした。
「パウロは天の雰囲気を持っていた。彼と交わった人々はみな、彼がキリストとつながっていることを感じた。彼自身の生活が彼の宣べ伝える真理を例証していたため、彼の説教には説得力があった。ここに真理の力がある。きよい生活の、気取らない無意識の感化は、キリスト教のために与えることのできる最も説得力のある説教である。議論は、たとえそれが相手に反論の余地を与えないものであっても、なお反対しか引き起こさないことがある。しかし敬虐な模範は、完全には抵抗できない力を持っている」(『患難から栄光へ』下巻209ページ)。
質問3
テサロニケ人に対するパウロの影響は彼らの働きにおいてどのようにあらわされていましたか。Iテサ1:7、8
7節の「模範」という言葉はギリシャ語の「テュポス」から来ています。それは、「目に見える印象」、「写し」、「心象」、「原型」という意味です。
テサロニケの信者はマケドニヤとギリシヤにいる信者の模範となりました。彼らの犠牲と信心を見た人々は、キリストについて学び、福音の原則に従いたいと思うようになりました。
「テサロニケ人がすべて通常の意味での説教者であったと考える必要はない。明らかにそうでない人たちもいた。私たちは使徒行伝の中に初期の教会の姿をかいま見ることができる。信心深い人々がある所で行ったことがほかの所でもなされたことであろう。活発な生きた信仰は隠すことができない」(ロナルド・A・ワード『テサロニケ人への第1および第2の手紙注解』39ページ)。
勤勉についてのパウロの模範(Iテサ2:9)
質問4
テサロニケ滞在中の生活手段について、パウロは何と言っていますか。Iテサ2:9、Ⅱテサ3:7、8
パウロの時代の伝道者の給与制度は現代の給与制度とは異なっていました。旧約時代には、十分の一が祭司の生活を支えるために用いられました。しかし、パウロのような巡回牧師をはじめとする、新約時代の多くの伝道者、教師は、自分の手で働くことによって生活しました。伝道の働きは十分の一によって支えられるべきであると教えていたパウロ自身、自分で働いて生活していました。それは自分がキリストに導こうとしている人々から批判されることのないためでした(Iコリ9:9―15参照)。
質問5
パウロがテサロニケで自活しようとした理由は何ですか。Ⅱテサ3:8、9
パウロは聖書の教えに従って飲み食いしたばかりではありません。彼は道徳的にも正しい人物であって、他人の権利と人格を尊重しました。どちらかと言えば、彼は人を利用することを極度に嫌い、神から与えられた報酬を受ける権利さえ捨てたくらいでした。その代わりに、彼は自らの手で生活費をかせぎました。
質問6
自分の経験にもとづいて、パウロは怠惰な者たちにどういうことを勧告していますか。Ⅱテサ3:10
感謝についてパウロの模範(Iテサ1:2、7〜9)
質問7
パウロはとくにどういうことを感謝していましたか。
質問8
使徒パウロはどれほどひんぱんに神に対する感謝を表明していますか。Iテサ1:2、Ⅱテサ2:13
パウロがすべての教会のために神に感謝していることに注目してください。彼は信者ひとりびとりを愛し、日ごとの祈りの中でその名をあげて祈ったことでしょう。各人は神の尊い宝として尊重され、教会と社会に役立つ賜物のゆえに認められています。
質問9
テサロニケ人は何のゆえに感謝すべきであると、パウロは言っていますか。Iテサ5:18
たえず感謝しなさい
聖書は、「悲劇、損失、失望について感謝しなさい」と言っているわけではありません。それはパウロの意図したことではありませんでした。彼が言いたかったことは、どんな状況においても感謝の心を持ち、希望を失ってはならないということでした。生活がどんなに苦しくても、神はこの世界と教会と自分たちのために働いておられることを知っていたので、テサロニケの人々はいつでも喜ぶことができたはずです。神はすべてを理解し、知り、ときには試練を用いてご自分の栄光をあらわし、聖なる目的を遂行されることを知っていたので、彼らはたえず感謝することができました(ピリ4:11、ロマ8:28参照)。パウロはまた神の尊い賜物に対して感謝しました。それによって、彼は自分の説いたことを実践しました。
感謝することは神のみこころにかなうことです。なぜでしょうか。感謝することは私たちに生気を与え、健康を増進するからです(3ヨハ2参照)。
「感謝と賛美の精神ほど心身の健康を増進するものはない。憂うつ、不満な気持や思想に抵抗することは祈ることと同じように積極的な義務である。もしわたしたちが天に向かって歩いて行っているなら、わたしたちの父の家に行く道すがらをどうして会葬者の一隊のように嘆き、つぶやきながら歩いたりできよう。つねにつぶやき、快活や喜びは罪であるかのように思っているクリスチャンと称する人々は、真の宗教を持っていない」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング』228、229ページ)。
