神の刻印か、獣の刻印か【終末時代への備え】#11

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今回の記事のテーマ

モーセと小羊の歌は、今週の暗唱聖句の言葉で始まっています。その歌は、「獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たち」(黙15:2)が天のガラスの海の岸に立つときに歌うものです。どうしたら私たちもその中にいることができるのでしょうか。

終わりの時の神の真の民をあらわす顕著なしるしの一つは、彼らが第三天使の使命を宣べ伝えることであり、そのメッセージは獣の刻印を受けることへの警告です。これ以上に重大な警告は聖書のどこにもないにもかかわらず、この刻印が何であるかということに関して、多くの混乱するような考えが、長年にわたって提案され続けてきました。額のバーコードだとか、クレジット・カードの番号だとか、何らかの生体認証だとかいった考えです。

私たちは、混乱するような考えがバビロンで蔓延することに驚くべきではありません。何しろ、バビロンという名は「混乱」を意味するのですから……。しかし、神の残りの民は、第三天使の使命を力強く宣べ伝えるために、この問題をはっきり理解する必要があります。私たちは今週、獣の刻印とは何であり、(神の刻印を受けることによって)いかにそれを避けるかということに関して、理解を深めたいと思います。

神の民を特定する神の刻印

問1 
旧約聖書時代、神の真の民を特定するものとして二つの外面的なしるしがありました。その一つが割礼でした。このしるしは、だれに初めて与えられましたか(創17:9〜11)。

神はアブラハムとその子孫に、救済の契約のしるしとして割礼をするようにと命じられました。男児は生後8日目に割礼を施されねばなりませんでした(レビ12:3)。しかしこの儀式には、より深い意味がありました。それは心の割礼、つまり心の刷新の必要を象徴するように意図されていたのです(申30:6参照)。だからパウロは、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです」(ロマ2:28、29)と書いています。

Iコリント7:19、ガラテヤ5:6、6:15などの聖句は、新約聖書において、割礼がバプテスマに取って代わられたことを示しています。バプテスマは、回心、「新しく創造されること」、罪に死に、新しい命に復活することを象徴しているのです(ロマ6:3、4)。それゆえパウロは、割礼はもはや重要ではない、本当に大切なのは「愛の実践を伴う信仰」と「神の掟を守ること」だ、と言います。

問2 
神が御自分の民を特定するために与えられた第二の外面的なしるしは、何でしたか(出31:13、17)。それはなぜ与えられたのですか(エゼ20:12、20)。

割礼はアブラハムから始まったにすぎませんが、しるしとしての安息日は、天地創造にまでさかのぼることに注意してください(創2:2、3も参照)。それゆえイエスは、創世記に言及しつつ、「安息日は、人のために定められた」(マコ2:27)とおっしゃいました。安息日は、私たちが創造と贖いによって神のものであることを示しています。なぜなら、神は私たちを創造するとともに、私たちを義なる者とし、清めてくださるからです。それゆえパウロは、割礼はもはや重要でないと言いますが、(安息日を含む)神の掟を守ることは、依然として重要であると主張しています(ヘブ4:9参照)。

獣と偽りの礼拝

次の聖句を読んでください(黙13:17、14:9、10、16:2)。これらの聖句は、「獣の刻印」を避けることがいかに重要であるかについて、どのようなことを教えていますか。

混ぜものなしの神の怒りを受け、最後の七つの災いで罰せられ、最終的に火の海に投げ込まれる……。獣の刻印を拒絶し、ガラスの海の岸に立って誇らしげに神と小羊をほめ歌う人たちと、なんと対照的なことでしょう!

