われわれはどのような人であったか(エフェソ2の1~3)
しばしばローマ書の縮小版と呼ばれている、エフェソ2章1~10節は、イエス・キリストの福音を力に満ちた劇的な運動として描いています。それは、死から命へ、罪から義へ、分離から一致へ、異邦人から神の作品へと導く運動です。この聖句において、パウロは神の家族の形成を三つの段階で紹介しています。すなわち、われわれがどのような人であったか、神はわれわれのために何をなさったか、そして、今日われわれはどのような人であるか、の三つの段階です。
われわれのほとんどは過去のすべてについて誇ることはできません。われわれは皆、できれば忘れてしまいたいと思う何かを持っているものです。聖書はわれわれの過去の状態を一つの言葉で、われわれの過去の身分をもう一つの言葉で述べています。「罪」がわれわれの状態を、「死」がわれわれの身分を表現する言葉です。われわれは「以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」(エフェソ2の1)とある通りです。
われわれは罪を否定し、救い主の必要をあざ笑う世界に生きています。偽りはもはや欺こうとする試みではなく、本当でなくなった表現です。男性と女性との間の禁じられた関係は、もはや姦淫ではなく、公に知られるようになった素行上の過失です。その従業員を破滅に導く会社の操作は、もはや詐欺事件ではなく、管理上の失敗となっています。
このような罪の否定症候群に対抗して、パウロは罪とその究極の結果である死の現実を明確に描いています。キリストのもとに来る以前、われわれは皆、「過ちと罪」のために死んでいたのです。パウロにとって罪はあまりにも悪く、人を誤らせるもので、それは創造のときに与えられた栄光を人間から奪ってしまいました。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ローマ3の23)。「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。……正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3の9、10)。もし誰かが、それは人間の状況ではない、と敢えて主張するとすれば、聖書はその人を偽り者と呼ぶのです(ヨハネ一 1の8~10)。
もし罪がその存在と力において普遍的であれば、罪の結果も同じく普遍的です。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6の23)と使徒は言います。罪は実に忠実に支払う主人であることをわれわれは良く知ることができます。当然受けるべきものをわれわれは受け取るのです。死はわれわれの運命であり、罪の当然の結果です。神から離れた人生は、死の人生です。道徳的に正しく、良いことをなし、社会で尊敬されるかもしれませんが、人生にキリストの御臨在がなければ、われわれは霊的に死んでいるのです。われわれは聖霊の働きに対し鈍感です。神の御声を聞くことができません。神の御計画を見ることができません。神の子らを無視します。人と人とを隔て、一団の人々を他の一団から区別する隔ての壁を築きます。われわれは死んでいるのです。
しかし霊的な死は不活動を意味しません。事実、それは罪の創始者であるサタンに支配されて活動的な人生を送ります。パウロは、キリストのないこのような人生を三つの描写で表現しています。
第1に、われわれが「この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、……に従って、歩いていた」(エペソ2の2 口語訳)ような人生です。パウロが「この世のならわし」と述べる時、彼は聖書の神を度外視して作用している体系を指しています。それは自分たちの神を持つ世界です。それは、「空中の権をもつ君」に従って作用します。その君とは、イエスが「この世の支配者」(ヨハネ12の31)と呼んだサタンのことです。彼は、「不従順な者たちの内に今も働く霊」(エフェソ2の2)です。われわれがキリストを見いだす以前、われわれは彼の支配の下に生きていたのです。
第2に、キリストを度外視した人生は、不従順な人生です。パウロはキリストなしに生きている人々を「不従順な者たち」と述べています。キリストのない人生は、自分自身の道を求め、自分自身の標準を設け、神への不従順を独立の品質証明とします。しかし現実は、このような不従順の中に自由など存在しないのです。神から離れて行く人生は、サタンにより近づく人生であり、「肉や心の欲するままに」(3節)束縛されている人生なのです。
「肉の欲望」という言葉で、パウロは何を意味しているのでしょうか? 最初に思い当たるのは、性的な罪ですが、それは全体の僅か一部分に過ぎません。パウロが挙げている「肉の業」の罪のリストの中では(ガラテヤ5の19~21)、彼は姦淫と不品行から始めています(新共同訳では「姦淫」、口語訳では「不品行」から始まっている――訳者註)が、その後で、更に「わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」と付け加えています。
