闇に輝く光【ヨハネの手紙解説#2】
「神の光を見る最良の方法は、何時自身の明かりを消すことであると、トマス・フラーは言いました。もし私たちが自分の力で天国に入ろうとしているなら、今すぐに自分の光ではなく真の光に目を向けるべきです。神が光であるということは、神が命の源であり、真理の基礎であり、救いといやしの唯一の手段であるということです。
このことを理解するとき、私たちは光の世界と闇の世界に同時に生きることができなくなります。私たちは光の中、すなわち創造主にしてあがない主なる神の、命を与え、すべてを造り変える、輝かしい光の中に生きなければなりません。「人はだれも自分自身のための光ではない」(アントニオ・ポルキア)。
ここには重要な問題があります。罪をはっきりと示す必要があるということです。学生時代のことですが、下宿の女主人が私の窓に「悔い改めなさい、すべての人が罪を犯したのだから」というポスターがはられているのを見て、憤慨していたのを思い出します。彼女は私に挑戦するかのように次のように言いました。「すべての人が罪人だなんて、どうして言えるの。私は罪人じゃないよ」。彼女がどんな生活をしているかを見ていた私は、(決してさばくつもりではありませんが)その言葉に同意することができませんでした。彼女は自分の罪深さを認めようとしない多くの人々を例示しています。自分の罪深さを認めないかぎり、私たちは神を偽り者とし、神の助けを拒むのです。
光であって、闇は全くない(ヨハネの手紙一 1章5節 )
神はどのようなお方ですか( I ヨハ1: 5、詩27: 1 、イザ60:20)。「光」と「闇」は何を象徴しますか。例をあげてください。
ヨハネは、自分が聞き、知っているものが真実であると宣言しています。彼が語ることは哲学的な推測ではなく、神ご自身の啓示です。神は絶対的な光であって、神には闇が全くありません。私たちは「夜行性の動物」ではありません。私たちは光を求め、光なしには生存することができません。光は多くのもの、たとえば視力、成長、知識、悟り、そして命そのものの象徴です。このように、神の例示である光は美と知恵と威厳に満ちた神の品性を啓示します。
さらに、光は道徳的善、倫理的正義と見なされています。対照的に、闇は敵の王国、悪の住みかです。ところで、あなたはどこに住んでいますか。あなたは闇の中と光の中に同時に住むことはできません。相反する二つの原則に従って生きることはできません。光を闇、闇を光と言うこともできません。
光の思想はまた創世記の記録、すなわち「光あれ」という神の最初の創造行為を思い起こさせます(創世1:3)。神は光なる創造者であって、輝かしい光に包まれたお方として描かれています。神が人間にお現れになるときにはいつでも、まばゆい光をともなっています(エゼ1:26~28)。
ヨハネが「神には闇が全くない」( I ヨハ1 : 5 ) と言っているのはなぜだと思いますか。神は光であると言うだけで十分ではないでしょうか。
「ヨハネがここで『神は光であり、神には闇が全くない』と断言しているのは、倫理的な意味においてである。すなわち、神は聖と義、善と真の源泉、また本質である。神には汚れや不義、邪悪や虚偽は何ひとつない」(F・F・ブルース『ヨハネの手紙』41ページ)。
この聖句はまた、神が悪の創始者でも、責任者でもないことを明らかにしています。一部の哲学者は、神が悪の創造者であると教えていますが、ヨハネはこれを強く否定しています。
光と闇の中に生きる(ヨハネの手紙一 1章6節、7節)
あなたは相反する二つの世界にあって別々の生活を送ることができるでしょうか。ところが、多くの人がこの離れ業をやろうとしているのです。ヨハネはここで遠回しの言い方はしません。クリスチャンであると言いながら闇の中に生きている人たちは、言葉においても行為においても偽り者であると、ヨハネは言っています。
なぜそれほど重大な問題なのでしょうか。それは、闇には何の利益もないのに、「二つの世界の良いところだけ」を手にすることができるという錯覚に陥るからです。さらに、そのような誤った模範を示すことによって、他の人々をも欺くのです。
