クリスチャンの歩みの原則(エフェソの信徒への手紙5の1~20)

目次

愛によって歩みなさい(エフェソ5の1、2)

パウロはクリスチャンの生き方の実践的な要求について話を進めています。彼はエフェソの信徒への手紙5章の最初の20節をクリスチャンの歩みの原則に当て、次いで、これらの原則を結婚、家庭、奴隷と主人との関係にそれぞれ適用しています。1節から21節までには、クリスチャンの歩みを支配すべき具体的な四つの原則、すなわち、愛、純潔、光、知恵が提示されています。

使徒はクリスチャンの歩みを新しい高さにまで持ち上げています。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(1節)。「倣う者となりなさい」は、単なる倫理的な訴えではありません。多くの人々はキリストを知りませんが、それでも倫理的な生活をしています。彼らの倫理は人間だけにではなく、すべての生き物にまで及んでいます。彼らは誰にも害を及ぼさないようにと考えています。インドのジャイナ教の僧侶は、手にうちわを持って、蟻を踏みつけないように道を掃き清めながら歩くのです。たとえ何かを落として失い、誰かがそれを見つけても必ずそれが落とし主の所に戻って来るような共同体が世界には存在するのです。従って、神に倣う者は非常に倫理を重んじる人ではありますが、倫理的な生き方への招きが、この聖句の中心課題ではありません。パウロは、「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」と言っています。子供たちが彼らの両親に倣うのは当たり前です。そこで使徒は、クリスチャンの生き方において、神に倣いなさいと述べているのです。神は愛しておられます。従ってわれわれも愛すべきです。神は赦しておられます。従ってわれわれも赦すべきです。神は清いお方です。そこでわれわれも清くあるべきです。神は最も小さな生き物にも目を留めておられます。従ってわれわれもわれわれの中の不幸な人々に対して配慮すべきです。神は不公平なお方ではありません。従ってわれわれもそのようでなければなりません。神は罪は憎んでも罪人を愛します。従ってわれわれもそうあるべきです。列挙すると限りがありませんが、結局、神の御品性がクリスチャンの究極の規範である、と言うことで十分です。キリストにおいて、新しい倫理が生まれるのです。「クリスチャンの愛の倫理が……愛の物語の結末である。この物語の主人公は神であって、人間ではない」1

キリスト教と単なる倫理との本質的な相違は、クリスチャンはキリストの生涯の最高の行為において「神に倣うように」、と招かれているということです。丁度神が最もひどく堕落した状態であった人類を愛し、「供え物またいけにえ」として御子イエス・キリストをお与えになられたように、われわれも神に倣うべきなのです。

神に倣うことはキリストに倣うことです。われわれは善い人イエスに倣うように、道徳的手本なるイエスに、偉大なる教師イエスに、歴史の定義者イエスに倣うようにと招かれているのではありません。このような人に倣うことは、それがうまく行く間は良いでしょうが、クリスチャンの生き方についてのパウロの計画では不十分なのです。パウロが主張していることは、われわれは「神に倣う者となりなさい」ということです。すなわち、「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(エフェソ5の2)ということなのです。

神の愛に倣う心構えがない限り、われわれは神に倣うことはできません。神がその子らに持たせたいと望んでおられるすべてに勝る属性は、神のような愛です。使徒が用いている「倣う」という言葉に注意してみましょう。神が愛されるようにわれわれが愛することができるという完全な段階にまで、われわれは決して到達できないでしょうが、神の恵みによってできる限りそれに近くあるようにとわれわれは招かれているのです。それに倣うことでさえ、われわれ自身の力に依るのではありません。それは神の内に住む人々への神の賜物です。

われわれはどのように神に倣うのでしょうか? われわれはどのようにキリストのお姿を反映するのでしょうか? その答は、「キリストがわたしたちを愛して、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」です。この愛の三つの特徴が際立っています。