われわれはキリストなしの人生を送ってはいないので、内心ほっとしてはいるものの、キリストの弟子だと自認している人々の間に、高慢、そねみ、ねたみ、敵意、争い、不和等の罪が何としばしば見られることでしょう。差別の壁、無責任な快楽、十字架を避ける弟子、交わりのない礼拝、等々が見受けられる所ではどこでも、われわれは肉の業が働いていることが分かります。「肉」は戦うべき強敵であり、自我は執念深いわれわれの敵なのです。それゆえに、エレン・ホワイトは、次のように述べているのです。「わたしたちは、情と欲と共に自分の肉を十字架につけなければならない。ではどうすればよいか。からだに苦痛を加えるべきであろうか。加えてはならない。だが罪の誘惑にとどめをさしなさい。堕落した思いを追い払いなさい。すべての思いをイエス・キリストの中にとりことしなさい。すべての動物的な欲望を、魂のより高い力に屈服させなさい。神に対する愛が最高に支配していなければならない。キリストは分裂していない王座にすわりたまわねばならない」1
第3に、キリストを度外視した人生は、神の怒りの下に生きている人生です。キリストのもとに来る以前、エフェソの信徒たちは、「生まれながらの怒りの子」(エペソ2の3 口語訳)でした。罪は間違いなく神の怒りを招きます。神は、罪は憎まれますが、罪人をこよなく愛しておられるので、その罪人にかわって死ぬために、神はそのひとり子をお与えになられたのです。
罪に対する神の憎しみは、罪人に移される筈はないし、また移されてはならないのです。これが神の怒りの意味ではありません。怒りとは、罪に対する敵意の中に示されている神の義であり、神の御意志に逆らうことへの妥協を拒む神の神聖さであり、罪を断罪し罪を宇宙から除去するという神御自身の決意なのです。怒りとは、罪に対する裁きにおける神の独自の態度なのです。われわれがキリストのもとに来る以前は、われわれは罪と反逆の中に生きていて、神の裁きと断罪の下にありました。しかしそうだからと言って、われわれはその怒りから逃れる術がないというわけではありません。事実、1節と4節は、神御自身が、われわれを生かしてくださったキリストにより、われわれの窮境に対する解決を備えてくださったと確言しています。
神がわれわれのためにしてくださったこと(エフェソ2の4~6)
このように惨めな過去を前にして、われわれは一体何をしたらよいのでしょうか? 死んだ人に何ができるというのでしょうか? できないのです。全く何もできないのです。教育を試みてください。教育は、確かにわれわれの知的な道具を磨き、自然及び自然の複雑さについての知識に光を与え、われわれの環境認識を広げてくれるかもしれません。教育はまたわれわれの経済的均衡を改善するかもしれません。しかし教育ができることはそこまでで、それには罪の束縛からわれわれを解放する力は全くないのです。人道主義を試みてください。それは、他者との折り合いをうまく生き、道徳的善の高貴な理想を強調し、共通の善のために自己犠牲の高みにわれわれをつれて行く助けとなるかもしれません。リンカーンやガンジーを生み出すことさえできるかもしれません。しかし、人道主義ができることはそこまでで、それは罪を否定する分野においてのみ存続するのです。
心理学を試みてください。それはわれわれの内面を奥深く精査し、成長の可能性を発見する助けとなるかもしれませんが、結局は人間性の邪悪の現実に譲らなければなりません。その他の何を試みても結局は、とりことなっている人間パウロの「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7の24)との劇的な叫びに帰結するのです。
パウロはまた歴史がくだす大胆な判決、「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6の23)という言葉も記しました。しかし使徒は、この絶望的な表明に対する論理的必然性を持つと思われる命題、「義が支払う報酬は命です」とは続けませんでした。もし仮に聖霊が霊感によってパウロにこのような逆の判決を書くようにと導かれたとしたら、人間はわれわれは善をなし生きることができると述べて自らを誇ることができたでありましょう。なぜならば結局のところ、もし罪が死をもたらすのであれば、罪の反対のものは、死とは反対のものを当然もたらす筈であるからです。もしわたしがわたしの罪のゆえに死を得たのであれば、罪の反対のことを行うことによって、死とは反対のものを得ることができる筈です。このように述べることは全く論理的です。事実、すべての哲学的、宗教的体系は、人間の邪悪からの救いは人間自身の中に見いだし得る、という基礎の上に築かれているのです。
