天の聖所におけるキリスト【終末時代への備え】#5

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今回の記事のテーマ

天の聖所におけるイエスについて、ヘブライ人への手紙には次のように記されています。「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです」(ヘブ6:20)。聖書は、特に新約聖書は、天の聖所における大祭司としてのキリストの役割、つまりキリストがこの地上で犠牲としての働きを終えられたあとに担われた役割についてとても明快です(ヘブ10:12参照)。

私たちは今週、天の聖所におけるキリストの働きを研究します。キリストの執り成しの働きは、御自分の民を終末に備えさせるために不可欠です。ですから、私たちには次のような重要な勧告が与えられています。「聖所と調査審判の問題は、神の民によってはっきりと理解されねばならない。すべての者は、自分たちの大いなる大祭司キリストの立場と働きについて、自分で知っている必要がある。そうしなければ、この時代にあって必要な信仰を働かせることも、神が彼らのために計画しておられる立場を占めることもできなくなる」(『希望への光』1833、1834ページ、『各時代の大争闘』下巻222ページ)。

天の聖所において、キリストは私たちのために何をしておられるのでしょうか。それを理解することは、とりわけ終わりの時において、なぜ重要なのでしょうか。

最高の犠牲

キリストという最高の犠牲について学ぶことは、信者を終末に備えさせるうえでとても役に立ちます。人間はしばしば、自分の前方にある目標に目を向けます。それは当然のことです。しかし、目標が自分の後ろにあると自覚することも良いことです。私たちはカルバリーのことを話しています。イエスが私たちのために達成された目標は、不可逆的、最終的なものであり、前にある目標をも確かなものにします。

問1 
ローマ8:3、Iテモテ1:17、6:16、Iコリント15:53を読んでください。なぜ神は御子をこの世に送られたのですか。

神は、肉において罪を罪として処断するために、贖罪の供え物となるキリストを送られました。これは、どういう意味でしょうか。キリストは不死の存在として、死ぬことがおできになりませんでした。それゆえに主は、私たちの身代わりとして死ぬことができるように人間となり、死ぬべき性質をその身に帯びられました。

実際にイエスは神であられたにもかかわらず、「人間と同じ者になられ……へりくだって、……十字架の死に至るまで従順でした」(フィリ2:7、8)。イエスが十字架で死んだとき、キリストの神聖は死にませんでしたが、それは神にしかわからないことです。人間の理解を超えた何らかの方法で、イエスの神性は母の胎内での9か月の間も、墓の中での数日の間も休止状態でしたし、イエスは地上における生涯や働きの中で、御自分の人性を支援するために決して神性をお用いになりませんでした。

ルカ9:22はキリストの死が計画的なものであったことを教えています。キリストは死ぬためにお生まれになりました。あざけられ、むち打たれ、殴られ、痛ましくも十字架にかけられることをまったく考えない時は、一瞬たりともなかったでしょう。これは比類なき愛、これまでに目撃されたことのない、十分に理解されえない愛です。

神の小羊

問2 
ヨハネ1:29、黙示録5:12、13:8を読んでください。これらの聖句が共有している一つの比喩は何ですか。私たちが救済計画を理解するのを助けるうえで、この比喩はいかに重要ですか。

バプテスマのヨハネがイエスを「神の小羊」と呼んだとき、彼は間違いなく聖所に言及していました。より直接的には、罪のためのキリストの死を、贖罪のささげ物として殺されてきたすべての小羊(とユダヤ人の聖所の儀式におけるほかのいけにえの動物たち)の唯一無二の完成だと、彼はみなしていたのです。確かに四福音書は、ほかにどのようなことを教えていようと、突き詰めれば、この世の罪を取り除く神の小羊としての役割においてイエスがなさったことの物語を記しています。

しかし、イエスと、私たちの救いのための彼の働きに関する物語は、彼の死と復活をもってしても、福音書で終わっていません。ヘブライ人への手紙は冒頭から、犠牲の小羊としての働きに続く、天の聖所における大祭司としてのキリストという主題に触れています。十字架後のこの役割の彼に最初に言及してから(ヘブ1:3)、あとに続くこの書のいくつもの章では、イエスを大祭司と呼んでいます。天の聖所における彼の働きは、ヘブライ7章に詳しく描写されています。

問3 
ヘブライ7章を読んでください。イエスについて、著者はここで何と言っていますか。

これらの聖句はとても意味深長ですが、そこで言われていることの要点は、イエス・キリストが、地上の聖所の奉仕におけるアロンの家系の祭司たちよりも優れた祭司職を持っておられるということです。しかし今や、地上の聖所における地上の祭司の代わりに、私たちには、天の聖所で私たちのために奉仕しておられる天の大祭司がおられます。それゆえ、今イエスに私たちの目を向けるなら、私たちは天の聖所における大祭司としての彼を見ることができるのです。

私たちの大祭司

ヘブライ7:24〜27、8:6を読んでください。これらの聖句の中には、すばらしい希望が与えられています。キリストは、ほかのいかなる祭司も持ちえなかったいくつかの資格のゆえに、完全に救うことがおできになります。キリストは神であり、神は罪を赦す権能を持っておられます。彼は変わることのない祭司職を持っておられます。キリストは、かつて病人をいやし、孤独な者を慰められた頃と同じ憐れみを持って、御自分の民のためにいつも執り成しておられます。彼は人間でもありますが、罪なく生まれ、罪のないまま過ごされました。そして罪なき者として、人間のあらゆる罪の信じがたい重圧を受けて亡くなられました。その結果、神にして人間である彼だけが、天の聖所で罪人の執り成しをおできになるのです。

