救いの計画と終末時代【終末時代への備え】#4

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今回の記事のテーマ

キリスト教とそれ以外の宗教との間には、興味深いが決定的な一つの違いがあります。後者は、創始者が信徒に教えたことを強調するものの、創始者が信徒のためにしたことは強調しないという点です。なぜなら、創始者たちが信徒のために何をしたにせよ、それは彼らを救うことができないからです。このような指導者たちにできたのは、いかに自分自身を「救う」かを人々に教えようとすることだけでした。

それとは対照的に、クリスチャンは、イエスが教えられたことだけでなく、イエスがなさったことも強調します。なぜなら、キリストのなさったことが、私たちの唯一の救済手段を提供したからです。キリストの受肉(ロマ8:3)、十字架での死(同5:8)、復活(Iペト1:3)、天での奉仕(ヘブ7:25)—これらの行為だけが、私たちを救うものなのです。それらは、いずれも私たち自身の中にはありません。「たとえ人間の内の良いもの、神聖なもの、高潔なもの、愛すべきものをすべてかき集め、それらを人間の魂の救いや功績の役割を果たすものとして神の御使いたちに差しだしても、その申し出は背信として拒まれるでしょう」(エレン・G・ホワイト『信仰と行い』24ページ、一部改訳)。このすばらしい真理は、終わりの時の危機と惑わしのただ中にいる私たちにとってとりわけ重要です。

父なる神の愛

十字架を間近に控えて、イエスは仲間内の者たちに、人はどうすればイエスを通して父なる神に近づくことができるのか、ということについて話されました。それは、フィリポが、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(ヨハ14:8)と言ったときのことです。そのとき、イエスはフィリポに、父なる神について答えられました(ヨハ14:9)。イエスの答えにより、神に関する誤解が解消されました。

憐れみ、恵み、赦しにあふれた新約聖書の神と比べて、旧約聖書の神は正義の神だと、ある人たちは言います。彼らは両者を区別しますが、その区別は妥当ではありません。旧約聖書の神も新約聖書の神も同じ神であり、同じ特徴を持っておられるのです。

キリストがこの世に来られた一つの理由は、父なる神に関する真実を明らかにすることでした。何世紀にもわたって、父なる神とその御品性に関する誤った考えが、異教徒の間だけでなく、神が選ばれた民の間にも広まっていました。「神を曲解したために、この地上は暗くなった。暗黒の影を照し、世の人々を神に呼びもどすためには、サタンの欺瞞的な力をうち破らねばならなかった」(『希望への光』676ページ、『各時代の希望』上巻4ページ)。

神は変わられません。もし私たちが旧約聖書における諸事件にまつわる事実をすべて知るなら、神が新約聖書におけると同様、旧約聖書においても憐れみ深いことに気づくでしょう。聖書は明言しています。「神は愛」(Iヨハ4:8)であり、不変であられる、と。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブ13:8)。

十字架にかかられたのは旧約聖書の神であることも、覚えておいてください。この神は、怒ること遅く、誠実で、憐れみ深く、恵み深く、愛にあふれる神でもあられます(出34:6、7)。神は常に変わらぬ愛を持ち(詩編143:8)、御自分に従う者たちを喜ばれます(同147:11)。神は人々を繁栄させ、彼らに希望を与えようと計画しておられます(エレ29:11)。愛のゆえに、神は御自分の民をもはや非難せず、喜びの歌をもって楽しまれます(ゼファ3:17)。これが、そしてそれ以上が、父なる神の真の姿です。

キリストの愛

罪は神から人類を切り離しました。両者の間に深い亀裂が生じ、それが閉じられない限り、人間は永遠に滅びる運命にありました。その溝は深く、危険でした。罪の問題を解決し、罪深い人間と、義にして聖なる神とを和解させるには、まったく信じがたいほどのものが必要だったのです。それには、神御自身とともにおられる永遠のお方、神御自身のように神聖なるお方が人間となり、その人性において御自分を私たちの罪の犠牲としてささげる必要がありました。

ヨハネ1:1〜3、14とフィリピ2:5〜8を読むと、イエスがどのようなお方であるかが教えられています。キリストは永遠の存在であり、だれにも、何にも依存しておられませんでした。彼は神でした。単に神の外見をした者ではなく、神そのものであられたのです。キリストの根本的な性質は、神聖かつ永遠でした。イエスはそのような神性を保持しながらも、肉体において律法を守り、律法を破ったすべての者たち(私たち全員)の身代わりとして死ぬために人間になられました(ロマ3:23)。

