【ペトロの手紙1・2】朽ちない財産【1章解説】#2

目次

この記事のテーマ

聖書を、とりわけ一つの書やその一部分に焦点を合わせて学ぶときはいつでも、可能であれば、いくつかの質問が問われる必要があります。

第一に、対象とする読者がだれであるかを知るのは、良いことでしょう。第二に、おそらくもっと重要なことですが、執筆の正確な理由が何であるかを知るのは、良いことでしょう。(もし問題があるとしたら)著者が取り組みたいと思っている特定の問題は、何だったのでしょうか(例えば、救いと律法について教えられていた神学的誤りに関して、パウロがガラテヤの信徒に書き送ったように……)。知ってのとおり、新約聖書の多くは書簡として、つまり手紙として書かれたのであり、人々が手紙を書くのは、たいていの場合、受け取り手に具体的なメッセージを伝えるためでした。

言い換えれば、私たちがペトロの手紙を読むとき、その手紙の歴史的背景をできるだけたくさん知るのは、良いことでしょう。「彼は何と書いているのか」「それはなぜなのか」。そして言うまでもなく、何よりまず、「(聖霊の導きのもと、その手紙が人々に書かれたように)私たちはそこからどんなメッセージを引き出すことができますか」……。

そして、これからすぐ見ていくように、ペトロは最初の数節の中にも、執筆当時から何世紀も離れた私たちに示すために重要な真理をたくさん込めています。

離散している人たちへ

もしあなたが、「担当者様」と書かれた1枚の紙を受け取ったなら、その紙は、あなたと親しくない人から送られてきた手紙だ、と推測するはずです。

現代の手紙に定型の書き出しがあるように、古代の手紙にもそのようなものがありました。Iペトロの手紙は、古代の手紙らしく始まっています。その書き出しは、手紙の執筆者と手紙がだれに送られるかを明らかにしています。

Iペトロ1:1を読んでください。ペトロは、自分がだれであるかを明確にしています。彼の名前が手紙の最初の言葉です。しかし、彼はすぐに自分のことを「イエス・キリストの使徒」と説明しています。パウロがしばしばそうしたように(ガラ1:1、ロマ1:1、エフェ1:1)、神の召しをこのように強調することで、ペトロは直ちに自分の「資格」を証明しています。彼は「使徒」、つまり「派遣された者」であり、彼を派遣した方は主イエス・キリストでした。

次にペトロは、彼の手紙の送り先である地域を明らかにしています。「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニア」。これらはすべて、現代のトルコに相当する小アジア内の地域です。

ペトロがおもにユダヤ人信徒に向けて書いているのか、異邦人信徒に向けて書いているのかを巡っては、議論があります。ペトロがIペトロ1:1で用いている「離散して」「仮住まいをしている」といった言葉は、1世紀の聖地の外に住むユダヤ人に本来用いられるものです。次の2節における「聖なる」「選ばれた」といった言葉は、ユダヤ人にもクリスチャンにも同様に当てはまります。共同体の外の人たちを「異教徒」(Iペト2:12)とか「異邦人」(同4:3)と表現していることも、ペトロが書き送っている相手のユダヤ人的特徴を際立たせています。

それに対して、注釈者たちの中には、ペトロがIペトロ1:18、4:3で言っている内容は、ユダヤ人のキリスト教改宗者よりも異邦人改宗者に向けて語られたほうがずっとふさわしいだろう、と論じる人もいます。結局のところ、ペトロは「先祖伝来のむなしい生活」(Iペトロ1:18)についてユダヤ人に書いたのでしょうか。それともユダヤ人読者に、「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です」(同4:3)と言おうとしたのでしょうか。

しかし、私たちにとってもっと重要なのは、だれが手紙の受け取り手であったかということより、むしろメッセージの内容です。

選ばれた

Iペトロ1:2を読んでください。特にユダヤ人信徒に向けて書いていようと、異邦人信徒に向けて書いていようと、ペトロは次の1点に関しては確信しています。彼らは「父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて……選ばれた」(Iペト1:2)という点です。

しかし、私たちはここで注意する必要があります。この聖句は、だれが救われ、だれが滅びるかを神が運命づけておられるとか、幸運にも、ペトロが手紙を書いている相手は、救われるためにたまたま神によって選ばれた者たちであり、それ以外の人たちは神によって滅ぼされるために選ばれているのだ、などということを意味しているのではありません。聖書はそのようなことを教えていません。