誠実についてのパウロの模範(Iテサ2:3、4)
質問10
パウロは自分の働きの目的を強調して、テサロニケ人に何と言っていますか。Iテサ2:3、4
パウロのただ一つの目的
彼の唯一の目的は神を喜ばすことでした。彼は物質的な報いのためや、利己的な満足のため、あるいは何度も言っているように、人間的な賞賛や名誉のために働いていたのではありません。彼は自由の頂点に達していました。彼は神の賞賛だけを心にとめていたので、人間の賞賛は心中にありませんでした。
質問11
神に受け入れられるためには、誠実はどれほど重要なものですか。黙示14:5、 1ペテ2:1〜3
質問12
イエスはどのような不誠実を責められましたか。その対象となったのはだれですか。ルカ12:1、マタ23:1〜7
質問13
誠実を見分ける最高のしるしは何ですか。マタ7:18〜20、 Ⅱテサ3:4、13、14
信仰とわざ
「神に従う決心をし、その目的のために努力するとき、イエスはこの傾向と努力を人の最善の働きとして受け入れ、ご自分の聖なる功績をもって欠点を補ってくださる。しかしイエスは、彼を信じると言いながら、父なる神の戒めに従わない者たちをお受け入れにならない。私たちは信仰についてよく語るが、わざについてもっと語る必要がある。多くの者たちは、安楽で妥協的な、十字架のない宗教に従うことによって、自分自身の魂を偽っている。イエスは言われる。『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』」(「セレクテッド・メッセーシズ』第1巻382ページ)。
謙遜についてのパウロの模範(Iテサ2:1〜20)
質問14
パウロはテサロニケ人に対して繰り返し、一人称複数の代名詞(わたしたち)で語りかけています。このことは彼の共労者に対するどんな気持ちを表していますか。Iテサ2:1〜20
名誉を分かち合う
偉大な使徒パウロは「わたしたち」という言葉の代わりに「わたし」という言葉を使うこともできたはずです。事実、彼は指導的な伝道者、今の言葉で言えば「ボス」でした。しかし、実際はそうではありませんでした。彼は「序列」にこだわりませんでした。たしかにテサロニケ人への第2の手紙の結びにおいて、パウロ自身がこの手紙を書いたと言われています。しかし、両方の手紙を通じて、彼は名誉を分かち合っているのです。彼は自己賞揚を求めませんでした。その柔和な態度は偽りのものでもなければ、見せかけのものでもありませんでした。彼は自らの謙虚さを誇りませんでした。自分の個人的な経験をあかしすることによって誤解される危険さえおかしました。彼の目的ははっきりしていました。それは主をあがめるということでした。自分の献身的な働きを神から祝福されたとき、彼は自分の若い助け手、テモテおよびシルヮノと名誉を分かち合ったのでした。
このパウロの態度を、ピリピ2:6に記されたキリストの態度と比較してください。
質問15
パウロはまたキリストのような謙虚な心をもって、テサロニケの信者に何と嘆願していますか。Ⅱテサ3:1、2
たび重なるパウロの嘆願
「パウロは偉大な使徒であった。しかし、その偉大さは全くの先天的なもの(もちろん、それもあったが)というよりも、むしろ神に信頼することから来ていた。彼が自分の奉仕する者たちによく祈りを求めているのはそのためである。パウロは自らを彼らより上位の者ではなく彼らと一つの者とみなした。彼は信徒のとりなしを尊び、彼らの祈りを求めた」(レオン・モリス『新約聖書新国際注解』244ページ)。
質問16
パウロの謙虚な態度はほかのどんなところにも示されていますか。Iコリ15:9、エペ3:8
公式の説教と聖書研究はもちろん神の定められた救霊の方法ですが、キリストのような生き方ほど効果的なあかしはありません。テサロニケ人の真の力はこの世に来られたイエス、また再臨されるイエスに対する確信から来ていました。それが彼らの生活とメッセージの基礎でした。自分たちの信じる真理を生活において実践する教会は、どんな事実や数字の積み重ねよりも、またどんな正確な預言の解釈よりも強力な印象を人々に与えるのです。
まとめ
私たちの生活において福音の力をあかしすることは、最も効果的な伝道の方法です。私たちは神の前にまだ未完成の状態ですが、たとえ成長の過程にあっても暗い世界に光を輝かし、神のみことばの再生の力をあかしすることができます。
*本記事は、安息日学校ガイド1991年3期『再臨に備えて生きる』からの抜粋です。