クリスチャンの武具(エフェソの信徒への手紙6の13~18)

目次

真理の帯(エフェソ6の13、14)

クリスチャンの生き方において、戦いへの招きは平和への招きと同様に現実のものです。キリストは一方では、疲れた者や重荷を負う者、病人や罪人に、キリストから休息と安らぎを受けるようにと招いておられますが(マタイ11の28)、他方では、クリスチャンの弟子たるものの旅路は決して安易なものではないと警告しておられます。それは戦いであり、行進です。このことが最も明らかに描かれている個所が、エフェソの信徒への手紙6章12、13節です。

この霊の戦いにおいて、われわれのなすべき分は、恐怖心や悲観論によって色づけられるべきではありません。われわれは主に依り頼み、強くなり、キリストが既に手に入れた勝利を主張すべきです(1の19、20)。しかし、もしわれわれが既にその勝利にあずかっているのならば、なぜ戦う必要があるのでしょうか? その答は、クリスチャン信仰の性質と悪魔の欺瞞性の中に見いだされます。

われわれがイエスを受け入れたとき、その瞬間にわれわれの罪は赦され、われわれは義と認められます。つまり、われわれは神のみ前に1度も罪を犯したことがないかのように立つのです。それは、キリストがわれわれのためになさったことのおかげです。しかし義認は第1歩に過ぎません。その後に聖化が続かなければなりません。つまり、ますます救い主に似る者となる、清くされる過程です。聖化は生涯の過程です。われわれが信仰によってその過程をたどる時、神はわれわれの側にいてくださいます。神の力はわれわれと共にあります。われわれは独りぼっちではありません。

しかし、同時に「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(ペトロ一 5の8)。聖化の道は悪魔の罠に満ちています。ここにおいて、われわれの霊の戦いが激しくなるのです。マルチン・ロイドジョーンズは、この霊の戦いに従事している聖徒たちのために、慰めに満ちた次の言葉を残しています。「われわれがこの信仰の戦いを戦い、これらの支配と権威と格闘し、世界と肉と悪魔の猛攻撃に直面する時、神がわれわれと共にこの戦いに臨んでおられることを覚えなければならない。神が共におられなければ、われわれは決して戦うことができなかったであろう。究極の戦いは神と悪魔との戦いであり、天国と地獄、光と暗闇との戦いである。……この戦いは負けるはずはない。なぜならば神の栄誉に関わる戦いであるからだ」1

この戦いは主の戦いです。勝利は主のものです。われわれは主の兵卒であり、強くなりなさい、立ちなさい、神のすべての武具を身に着けなさい、と命じられています。キリストが勝利をおさめ、その勝利をわれわれにお与えになるからといって、われわれが悪魔との戦いから解放されたという意味ではありません。われわれは、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように」(エフェソ6の11)、「しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(13節)と求められています。

これらの重要な意味を持つ言葉の中に、あなたは召集ラッパの合図を聞くことができますか? ラッパの音が聞こえますか? 偉大なる司令官の突撃命令を聞くことができますか? 前進せよ! 後ろを振り向くな! 全力を挙げて戦え! お前の力は主の力だからだ! 勝利はお前のものだ。

使徒は、われわれが必ず、「神のすべての武具を」完全に身に着けるように、と望んでいます。彼は、武具の六つの部品を述べています。その一つでも見落としてはなりません。そのすべてがわれわれの武具ではなく、神の武具を構成しています。その武具の力を得て、われわれは戦いに行くのです。「あなたの敵を知っているのは神のみである。もしあなたが立ち続けるならば、あなたにとって重要な準備が何であるかを神は正確に知っておられる。この武具のすべての部品一つ一つが絶対に必要である。あなたが最初に学ぶべきことは、あなたは選んで取り上げる立場ではないということである」2

今、われわれはこの武具の一つひとつを吟味する用意が整いました。

パウロはこの書簡を、ローマの兵士の絶えざる見張りの目のもとで、ローマの牢獄から書いています。1日中使徒は、兵士を意識しています。兵士たちは交代で、来たり帰ったりしますが、彼らに共通の一つのものがありました。それは彼らの武具でした。武具は皇帝への忠誠の象徴でした。それは、皇帝の命令を行うために兵士の準備が整っていることを示していました。

使徒は、この明らかな教訓を見落とすことができず、すべてのクリスチャンは、神の武具を完全に身に着け、神の召しに忠実で、神の御業をなす準備を整えた兵士であるべきだと考えています。すべての武具を身に着けた、ローマの衛兵との日毎の出会いから、パウロは、比喩を引き出し、それをより大きな戦い、より偉大な指揮官に適用しています。

使徒はまず腰に締める帯――真理に目を向けています。ローマの兵士は、主な上着として軍服を着ていました。それはゆったりと体を包む衣服でした。ゆったりとした衣服は、戦いの折には支障をきたすので、帯で体に締めつけました。帯はまた剣を支える役目も果たしました。

ペトロもまた同じ比喩を用いています。「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」(ペトロ一 1の13)。

