イエスとヨハネの黙示録【終末時代への備え】#3

目次

今回の記事のテーマ

新約聖書をざっと読んだだけでも、一つの重要な真実がわかります。新約聖書が旧約聖書と密接に結びついているということです。福音書も書簡も、再三再四、旧約聖書の出来事に言及したり、直接的あるいは間接的に旧約聖書から引用したりしています。そしてイエスは、御自身や御自分の働きに言及するとき、どれほどしばしば、「聖書の言葉」は「実現する」必要がある、と語られたことでしょう(マタ26:54、56、マコ14:49、ヨハ13:18、17:12参照)。

同じことが、ヨハネの黙示録についても言えます。確かに、旧約聖書、とりわけダニエル書を抜きにして、黙示録の意味を理解することは、ほぼ不可能です。私たちがしばしばダニエル書とヨハネの黙示録の両方を一緒に研究するのは、このことが一つの理由です。

黙示録における旧約聖書からの引用箇所の極めて重要な側面は、同書のほかの部分と合わせて考えるなら、それらがイエスを明らかにしていることです。黙示録は、イエスがどのようなお方であり、御自分の民のために何を成し遂げ、時の終わりに私たちのために何をなしてくださるかということに関する書、つまりイエスに関する書なのです。必然的に、終末の諸事件に焦点を合わせるときはいつでも、ヨハネの黙示録がそうしているように、イエスを常に中心に置く必要があります。今週の研究では、ヨハネの黙示録の中のイエスに目を向けます。

黙示録の構造

ダニエル書と黙示録が共有する多くのことの中に、二つの基本的な部分、つまり歴史的部分と終末論的(終末の諸事件に関する)部分があります。これら二つの概念は、それぞれの書の中で複雑に結びついています。私たちは歴史的事件を、たとえそれらが小規模であるとしても、終わりの時の大規模、地球規模の事件の先触れや前例と見なすことができます。つまり、旧約聖書時代の出来事を学ぶことによって、私たちは現代以降に起きる出来事への洞察を得られるということです。しかし、この原則はダニエル書と黙示録に限定されるものではありません。

Iコリント10:1〜11を読んでください。上記の原則が見られます。先週の研究で触れたように、ダニエル書のいくつかの物語(ダニ3:6、15、27、6:6〜9、21、22)は、地域が限定された歴史的事件であったものの、幾分、黙示録に描かれた終末時代の事件を反映しています。私たちはこれらの物語を研究することによって、少なくともより大きな規模で、神の民が最後に遭遇するであろう事柄のいくつかを垣間見、それに対する洞察を得ることができるのです。しかし、おそらく最も重要な点は、地上での私たちの目の前の状況にかかわらず、私たちが最終的な救いを確信していることでしょう。黙示録がほかにどのようなことを教えていようと、それは忠実な者たちに勝利を保証しています。

いくつかの例外はあるものの、黙示録の1章から11章までは歴史的な部分で、それに続く13章から22章は終末時代に関する部分です。

問1 
黙示録12:1〜17を読んでください。私たちはこの章を、歴史的な部分と終末の諸事件のどちらと判断すべきですか。なぜそう考えるのですか。

おわかりいただけるように、この章は両方の部分に属しています。なぜそう考えるのでしょうか。歴史的な対立—天からのサタンの追放(黙12:7〜9)、赤子のイエスに対するサタンの攻撃(同12:4)、その後の教会史における教会への迫害(同12:14〜16)—について語られたあとに、終末時代の残りの民に対する悪魔の攻撃(同12:17)についての描写が続いているからです。

イエスの描写

問2 
さまざまなイエスの名前を含んでいる次の聖句を読んでください。その名前は、ある場合にはイエスの描写であり、イエスがなさったこと、なさっておられること、なさるであろうことの説明です。これらの聖句は、イエスについてどのようなことを教えていますか。