キリストは、ほかの人よりも何ら優位なところなく、人間になられました。彼は、内在する神の力によってではなく、だれもが入手可能な外在する神の力に頼ることで、神の律法を守られたのです。

イエスは完全に神であり、完全に人間でした。その意味するところは、「万物を御自分の力ある言葉によって支えておられ(る)」(ヘブ1:3)お方と、「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」(ルカ2:16)が同じだったということ。「すべてのものよりも先におられ、すべてのものは(彼)によって支えられてい(る)」(コロ1:17)お方と、人間の子どもとして「知恵が増し、背丈も伸び(た)」(ルカ2:52)お方が同じだったということ。「(これ)によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハ1:3)お方と、「木につけて殺した」(使徒5:30)お方が同じだったということです。

もしこれらすべてのことが、私たちに対するキリストの愛をあらわしており、私たちに対するキリストの愛が、私たちに対する神の愛のあらわれであるのなら、私たちが、喜び、感謝すべき理由をたくさん持っていることは、驚くに当たりません。

聖霊の愛

聖霊は、父なる神と同じくらいに、これまで誤解されてきました。神学者の中には、聖霊を父なる神と子なる神の間の愛のように考えてきた人もいます。言い換えれば、聖霊は両者の間の愛情にすぎないというのです。これは、聖霊が父・子・聖霊の神を構成する二つの位格の間の関係性におとしめられ、一つの位格そのものでないことを意味します。

しかし、聖書は聖霊の人格を明確に示しています。クリスチャンは、父と子とともに聖霊の名によってバプテスマを受けます(マタ28:19)。聖霊はキリストに栄光を与え(ヨハ16:14)、人々の罪を明らかにし(同16:8)、悲しまれます(エフェ4:30)。彼は弁護者(ヨハ14:16)、助け主、慰め主であり、教え(ルカ12:12)、執り成し(ロマ8:26)、聖なる者とします(Iペト1:2)。キリストは、聖霊が人々をあらゆる真理へ導かれるといわれました(ヨハ16:13)。要するに、聖霊は、父なる神や子なる神と同様に神であられるということです。ともに、三者は一つの神です。聖霊がなさるすべてのことは、神の愛をあらわしています。聖霊がなさることには、いろいろなことがあります(ルカ12:12、ヨハ16:8〜13、使徒13:2参照)。

聖霊が神であられるという最大の証拠は、キリストの受肉です。イエスは聖霊によってお生まれになりました(マタ1:20)。このような「創造」は、神にしかおできになりません。

聖霊は、キリストのために二つの対照的な奇跡を起こすことがおできになります。第一に聖霊は、全能者なるキリストをマリアの胎内に宿らせられました。キリストは人間の肉体のまま、その限られた肉体のまま昇天されました。第二に聖霊は、人性によって限定されたキリストをもたらし、別の説明しがたい奇跡によって、世界中のクリスチャンの前にその姿をあらわしてくださいます。

このように聖霊は、父なる神、子なる神ととともに、私たちのために働いておられます。「三位一体の神の心は、人類に対する哀れみでかき立てられ、父、子、聖霊は、救済計画を立てることに没頭された」(エレン・G・ホワイト『健康に関する勧告』222ページ、英文)。

父なる神、子なる神、聖霊は、私たちを等しく愛し、私たちを神の永遠の国へ救い入れるために働いておられます。そうであれば、私たちはこれほどすばらしい救いを無視できるでしょうか。

救いの確信

アドベンチストの中には、自分は救われるのだろうか、と疑う人がいます。彼らは確信がなく、永遠の命に関して自分の未来を知りたいと思っています。彼らは自分の内面に、人生の旅において自分を励ますものがほとんどないのです。

私たちがイエスの御品性と自分の品性の間の大きな隔たりに目を向けたり、「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタ7:14)といった聖句を読んだりするとき、私たちの内のだれが、自分は大丈夫だろうか、と危ぶむ瞬間を持たないでしょうか。

終末時代に備えるために、今、人々は救いの確信を持たねばなりません。彼らは、恐れずに未来と向き合うために、救いの現実を大いに喜ばねばなりません。しかしすでに触れたように、三位一体の神の、生けるすべての位格は、私たちを救うために働いておられます。それゆえ、私たちは自分の救いの確信をもって生きることができますし、そう生きるべきです。