パウロは、この「真理を帯として腰に締め」という表現と、霊の戦いの備えとを同じものとして描いています。

すべての悪からわれわれを守るこの真理とは何でしょうか? 何よりもまず、この真理とは主御自身のことです(ヨハネ14の6)。真理によって締めるということは、イエスに全く委ねるということです。イエスが言われることにわれわれは従います。イエスが行けとお命じになられる所に行き、イエスがなされることをわれわれはするのです。イエスの御心に反することをわれわれは拒みます。このような無条件で、妥協しないイエスへの献身を持ってわれわれが悪魔と直面する備えをする時に、われわれもまたイエスと共に次のように言うことができるのです。「世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない」(ヨハネ14の30)。

クリスチャンを含む多くの人々は、真理について誤解しています。ある人々は、真理とは論理的命題のことである、と言います。もし、A=Bで、B=Cであるならば、A=Cとなる。これは、数学や論理学では真理ですが、悪魔を追い払うことができるのは、このような種類の真理ではありません。

他の人々は、機能するものは何でも真理である、と言います。わたしは、トヨタカローラを持っています。これはちゃんと機能しています。それはわたしをA地点からB地点へと運んでくれます。わたしの移動に関する限り、それは申し分のない車です。もしこれが真理であるならば、サタンは、全くそれを問題にしません。また他の人は、真理とは相対的なものだ、すべては時と場合による、と言います。わたしの子供の躾にとって良いと思われるものが、必ずしも隣人の子供にとっても適切であるとは言えません。それはすべて環境や情緒や人間関係などによるのです。それは見かけ上事実であるかもしれませんが、このような事実は複合的にも、単独でも真理とはなりません。

科学者は、実証的で反復可能なものが真理であると言います。水素2に酸素1を混合すると水ができます。それは昨日も今日も、また明日も同じようにできます。しかしそれは、イエスは昨日も今日も、また永遠に真理である、と言うことと同じではありません。真理は、宗教的命題ですらありません。わたしが神を信じると言っても、それは必ずしも真理とは言えません。どのような神であるか、ということが問題です。その答は多種多様で、すべてが真理である筈はありません。

真理とは啓示――神の啓示です。人生の霊的戦いにおいて勝利を得たいと望むクリスチャンにとって、究極の真理は、イエスという人物です。神の満ち満ちた姿、及び神の真理が啓示されているのは、イエスにおいてです。イエスなる真理は、救い、贖う真理です。それは罪に対して死に(ローマ6の1~4)、義、道徳的誠実、霊的調和、すべての人間関係において神の期待に忠実に応答する生き方等を求めます。

キリストへの全き献身のみが、罪の世において真理を求め、真理を語り、真理を生きる人を武装させることができるのです。そこでパウロは次の勧告をしています。「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(ローマ13の14)。

先に述べたように、ローマの兵士は戦いに支障がないように、帯を用いて上着を締めました。同じように、キリストは戦いに当って、われわれを危険から守ってくださいます。真理であるイエスは、われわれの人間性が霊的戦いの邪魔をしないように、われわれの全存在を包まなければなりません。われわれの会話も、歩みも、礼拝も、仕事も、われわれの情緒も知性も、われわれの人間関係も関心事も、すべてがイエスにある真理によって、堅固にされなければなりません。

おろそかにされてはならない真理のもう一つの側面があります。イエスにある真理は、聖書を通して啓示されています。イエスは受肉した神の言葉です。聖書は霊感を受けた言葉です。われわれが辿るべき道において、この両者ともわれわれが理解し武装しなければならない必須要件です。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(テモテ二 3の16、17)。

聖書の教理と教えを十分に理解し実践しなければ、われわれは、「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりする」(エフェソ4の14)と、使徒は警告しています。「もし神の真理が心に深く根ざしていなければ、誘惑のテストに立つことはできない。最も厳しい状況の下でわれわれを固く守ることができるものは、只一つの力のみである。それは真理の中の神の恵みである」3

イエスを持ち、聖書に従う時にクリスチャンは、武具の一部としての真理のもう一つの重要な側面へと導かれます。それは、誠実な生き方です。もしわれわれが、イエスがわれわれにお命じになられたことや、聖書がわれわれに要求していることに従って歩くとすれば、われわれがなすすべてのことにおいて、――われわれが話すこと、われわれが聞くこと、仕事や人間関係などのすべての関わりにおいて――われわれは正直で誠実であることでしょう。クリスチャンの唇からは一つの偽りも出て来ないことでしょう。心の中には一つの欺瞞も住んではいないことでしょう。

「神は、『内なる人の中にある真理』を要求なさる。クリスチャンはどんなことがあっても正直で、真実でなければならない(詩編51の6、エフェソ4の15、25)。騙したり、偽善に陥れたり、狡猾な策略を巡らしたりすることは、悪魔のゲームをすることであって、われわれは悪魔自身のゲームでは彼に勝つことはできないであろう。彼が嫌悪するものは、透明な真理である。彼は暗闇を愛する。光は彼を追い出す。知的な健康と同様に、霊的な健康のためにも、自分自身について正直であることは、必須要件である」4

真理の帯を締めることについての最後の一点。ローマの兵士は、休暇の日には帯を締めようとは考えませんでした。クリスチャン生活において、休暇だと考えられる時は存在するのでしょうか? 「イエスを身にまとう」真理や道徳的、霊的に誠実に生きることが選択肢となるような時が果たしてあるのでしょうか?