 ・黙示録1:5
 ・黙示録1:18
 ・黙示録5:8
 ・黙示録19:11〜15
 ・黙示録21:6

これらは、さまざまな役割や機能によってイエスを描写した黙示録の多くの聖句の中のいくつかにすぎません。イエスは小羊であり、それは、私たちの罪のための犠牲として御自身をささげられた初臨を指し示しています。「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」(Iコリ5:7)。イエスはまた、「死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者」(黙1:18、口語訳)でもあり、これは彼の死と、死者の中からの復活を明確に述べています。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する』」(ルカ24:46)。さらに黙示録19:11〜15では、力と栄光と正義に満ちて地球に戻って来られる再臨の際の役割によって、イエスは描かれています。「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」(マタ16:27)。

黙示録における聖所という主題

二つの主要な部分〔歴史的部分と終末論的部分〕に加えて、黙示録には、ユダヤ人の聖所を中心に築かれたもう一つの構造的層があります。この聖所という〔繰り返し登場する〕モチーフは、二つの主要な部分のどちらかに限定されるものではなく、両方にまたがっています。

地上の聖所において、そのモチーフの一つは中庭の焼き尽くすささげ物の祭壇で、つまり動物が殺された場所で始まります。キリストの十字架を象徴する動物の死のあと、祭司は聖所の第一の部屋に入りましたが、それは、イエスが昇天後に天の聖所でなさったことのひな型でした。これは、イエスが燭台の間を歩かれたことによってあらわされています(黙1:13)。

問3 
黙示録4:1、2を読んでください。「開かれた門」は何をあらわしていますか。この場面は、どこでのものですか(使徒2:33、5:31、エフェ1:20、ヘブ10:12、13、詩編110:1、黙12:5も参照)。

キリストは昇天後すぐに、この最初の開かれた門を通って入り、天の神殿の聖所〔第一の部屋〕で祭司の働きを始められました。キリストが黙示録の中で最初に登場されるとき、彼は地上の聖所の第一の部屋の燭台の前に立っておられます(黙1:10〜18参照)。

問4 
黙示録11:19を読んでください。天の聖所が開かれ、地上の聖所の第二の部屋に置かれていた神の契約の箱をヨハネが目にしたという事実には、どのような意味がありますか(レビ16:12〜14参照)。

天の聖所における契約の箱という象徴は、疑いの余地なく、至聖所、つまり天の聖所の第二の部屋への言及です。私たちはヨハネの黙示録の中に、二つの部屋におけるイエスの奉仕だけでなく、天の出来事と地上の出来事がつながっているという極めて重要で慰めとなる事実も見ることができます。黙示録に描かれている歴史上の試練や終わりの時の試練のただ中にあっても、「全天は主の備えの日に人々を立たせる備えをする働きに従事している。天と地のつながりは、非常に密接であるようだ」(エレン・G・ホワイト『きょうを生きる』307ページ、英文)という確信を、私たちは持つことができるのです。

黙示録の中のキリスト(その1)

黙示録におけるあらゆることは、構造から内容に至るまで、一つの目的を持っています。それはイエス・キリストをあらわすことです。

そういうわけで、この書の冒頭の言葉は、「イエス・キリストの黙示」(アポカリュプシス・イエスー・キリストゥー)となっています。これは通常、①「イエス・キリストからの啓示」、または②「イエス・キリストに関する啓示」(黙1:2)と理解されます。それが「啓示」(あらわし示すこと)であるという事実が、黙示録は難しすぎて理解できないと思っている人たちへの反論です。もし主が、読者たちによって黙示録が理解されないことを意図されたのなら、なぜこの書を聖書にお入れになったのでしょうか。

黙示録1:1〜8を読んでください。黙示録において、イエスは「地上の王たちの支配者」(黙1:5)と紹介されており、この書の終わり近くでは、「王の王」(同19:16)と評されています。ここでのすばらしい知らせは、地上のあらゆる混沌や混乱のただ中にあっても、私たちの愛情深い主なる救い主が最終的権限を有しておられるという確信を、私たちが持てるということです。

黙示録1:5では、キリストが贖い主であるとはっきり述べられています。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に」という言葉は、十字架におけるキリストの贖いの死を指し示しています。彼は私たちを義とするだけでなく、聖なる者にもしてくださったのです(Iコリ6:11)。このような聖句の中に、私たちは救いの確証を見いだすことができます。なぜならそれは、イエスが私たちの罪を洗い流す唯一のお方であることを示しているからです。私たちはそれを自分の力では決してできません。