しかしパウロにとってはそうではありません。パウロにとって罪とは、行為における落ち度ではなく、創造者との関係の断絶であり、神に対する反逆であり、神への服従の拒絶です(ローマ8の7)。神に対する反逆には、一個人の存在のあり方以上のものが含まれており、神の愛と義と神聖という宇宙的な問題が伴っているので、この断絶を人間の意志や力に基づいて回復しようとするどのような試みも、神の主権とは相容れないものなのです。自分の過ちと罪のために死んでおり(エフェソ2の1、5、コロサイ2の13)、「死に値する」(ローマ1の32参照)存在なので、罪人は疎外感と絶望感を持って生きています。従って罪の問題からの出口は、罪人や罪人の周囲には存在し得ないのです。ではどうすればよいのでしょうか? 「過ちと罪のために死んで」いるわれわれを一体誰が救ってくれるのでしょうか?
エフェソの信徒への手紙2章4~9節は、その答を与えています。この聖句は、短い劇的な次の言葉で始まっています。それは、「しかし、……神は」です。われわれは反逆していました。しかし、神は……。われわれは肉の欲に従って歩いていました。しかし、神は……。われわれは怒りの子で、希望もなく見捨てられた罪人で自らを救うことができませんでした。しかし、神は……。われわれは死んでいました。しかし、神は……。この短い言葉が聖書の中に明記されている限り、われわれには希望があるのです。
神が罪やサタンや死の問題に対する唯一の解答です。命を創造されたお方には、死からわれわれを救い出す力があります。「その力は絶対であり、それはまた神に頼る者には、すべての約束が確実に成就するという保証である。神はすべての困難を除去する手段を持っておられるが、それは神に仕え、神が用いられる手段を尊ぶ者を支えるためである」。2「しかし、……神は」です。
「しかし、なぜ?」と罪人は尋ねます。なぜ神は罪の束縛からわれわれを救い出すために介入されたのでしょうか? われわれは死に値するものでした。なぜ神はわれわれを救うことをお選びになられたのでしょうか? なぜ神はアダムとエバが自ら選んだ滅びに放置されなかったのでしょうか? 使徒はこれに対して二つの答を与えています。
第1に、神が「憐れみ豊か」(2の4)であるからです。憐れみは神の御品性の本質です。「あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも……ないからである」(申命記4の31)。神の憐れみはとこしえに絶えることがありません(詩編106の1)。われわれをキリストの内に生きるようにしてくださったのは、この神の不変の優しさと憐れみのおかげです。
第2に、神が「わたしたちをこの上なく愛して[アガペー]」(エフェソ2の4)くださるからです。神の永遠の愛――与える側の無我と受ける側の無価値――こそ、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」(ヨハネ3の16)に、その独り子をお与えになった根拠です。
愛は、われわれに代わって死ぬために御子を与えられた神の主要な動機でした。パウロは、御子という神の賜物が、われわれが神の敵であった時に与えられたと述べています(ローマ5の7、8)。ここに測り知れない神の愛の性質が表されています。それは、愛されるに値しない者への愛であり、敵への愛であり、われわれが罪と死から救われるために神の御心を空しくされた愛です。
パウロは、神がキリストを通して完成された事柄を説明するために、三つの句を用いています。その三つの句のギリシア語には、「と共に」という意味の、同じ接頭辞「シン」が付けられています。この接頭辞には深い意味があります。神がキリストを通してなされた事柄は、ギリシア人にもユダヤ人にも信じるすべての者に等しくなされたものです。われわれは神の贖いの業の祝福に、相互に共に、そしてキリストと共にあずかるのです。
「(神は)わたしたちをキリストと共に生かし」(エフェソ2の5)。「わたしたちを……生かし」とは、自分の「過ちと罪」のために死んでいたわれわれを、神は死から救ってくださったという意味です。キリストにあって、霊的に死んでいた者が霊的に生きる者へと造り変えられるのです。
次いで、神は「キリスト・イエスによって共に復活させ」(6節)。イエスの復活がなければ、救いは現実のものとはなり得ませんでした。イエスが生きておられるので、われわれもまた生きるのです。われわれが生きる新しい命は、キリストの復活の力を証しするばかりでなく、共に生きる新しい共同体の証しでもあります。最終的な分析では教会は復活の家族です。
最後に、「(神はわたしたちを)キリスト・イエスによって……共に天の王座に着かせてくださいました」。ここに、神の贖いの御計画の究極の実現があります。キリストによって神はわれわれを罪から救い、霊的死から甦らせてくださったばかりではなく、われわれに、天においてキリストと共に王座に着くという、究極の特権をも与えてくださるのです。それは、キリストにあって死んでいるすべての者が、雲に乗っておいでになるキリストに会うために、キリストの再臨の時に復活し、天において共に生きるという大いなる終末論的結合の時に実現します(テモテ二 2の12、黙示録22の5)。