問1

Iテモテ2:4、IIペトロ3:9、ヨハネ3:16、エゼキエル33:11を読んでください。ペトロがどういう意味でこの人たちを「選ばれた人たち」と呼んだのかを理解するうえで、これらの聖句はいかに助けとなりますか。

すべての人が救われることは、神の御計画、地球が造られる前に立てられた計画であると、聖書ははっきり述べています。「天地創造の前に、神はわたしたちを……お選びになりました」(エフェ1:4)。すべての人が救われ、だれも滅びないことが神の本来の目的であったという意味において、「皆」が「選ばれ(る)」のです。神は人類すべてに永遠の命を前もって定められました。これは、たとえ、すべての人がその贖いの提供するものを受け取るわけではないとしても、だれもが贖われるために、救いの計画が十分であったことを意味します。

選びに関する神の予知とは、彼らの自由選択が救いに関してどうなるかを、神が単純に前もって知っておられるということです。この予知は、彼らの選択をまったく左右しません。自分の子どもがインゲン豆よりチョコレートケーキを選ぶだろうことを母親が前もって知っているからといって、彼女の予知が子どもの選択を左右したことにはなりません。それと同じです。

鍵となる主題

問2

Iペトロ1:3〜12を読んでください。これらの聖句におけるペトロの中心メッセージは何ですか。

Iペトロ1:1、2における読者への挨拶の中で、ペトロはすでに、父、御子、聖霊に触れていました。そして、神の神性の三者が、Iペトロ1:3〜12における主題を成しています。父と御子が3〜9節の主題であり、聖霊は10〜12節で際立っています。ペトロは、父、御子、そして聖霊の働きについて記しながら、あとで再び扱う多くの主題を提示しています。

クリスチャンは新たに生まれたものだと、ペトロは論じ始めます(Iペト1:3、さらにヨハ3:7参照)。クリスチャンの全人生は、イエスの復活と、彼らを天で待つすばらしい財産によってすっかり変えられました。新約聖書の多くのほかの箇所と同じく、ここでもイエスの復活がクリスチャンの希望の鍵です。

ペトロの手紙Iを読んでいる多くの人が苦しんでいるという事実にもかかわらず、クリスチャンが喜ぶ理由はこの希望にあります。苦しみは、火が金を溶かし、精錬するように、彼らの信仰を試し、精錬します。ペトロの書簡の読者は、イエスが地上で働かれたときに会ったことはありませんでしたが、それでも彼を愛し、信じています。そして、イエスに対する彼らの信仰の結果が、救いと、「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産」(Iペト1:4)という約束です。

ペトロはまた、昔の預言者たちが「あなたがたに与えられる恵み」(Iペト1:10)を預言したことを彼らに知らせています。旧約聖書の預言者たちは、この人たちが今イエスにあって体験している救いについて「探求し、注意深く調べました」(同)。彼らが信仰に対する迫害によって苦しむとき、彼らは、ずっと広範囲に及ぶ善と悪の戦いの一部なのだと、ペトロは指摘します。結局のところペトロは、彼らが試練のさなかにあっても信仰に忠実であるよう、助けようとしています。

救いの人生を送る

Iペトロ1:13〜21を読んでください。13節の冒頭にある「だから」という言葉は、ペトロが次に言おうとしていることが、たった今語ったことに基づいていることを示しています。昨日の研究で触れたように、ペトロはこれまで、神の恵みとイエス・キリストにあってクリスチャンが抱いている希望について語ってきました(Iペト1:3〜12)。

この恵みと希望の結果として、ペトロは彼の読者に、「心を引き締め……なさい」(Iペト1:13)と勧めています。つまり、彼らがイエスにあって持っている救いに対する応答として、彼らは固く立ち忠実であるために、心の備えをしなければならないということです(同)。

Iペトロ1:13を読み直してください。疑いの余地なく、彼らの希望はただイエスにかかっていると、ペトロは言っています。が、続いて彼は、クリスチャンには救いの結果として、一定水準の行動が求められている、と強調しています。ペトロはクリスチャンの行動の背後にある三つの大きな動機を指摘しています。神の御品性(Iペト1:15、16)、近づいている裁き(同1:17)、贖いの代償(同1:17〜21)の三つです。