第1に、キリストの愛は無我の愛でした。キリストの愛はアガペーの愛です。それは自己を無視し、他者の善を求める愛です。この愛は、所謂愛情ではありません。われわれは、われわれの子供たちや、伴侶や、両親や、友人や隣人たちにさえ愛情を持っています。これらの人々とわれわれとの間には、何らかのつながりがあります。彼らには何らかの好かれる特質、つまり、魅力的な何かが存在しているので、われわれは愛情を示すのです。そしてわれわれは、彼らがわれわれに対して愛情を示すようにと期待し、希望します。子としての愛情において、友情において、ロマンチックな愛においては、常にその中にすべての人への何かが存在しています。しかしキリストの愛し方は、そのようなものではありません。アガペーの愛は、愛らしくない者、無価値な者、反逆する者を愛するのです。

「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5の8)。そればかりではありません。神はわれわれを神の息子、娘として神の家族の中に入れてくださるほどわれわれを愛しておられるのです。神は決してわれわれを見捨てられません。われわれが神を悲しませたり、神を忘れたり、神に不従順であったり、神を見捨てるときでさえ、神はわれわれを愛し続けてくださるのです。われわれのクリスチャンの歩みにおいて表すようにと招かれているのは、このような無我の愛です。

第2に、キリストの愛は犠牲的な愛でした。使徒は、「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」(エフェソ5の2)ことを指摘しています。パウロは、「香りのよい」という言葉を、キリストの愛の供え物といけにえを表すために用いています。イエスのいけにえは、神の救いの御計画を実現することにおいて神に十分喜ばれるものでした。イエスは、ゲッセマネと十字架の苦悩を味わうことを拒むこともできましたが、堕落した人類に対するイエスの愛は完全で、神の御意志ヘの服従は徹底していたので、イエスは御自身をお与えになられたのです。これがキリストの愛の歩みでした。

十字架はクリスチャンの共同体を創造するばかりではなく、その共同体の命の土台も示しています。その土台とは、無条件で犠牲的な愛です。それは皮膚の色やカーストについて何ら問うことはしません。どの種族出身かとか、部族への忠誠を問うこともありません。国籍や社会的地位、性別や系図等を問題にしません。神の愛がイエスを導いてすべての人々のためにその命を与えたように、クリスチャンの愛が究極の犠牲のためにわれわれを備えさせるべきです。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」(ヨハネ一 3の16)。

このような犠牲は、ここかしこに光り輝く瞬間であることを歴史は示しています。初代教会時代や現代における迫害の期間がまさにそのような瞬間でした。しかし歴史はまた、多くのクリスチャンたちが奴隷制、人種差別、大量虐殺、民族浄化、カースト制等さまざまな形態の人間搾取に対抗して立ち上がるには無力であった、という永久的な恥辱をも記録しています。しかしわれわれは、われわれの愛を示すための何か大きな道徳的課題が訪れるのを待つ必要はありません。神の愛は今、ここで示されなければなりません。「真の宗教は、キリストに真似ることである。キリストに従う者は自分を捨て、十字架を負い、キリストの足跡に従って歩む。キリストに従うとは、彼のすべての掟に服従することを意味する。……愛と優しさと同情に満ちたイエスを真似よ」2

第3に、キリストの愛は和解の愛です。クリスチャンのすべての行動は、次の究極的なテストによって吟味されます。すなわち、それはイエスを十字架に向かわせた愛を反映していますか? われわれは真理を持っていると言うかもしれません。われわれは光の子だと主張するかもしれません。われわれは世に属してはいないと言い張るかもしれません。これらすべての主張は、それらが他者に和解の手を差し伸べる愛の生き方の中に反映されない限り、何の意味もありません。「キリストに学び、天の大君が辿られた自己否定の道を謙虚に歩むことは、すべての人の義務である。クリスチャンの全生涯は自己否定の生涯であるべきである」3

清く歩みなさい(エフェソ5の3~7)