ヨハネI・1:6、8、10において、ヨハネは神の真理に対する私たちの献身の度合いを試す三つのテストをあげています。第1は悪を拒絶しそこなうことです。悪魔の惑わしという闇の中に生きることによって、私たちは自分の霊的「所属」を明らかにします。第2 の妄想は、自分の罪を否定し、事実に反して自分が「正しい」と言うことです。そのように主張するなら、私たちのうちには真理がない、つまり私たちはうそをついているのだと、ヨハネは言います。第3のテストは、自分が罪を犯したことがない、いや罪深い性質すらないということです。これは事実上、神ご自身を偽り者とし、救いの計画を根底から否定することです。
しかし、光の中に生きることによって、私たちは神の祝福にあずかり、主にある兄弟姉妹との相互の交わりを経験することができます。もちろん、完全な清めはすぐに達成されるものではありません。罪からの清めの働きは継続的なものだからです。
あなたは「イエスの血」をどのように理解しますか。キリスト教のこの重要な真理をクリスチャンでない「一般の人々」にどのように説明しますか。
「イエスの血」はどのようにして私たちを「あらゆる罪から」清めますか(Iヨハ1 :7)。その意味は次のうちのどれでしょうか。(1) 私たちの堕落した性質が滅ぼされる。(2)私たちの堕落した性質が聖霊の支配に服する。(3)私たちは罪深い行いに勝利する。イエスの清めの力には、これらの二つ以上が含まれていますか。
罪のない生活一それは偽りか(ヨハネの手紙1章8節)
ヨハネ一1:8は何と教えていますか。それは前節の後半(「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」)とどんな関係にありますか。
完全と無罪の思想をめぐっては、さまざまな論争がなされてきました(この論争という言葉はある人たちのクリスチャンらしくない言動について、わたしたちの注意を促すものです)。ヨハネは私たちを「あらゆる罪から清め」る神の働きを否定しているわけではありません。8節の中心は、私たちが自分に罪がないと言うことにあります。この尊大なうそは、私たちが罪のない状態に到達した、しかも自分自身の力で到達したという自己満足的な確信です。これはイエス・キリストにおける神の賜物をあざけることです。
私の友人の父親あての、ある手紙の追伸に次のように書かれていたそうです。「私はこの45日間、罪を犯さずに生活しております」。
私たちの教会は、自分たちには罪がなく、完全であると主張する人々に対応を迫られてきました。エレン・ホワイトは次のように記しています。「ヨハネの言葉が強く私に迫ってきた。『自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません」(Iヨハ1 :8)。得意げに自分には罪がないと主張する人々は、そのうぬぼれそのものによって、自分たちが罪の汚れのない状態からほど遠い状態にあることを示していることが、私に示された。堕落した人間がキリストの品性をはっきりと理解すればするほど、彼は自分自身を信頼しなくなり、その行いも、汚れのない救い主の生涯に見られた行いとは対照的に、自分には不完全に見えてくる。しかし、イエスからほど遠い人たち、霊的認識力が誤りによって鈍っているために偉大な模範者イエスを理解することのできない人たちは、イエスを全く自分たちと同じお方と考え、大胆にも自分たちが完全な清めに到達したと言う。しかし、彼らは神からかけ離れた存在であって、自分自身についてはほとんど知らないし、キリストについてはなおさら知らない」(「エレン・G・ホワイト略伝』84ページ)。
罪深い私たちに対する神の対応(ヨハネの手紙一 1章9節)
第1段階
私たちは罪を告白しなければなりません。8節にあるように、自分の罪を否定するようなことがあってはなりません。もし自分が罪人であることを認め、受け入れないなら、神は私たちを助けることがおできになりません。私たちは神に罪深い状態からいやしていただく必要があることを認めなければなりません。
第2段階
神は私たちの罪をゆるしてくださいます。それは神が本質的に「真実で正しい方」(フィリップスによれば、「全的に信頼できる、まっすぐな方」)であるからです。神のゆるしは、神がいくぶん罪を大目に見てくださるからだとか、規則を曲げてくださるからだとか言う人たちがいます。しかし、この考えは重要な点を見のがしています。神がゆるされるのは、ゆるすことが正しいことだからです。神はつねに正しいお方です。サタンはゆるしの正当性を認めようとしませんが、ゆるしは神の本質と品性の中心にあります。神は心にある真実な動機を見抜き、真心からの悔い改めを受け入れ、結果的にゆるしてくださいます。神は「私たちが全く罪を犯さなかったかのように」私たちを受け入れてくださるのです。