先の聖句はまた、キリストの犠牲が一度限りのものであったことも示しています。それは一度だけ必要とされ、これまでに生きたすべての人に救いをもたらすのに十分でした。詰まるところ、どなたが十字架で亡くなったのかを考えれば、その犠牲がすべての人間にとって十分でないわけがありません。

ヘブライ9:11〜15を読んでください。キリストは、御自分の死と天における現在の奉仕とによって、私たちのために贖いを成し遂げられました。ヘブライ9:12は、キリストが「永遠の贖いを成し遂げられた」と述べています。「贖い」と訳されているギリシア語は、「身請けすること」「解放」「救出」をも意味します。ルカ1:68で、「主はその民を訪れて解放(された)」とゼカリヤが宣言したときに用いられている言葉と同じ言葉です。キリストの血(唯一の完全な犠牲の血)への言及は、この贖い、この解放を成し遂げたのが、いけにえの小羊としてのキリストであられたことを意味します。そしてこの福音のすばらしいところは、キリストがこれを御自身のためではなく、私たちのために成し遂げられたということ、また、その贖いはキリストの犠牲を受け入れるすべての人にとって有効であるということです。

私たちの仲裁者

罪は神と人間の間に恐ろしい分離をもたらしましたが、キリストの犠牲的な死によって、私たち人間は神のもとに導かれ、神に近づき続けることができます(Iペト3:18、エフェ2:18参照)。

問4 
「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです」(ヘブ6:19、20)。これらの聖句によれば、イエスは私たちのためにどのようなことをなさったのですか。

キリストの働きについてヘブライ9:24を読んでください。イエスは先駆者であり、私たちの代表として天の聖所に入り、私たちのために神の御前にさえあらわれてくださいました。つまり、イエスは父なる神の前に立ち、御自分の贖罪の功績、つまり私たちのために「成し遂げられた」「永遠の贖い」を与えておられるのです。

確かに、私たちがイエスを受け入れたとき、私たちの罪は赦され、私たちは神の前に、赦され、清められて立ちました。しかし、私たちがクリスチャンになったあとでさえ、すばらしい勝利の約束にもかかわらず、依然として時折罪を犯すという事実は変わりません。そのような場合には、イエスが天の大祭司として執り成してくださいます。イエスは、悔いている罪人の代理人を務め、(私たちには功績がないので)私たちの功績を訴えるのではなく、私たちのために彼自身の功績を神に訴えてくださるのです。「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(ヘブ7:25)。

贖罪日

ヘブライ人への手紙は、地上のユダヤ人の聖所の奉仕が天の聖所(キリストが入り、私たちの大祭司となられた聖所)のひな型であったと教えています。二つの部屋を持ち、犠牲による清めの儀式を行った地上の聖所での奉仕は、「天にあるものの写しであり影であ……り、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです」(ヘブ8:5)。

地上の聖所の儀式が二つの部屋(聖所と至聖所)における奉仕を含んでいたように、天の聖所におけるキリストの奉仕も同様です。地上の聖所において、裁きの概念は贖罪日に表現され、その日、レビ記16章に記されているように、聖所が清められました。それは、大祭司が第二の部屋、つまり至聖所に入り、民のために清めと贖罪の働きを行った年に一度の時でした。

問5 
ヘブライ9:20〜23を読んでください。何が清められねばならないのですか。このことは、なぜ贖罪日のキリストの奉仕を明確に述べているのですか。

学者たちは、天の聖所自体が「清められねばならない」という言葉に驚いてきました。しかし、ひとたびこれが贖罪日について述べているのだと理解されれば、問題は解消します。ヘブライ9:23は、天の聖所におけるキリストの働きが、イスラエルの聖所で年に一度の贖罪日に大祭司によって行われたことの真の表現であることを示しているのです。地上の聖所を聖める地上の祭司の奉仕は、キリストがいつの日か天の聖所で行われる働きを予示していました。先の聖句は、この天の聖所の清めがキリストの昇天後すぐになされるとは述べていません。私たちはダニエル書の研究から、この奉仕の段階が1844年に始まったと考えることができます。それゆえに私たちは、終わりの時に直面しているクリスチャンとして、自分たちが存在する時代の厳粛さを理解すべきですが、キリストが過去において私たちのために成し遂げてくださったことと、現在、天の聖所の至聖所で行ってくださっていることへの確信の内に生きる必要もあります。

さらなる研究

ヘブライ人への手紙は地上の聖所を、キリストが私たちの犠牲として地上で、また私たちの大祭司として天上で成し遂げてくださることのひな型、写しであると指摘しています。イスラエルの民の聖所は、常に福音の実物教訓となるべきものでした。それはユダヤ人に救済計画を教えるためのものであり、その計画には、犠牲、執り成し、裁き、罪の終結などが含まれていました。その一方、ダニエル書は、天の聖所におけるキリストの最後の働きの終末論的側面を理解しやすくさせるという点で、さらなる光を加えています。

「清め、裁き、擁護を強調しながら、ダニエル書の終末論的幻は、贖罪日の比喩を地球史のまさに終わりに投影している。清めは、天の聖所や、王や祭司としてのメシアの働きに直接結びついている。ダニエル書の幻は時間の要素を取り入れ、メシアが最終的な清め、裁き、擁護の働きを神の天の住まいでお始めになる救済史の中の具体的な時を、読者が割り出せるようにしてある」(『セブンスデー・アドベンチスト神学ハンドブック』394ページ)。

*本記事は、『終末時代への備え』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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