「そのころは、キリストとかかわりなく」(エフェソ2の11、12)
1793年、ウイリアム・キャーレイがインドのカルカッタに到着した時、ラム・モハン・ロイとすぐに友だちになりました。この人は敬虔なヒンズー教徒でしたが、カースト、幼児結婚、寡婦殉死( ヒンドゥー教の世界では、サティーとよばれる、夫に先立たれた妻が夫の火葬の火で焼かれるという風習が戦前まであった。現在は禁止されている)など幾つかのヒンズー教の社会的慣習を拒否していました。友人として、キャーレイとロイは、自分たちのそれぞれの宗教の社会的な立場について、長い間意見を交換しました。ロイは山上の説教に大いに影響されました。キャーレイとロイは、一緒になって、将来のインドの生活に大きな影響を与えた社会改革に着手しました。
キャーレイは、福音の力は変化をもたらすことができる、と信じていました。ロイは、すべての人間の中にある基本的な善意に訴えれば、社会悪を拒否し、善を抱くようになると信じていました。この2人の人たちが始めた社会改革は、やがて、幼児労働、幼児結婚、寡婦殉死などを非合法化するインドの法律制定をもたらし、すべての男女の基本的人権を認める方向へと歴史的転換をさせました。
しかし、一つの事柄がラム・モハン・ロイを大いに悲しませました。それはクリスチャンの信仰と行為の不一致でした。当時、そして現在も、多くの偉大な知識人たちが、福音の素晴らしい真理を受け入れなかったのは、この不一致のせいであったと信じている人々がいます。かつてイギリスを訪問した時、ロイは、リバプールの牧師であるトーマス・ラッフルスの家を訪れました。兄弟関係の話題に会話が進みました。その時このヒンズー教徒の社会活動家は、すべてのクリスチャンが心すべき意見を述べました。「あなたがたは、皆キリストにあって一つであり、皆兄弟であり、彼にあって同じであると言っています。……カルカッタにある大聖堂に行ってご覧なさい。深紅色やビロードや金色の豪華な椅子があり、それは総督のためのものです。……他に深紅と金色の椅子があり、それらの椅子は(イギリス)議会の議員用です。次いで深紅の線が入っている椅子があり、それらは(イギリス)商人たちの椅子です。……次いで、一般人や貧しい人たちのための裸のベンチがあります。……もし、貧しい人が行って総督の椅子に座れば、たちどころに排除されてしまいます! それでもあなたがたは、皆キリストにあって一つです!」
何という告発でしょう!
総督はいなくなりました。深紅の椅子も見えなくなりました。しかし排除は、姿形を変えて依然として残っています。アドベンチスト教会の中においてさえも。カースト、皮膚の色、言語、経済的身分、性別等々を根拠にした教会内に存在する分裂を他にどのように説明できるでしょうか。福音の力は、教会の中で語られる言葉だけに限られるとでも言うのでしょうか? 福音の力は、偏見のあらゆる壁を打ち壊し、あらゆる人間の障害を越えて、われわれがいる所ではどこででも――職場でも、聖餐式の交わりででも、また近くの公園ででも――祈りのうちに表され、実践されるべきではないでしょうか?