だれもが押されたくないこの刻印とは、いったい何でしょうか。明らかに、先の聖句はそれを偽りの礼拝と結びつけています。先の課で触れたように、ダニエル7章の第四の獣の勢力は、その後半の段階において(黙示録13章の海の獣によっても描かれているように)、「時と法を変えようとたくらむ」(ダニ7:25)のです。その勢力が変えようと考えた一つの律法が、十戒の第四条、安息日でした。その戒めは、十戒の中で唯一時間に関係しており、また神を、「天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれた」(出20:11)お方として直接指し示しています。

重要なことに、第一天使の使命は、獣の勢力が変えようとしたこの掟を私たちに指し示し、私たちが主だけを創造主として礼拝すべきであることを明らかにしています。実際、黙示録12章から14章において礼拝に言及している七つの聖句の中で、これ(黙14:7)だけが真の礼拝に関するもので、ほかの六つは、獣とその像を拝む偽りの礼拝を警告するものです(同13:4、8、12、15、14:9、11)。第三天使が、この偽りの礼拝に携わる者たちの運命について述べた直後に、神の真の礼拝者たちは、「ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である」(同14:12)と説明されています。

言い換えれば、これら三つのメッセージを宣べ伝えることで、すべての人間が二つのグループに分けられます。(第七日安息日の掟を含む)神の掟をすべて守ることによって創造主を拝む人たちと、獣とその像を拝む人たちです。やがてこの偽りの礼拝形式は、安息日の掟を守ることで創造主を拝むことに代わるものを提供します。

神の刻印

刻印は、サインと同様、書類の正当性を立証するために使われます。古代においてそれは、真正性や所有権を示すために柔らかいや粘土に押された印であり、その印の背後には所有者の権威(権限)がありました。

問4 
神の刻印とは何ですか。それはいつ、どのように押されるのですか(エフェ1:13、14、4:30、IIテモ2:19、黙7:1〜4、14:1)。

神の刻印は、神の民に対する神の所有権と保護のしるしです。パウロは刻印を押すことを、回心と聖霊の賜物を受けることとのつながりで説明しています。彼はこの賜物を、イエスが来られるときにすべての信じる人が受け取る未来の財産と完全な贖いの保証として彼らに与えられる「手付金」、「頭金」と呼んでいます。

ヨハネの黙示録は、再臨の直前に押されるもう一つの刻印を描写しています。この最後の刻印は、後の雨が降り注ぐときに14万4000人に押されるものです。彼らの額には神の名前(あるいはサイン)が記されています。彼らは、彼らの生活の中における聖霊の働きによって、神の御品性を反映するようになります。

問5 
神の刻印と獣の刻印を比較してください(黙7:3、14:9)。両者の違いは何だと述べられていますか。

神の刻印は神の真の礼拝者に押され、獣の刻印は獣の礼拝者に押されます。神の刻印は額にだけ押され、そのことは、神がお命じになったとおりに神を礼拝しようとする明確な知的選択を示しています。一方、獣の刻印は額か手に押されます。これは、人々が二つの理由のいずれかのために獣を礼拝するということです。彼らは頭の中で、自分が本当に神を礼拝していると思って獣に同意するか、あるいは、獣に同意はしないものの、従わない場合の深刻な結果を恐れるがゆえに賛成します。その深刻な結果とは、物を買うことも売ることもできず、最終的に殺されることです(黙13:17:15)。

「この世と結びついている者たちは、この世的な性質になり、獣の刻印を押される準備をしつつある。自己を信じることなく、神の前に自分を低くし、真理に従うことで魂を清めつつある者たちは、天の性質になり、神の刻印を額に押される準備をしているのである」(『教会への証』第5巻216ページ、英文)。

獣の刻印

私たちが押されないようにすべきこの獣の刻印とは、何でしょうか。先の課で触れたように、ダニエル7章の第四の獣の勢力は、その後半の段階において(黙示録13章の海の獣によっても描かれているように)、「時と法を変えようとたくらむ」(ダニ7:25)のです。その勢力が変えようとたくらんだ一つの律法が、十戒の第四条、安息日でした。その戒めだけが神を、「天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれた」(出20:11)お方として直接指し示しています。

その一方で、第一天使の使命は、獣の勢力が変えようとしているこの掟を読者に指し示し、私たちが主だけを創造主として礼拝すべきであることを明らかにしています。続いて、「獣とその像」(黙14:9)を拝む人たちの運命についての警告のあと、神の忠実な民が黙示録14:12で描かれています。

問6 
黙示録14:12を読んでください。背景を考えるとき、神の忠実な民に関するこの説明は、なぜ安息日が終末の諸事件にとって中心となるかを理解するうえで、いかに助けとなりますか。