正義の胸当て(エフェソ6の14)

重金属でできていた胸当ては、首から尻までの胴体を覆い、体の重要な器官を保護するものでした。古代ではユダヤ人は、しばしば心臓が人間の思想と情緒の座と同じであると考えていました。サタンの攻撃は特に、われわれの思いを歪め、情緒を汚すように狙っています。神に従わない思いは、悪いライフスタイルに直ぐに引き込まれます。

悪いライフスタイルは必ずしも、最悪の堕落や考えられる最悪の不道徳を意味しません。サタンはもし彼が、人の思いを献身から無関心へ、義の道から真理の怠慢へと導くことさえできれば満足します。サタンは必ずしも、われわれの情緒が悪の祭壇に住みつくようになること――例えば、ポルノのように――を望んでいません。彼は、もしわれわれが愛を肉欲に、親切を濫用に、霊的正しさを単なる善行に置き変えることができれば、それで満足します。従って、われわれの思いや情緒や霊的生命のすべての重要な器官を、義の胸当てで保護することが重要なのです。

義とはもちろん独善のことではありません。なぜならば独善は最悪の罪だからです。サタンはわれわれが独善に耽り、それが防備のための武器であると思い込むことを望んでいます。神の御目には、「わたしたちは皆、汚れた者となり 正しい業もすべて汚れた着物のよう」(イザヤ64の5)なのです。また、たとえ義の胸当てを着けた人が正しいことをしても、正しい行いが義なのではありません。

パウロが意味している義とは、自己中心や、独善や、罪の道を捨てて、キリストから来る義を身に着けることです。ローマの信徒への手紙3章21~26節には、神から来る義の定義が次のように述べられています。(1)神の義は、律法とは関係なく示された。それはわれわれの善行から来るものではない。(2)それは旧約聖書によって立証された。(3)それはイエス・キリストを信じる者すべてに与えられる。(4)それはイエス・キリストによる神の恵みを通して無償で義とされる経験へとわれわれを導く。(5)それはイエスの血を通して表示されている。

これが、サタンの策略に満ちた攻撃からわれわれを守る、胸当ての働きをする義についてのパウロの定義です。われわれにこの胸当てを身に着けるようにと命じることによって、使徒は、われわれにキリストとキリストの義とを身に着けるようにと勧めているのです。われわれの義なるキリスト――新しい契約の固い約束――が、われわれを永久に保護してくれるものとなるのです。キリストがわれわれの中に住まわれる時、サタンはわれわれの生活の中に入り込む余地を見つけることはできません。

「キリストの義の衣を身に着けている者すべては、選ばれた者、忠実で、正しい者として神のみ前に立つであろう。サタンには、彼らを救い主の御手から奪う力はない。罪を悔い信仰によって神の保護を求める魂の一人をも、キリストは敵の力の下を通り過ぎることをお許しにはならないであろう」5

平和の福音の履物(エフェソ6の15)

靴は、人が身に着けるものの中ではつまらないもののように思われるかもしれませんが、実は重要なものなのです。10才の時わたしは、小さな町の密集した地域で生活しました。周りのほとんどの人は靴を持ってはいませんでしたし、持っている人でも教会に行く時や結婚式の時のような特別の時のために用意しているのでした。ある人たちは皮のスリッパを履いていましたが、暑くて湿気が多い気候では、履き心地の悪いものでした。そのため大多数の人々ははだしで歩いていました。わたしの友人の父親もそのような人でした。彼は毎夜家から3マイル離れている工場で働くために、はだしで歩いて行きました。ある朝のこと、わたしは彼がびっこを引いているのに気づきました。友人とわたしは彼にどうしたのか、と尋ねますと、「たいしたことはない」と彼は答え、「とげか釘か、何か尖ったものでも踏んだのだろう。大丈夫だよ」ということでした。

ところが、実は大丈夫ではなかったのでした。彼は貧しくて医者に診てもらうことができませんでした。日が経ちましたが、傷は一向によくなりません。数週間の内に彼は亡くなりました。わたしの友人は父親を失い、われわれ2人とも、どうしてあのような恐ろしい危険が釘やとげの中に潜んでいたかを理解することができませんでした。葬式の時に、われわれは「古釘」とか「壊疽(えそ)」とか「すぐに治療しなかった」等とささやかれる言葉を耳にしました。履物を履くことで不必要な悲劇を防ぐことができた筈でした。確かに足のために靴は重要です。

ローマの兵士たちは、戦いの時の滑り止めのために、底に鋲が打ち付けられているブーツを履いていました。兵士は激しく戦闘している時に滑ったり、倒れたりすることは許されません。同様にクリスチャンも、勝利を得るためには福音の真理に固く立ち、動かされないことが必要です。

平和の福音がなぜ靴にたとえられているのでしょうか? 二つの意味が可能です。第1は、福音がクリスチャンに平和をもたらしたからです。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」(ローマ5の1)とあります。イエスを通してわれわれが経験する平和は、神との間と隣人との間の平和です。それは罪責感から解放されることによって与えられる平和です。平和の福音によってわれわれは、神が戦いにおいてわれわれと共に戦ってくださるという確信を持って立つことができます。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(ローマ8の31)