パウロは、エフェソ2章11~22節において、クリスチャンの一致の美しさと崇高さを描いています。彼はこの主題を論ずるにあたって、三つの段階を示す言葉を使っています。すなわち、「そのころは」(12節)、「しかし……今や」(13節)、「従って……もはや」(19節)という言葉です。
エフェソ2章11~19節は、主にエフェソにいる異邦人クリスチャンに宛てて語られています。パウロは、彼らがキリストのもとに来る、と言うよりキリストが彼らを見いだしてくださる、以前の彼らの身分を心に留めていて欲しいと願っています。キリストのない人生とキリストと共にある人生とは、闇と光、死と命との絶対的な違いのように、雲泥の差があります。挑戦はユダヤ人と異邦人とを問わずすべての人々に適用されますが、パウロは特に異邦人たちに、キリストが彼らの人生に介入なさる以前の彼らの姿を思い出させています。それによって彼らがキリスト・イエスにある新しい人生の特権を心に留め、喜ぶためです。
第1に、彼らは偏見に捕われていた人生の中にいました。彼らは、「いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者」(11節)と呼ばれていました。相手の悪口を言うことは、いつでもどこでも、人間の尊厳と神が男女に与えられた価値を傷つけることになります。ユダヤ人は異邦人を、軽蔑的な意味をこめて、「割礼のない者」と呼び、ユダヤ人は自らを傲慢と独善の思いで、「割礼を受けている者」と称しました。パウロはこのように悪口を言うことのむなしさを伝えるために、ユダヤ人の割礼は、結局、「手によって、身に受けている」ものに過ぎないのだ、と言っています。
割礼は、神がアブラハムと新たに契約を結んだ背景の中で紹介されました(創世記17章)。イスラエルの民にとって、割礼は彼らが契約の特別な民であることを示す宗教的な儀式となりました。モーセは、それを心の包皮(申命記10の16、口語訳では心の割礼)とよび、 割礼の霊的意義を強調することによって、一歩前進しました。イスラエルを特別な民として霊的に聖別することによって、彼らの上に、契約の神への献身と服従の特質をすべての国の人々に表すべき道徳的、霊的義務が置かれたのです。
割礼は、身体的なしるし以上のものでした。それは、神に献げられた者であることのしるしでした。神がイスラエルを特別な民として聖別されたことは、イスラエルの側に優れた特質があったからではなく、神の主権による選び(アモス3の2)に基づいたことでした。イスラエルは、世界に対する神の祝福をすべての国々に伝える伝達者であり、水路であるようにと期待されたのです。「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る」(創世記12の3)のでした。「神は人々の間に、神の律法について、また救い主をさし示している象徴と預言とについて知識を残すために、イスラエルを召されたのだった。神は、イスラエルが世に対して救いの井戸となるように望まれた。……彼らは人々に神をあらわすのであった」1
不幸なことに、イスラエルはこの召命を実現できませんでした。神に対する忠誠のしるしであり、すべての人々に対する祝福の水路として選ばれた、イスラエルの役割を絶えず思い出させるべきものが、今やユダヤ人と異邦人との間を隔てるものへと変わってしまったのでした。選びの象徴であり、霊的、道徳的責任のしるしが、ユダヤ人と異邦人との間の隔ての壁となりました。
その結果、ユダヤ人と異邦人との間には、突き通せない壁が立ったのでした。異邦人のクリスチャンは「割礼のない者」と呼ばれる軽蔑のもとにいましたが、その軽蔑は過去のものとなりました、とパウロはエフェソの信徒たちに告げています。巧妙な方法で、パウロは彼らに好意に甘んじないようにと注意しています。キリストにあってパウロはガラテヤの信徒たちに、「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5の6)と書きました。なぜならば、肉に受けている割礼ではなく、心に施された割礼こそ大切であるからです(ローマ2の29)。前者は、「手による割礼」(エフェソ2の11)であり、後者は、「キリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられた」(コロサイ2の11、12)ものなのです。前者は人々を隔て、後者は人々を一つにします。