問5 
黙示録1:7を読んでください。イエスについて何を教えていますか。

キリスト教信仰全体の中核を成すのは、キリストが「雲に乗って」戻って来られるという約束です。イエスは再びおいでになります。全世界が目撃する出来事として、文字どおりに戻られます。それは、この世の苦しみ、混乱、荒廃を最終的に終わらせ、あらゆる永遠の約束の到来を告げる出来事です。

黙示録の中のキリスト(その2)

黙示録1:10〜18を読んでください。この聖句に登場されるイエスは、天の聖所の第一の部屋に立っておられます。この役割におけるイエスの啓示がとても圧倒的なものだったので、ヨハネは恐れて彼の足もとに倒れてしまいました。いつも元気づけてくださるイエスは、「恐れるな」とヨハネに言い、御自身のことをアルファにしてオメガ、最初の者にして最後の者と(つまり、神として永遠に存在することを)指摘しておられます。のちにイエスは、御自分の死、復活、その復活がもたらす希望について語られます。イエスは「死と陰府」の鍵を持っておられます。言い換えれば、イエスはここで、ラザロが亡くなったときにマルタに言われたことをヨハネに言っておられるのです。それはヨハネも記録している言葉です。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハ11:25、26)。

かつてマルタを、今やヨハネを相手に、イエスは復活という希望、キリスト教信仰の頂点、絶頂を指し示しておられます。この希望なくして、どこに希望があるでしょうか。

問6 
黙示録22:7、12、13を読んでください。イエスについてどのようなことを明らかにしていますか。

「キリスト・イエスはアルファであり、オメガである。旧約聖書の創世記であり、新約聖書の黙示録である。両者はキリストにおいて出会う。サタンの誘惑に勝利し、アダムの恥ずべき失敗と堕落を贖う働きを成し遂げられた第二のアダムの服従によって、アダムと神は和解するのである」(『SDA聖書注解』第6巻1092ページ、英文)。確かに、イエスは初めであり、終わりです。彼は私たちを初めに創造し、私たちを終わりに再創造してくださるでしょう。

最初から最後まで、ヨハネの黙示録は、歴史だけでなく、終末の諸事件を私たちに教えているように、「イエス・キリストの黙示」(アポカリュプシス・イエスー・キリストゥー)です。改めて言いますが、私たちが終末の諸事件についてどのようなことをほかに学ぼうと、イエス・キリストがそれらすべての中心でなければなりません。

さらなる研究

「黙示録には神の奥義が描かれている。その霊感による書に与えられている名、まさしく『黙示録』は、これが封じられた書であるという供述とは矛盾している。黙示とは、何か表されたもののことである。主ご自身がこの書に含まれている奥義を、そのしもべに表された。そして主は、その奥義がすべての人々に公開されて研究されるようにと意図されている。その真理は、ヨハネの時代に生きていた人々と同様に、この地上歴史の最後の時代に住む人々にもあてられている。この預言に描かれている場面のあるものは過去に起こったものであり、あるものは今起こりつつある。またあるものはやみの権力と天の君との大争闘の終結を見させ、またあるものは新しくされた地に住むあがなわれた者たちの勝利と喜びを表している」(『希望への光』1578、1579ページ、『患難から栄光へ』下巻288ページ)。

私たちが今回見た聖句は、黙示録の初めのほうのものであれ、終わりのほうのものであれ、この書がどれほどイエスに関するものであるかを示しています。歴史的事件に関する旧約聖書の言及でさえ、それらをみな用いて、ヨハネの黙示録は主イエスについてさらに教えています。黙示録の中で、イエスに関する聖句をもっと見つけようと思うなら、黙示録3:14、5:5、6、7:14、19:11〜16も参照してください。このような聖句をまとめるとき、私たちはイエスをはっきり知り、彼の弟子であると自称する自分たちとって、彼がどのような存在であるかがわかります。

*本記事は、『終末時代への備え』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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