ヨハネの手紙Iを解説して、エレン・ホワイトは次のように述べています。「あがないの計画は、単なる違反に対する刑罰から逃れる道ではなく、むしろそれによって罪人が自分の罪をゆるされ、最終的に天国に受け入れられるということである。罪をゆるされ、束縛から解放されながら、なお疑いの目で見られ、友情と信頼から締め出された、赦免された犯罪人としてではない。一人の子供として迎えられ、完全に信頼を回復した者として受け入れられるのである」( 『SDA聖書注解』第7巻950ページ、エレン・G・ホワイト注)。
第3段階
神は私たちをあらゆる不義(「悪行」―現代英語訳)から清めてくださいます。事実、神のゆるしには清めが含まれます(『思いわずらってはいけません』150ページ参照)。神の恵み深いゆるしに対する感謝と驚きのあまり、私たちは第2段階にとどまってしまい、大切な第3段階を見落としがちです。神は私たちを「赦免された犯罪人」のままで放置されません。神はさらに罪によって生じた傷をいやし、私たちをご自分のかたちに造り変えてくださいます。神は私たちを正しくし、なおかつ正しく守ってくださいます。(エレン・ホワイト「キリストに啓示された神」『サインズ・オブ・ザ・タイムズ』英文1890年1月20日参照)
神を偽り物とする(ヨハネの手紙一 1章10節)
フィリップスはこの聖句を次のように強調して訳しています。「もし私たちが『罪を犯していない』という態度をとるなら、私たちは自分たちの状態に関する神の診断をきっぱりと否定し、神が私たちに言おうとしておられることに耳を閉ざすことになります」。
そればかりでなく、自分の罪深い行為の結果として死ぬどころか、神のようになるとエバに保証したサタンのうそに従うことになります。サタンはいつでも神を自分自身の悪い性質によっておおい隠そうとします。どうしたらサタンの次の申し立てを論破することができるでしょうか。
神は偽り者である(創世3:4参照)。サタンは神の言葉に真っ向から反対します。
神は利己的である(創世3:5参照)。アダムとエバが命の木に近づけば神のようになるので、神はそうさせまいとしていると、サタンはほのめかします。
神は全宇宙の悪しき支配者である(イザ14:13、14)。自分ならいと高き者より立派にやれると、ルシファーは主張します。
神はえこひいきしている(ヨブ1:9、10参照)。神は不公平で、神に従う者たちも自分の利益のためにそうしているだけであると、サタンは神を非難します。
神には礼拝を受ける資格がない(マタ4:9参照)。サタンは自分自身が礼拝を受けようとします。
「このほかにも多くの非難が、サタンの行うわざによって、また聖書に示されている神に対する彼の態度によってなされている。すなわち、神は敵対的で、残忍で、人をゆるさず、敵意に満ち、復讐心に満ち、冷酷で、不正であるという。サタンはこのほかのあらゆる特質を自分自身から神に転換する。……・大欺まん者によって神についての考えを吹き込まれた人たちによって、神がしばしば『傷つけられ』、拒否されているのも不思議ではない。彼らは敵対者によって吹き込まれた、神についてのゆがんだ考えを受け入れているので、神の御名はそしられ、汚され続けるのである。『絶えず中傷する者たちは、うわさの舌に乗る』(シェークスピア)」(ジヨナサン・ガラハー『神は非難されるべきか』38ページ)。
「私たちはなぜ天の父なる神を厳しくさばくのであろうか。……サタンは私たちの神をあらゆる方法で誤解させている。彼はその凶悪な影によって私たちの道をふさいでいる。私たちの神を憐れみ、同情、真理の神として認めさせないためである。……このようにして、私たちは優しい天の御父を偽りの光によって理解する」(エレン・G・ホワイト「レビュー・アンド・ヘラルド』1889年2月26日)。
まとめ
私たちは神の光の中に生きるときにのみ、真のクリスチャン生活を送ることができます。神には闇、すなわちいかなる道徳的闇も誤りもありません。私たちはこの命をもたらす光に来るように招かれています。神は私たちを罪から救い、その恵み深い思いやりのゆえに愛と信頼に回復してくださいます。