第2に、キリストのもとに来る以前、異邦人たちは、「イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく」(エフェソ2の12)生きていました。キリストのない人生は、霊的な疎外と貧困の人生でした。異邦人は彼らが持っていたあらゆるもの――哲学、文学、教育、富、政治的地位、世界最強国家の市民権など――で自慢することができましたが、約束を含む契約や神がイスラエルに示されたメシアへの熱望からは遠い人々でした。
歴史は、キリストのない人々の窮状を証ししています。彼らは世界のあらゆる宗教体系や哲学からは、彼らの霊的苦境からの出口を見いだすことができませんでした。キリストのない彼らの前には空しさのみが横たわっています。彼らは無意味から無意味へと向かう円の中で生きているのです。彼らには罪の問題に対する解答はありません。キリストなき人生は、空しく、わびしく、寂しいものです。
第3に、彼らがキリストのもとに来る以前、異邦人たちは、希望を持たず、神を知らずに生きていました。神を信じる信仰から湧き上がる希望でなければ、希望ではありません。使徒は、神が自然界を含む多くの方法を通して、すべての人々に御自身を啓示されておられましたが(ローマ1の18、19)、異邦人たちは偶像に向かい、「多くの神々、多くの主」(コリント一 8の5)を造ることを選んだことを十分に理解していました。エフェソの市それ自体が、ディアナの形の、このような自分で造った神を証ししていました。ローマとギリシアのすべての神々や女神などは、人間の魂の空しさを満たすことも、罪の問題を解決することもできませんでした。これらの人々は神々を信じていましたが、真の神についての知識を持っていなかったので、結果的には彼らは神を知らない人々でした。従って彼らには希望がありませんでした。
パウロのキリストなき人生の描写は、これまでです。それは神を知らず、国もなく、友もなく、約束もなく、希望もない人生でした。幸いなことに、パウロはそこで終わってはいません。「そのころは、キリストとかかわりなく」から、彼は「今や、キリストにおいて」へと進んでいるのです。
「今や、キリスト・イエスにおいて」(エフェソ2の13~18)
「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(エフェソ2の13)。「遠く」や「近い」という言葉は、異邦人や神との関係におけるユダヤ人の立場を描いていて、キリストの外側とキリストの内側にいる二つの人生を共に描写しています。預言者イザヤは、遠くにいる異邦人たちについて語っています(イザヤ57の19)。モーセはイスラエルに、「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか」(申命記4の7)と語りました。
しかし、この近いという概念は、排除するという概念として理解されるべきではありませんでした。ところがここにおいて、イスラエルは異邦人との関係における彼らの立場を誤って理解したのでした。この「近さ」は、イスラエルが神と近く親密な関係という特権を持っている、つまり、彼らは神の啓示の受け手であるということを意味していました(ローマ3の1、2)。イスラエルのこの近さは、彼らに神の御意志を、遠くにいる人々に伝えるという責任を課したのでしたが、ここにおいて彼らは失敗したのでした。しかし、神は、近くにいる者と遠くにいる者との間のこの違いが、失せる時が来ることを預言なさったのでした(イザヤ57の19)。これが神とすべての人々との間の距離がなくなる時を指しているメシア預言でした。
パウロにとって、このメシア預言は、御自身の血によってすべての距離を埋められたキリストにおいて実現しました(エフェソ2の13)。ユダヤ人が大切に考えていた一つの特権は、彼らが神の神殿、及び神殿の中の恵みの座に近い者であるということでした。神殿の儀式の中の犠牲の血はユダヤ人を神の御臨在に近い者とする重要な役割を果たしていました。使徒は、動物の血から、神と罪人との間の深淵の橋渡しであるキリストの血へと移行しています。
パウロの洞察が、福音理解の基礎となっています。血が罪の赦しと神との和解の方法であるということは、ある人々に嫌悪感を与えるかもしれませんが、聖書はそれ以外の方法はないと述べています。「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」ので、キリストはまさにこのことを、「御自身をいけにえとして献げ」ることによって、果たされたのです(ヘブライ9の22、26)。十字架の上で流されたキリストの血は、罪を処置する神の唯一の方法です。この行為を通してキリストは、「新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」。それによってわれわれは、「信頼しきって、真心から神に近づ」くことができるようになったのです(ヘブライ10の20、22)。従って、全人類を一つにする主要な統合原理は、哲学的、政治的、社会学的原理ではなく、キリストの血による贖罪的原理なのです。