われわれが「共に」王座に着くということを、使徒が強調している点に注目しましょう。「わたしたち」には、ユダヤ人と異邦人が共に含まれています。天における大いなる交わりの席では、人々の間に何の区別もありません。皮膚の色の違いも、民族の違いも、言葉の違いも、性の違いも、国の違いもこの天における集いの障害にはなりません。これが回復された関係の良い知らせです。しかし天においてわれわれが共に座す以前に、この地において僅かでも天の雰囲気を味わうべきではないでしょうか?神の3重の御業に対するパウロの喜悦は、エフェソ2章7節においてその頂点に達します。「こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです」。何という特権でしょう! 地から贖われた者たちは、神の愛と恵みを擁護するために立つのです。全宇宙が神は愛であることを証しします。こうして、大争闘においてサタンが神に対してなしたすべての非難が、無効になるのです。
神の恵みの働き(エフェソ2の7~10)
われわれがいかにして救われるかについての全過程が、エフェソ2章8、9節に要約されています。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」。使徒はここで何と言っているのでしょうか? 単純に述べると次のようになります。すなわち、神の恵みは、われわれの救いの根拠です。われわれの行いは、救いに何の役にも立ちません。われわれには誇るものは何もありません。われわれがすべきことは、救いを賜物として、キリストを信じる信仰によって受けることです。これをもう少し詳しく考えましょう。
神の恵みによってわれわれは救われます。恵みとは、われわれに対する分に過ぎた神の好意である、という定義をわれわれはよく知っています。恵みは、人類を贖うための神の行動の背後にある愛の力です。罪人としてわれわれは死に値します。神はわれわれに命をお与えになります。われわれは離れています。神はわれわれに和解をお与えになります。われわれは裁きの下にいます。神はわれわれに自由をお与えになります。われわれは遠い国にいる放蕩者です。神はわれわれを家に導かれます。これらは皆無償です。
神の恵みは、神の贖罪的主体性と働きの土台です。パウロが、「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(テトス2の11)という時、彼は神の抽象的な特質ではなく、イエス・キリストの躍動的な歴史上の出来事――より具体的には十字架上のキリストの行為――について言及しているのです。その行為とは、罪人に対する神の恵みと愛の究極の啓示です。その行為が、罪の赦しと罪の束縛からの解放を可能にしたのです。従って恵みとは、罪から人類を救うためになされる神の主体的な行動なのです。他の方法は通用しません。
いかに善良で高貴なものであっても、人間の行いは、罪を赦す神の行為とは何ら関係はありません。救いに関する限り、恵みと行いとは、二律背反の原理です。救いは信仰により、恵みのみによるものです。神の恵みに人間の何物かを加えることなど一切必要はありません。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェソ2の8、9)と使徒は述べています。この原則は、ローマ書においては他の方法で強調されています。「もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります」(ローマ11の6)。
エフェソの信徒へのパウロのメッセージは、聖書の他の教えとも完全に一致しています。罪からの救いは、神の恵みによって与えられる無償の賜物です。いかなる罪でも赦されないほど大きなものはありません。どんな人でも赦しが届かないほど遠くにはいません。「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(ヨハネ6の37)とは神のお約束であり、御配慮です。
ダビデの経験は一つの良い実例です。貪欲、姦淫、殺人という大きな罪を犯した後に、ダビデは次のように祈りました。「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください」(詩編51の3、4)。ダビデは、神の赦しを彼がなした偉大な業績を根拠に求めませんでした。彼は、彼が神の御名のために立ち上がり、神のすべての敵の前でその御名を擁護した彼の輝かしい過去を盾に、救いを求めませんでした。ダビデは、彼のいかなる良い行いも、彼の罪から彼を救うことはできないことを知っていました。そこで彼はへりくだり、自分自身を神の御足元に投げ出して、次のように願ったのです。「神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください」(12節)と。