使徒は、神に喜ばれる自己犠牲の主題から転じて、神が大嫌いな放縦の問題へと向かっています。彼はクリスチャンの生き方の中に決して入り込ませてはならない一連の悪徳を列挙しています。「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい」(エフェソ5の3~5)。

パウロはこれらの悪徳に対する彼の嫌悪感を表明しています。「あなたがたの間では、……口にしてはなりません」。会話の中の冗談にさえ、口にしてはなりません。これに耽る者は誰でも、「キリストと神との国を受け継ぐことはできません」

ギリシア語の「ポルネイア」(みだらなこと)や「アカサルシア」(汚れたこと)という言葉は、あらゆる種類の性的な罪を含んでいます。ポルネイアという言葉から、ポルノという言葉ができました。これは心身の一つの病気であって、現代においては印刷物や、コンピューターのマウスをクリックしたり、ケーブルTVのスイッチを押すだけで簡単に入手し放縦に陥れます。容易に入手できることと匿名性のために、この罪は子供たちから大人まで、法律の番人から牧師に至るまで、実に多くの人々に蔓延しているのです。ポルノは恐るべき中毒を起こさせるもので、耽溺すればするほど、ますますその深みにはまり込ませます。

これらの性的な罪に加えて、パウロは第10番目の掟である貪欲を挙げています。パウロが語っている性的歪曲や不道徳の全ては、神殿売春の場として有名なディアナ礼拝を育てた都市、エフェソにおいてはごく当たり前の放縦でした。しかし使徒にとっては、これらの罪は単に悲しむべきものであるばかりではなく、人を神の国から締め出すものです。

現代の娯楽やコミュニケーションメディアが、性とその歪曲を得意がり、これらの行動に寛大であったり、単に軽率な言動として済ましたりすることは、現代社会の恐るべき実態を説明しています。それよりも更に恐ろしいことは、道徳的正当性の原則を守るべく立ち上がるべき立場にいる政治家、法律家、聖職者たちの当局が、このような行動に対する寛大さを擁護したり、受け入れることさえしていることです。アメリカのブロードウェイやハリウッドは、神の掟をないがしろにする廃棄物を量産しています。神がその御心で思いつき、神御自身の御手によって創造された人体の美と尊厳とが、肉欲と暴力の餌食となって骨抜きにされています。使徒はこのような全ての罪と歪曲とに対し、断固として断罪を下したのです。「これらの恥ずべきことを口にさえしてはなりません」と彼は言うのです。

使徒はまたむなしい言葉をも断罪しています。「むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです」(6節)。神の民が惑わされるかもしれないむなしい言葉とは何でしょうか? パウロの時代には、グノーシス派の危険な教えがありました。この教えは肉体と霊魂の二元論の上に築かれていて、肉体(物質)は悪、霊魂は善と考えられていました。救いは霊魂のみの解放に関係していて、肉体に関連するものは無意味なものであるので、人が肉体をどのようにしようが一切問題はないとされていました。従って肉体的、性的な罪などはそもそも存在しなかったのです。パウロが、エフェソの信徒たちに注意を促したむなしい言葉とは、このような種類の言葉です。

むなしい言葉のもう一つの種類は、恵みの理解に関連しています。神の恵みは、すべての罪を赦すに十分なものです。そこである人々は、「神の恵みはすべての罪をぬぐい去ることができる」と言って、罪を犯し続けることを是認するのです。福音は、恵みの力と、恵みが罪人の生き方にもたらす自由とについて語ってはいますが、不道徳を許したり、罪の恐ろしさを軽視したりするような状況については決して語ってはいません。神の恵みは、特権と責任との両者を共に提供します。特権とは、神が無償の恩恵と、罪の赦しをわれわれに与えられるときのものです。一旦罪が赦されるときに服従の道を歩み、2度と罪を犯さないようにとわれわれに期待されるものが責任です。この点に関してパウロほど適切に述べた人は他にありません。「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」(ローマ6の1、2)。ウイリアム・バークレーは次のように記しています。「人が隣人に対してなし得る最もひどい仕打ちは、罪を軽視させることである。パウロは、罪を犯しても恐くはないと考えさせる空しい言葉で欺かれないようにと、信徒たちに訴えた」4