問1 
次の聖句を読んでください。救い、神が私たちのために成し遂げてくださったこと、約束などに関して、どのような希望と確信を得ることができますか。

 ・詩編91:15、16
 ・ヨエル3:4、5(口語訳2:31、32)
 ・ヨハネ10:28
 ・ローマ10:9〜13
 ・Iヨハネ5:11〜13

私たちは聖い生活を送るようにと召され、また命じられてもいますが、このような生活は、救いを得る手段ではなく、キリストによって救われたことの結果です。私たちは死に至るまで忠実でなければなりませんが、救いという私たちの唯一の希望である賜物にいつも頼る必要があります。終わりの時に、神の民は忠実で、従順であるところを見いだされるでしょう。その忠実さや従順さは、キリストが彼らのために成し遂げてくださったことへの確信から生じるものなのです。

永遠の福音

「永遠の福音」について黙示録14:6、7を読んでください。福音はここで、「永遠の」と呼ばれています。これは、神が不変であられることのさらなる証拠です。不変の神は、不変の福音を持っておられます。この永遠の福音は、それを自ら進んで受け入れる者たちすべてに確信を与えます。その福音は、神の不変の愛を明らかにするものであり、この世に伝える必要があるのは、このメッセージです。だれもがそれを耳にする機会を必要としています。だから神は、それを広めるために御自分の民を召されたのです。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(エフェ1:4、5)。この聖句はいかに福音が「永遠」であるかということについて、述べています。

「天地創造の前に、……キリストにおいてお選びになりました」。まさに「永遠の福音」とはこのことです! この世界が創造される前でさえ、神の御計画は、私たちがキリストにおいて救いを得ることでした。

この聖句のいくつかの語句に目を向けてください—「お選びにな(った)」「神の子にしようと」「御心のままに」「前もってお定めになった」。神は、私たちが「キリストにおいて」永遠の命を得ることを強く願っておられます。これら二つの聖句が、その願いをどれほど示しているか、注目してください。そして、これらすべてを神が永遠の昔になさっていたという事実は(IIテサ2:13、IIテモ1:9も参照)、神の恵みをはっきり指摘し、私たちの救いが私たちにできることや被造物のいかなる功績からもたらされるのではなく、まったく神の愛情深い御品性から生じる行為としてもたらされることを示しています。もし私たちが存在する前に、キリストにおいて救いを得るように私たちが選ばれたというのであれば、どうして私たちのできることによって救いがもたらされうるでしょうか。

そしてこの選びは、選ばれた者たちの生活の中で、いかに明らかにされるのでしょうか。「みまえにきよく傷のない者となる」(エペ1:4、口語訳)ことによってです。私たちが選ばれたのは、そのためでもあるのです。

さらなる研究

私たちは救いの確信を得ることができますが、それに関して思い上がってはいけません。誤った救いの確信というようなものはないでしょうか。もちろん、あります。イエスもそれを注意するようにと言っておられます。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」(マタ7:21〜23)。

この人たちは致命的な間違いを犯しました。第一に、彼らは主の御名によってとても偉大なことをしたにもかかわらず、主の御心を行うこと、つまり主の律法に従うことをしていませんでした。イエスは、「罪ある者ども、失敗ある者ども、不完全な者ども、わたしから離れ去れ」とはおっしゃっていません。そうではなく、イエスは「不法を働く者ども」(ギリシア語の「アノミアン」〔無法〕)と彼らを評しておられるのです。第二に、彼らが自分自身や自分が成し遂げたことを強調している点に注目してください。「私たちはあなたの御名によってこれもそれもあれもしたではありませんか」と。神の前で自己弁護をしようとして自分の行いを指摘するとは、彼らはどれほどキリストから離れてしまっていたことでしょうか。私たちを救う唯一の業は、信仰によって私たちのものと認められるキリストの業だけです。私たちの確信を置くべきはここです。私たち自身や私たちの行いではなく、キリストが私たちのために成し遂げてくださったことです。あなたは確信を得たいと思いませんか。神の律法に従い、キリストの義の功績にのみ安んじてください。そうすれば、あなたは必要な確信をすべて得ることでしょう。

*本記事は、『終末時代への備え』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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