すべての者はダビデのように、ただ恵みのみによって救われるのです。ジョン・ニュートンは、神から遠く離れた人生を送っていました。彼は神の似姿に創造された多くの男女の尊厳を否定する奴隷商人でした。しかし彼は自分自身が無力で希望のない存在であることを悟りました。彼が神の恵みという無償の賜物によって赦しを見いだした時、この有名な詩を歴史に残したのです。
「おどろくばかりの
めぐみなりき
このみのけがれを
しれるわれに」(聖歌、229番より――訳者註)
そうです、神の恵みは驚くばかりの、無償で大きく、常に確かな賜物なのです。救いは、この恵みの無償で不相応な賜物なのです。
しかし、人間の側ですべきことは何でしょうか? われわれがなすべきことは、神がキリストを通してなされたことを信じ受け入れることです。パウロは、「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」(エフェソ2の8)と言いました。これに加えて、イエス御自身の確証もあります。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3の16)。罪人としてわれわれがなすべきことは、ただ信じて十字架の下に行くことです。そこにおいてわれわれは、十字架につけられたお方を見つめ、そのお方の中に、われわれの身代わりのお姿を見なければなりません。われわれは、そのお方が、われわれの罪のために死なれたことを認めなければなりません(ローマ5の8、14の15、コリント一 15の3、コリント二 5の14参照)。そのお方の体は、われわれのために砕かれたのです(ルカ22の19、コリント一 11の24参照)。そのお方の血は、われわれのために流されたのです(ルカ22の20、コリント一 11の25参照)。われわれがそのお方を、信仰によってわれわれの救い主として受け入れる時、そのお方の死は、われわれの死を相殺するのです。そのお方の命が、われわれの命となります。われわれは、「われわれの主イエス・キリストの永遠の命である神の無償の賜物」を受けるのです。
われわれがなすべきことはこれだけです。すなわち、「主イエスを信じなさい。そうすれば、……救われます」(使徒言行録16の31)。ただこれだけなのです。しかし人間の誇りや傲慢が良い行いによる救いを主張します。行いによる義の教理は、罪そのものと同じくらい昔から存在していました。アダムとエバは、彼らの裸を覆うために自らの手で葉の衣をつくり、更に悔い改めて神の御前に行こうとはしないで、彼らの創造主から身を隠したのではなかったでしょうか? カインは、自分の手の業によって神に近づこうとした愚かな行為を認めようとしないで、殺人の方を選んだのではなかったでしょうか? アブラハムとサラは、神の約束によりすがろうとしないで、契約の約束を、ハガルによって実現しようとしたのではなかったでしょうか? 「人は自らのわざによって自分自身を救うことができるという原則が異教のすべての宗教の根底にあった。……サタンがこの原則をうえつけたのであった。この原則を信じているところではどこでも、人は罪に対する防壁がない」3
パウロは、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」(ガラテヤ2の16)と述べるほど確信がありました。エレン・ホワイトは、キリストの義の衣について、「天の織機で織られたこの衣には、人間の創意による糸は一本も含まれていない」4と記しています。
しかし、恵みがいくら無償であると言ったとしても、それが高価なものではないという意味ではありません。それはただ受け手に関してのみ、無償だと言えるのです。与える者にとっては、その代価は膨大で、計算できないほど高価なものです。神の恵みの行使によって罪を解決しようとする、神がお選びになられた方法は、神の御子の命という代価が必要なのです。神のこの愛の行為の価値を誰が計算できるでしょうか? ゲッセマネと十字架は、神がいかに罪を憎んでおられるかを示しているばかりでなく、救いの計画の実践が、神にとっていかに高価なものであるかをも示しているのです。エフェソ1章7、8節には、支払われたその価が明らかに記されています。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、……」。神と神の恵み、キリストとキリストの血、われわれの罪とわれわれの赦し、これらすべてのものがこの一つの素晴らしい聖句の中で述べられていて、神が既になされたことにわれわれが付け加えるものは何もないことを示しています。人間のあらゆる誇りよ、消え去れ! すべての者よ、ただ信仰によって応答せよ! そしてイエスの血によって罪から解放されよ(黙示録1の5)!