言葉の限りを尽くして、パウロは更にいきいきと描写しようとしています。「実に、キリストはわたしたちの平和です。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」(エフェソ2の14)。十字架の上のキリストの和解の働きは、神と罪人との間の平和を可能にしたばかりではなく、例えばユダヤ人と異邦人のような、人類家族の中の敵対的内紛にも平和を可能にしたのです。イエスはどのようにしてこれを実現したのでしょうか? 「隔ての壁」を取り壊すことによってです。
パウロは「隔ての壁」という言葉で何を指していたのでしょうか? エルサレムの神殿の図が思い出されます。神殿には、異邦人の庭を神殿の他の場所から区別する壁がありました。その壁の上には何か所かに、ギリシア文字とローマ文字で、異邦人に立ち入り禁止の警告が書かれている銘板がはめ込まれていました。1871年、考古学者たちが、このような禁札の一枚を発見しました。それには次のような銘が刻まれていました。「いかなる国のいかなる人も、聖所を囲む垣根と障壁の中に入ってはならない。あえてこれを犯す者は誰でも、死罪を受けることになるであろう」2
パウロは、この障壁をよく知っていました。なぜなら彼がたまたまいたエフェソ出身の異邦人、トロフィモを禁じられている神殿の境内に連れ込んだと非難されて、彼自身が捕らえられ、ローマの獄に送られたからです(使徒言行録21の28、29)。
しかし学んでいるこの聖句にある「壁」は、異邦人を神殿に近づかせないこの実際の壁以上のものを指しています。それは二つの集団を引き離している宗教的、社会的、政治的、その他の分裂の要素を指しています。われわれは、民族、皮膚の色、カースト、性、イデオロギーの姿で、あらゆる場所にこの壁が存在しているのを見ます。個人や集団が差別されたり、友情や交わりから除外されたり、キリストがもたらした喜びに加わることを禁じられたりする所ではどこにでも壁が存在しているのです。この壁は、取り壊されなければなりません。これこそが十字架の叫びなのです。
そこでパウロは、ローマの牢獄から確信と勇気を持って書いているのです。彼はエフェソの信徒に、キリストが、人類を敵意の集団に分離する隔ての壁を打ち破られた、と告げます。全人類の罪のために死ぬことによって、キリストは二つの局面に平和をもたらします。垂直面では神と人類との間に。そして、水平面では、人と人との間に、人々と人々との間に。前者は神はすべての人を同じように愛しておられる、と宣言し、後者は、キリストにあって、「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3の28)と主張するのです。
この隔ての壁を打ち破ることによって、キリストは不可能なことを実現なさいました。「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」(エフェソ2の15)とあります。ここにパウロの不思議な算数を見ます。それは1+1=1というものです。これは間違っているようです。論理的ではありません。しかしこれは、イエスによって教えられた福音に根ざしている現実なのであり、十字架上のイエスの和解の行為に基づいているものなのです。
この壁の崩壊は、キリストの働きを強調しています。キリストの生涯とその教え、そして最後に彼の死は、キリストの福音が最終的にもたらすものは、新しい人類の創造である――創造主のエデンの理想を反映する完全に一つとなった人類の創造である――ことを確立したのです。イエスの生涯と教えと死において、イエスがいかにこれらの壁を破壊されたかを考えてみましょう。
物語はイエスの誕生以前から既に始まっています。イエスの系図を考えてみてください。家系を重んじるユダヤ人は、血筋の純粋性に大きな価値を置いていました。祭司は、アロンにまで遡る純粋な家系を産み出すように期待されていました。その妻は少なくとも5世代にまで遡って吟味されました。このように家系を重んじる国民に対し、マタイによる福音書は、救い主は一地域のメシアではなく、全世界の贖い主であり、そのお方の働きは創造主の当初の御計画を回復することである、ということを宣言するようなイエスの系図を記しているのです。マタイは、イエスの先祖の中に、4人の名前を述べています。バテシバ(ヘテ人)、ルツ(モアブ人)、タマルとラハブ(カナン人)です。これら4人はいずれも女性で、皆異邦人で、皆罪人でした。ベツレヘムの馬槽は、聖書的人類学には、男性も女性もなく、ユダヤ人も異邦人もなく、ただ神の子供たちが存在するだけであることを確言しているのです。