平和の福音は、和解の関係をもたらすことに加えて、われわれが良い知らせをもたらす者となるようにと招いています。使徒は、恐らくイザヤ52章7節の美しい言葉を念頭に置いていたことでしょう。「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる」。主のための戦いにおいて、福音の良い知らせをまだ聞いていない人々に、「あなたの神は統べ治められる!」という言葉を宣べることほど、クリスチャンの兵士が携えて行くことができる良いものは他にありません。サタンが聞いて震えおののくのは、このメッセージなのです。

不活動なクリスチャンは、霊の戦いにおいて勝利者となることはできません。サマリヤの女は平和を見いだした時、それを直ちに村人たちに分け与えるために急ぎました(ヨハネ4の28、29)。ベテスダの池の側の病人が、イエスにある平和と癒しを見いだした時、証しをするために躊躇しませんでした(ヨハネ5の11~14)。ヨハネス・ブラウオは次のように述べています。「伝道の働きは、教会に与えられた一足の履物のようなものである。教会はそれを履いて道路に出て、福音の神秘を知らせるために進み続けるのである」6

信仰の盾(エフェソ6の16)

パウロは盾を紹介するに当り、「なおその上に」という言葉をもって始めています。これは、「他のすべての武器よりも重要である」という意味ではなく、「その他に」「それに加えて」という意味です。使徒は、クリスチャンの武器の中で特に好きなものがあった訳ではありません。すべての武器は皆重要で、おろそかにしたり、側に避けておいてよいものは一つもありません。

ローマの盾には2種類ありました。一つは直径がおおよそ2フィート程度の小さなものでした。この盾は2本の皮の紐で腕に結び付けられていて、兵士はそれをあちこちと動かして、飛んで来るものから身を守るのです。もう一つの盾は、横がおおよそ2・5フィート、縦が4・5フィートのより大きなものでした。全身を守るために作られたもので、固い板の上に金属板や厚い皮で覆われてできていました。兵士たちは戦いの間、敵の矢や槍から身を防ぐために、これらの盾の後ろに身をかがめていました。立派な防御の武器です。

盾としての役割を果たすこの信仰とは何でしょうか?例えば人を信頼するということでしょうか、それとも、例えば論理的命題や事実について信頼するということでしょうか? それは理性の働きでしょうか、それとも意志の働きでしょうか? それは知的な同意でしょうか、それとも基本的な信頼でしょうか? 信仰について考える時このような多くの質問が湧いて来ます。しかし一つ確かなことがあります。それは、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」(ヘブライ11の6)ということです。

この一つの聖句から、信仰に関する幾つかの基本的な真理が浮かび上がります。(1)信仰は「神が存在する」というアプリオリ(先験命題)を含んでいる。神の存在は、議論や討論や実験の対象となるものではない。神は信仰の最初の自明の理である。(2)信仰は神への個人的な信頼を含む。(3)信仰はわれわれが神に近づくことができる通路である。われわれの行為によってではなく、また技術によってでもなく、神がおられるという単純な信仰によって神に近づく。(4)信仰は神を知り、神に喜ばれるために必須のものである。われわれが神に喜ばれる方法を選ぶのではなく、神に喜ばれる方法について神が与えておられることにわれわれは従うだけである。(5)信仰の報いは、信仰の目的それ自体の中にある。すなわち、神が信仰に報いてくださるお方であるということである。

「信仰とは神に信頼すること、すなわち神がわれわれを愛し、われわれの幸福にとって最善であるものをご存知であることを信じることである。そのときわれわれは自分自身の道を選ばず、神の道を選ぶようになる。信仰によってわれわれは、無知の代わりに神の知恵を受け入れ、弱さの代わりに神の力を、罪の代わりに神の義を受け入れる。われわれの生命、われわれ自身がすでに神のものである。信仰は神の所有権をみとめ、その祝福を受け入れる。真実と誠実と純潔は人生の成功の秘訣としてさし示されている。これらの原則をわれわれに所有させるのが信仰である」7

南洋諸島の一つの地方の言葉に、聖書を翻訳していた一人の宣教師のお話しがあります。彼は「信仰」という言葉に出会い、その部族の誰もこの言葉の定義をする人がいなくて、困っていました。彼は数日の間多くの人々と話をしましたが、適切な言葉を見つけることができませんでした。ある日、島の人が、一日の激しい労働の後、長距離を歩いて宣教師の家にやって来ました。彼は長いソファに文字通り身を投げ出して、「ソファにわたしの全重量を預けていい気持ちだ」と言いました。宣教師はその言葉を捉え、それを用いて、信仰を「神に人の全重量を置くこと」と訳しました。

神はあなたの全重量に耐えることができ、あなたに安息を与えることがおできになります。これが実際に神に信頼する結果です。神への基本的で、明白な揺るぎない信仰がわれわれの人生を支配する時、それは、「悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができる」(エフェソ6の16)力をわれわれに与えます。