その後、何があるのでしょうか?
今日われわれはどのような人であるか(エフェソ2の9、10)
パウロの救いの物語は、赦しだけでは終わっていません。パウロは死から命へ、神の作品へと進んでいます。かつてわれわれは、「過ちと罪」のために死んでいました。今は、「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」(エペソ2の10 口語訳)。救いは、自己を矯正することでも、自己を改善することでもありません。事実、救いは神の創造であり、再創造であり、新しい創造なのです。創造者のみがわれわれの贖い主となり得るのです。そして今やわれわれを御自身の作品として――「来るべき世に」(2の7)御自身の恵みと愛とを展示する神の傑作として――形造っておられるのです。
パウロはもう一つ重要な事実を加えています。われわれは、神の作品として「良い行い」をするようにと造られました。それは、われわれがもはや世に従ってではなく、われわれを救われたお方に従って歩いていることを、すべての人々が証しするためです。救いは無償です。しかし、それは責任から解放されることを意味してはいません。イエスは、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と言われました。
服従は救いの前提条件ではありませんが、「行いを伴わない信仰は死んだものです」(ヤコブ2の26)とあるように、救いに不可欠なものです。多くのクリスチャンは、弟子となることが最終目標だと考えています。弟子となることは到達点ではありません。弟子となることは旅路の過程であって、その旅路は、われわれが贖い主であるキリストを受け入れ、キリストにつながることによってのみ継続できるのです(ヨハネ15の4)。一旦この継続的なつながりが、神の力を信じることによって築かれるとき、自然な結果として実が実るのです。原理は単純です。最初に恵み、次いで服従。最初に愛、次いで愛の実です。
弟子の役割として服従を否定することはどのようなことであっても、恵みを安価なもの、無益なものとします。ナチスが支配していた頃、この恐るべき集団に反抗したドイツの神学者、ディトリッヒ・ボンヘッファーは、「安価な恵み」という言葉を造りました。「安価な恵みとは、悔い改めを求めることなく赦しを説くことであり、教会の懲戒なき洗礼、懺悔なき聖餐、個人的罪の告白なき赦しの宣言である。安価な恵みとは、弟子をつくらない恵みであり、十字架のない恵みであり、生き、受肉されたイエス・キリストのいない恵みのことである」5
イエスが人をお召しになる時、背負うべき十字架をお与えになります。ルターが定義したように、クリスチャンとは、「クルシァン」、つまり、「十字架の人」のことです。弟子であるとは、神の作品であるということです。
参考文献
1 エレン・G・ホワイト著『アドベンチストホーム』、131頁
2 エレン・G・ホワイト著『ミニストリー・オブ・ヒーリング』、466頁。『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』、489、490頁
3 エレン・G・ホワイト著『各時代の希望』上巻、26頁
4 エレン・G・ホワイト著『キリストの実物教訓』、291頁。『豊かな人生の秘訣』、210頁
5 Dietrich Bonhoeffer, The Cost of Discipleship (New York: The Macmillan Co.,1965),p.36.
この記事は、ジョン・M・ファウラー(山地明・訳)『エフェソの信徒への手紙』からの抜粋です。