光の中を歩みなさい(エフェソ5の8~14)

「愛によって歩みなさい」及び「清く歩みなさい」から、われわれは第3の大原則「光の中を歩みなさい」にやって来ました。福音とは本質的には、暗闇から光へ移動することです。罪の暗闇から救いの光へ、疎外の暗闇からキリストの交わりの光へ、悪の暗闇から「キリストの栄光に関する福音」(コリント二 4の4)の光へ、暗闇の支配者の王国から「わたしは世の光である」(ヨハネ8の12)と言われたお方の王国へ移動することです。

暗闇から光へのこの移動は、信者たちを大いなる特権と責任のある位置に置くことになります。光は知的な真理以上のものを指します。暗闇を追い出す知的な理解に加えて、信者たちはサタンの働き(ヨハネ8の38、41、44)、サタンの支配と権威(コロサイ1の12、エフェソ6の12)、暗闇の子らに下される神の怒り(エフェソ5の6、2の3)、更に、究極的な死の刑罰(ローマ6の23、ペトロ二2の17)等からの救いをもたらしてくれる霊的な光を持っています。

この霊的な光の中にいる者として、われわれは光の中を歩むのです。この歩みは、永遠の光である神に倣うことの一部です。われわれは光の中をどのように歩くのでしょうか? 啓発されたという意味においてではなく、心と体と霊のすべての面で、御自身の中に「闇が全くな」(ヨハネ一 1の5)く、光であるお方の絶えざる感化と支配のもとに来るという意味において光の中を歩むのです。使徒はこれを、クリスチャンの生き方における一連の必須要項を述べることによって詳しく説明しています。第1に、「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じる」ので、これらを実践しなさい、ということです。光から生じる実は、神のために生きる高い道徳的、霊的土台を指し示しています。光の中を歩むクリスチャンの生き方は、かつては暗闇であった場で、神の栄光が何を実現されたかを万人が見ることができる開かれた書物なのです。

第2に、光の中を歩むことは、「何が主に喜ばれるか」(エフェソ5の10)を吟味しつつ歩むことです。われわれは、神の御言葉と祈りを通して神に近く居続けることによって、何が神に喜ばれるかを知ることができます。第3に、「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい」(11節)。昔のインドのことわざに、光とは暗闇がないこと、暗闇とは光がないことである、というのがあります。その真意が何であれ、一つのことは確かです。それは、光と暗闇とは共存できないということです。光の子らとしてクリスチャンは、暗闇の中にある悪を明るみに出すように生きなければならないということです。われわれは現わされたすべての悪に対するわれわれの反対の立場を、言動によってはっきりと示さなければなりません。われわれが暗闇の業に「加わらない」ばかりではなく、われわれの生き方と品性を通して、暗闇の業のむなしさを明るみに出すのです。「こういう品性は偶然にでき上がるものではない。それはまた神の特別な恩恵や天分によるものでもない。高潔な品性は自己修練の結果である。それは肉欲を精神に従わせること、すなわち、神と人とに対する愛の奉仕のために自我を克服することによって達せられるのである」5

賢い者として歩みなさい(エフェソ5の15~20)

パウロはクリスチャンの歩みに関する彼の論議を、第4の原則によって結んでいます。愛によって歩みなさい、清く歩みなさい、光の中を歩みなさい、そして最後に、「愚かな者としてではなく、賢い者として」歩みなさい。パウロは、この賢い知恵は、それぞれが皆重要な四つの要素から成り立っていると述べています。