火の矢は、あらゆる形で飛んで来ます。誘惑、疑惑、肉欲、絶望、試練、反逆、罪責等々です。その矢が何であれ、信仰の盾には、それを受け止める十分な力があります。力強い神への信仰はわれわれに、サタンに勝つ絶対的な確信を与えてくれます。神御自身は、「身を寄せればそれは盾となる」(箴言30の5)お方です。

救いの兜(エフェソ6の17)

兜は命を守る装具です。それは頭を危険から保護するために考案されました。わたしはアルバートのことを考えています。彼は若くて、ハンサムで、頭がよく、将来有望な人物でした。彼は両親の誇りであり、彼の音楽の才能や、コンピューターの技術や、聖書の知識等は、小さな教会の共同体にとって祝福でした。子供たちは彼を慕いました。大人たちは、彼が皆が誇りに思う人物に成長することを知っていました。しかし彼が18才になった時、災いがアルバートを襲い、両親を悲嘆に、小さなアドベンチストの共同体を耐えられない悲しみに陥れました。彼が用事で家を出て数分後、スピードを出していたトラックが、アルバートのオートバイを背後から直撃し、彼は頭を強打したのです。「頭部の傷がひどい」と検死官の外科医は言いました。「もし彼がヘルメットさえ着用しておれば……」

世界の多くの地域では、さまざまな災害に対する保護として、ヘルメットの着用が法律で要求されています。パウロの時代に兜は、銅や鉄のような強固な金属で作られていて、兵士たちの標準の装備でした。いかなる剣も、兜を突き破ることはできませんでした。

クリスチャンの戦いにおいても同様です。信者たちは、重要な決断がなされる彼らの意志の座を守るために、兜をかぶらなければなりません。パウロは兜を、罪からの救いと同一視しています。テサロニケの信徒への手紙一 5章8節でパウロは、兜は「救いの希望」であると付け加えています。

しかし、しばしばクリスチャンを悩ましている質問は、どのようにすれば救いの確信を持つことができるか、という質問です。その答は、われわれの内にではなく、神の内にあります。クリスチャンの生涯における神の働きを強調すると(コリント一 12の6、11、ガラテヤ2の8、エフェソ1の11、20)、救いの全貌――その始まり、その継続期間、最後の完成――は神を信じ、神と共に歩むすべての者への神の恵みによって保証されているという確信が与えられます。

これとの関連において、かつてカール・バルトが次のように記しました。「『自分の救いを達成する』に当って実現することが何であっても、それを各自に与えられるのは神である。……そのような者としてわれわれは、自分自身を神の力に全く委ねるのである。そのような者としてわれわれは、そのすべての恵みを認めるのである。すなわち、すべてのもの――望ませ行わせること、始めと終わり、信仰と啓示、質問と解答、探究と発見――は、神から来るものであり、現実は神のうちにのみ存在する、という恵みを認めるのである。……人は『それは神である』という事実を認めない限り、自分の救いを実践に移すことはできないのである」8

これが福音の美しさです。神が救いにおける至上のお方です。神の恵みが事を始め、神の恵みが贖いの過程を完成なさるのです。「神がお命じになったことは、神の力によって完成することができる。神のお命じになることはどんなことでも、成しとげることができるのである」。9神がわれわれの内にあって働かれるのです。

神の恵みとは、われわれを神御自身と和解させ、われわれを神の家族の一員とするために働かれる神の活動力です。神の家族の一員となった後、われわれは家族の中に住み、神の驚くべき恵みの力によって、神の愛の実を結びます。神の家族の中に留まる事が、われわれの確信の根拠です。それゆえに、救い――現在の救いの経験と、キリストが再びお帰りになるときの最終の救いの希望――を兜としてかぶりましょう。

サタンは、キリストのうちに持っているわれわれの確信を揺るがせはしません。なぜならばキリストがわれわれの確信だからです(ペトロ一 1の3~10、ローマ8の31~39、ヨハネ6の37~39)。疑いと失望は、われわれの経験を動揺させません。かえって喜びと御霊の交わりが、この地上と来るべき家郷でのわれわれの相続の確信を保証します(エフェソ1の14)。「神の救いの力が、われわれの魂の敵に対するわれわれの唯一の防御である」10

霊の剣(エフェソ6の17)

神の武具の最初の五つの武器――真理の帯、義の胸当て、福音の靴、信仰の盾、救いの兜系は性質上、防御的なものです。これらは、サタンの猛攻撃から実を守る武器です。使徒は今、最後の武器である攻撃の武器について述べています。「霊の剣、すなわち神の言葉」(エフェソ6の17)です。

神の言葉を御霊と関連させることによって、使徒は、御言葉の起源を明らかにしています。聖書は人間の文書ではありません。その起源は神の御心の中に置かれています。使徒は、他の個所でこのことを明らかにしています。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(テモテ 3の16、17)。