イエスはその働きにおいて、社会のあらゆる階層の人々と接触なさいました。金持ちの青年議員、重い皮膚病を患っている街の人、ニコデモ、シリア・フェニキアの女性、ファリサイ派の人、ギリシア人など、主にとっては何らの違いもありませんでした。事実、イエスはその働きを通じて人々を隔てていた壁を打ち破られました。
人々との関係においてばかりでなく、神の王国の建設においても、イエスは個人の価値に根ざす人間関係の新しい秩序をお示しになりました。これは、特に、イエスの新しい掟の授与、主の晩餐の設立、十字架、世界宣教への任命、等によってもたらされるのです。
新しい掟
イエスが新しい愛の掟についてお語りになる時(ヨハネ13の34)、その新しさは、愛そのものではなく、愛の対象を指しています。人々は愛しますが、彼らは愛らしい人々や自分自身を愛します。イエスは新しい要素を紹介なさいました。それは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」でした。それはつまり、イエスの愛が普遍的で、犠牲的で、完全であったように、われわれの愛もそのようにあるべきである、ということです。このような愛に、「律法全体と預言者」(マタイ22の37~40)は基づいているのです。
われわれの隣人を愛せよ、というこの掟には、何ら修正の余地はありません。われわれは愛する相手を選びません。われわれはすべての人々を愛するようにと招かれています。唯一の天父の子らとして、われわれは互いに愛し合うようにと期待されています。良きサマリヤ人の譬えの中で、イエスは次のことをお示しになりました。「あなたの隣人とは、われわれが属している教会や同じ信仰の仲間だけを意味してはいない。それは民族、皮膚の色、社会的地位の区別はしていない。われわれの隣人とは、われわれの助けを必要としているすべての人のことである。われわれの隣人とは、敵によって傷つけられ、害されたすべての魂のことである。われわれの隣人とは、神の財産であるすべての人のことである」3
主の晩餐の儀式
「パンは一つだから」とパウロは、コリントの信徒に書き送りました。「わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(コリント一 10の17)。パンとぶどう汁は、垂直と水平の両方向の和解をもたらした、イエスの裂かれた体と流された血の象徴です。聖餐式のテーブルにつきながら同時に、他の人間を差別することは、神の家族を冒瀆することになります。
十字架
贖いと和解のための神の道具として、十字架はエデンで失われたものを回復します。それは、人間の結合と一致の現実を含む神の似姿を回復するのです。十字架の麓では、皆平等です。十字架を通して、神は「世を御自分と和解させ」(コリント二5の19)られました。「十字架は、神の最善の自画像である。……十字架は、神が神の愛を破る勢力と出会い争われる場所である。十字架は、神が十字架から流れ出る愛と目的とに人が一致するように導かれる場所となる。……人と神との和解を通してなされる人と人との和解は、この心配に満ち、破壊されたひどい世界の中に、神の癒しの力を与える。贖われた人々のみが、和解できるのである」4
大いなる任命
大いなる任命(マルコ16の15、16、使徒言行録1の8)と、黙示録14章6~12節のメッセージは共に、世界家族の創造を描いています。伝道は、教会内の偏見に対するキリストの解毒剤です。強力な伝道プログラムが存在する所、救霊の重荷が存在する場所には、どのような人種であっても、男女の中に普遍的な感情が見られます。真の伝道者は、世界を自分の教区と考えます。彼らは、社会を分離させる国境や制限を認めません。パウロは、異邦人に対する使徒とならなければなりません。ペトロは、コルネリウスの所に行かなければなりません。バルナバは、アンティオキアに行かなければなりません。フィリポは、サマリアに急がなければなりません。フィレモンは、オネシモを引き取らなければなりません。キリストの血は、兄弟の契約を書くインキです。