第1に、賢く歩くとは、「細かく気を配って歩」(15節)くことです。細かく気を配りなさい。歩きなさい。クリスチャンは、どこに向かって進んでいるのか、気を配って見なければなりません。彼らはこの世界に住んではいますが、彼らの行く先は別の場所です。この信仰の旅路には、細かな注意と、目を覚ましていることが要求されます。あなたの目を道の前方に向け続けてください。道は狭いのです(マタイ7の14)。その道には多くの障害物やくぼみやその他の危険があるかもしれません。道路には道路標識や案内板も置かれています。しるしを見落とすならば、道順からそれるかもしれません。常に案内板に目を留め、道路の状態に注意して進まなければなりません。

わたしが8年生のとき、州の遠くの見知らぬ人たちの監督のもとに行われる、州一斉の実力試験を受けなければなりませんでした。高校に進学するためには、これらの試験を高得点でパスすることが必要でした。学生たちのほとんどの家は小さく、電気もなかったので、われわれの学校は学生たちが夜、学校で勉強ができるように特別な時間を設けてくれました。試験日のおおよそ3か月程前、夕食後われわれ数人は、1マイル程離れた学校に向かって歩きました。道路は鋪装されておらず、両側にはやぶがありました。わたしが毎晩家を出るとき、父は「足元に気をつけなさい。前方に注意しなさい」と言いました。

われわれ15人ほどの男の子たちは、2、3人ずつ横一列になって歩いて行きました。ある晩のこと、わたしの左の足にとげが刺さったように感じました。まもなく痛くなりました。ほとんど学校近くまで来ていましたので、友人たちはわたしを背負って入れてくれました。左足はひどく腫れていました。コブラに噛まれたのでした。父は知らせを聞いて、直ぐに学校へ駆け付けてくれました。父は無学な人でしたが、救急法を心得ていました。良く切れるナイフで、ヘビの2つの歯形がついていた場所を切り、血を吸い上げ吐き出してくれました。数人の人たちがかわるがわるわたしを背負い、2マイル程離れた病院まで運んでくれました。万事うまく行きましたが、わたしの足は数か月間は腫れたままの状態でした。

われわれが歩くように招かれている霊的道路には、危険な落とし穴があります。暗闇は危険を覆い隠し、年を経た蛇は、途中に少なからぬ罠をしかけています。そこでパウロの勧告は時宜を得たものです。細かく気を配りなさい。愚かな者のように不注意であってはいけません。賢い者として歩みなさい。詩編記者の次の言葉を覚えたいものです。「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」(詩編119の105)。

第2に、賢く歩くとは、今は悪い時代なので、時をよく用いることです(エフェソ5の15)。ここで用いられているギリシア語の「時」は、「クロノス」ではなく「カイロス」です。クロノスは、われわれが時計によって測っているもので、時間、分、秒等を指します。カイロスは、特定の目的のために割り当てられている時間を指します。支配者なる神は、御心のままにわれわれ各自にカイロスをお与えになりました。それは神の御心によって限定的に設けられた時間です。われわれはこの時間を持っていることを知っていますが、それがいつなくなるかは知りません。それを知ることができないので、「時をよく用い」ることが必要です。ニュー・インターナショナル・バージョンでは、「すべての機会をよく用いなさい」と訳されています。

時間は借り物だという思いを持って生きることは、クリスチャンの責任の一部です。更に、「今は悪い時代」ですから、新しい時代を築くための神の介入を求めます。それゆえに、クリスチャンがすべての機会をよく用いることはいかに重要なことでしょう。

18世紀の偉大な説教者、ジョナサン・エドワードは、彼の20才の誕生日に次のような決心を記しました。「以下のことを決心する。1分たりとも時間を無駄にしないこと。時間をできる限り最も有効に用いること」。クリスチャンとしての生き方とは、時間を意識して生きることです。私たちは、現世と終末論的希望の合間で生きるようにと求められています。

第3に、賢く歩くとは、「主の御心が何であるかを悟」(17節)ることです。人の一生のための神の御心が何であるかを見いだし、それに従うことほど重要なことは他にはありません。齢12歳にしてイエスは、神の御心を知り、それをイエスの両親に対する愛よりも上におきました。イエスは、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカ2の49)と言いました。