「神の霊の導き(霊感)」とはどのような意味でしょうか? 世俗主義者は、聖書の霊感を、シェークスピアの演劇やミルトンの詩が霊感を受けているかもしれない、という同じ意味で捉えるでしょう。すなわち、それらは感動的で、興奮を呼び、人を高め、慰める力があるというのです。しかし、それは聖書の「霊感(インスピレーション)」が意味するところではありません。ギリシア語の「セオプニューストス」という言葉の実際的な意味は、「神が息を吐く」で、それは「インスパイヤー(息を吸う)」と言うよりも、むしろ「エックスパイヤー(息を吐く)」という意味です。このようにこの聖句は、聖書が持つ神による起源を明らかに教えていうのです。すなわち、神がその息を吐いて聖書を造られた、それを比喩的に言えば、「聖書は神の息である」、と言うことができるかもしれません。

この思想は、ペトロの手紙二 1章19~21節にある強烈な議論によって敷衍され、強化されています。そこにおいては聖書が、使徒の目撃証言の出来事よりも、より確かなものとして提示されています。ペトロは、聖書の言葉が「自分勝手に解釈」された結果できあがったものでも、人間の力によって生み出されたものでもなく、神からの啓示の結果であることを確信していました。エレン・ホワイトは、次のように述べています。「すべての世界を出現させた創造のエネルギーは、神のみ言葉のうちにある。神のみ言葉は能力を与え、生命を生ぜしめる」11

従って聖書は、神の自己啓示の書物であるばかりではなく、クリスチャンの生き方の探究とその戦いにおいて、われわれを豊かにし、導き、統御するための神の道具でもあるのです。神の言葉を御霊の力として受け入れると、人生の重要な問題への解答を得る力が与えられます。それらの重要な問題とは、わたしは誰か? わたしはどこから来たのか? わたしはどこに向かって進んでいるのか? 歴史の意味とは何か? 死ぬ時に何が起こるのか? 神はわたしといかに関わっておられるのか? わたしは他者や、大きく世界といかに関わるべきか? 等の問題です。聖書はこれらの質問に関して、述べるべき事柄を持っているのです。クリスチャンとしてわれわれは、サタンがこれらの重要な問題について疑いや矛盾をもってわれわれと対決するとき、正しい解答を必要とします。

スコットランドの牧師、トーマス・ガスリーは、聖書がクリスチャンにとって意味すべき事柄を次のように力強く述べています。「聖書は、神の武器が収められている兵器庫であり、絶対によく効く薬を生む実験室であり、無尽蔵の富の鉱山である。聖書は、すべての道路の案内図であり、すべての海の海図であり、すべての病気に効く薬であり、すべての傷を癒す軟膏である。われわれから聖書が奪われると、われわれの上空には、太陽が無くなるのである」12

イエスは、サタンに対するわれわれの戦いにおける神の言葉の用い方について、完全な手本を示されました。荒野におけるすべての試練は、神の言葉の約束を疑ったり、試したりするようにイエスを導くことを目指していました。その試練は強く、厳しいものでした。しかしイエスの防御は、サタンの攻撃よりも強力でした。イエスの防御は、神の言葉への信頼の上に築かれていました。

しかし、御言葉を知るだけでは十分ではありません。サタンも騙し欺くために、聖書を知っています。神の力は、魂が神の言葉の要求に無条件に従う時にのみ、与えられます。神の言葉への疑念は、サタンの兵器庫にある鋭い一つの武器です。彼はアダムとエバに対してそれを用い、成功しました。彼はそれを、第2のアダムであるイエスにも再び試しました。しかしイエスは神の言葉を用いてすべての試練に勝利なさいました。

「イエスは聖書のみことばをもってサタンに応じられた。『こう書かれている』と、イエスは言われた。試みのたびに、イエスの戦いの武器は神のみことばであった。サタンはキリストに神性の証拠として奇跡を求めた。しかしどんな奇跡よりも力のあるもの、すなわち『主はこう言われる』ということばに対する固い信頼こそ反論のできない証拠であった。キリストがこの立場を持続されるかぎり、誘惑者は勝つことができなかった」13

われわれにとっても同様です。詩編記者は次のように述べています。「わたしはあなたにむかって 罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました」(詩篇119の11 口語訳)。ヘブライ人への手紙の著者による次の約束が加えられています。「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブライ4の12)。クリスチャンの兵士が、サタンの攻撃に対抗するために、この鋭い霊の両刃の剣を用いる時に、彼らは戦いに勝利します。

絶えず祈り続けなさい(エフェソ6の18)

祈りはすべての宗教につきものですが、聖書の祈りと他の形の祈りとの間には、相違があります。前者は、人格を持つ神の約束への応答であり、後者は人格を持たない憶測による力やイデオロギーへの願いです。前者は、対話であり、後者は、独白です。祈りとは、神と話すことであり、神の御声に傾聴することであり、屈伏してひざまずくことであり、神の力に満たされて立ち上がることです。祈りは自己を否定し、神の力によりすがり、神を待つ以外に、われわれに何も要求しません。この待つことから、われわれがクリスチャンの旅路を歩み、霊の戦いを戦う力が流れ出るのです。

パウロは祈りを、武具の一部として挙げてはいませんが、武具の六つの部分のどれ一つとして、祈りがなければわれわれを守るものとなることはできない、と指摘しています。祈りは、武具を身に着けることに先行し、それぞれの武具の役割を果たさせ、武具が敵を打ち砕く力を与えるのです。