黙示録14:12には、「ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である」と書かれています。すでに触れたように、「神の掟」には、創造主なる神、礼拝されるべき唯一のお方を指し示す第四条(安息日)が含まれています。それゆえ、多くの人が「獣の刻印」の問題を日曜礼拝の問題と直接関係しているとみなすのも不思議ではありません。日曜礼拝は、聖書の中に命じられている第四条を守ることとは対照的に、聖書で命じられていない偽の「安息日」を守ることだからです。

これは、日曜日に神を礼拝するクリスチャンたちが、今、獣の刻印を受けているという意味なのでしょうか。いいえ、そうではありません。黙示録13:15によれば、獣を拝む偽りの礼拝に参加することを拒んだ者たちは殺されます。それは、最終的に生きるか死ぬかの問題になるのです。しかし明らかに、諸事件はその段階にまだ至っていません。獣の刻印は、このような最終試験がなされるまでは押されないでしょう。ですから、だれ1人として、まだ獣の刻印を受けていません。

刻印としての安息日

すでに触れたように、第七日安息日は、アダムとエバに始まり、イスラエルの時代にも続き、歴史を通じてずっと神の真の民のしるしでした。また私たちは、新約聖書の教会においても、イエスや使徒たちの順守によって安息日が存続しているのを見ますし、それが「神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける」(黙示14:12)終末時代の神の民の際立ったしるしだとみなしています。

問7 
なぜ安息日は重要なのですか(出20:8〜11)。安息日はクリスチャンにとって、どんな特別な意味を持っているのですか(ヘブ4:9、10)。

安息日は、十戒の真ん中に登場します。安息日は創造主によって、主の権威のしるし、刻印として与えらました。安息日は、「あなたの神、主」という名前によって、創造主を特定します。また安息日は、創造主が支配権を持っておられる領域、つまり「天と地と海とそこにあるすべてのもの」を特定するとともに、その権威の根拠、つまり「六日の間に主は天と地……を造り、七日目に休まれた」ことを特定しているのです。

新約聖書は、神がイエスによって万物を創造されたと認めています(ヨハ1:1〜3、コロ1:16、ヘブ1:1、2)。私たちの世界を6日間で創造し、7日目に休まれたのはイエスです。それゆえ、イエスが金曜日の午後に十字架にかけられたとき、「成し遂げられた」(ヨハ19:30)と叫ばれたことは極めて重要です。イエスは、天地創造の業を終えられたあと、安息日に休まれたように、私たちの贖いのために私たちに代わって死ぬことで犠牲の働きを成し遂げられたあと、安息日を墓の中で休まれました。ですから、安息日は二重に祝福されています。最初は天地創造において、次には十字架において。それゆえヘブライ人への手紙によれば、クリスチャンは安息日に休むことで、「神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだ」(ヘブ4:10)ことを示すのです。安息日は、私たちが自分自身を救えないということ、最初から最後まで、救いは信仰によって可能となるキリストの働きであるという事実の完璧な象徴なのです(ヘブ12:2と比較)。

さらなる研究

「神の民が額に刻印—それは目に見える印やしるしではなく、知的かつ霊的に真理に慣れ親しむことであり、それゆえに消し去られない—を押されるとすぐに、すなわち神の民に刻印が押され、ふるいの備えができるとすぐに、それはやって来るだろう。確かに、ふるいはすでに始まっている。神の裁きは今や大地に臨んでいるので……私たちはどのようなことが起きるのかを知ることができる」(『私を生かす信仰』288ページ、英文)

「安息日は、特に論争点となっている真理であるから、忠誠の大試金石となる。最後の試練が人々を襲う時、神に仕える者と神に仕えない者の区別が明らかになる。第4条の戒めに反して、国家の法律に従って偽りの安息日を守ることは、神に敵対する権力に忠誠を尽くすという表明であり、一方、神の戒めに従って真の安息日を守ることは、創造主に対する忠誠の証拠である。一方は、地上の権力に服従するしるしを受け入れることによって、獣の刻印を受け、他方は、神の権威に対する忠誠のしるしを選んで、神の印を受けるのである」(『希望への光』1893、1894ページ、『各時代の大争闘』下巻375ページ)。

*本記事は、『終末時代への備え』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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