後に、ゲッセマネと十字架の苦悩と不安に直面してイエスは、再び神の御心を探し求めました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26の39)。

われわれに対する神の基本的な御心は、聖書の中に示されています。聖書の中には、われわれがなすべきことと、それをいかになすべきかについての神の完全で誤りのない手引きが記されています。われわれが神を敬い、神に栄光を帰し、神の御言葉に沿って生きるように選ぶことは、神の御心です。

しかし、例えば、誰と結婚すべきか、どのような教育分野を選ぶべきか、どのような職業につくべきか等の特定な状況において、われわれに対する神の御心をどのようにして見いだすことができるでしょうか? クリスチャンは毎日多くの決断をしなければなりません。神の御心と一致するような決断をどうすればすることができるでしょうか? まず、聖書に向かいましょう。そうすれば神の御心が聞けるでしょう。次に、祈りましょう。あなたの願いを神のみ前に熱心に訴え、神の導きを待ちましょう。神の究極の御心は、われわれが聖なる者となることである(テサロニケ一 4の3)ことを覚えましょう。この目的を阻むものは何であっても、神の御心ではあり得ません。

第4に、賢い者であるとは、「霊に満たされ」(エフェソ5の18)ることです。霊に満たされることは、人間の霊的生活の最高のしるしです。パウロは人間の生活で最善ではあり得ない事柄と対比して、それを述べています。すなわち、「酒に酔いしれてはなりません」ということです。飲酒はクリスチャンの生き方とは無縁です。アルコールは、人を隷属させ、鈍らせ、尊厳を失わせ、他人との関係を悪くさせます。使徒は、アルコールの奴隷となる愚かさに対して警告しています。これとは反対に、クリスチャンの生き方は、霊に満たされるべきです。聖霊は、交わり、礼拝、感謝、服従のうちに生きる力を与えます(18~20節)。「酒に酔いしれる」と「霊に満たされる」という二つの表現を対比させることによって、使徒は人生における重要な質問を投げかけているのです。すなわち、クリスチャンとしてわれわれは、誰の支配下に身を置くか――聖霊か、もしくはその他の者か?「ここでのパウロの言葉の強調点は、信者たちは恐らくこのことを既に理解していたであろうから、酔いしれることに対する禁止というよりもむしろ、彼らが絶えず霊に満たされ、霊によって生きるようにと訴えることである。人が酔いしれていると、誰にでもわかる。その人の行動がそれを明らかにする。同様に、われわれが神の聖霊の御臨在によって満たされていることを、われわれの言動が明らかに示すまでに、われわれの生活は聖霊に全く支配されるべきである」6

参考文献

1         The Interpreter’s Bible (Nashville: Abingdon Press, 1981), vol. 10, p.705.

2         The SDA Bible Commentary, vol.7,p. 249.

3         White, Testimonies for the Church, vol.7, p. 297

4         Barclay, p. 163.

5         エレン・G・ホワイト著『教育』、54頁

6         Life Application Bible Commentary: Wphesians (Wheaton, Ⅲ.:Tyndale House Publicatins, Inc.,1996). p.109.

この記事は、ジョン・M・ファウラー(山地明・訳)『エフェソの信徒への手紙』からの抜粋です。

ジョン・M・ファウラー
インドで生まれ、10代の頃に預言の声ラジオ放送を通してアドベンチストとなる。スパイサー・カレッジで神学学士を取得後、32年間、インドで牧師、教師、教会行政、編集に携わる。1990年、『ミニストリー』誌副編集長として世界総会に招聘される。1995年より世界総会教育部副部長。ニューヨーク・シラキュース大学よりジャーナリズム修士号、アンドリュース大学より博士号を授与される。教会誌および専門誌に300以上の記事を寄稿。『キリストとサタンの宇宙的争闘』ほか、数冊の著書がある。妻メリーとの間に2人の子供がいる。

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