クリスチャンの行動を動機づける最初のものは、神の御品性です。この御品性は、「神は聖なる方」という言葉で要約できるでしょう。ペトロはレビ記11:44、45から引用して、「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」(Iペト1:16)と記しています。それゆえ、イエスに従う者たちも聖なる者である必要があります(同15〜17節)。

クリスチャンの行動の第二の動機は、聖なる方である神が、すべての人を公平に、各自の行いに従って裁かれるという認識の中にあります(Iペト1:17)。

第三の動機は、クリスチャンが贖われているという大いなる真理から生じます。これは、彼らが代償によって、しかも非常に大きな代償——キリストの尊い血(Iペト1:19)——によって買い取られたということです。ペトロは、イエスの死が歴史上の偶然ではなく、天地創造の前から定められていたものであったと強調しています。

互いに愛し合う

ペトロは次に、清く忠実な人生を送るとはどういうことなのか、その究極のあらわれ方へとクリスチャンを導きます。

Iペトロ1:22〜25を読んでください。ペトロの主張の出発点は、クリスチャンがすでに清められており(「あなたがたは、……清め……たのですから」)、真理を受け入れて生きているという点です(Iペト1:22)。この「清める」という動詞は、ペトロが数節前に記した「聖なる」とか「聖」といった言葉と密接に関係しています(同1:15)。イエスへの献身とバプテスマを通して(同3:21、22と比較)、クリスチャンは神のために自分を取りのけることで自分自身を清めました。彼らは真理に従うことによって、これを行います。

彼らの人生におけるこのような変化には、気づけば、今や同じ世界観を共有する者たちと親しい関係になっているという当然の結果が伴います。彼らの関係は非常に親しいので、ペトロは彼らを描くのに家族という言葉を用いています。クリスチャンは兄弟愛や姉妹愛から行動して当然です。ペトロが「兄弟愛」について語る際にIペトロ1:22で使っているギリシア語「フィラデルフィア」は、文字どおりには「兄弟姉妹の愛」を意味しています。それは、家族が互いに対して持っている愛のことです。

ギリシア語には「愛」と訳されている言葉がいくつかあります。「フィリア」(友情)、「エロス」(夫婦の情熱的な愛)、「アガペー」(他者の役に立とうとする純粋な愛)など。ペトロが「深く愛し合いなさい」(Iペト1:22)と記す際に用いている「愛」は、通常、他者の役に立とうとする純粋な愛を意味する「アガペー」と関連しています。だからこそ彼は、「愛し合いなさい」という言葉に「清い心で」(同)——朽ちない神の御言葉を通して「新たに生まれた」(同1:23、さらに1:3参照)ことによって生じる心で——と付け加えています。このような種類の愛は、神によってしか生じません。それは、身勝手で、自己中心的で、生まれ変わっていない心からあらわれるものではなく、それゆえにペトロは、清められることや「真理を受け入れる」(同1:22)ことを強調しています。真理は、単に信じるだけのものでなく、それに従って生きるものなのです。

さらなる研究

ペトロの手紙Iの第1章の内容の豊かさ、深さ、広さは、驚くべきものです。ペトロは、父、御子、聖霊を登場させ、神である方の御品性を瞑想することで彼の書簡を書き始めています。父なる神は、子なるイエス・キリストを救い主としてお与えになりました。そして私たちは、清められ、従うためにキリストにあって選ばれます。私たちはイエスを愛すようになり、彼のゆえに、高められた喜びに満ちあふれています。なぜなら、私たちはイエスの死と復活によって、「朽ちない財産」が天にあるという約束を持っているからです。それゆえ、私たちは試練のさなかにあっても、キリストによって私たちに与えられた救いを大いに喜ぶことができます。「彼〔ペトロ〕の手紙は、試練や苦難に耐えている者たちの勇気を奮い起こさせ、信仰を強め、また、多くの誘惑の中で神とのつながりを失う危険に陥っている者たちを、再び良い働きに励ませる手段となった」(『患難から栄光へ』下巻216ページ)。一方、聖霊は、ペトロと彼の読者たちが生きている時代の概要を説明するために、預言者たちを通じて働かれました。結果としてクリスチャンは、「清い心」から生じた愛で特徴づけられる共同体の中で、真理への服従にあふれた清い生活を送らなければなりません。

*本記事は、安息日学校ガイド2017年2期『「わたしの羊を飼いなさい」ーペトロの手紙I・Ⅱ』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次