パウロはクリスチャンの生き方と戦いにおける祈りの重要性を考えて、祈りの六つの大きな原則を列挙しています。「どのような時にも祈りなさい」「霊に助けられて祈りなさい」「願い求めなさい」「すべての聖なる者たちのために祈りなさい」「絶えず目を覚まして祈りなさい」「根気よく祈り続けなさい」(エフェソ6の18)。効果ある祈りは、自己否定的であり、御霊に満たされた祈りです。パウロはそれに加えて、われわれの祈りは、他者の必要を懇願する執り成しの祈りであるべきだと述べています。彼は「福音の使者」である彼のための祈りの願いをもって、この思想を結んでいます(20節)。

霊的生き方における祈りの重要性は、どんなに強調しても、し過ぎることはありません。モーセはシナイ山頂で40日間過ごし、イスラエルを約束の地に導くに当って、神の御指導を祈り求めました(出エジプト24の18、34の28)。エリヤはカルメル山頂で、天からの火が彼のいけにえを焼きつくし、イスラエルの神が真の神であることを公衆の前で確証するようにと祈りました(列王記上18 章)。ダニエルは神の力と神の救いの確信の証しとして、獅子の穴から彼を守るための天使を祈り求めました(ダニエル6の20~24)。ダビデは、「夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く。神はわたしの声を聞いてくださる」(詩編55の18)と言いました。

イエスは、われわれに祈りの模範を教えておられます(マタイ6の9~13)。イエスはゲッセマネで、十字架の最後の戦いに備えるために、汗が血の滴るように落ちる程、祈られました(マタイ26の36、マルコ14の32)。初代の信者たちは、絶えず祈りました(使徒言行録10の2)。パウロは、しばしば信者たちに絶えず祈るようにと訴えました(ローマ12の12、フィリピ4の6、コロサイ4の2)。エレン・ホワイトは、「祈りは、最も重要な務めの一つである。祈りがなければ、あなたはクリスチャンの歩みを維持することはできない。祈りは、人を高め、人に力を与え、高貴な者とする。祈りは魂と神との語らいである」14と述べています。

『天路歴程』の中で、ジョン・バンヤンは、謙遜の大峡谷で、巡礼者クリスチャンがアポリオンと出会う感動的なシーンを描いています。神の国への途上にいる聖徒たちを、打ち砕くために存在している、悪魔の勢力の象徴であるアポリオンは、あらゆる武器を自由自在に使ってクリスチャンを攻撃します。御霊の剣で武装したクリスチャンは、雄々しく戦います。この激しい戦いの最中でクリスチャンは、彼の剣を失うのです。これでクリスチャンの死の運命が決まったとアポリオンが喜んだ丁度その時、クリスチャンは「万全の祈り」と呼ばれるもう一つの強力な武器を用いるのです。戦いは再び続けられます。

不屈の巡礼者は、この武器を巧みに用います。突然、彼の手は剣の柄に触れます。万全の祈りに支えられ、大胆に御霊の剣を巧みに用いて、クリスチャンはアポリオンを打ち破り、大きな勝利の叫び声が上がるのです!

祈りは、クリスチャンの日常の歩みに基本的に必須であるばかりではなく、祈りには終末論的な側面もあります。つまり、祈りは今日一日の力を与えるばかりではなく、来らんとする終末の試練のための希望をも与えるのです。神の武具――真理、義、平和、信仰、救い、神の言葉――によって装備され、祈りによって神と結びついている人は、悪魔に勝利するでしょう。

結びの言葉(エフェソの信徒への手紙6の19~24)

パウロは、エフェソの教会宛の彼の書簡を、確信と、共同体と、愛の言葉をもって閉じています。ローマの牢獄に彼が投獄されている厳しさについては、この書簡では1度も表明されてはいません。エルサレムにおける彼の誤った捕縛の責任者であるユダヤ人の指導者たちに対する、何の敵意もまた描かれてはいません。使徒にとっては、個人的な事柄は取るに足りないものでした。彼は偉大で高貴な人物でした。彼は純金の液につけられ、天来の恵みによって常に磨かれた品性の持ち主でした。彼の心に常に重荷があるとすれば、それはイエス・キリストの福音であり、異邦人への使徒となるべき彼の召命であり、仲間の信徒たちへの彼の関心でした。これらの三つが、この書簡にうまく混在しています。

確信(エフェソ6の18、19)

クリスチャンの武具についての彼の論議(エフェソ6の11~18)を終わるに当って、使徒は、信徒たちにどのような時でも祈りの心を持つようにと訴えています。自分のため、お互いのため、福音の働きを広めるため、最終の時の備えのためヘの祈りは、個人のクリスチャンにも、また信仰の共同体にも、共になければならないものです。

この願いと共に使徒は、個人的なことを付け加えています。彼は投獄生活を軽くし、そこでの住み心地をもう少し良くするために多くの事柄を頼むこともできました。ところが彼はそのようにはしないで、「鎖につながれた使者」のために祈って欲しいと、エフェソの信徒たちに訴えています。これは実に驚くべきことです。主からの真実で個人的な召命を経験した人は、そのことを決して忘れることはできません。パウロにとって、ダマスコの経験は、彼をお召しになられたお方と彼とを常に結び付けるものでした。使徒は、囚人としての彼のための祈りではなく、王の王であるお方の使者としての彼のために祈って欲しいと頼んでいます。