われわれがイエスを世界に伝える時、われわれは垣根のある教会を建てることはできません。事実、イエスの良き知らせを伝えることと、「隔ての壁」のある教会を持つこととは相互に矛盾しています。なぜならば、キリストは、「御自分の肉において」(すなわち、十字架において)、人類の一致に反対するすべての律法を廃棄されました(エフェソ2の15)。この律法は十戒を指すものではありません。なぜならば十戒は人類を治める道徳律であるからです。十戒の中には異邦人に反対する何物もありません。十字架によって廃棄された律法とは、ユダヤの世界が隔ての壁を設け、異邦人を排斥する根拠となった、割礼を含む礼典律法を指しています。
このように十字架の二つの行為、――すなわち、われわれの罪のためにキリストが死に、われわれを神と人とに和解させてくださったこと、及び、隔ての壁の一部分であるすべての儀式を廃棄されたこと――は、ユダヤ人と異邦人の両者に平和を約束しています。そしてこの両者は「一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(18節)。
「従って、……もはや」(エフェソ2の19~22)
二つの敵対する体から一つに結ばれた新しい体を創造するというパウロの議論の最後の段階は、異邦人たちの現在の姿の描写です。彼らがキリストを受け入れたので、彼らはかつては彼らのものではなかったある特権を受けるのです。三つの特権が述べられています。
第1に、市民権です。もはや「外国人でも寄留者でもなく」、キリストにある異邦人は、「聖なる民に属する者」となりました(19節)。かつては異邦人たちは、霊的な意味で、根のない浮浪者でした。彼らには安定性も身分もありませんでした。しかし今や、キリストにあって彼らは、「新しい誕生」証明書を持っているのです。彼らは神の王国に生まれました。従って彼らは市民です。市民権は、彼らを他の聖徒たちと同等な者とします。ユダヤ人も異邦人も、ギリシア人も未開の国の人々も、教育を受けた人も受けていない人も、男性も女性も、同じ市民権を持っていて、両者共に同じ王国に属しているのです(フィリピ3の21)。
第2に、家族です。キリストのもとに来ることによって、われわれは「神の家族」の一員となります(エフェソ2の19)。この比喩は、より個人的で親密です。王国と家族とは違います。王国というより広い場所から、キリストはわれわれを家族という、より親密で近い場所へと導かれます。市民であることは貴重な特権ですが、子供であることは特権であるばかりか、天父の愛と優しさを体験することでもあります。キリストにあってその人は新しい創造を経験するのです。放蕩者が子供となり、寄留者が市民となり、飢えて死にかけている者が天父と食卓を囲み、受容と命の素晴らしい賜物を受けるのです。
第3に、神殿です。神殿の印象は厳粛です。神殿は預言者や使徒という土台の上に建てられていて、そのかなめ石はキリスト御自身です(20節)。この霊的で厳粛な建て方でわれわれも「共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」(22節)。
このすべての印象を解してわれわれは何を悟ったでしょうか? 二つの概念を持ちます。その二つともクリスチャンの人生に大きな責任を植えつけます。個人的な側面において、クリスチャン一人ひとりは、聖霊の住まいである神の神殿です。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」と使徒は述べています(コリント一 3の16、17)。ここにはキリストにある人生の重要な挑戦があります。神の霊の住まいとしてわれわれは、われわれ自身を――心も、霊も、体も――汚れなく清く保たなければならないのではないでしょうか? キリストにある人生は、清い人生への招きです。
共同体の一員としてのクリスチャンは、互いに孤立して生きているのではありません。われわれは信仰の共同体である、キリストの体に属しています。それが、われわれが教会と呼んでいるものです。その共同体の中で、われわれは、神が隔ての壁を打ち破られた大きな道具である、十字架の命を生きるようにという挑戦を与えられているのです。「霊の働きによって神の住まい」となっている場所が、分裂と敵意の中心となる筈はありません。
参考文献
1 エレン・G・ホワイト著『各時代の希望』上巻、14、15頁
2 Quoted in Barclay,p.112.
3 Ibid.,p.503.
4 The Interpreter’s Bible (Nashville:Abington Press, 1980),vol.10,p.525.
この記事は、ジョン・M・ファウラー(山地明・訳)『エフェソの信徒への手紙』からの抜粋です。