鎖につながれていても構わない。彼の舌は自由である。彼の思いも新鮮である。彼の心は喜びに躍っている。彼の福音の発見は、昨日の出来事のように鮮明である。そこで使徒は、自由に語ることができる日がもう1度彼のものとなるように、そして彼が「語るべきこと」を「大胆に話せるように」と待望しているのです。使者には伝えるべきメッセージがあります。彼が話すべき時に沈黙していることは、選択肢の中にはありません。

更に、彼は人類歴史に起こった最大の出来事――粉々に引き裂かれた多くの人々から、一つの民を創造する「福音の神秘」の啓示――の使者です。もはやユダヤ人も異邦人もない、というこの宣言が、エルサレムにおけるパウロの捕縛へと導き、更に彼が死ななければならないのは、この宣言と共にである筈です。生涯の終わりに直面して、その唇にイエスの御名を唱え、その心に新しく一つにされた創造の確信を持つことほど、クリスチャンが求めることができる素晴らしい特権が他にあるでしょうか。そこで使徒は、エフェソの信徒たちに、「わたしのために祈ってください」と訴えるのです。

共同体(エフェソ6の21、22)

パウロは彼の結論の中に、キリストの十字架が達成した新しい共同体の思想をも含みました。これはこの書簡――パウロによる新しい人間関係の福音――の重荷でありました。この書物全体を通じて、この福音の神学とその実践的な教えについて、彼は語ってきました。さて、あたかも体で抱擁するかのように、新しい共同体についてのこの思想に対する彼の献身を公言するかのように、パウロはこの手紙をティキコと呼ばれる一人の人の手に託して送るのです。

使徒は彼の使者のことを、「主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者」(エフェソ6の21)と紹介しています。ティキコは、使徒に関するすべての知らせをエフェソの信徒たちに知らせる使徒の腹心の友です。彼はパウロが信頼している人物です。ダマスコの経験以前では、使徒は異邦人のティキコに関してこのようなことは言わなかったことでしょう。しかし十字架につけられたキリストの中に、パウロはユダヤ人と異邦人との間にあるすべての壁が崩壊するのを見たのです(2の14~18)。この神秘のために、使徒は主要な管理者となったのです。これが決定的な相違をもたらしました。ユダヤ人と異邦人の両者に貼られたラベルが、価値ある唯一のラベル――キリスト・イエスによって新しく創造された者――に貼り変えられました。このような抱擁性は、和解の福音の力と栄光を証ししています。

愛(エフェソ6の23、24)

使徒はこの書簡を、恵み、愛、平和という言葉で始めました(1の1~4)。彼は同じ言葉で書簡を閉じています(6の23、24)。三つの言葉の中で、愛は最も心を打つ表現です。事実この言葉は、すべての信者はキリストにあって一つであり、愛のうちに生きなければならないというこの書簡の主題を要約するものです。これこそ、クリスチャンの愛が意味するものです。この愛を生きる人々は、イエス・キリストにおいて神が創始なさった新しい関係の福音を実践する人たちです。「恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。アーメン」。

参考文献

1         D.Martyn Lloyd-Jones, The Chrsitian Soldier (Grand Rapids: Baker Books, 1977),p. 28.

2         Ibid.,p.179.

3         Ellen G.White, My Life Today (Washington, D.C.:Review and Herald Pub. Assn., 1952),p.310.

4         Stott, pp.277,278.

5         White, God’s Amazing Grace (Washington, D.C.:Review and Herald Pub. Assn., 1973) p. 31.

6         Quoted in Stott, p. 280.

7         エレン・G・ホワイト著『教育』、299頁

8         Karl Barth,The Epistle to the Philippians, trs. James W. Latch (Richmond:John Knox Press, 1962),pp.73,74.

9         エレン・G・ホワイト著『キリストの実物教訓』、307頁。『豊かな人生の秘訣』、226頁

10       Stott, p.282.

11       エレン・G・ホワイト著『教育』、135頁

12       Thomas Guthrie inJohn MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary:Epesians (Chicago: The Moody Bible Institute, 1997), p.368.

13       エレン・G・ホワイト著『各時代の希望』上巻、129頁

14       White, Testimonies for the Church, vol. 2,p.313.

この記事は、ジョン・M・ファウラー(山地明・訳)『エフェソの信徒への手紙』からの抜粋です。

ジョン・M・ファウラー
インドで生まれ、10代の頃に預言の声ラジオ放送を通してアドベンチストとなる。スパイサー・カレッジで神学学士を取得後、32年間、インドで牧師、教師、教会行政、編集に携わる。1990年、『ミニストリー』誌副編集長として世界総会に招聘される。1995年より世界総会教育部副部長。ニューヨーク・シラキュース大学よりジャーナリズム修士号、アンドリュース大学より博士号を授与される。教会誌および専門誌に300以上の記事を寄稿。『キリストとサタンの宇宙的争闘』ほか、数冊の著書がある。妻メリーとの間に2人の子供がいる。

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