イエスのように歩む【ヨハネの手紙解説#3】
金の探鉱者たちは、まばゆく輝く「金鉱石」が価値のない「愚者の金」〔黄銅鉱、黄鉄鉱〕であるのを知ってひどく失望することがよくあります。不慣れな目には、この偽物の「金」が本物のように見えます。試験するためには、それを化学者のところに持って行き、分析する必要があります。最初に行う試験は、強力な酸性溶液である硝酸を一滴たらすことです。「愚者の金」は溶けますが、本物の金は溶けません。
本物のクリスチャンと偽物のクリスチャンもこれとよく似ています。日に当たると、どちらもきらきらと輝き、同等に価値があるように見えます。しかし、真理が試されると、「愚者の金」はその本性を現します。この真理は私たちの実際の生き方と関係があります。真理を持っていると主張しながら、そのことを自分の生活や行動に表していない人たちがしばしば見受けられます。
今回は、真のクリスチャンの特徴に関するヨハネの考えについて学びます。真のクリスチャンのうちには、曇りのないキリストの愛がきらきらと輝いています。
罪をいやすもの(ヨハネの手紙一 2章1節、2節)
アルフレッド・プラマーは、ヨハネ1 ・2 : 1 の前半部分を解説して次のように述べています。ギリシア語は「『あなたがたが罪の中にとどまることのないためである』という表現に対して明確である。キリストは、彼らがすべての罪の行為を逃れるように助けてくださる。……これはキリストの死の道徳的効果である。それは人々を光なる神に結びつけ、彼らが罪の闇を憎み、逃れる力を与える」(アルフレッド・プラマー『聖ヨハネの手紙』33ページ)。
イエスは私たちの弁護者として、父なる神に対して私たちに親切にしてくださるように嘆願しておられるのだ、と考える人たちがいます。しかし、聖書とエレン・ホワイトが指摘しているように、これは全くの誤りです。イエスの言葉に注意してください。「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」(ヨハネ16:26、27)。
「キリストのあがないがなされたのは、神を動かして、そうでなければ憎んでおられた者たちを愛するようにさせるためではなかった。また、それがなされたのは、存在しなかった愛を生まれさせるためでもなかった。むしろ、それがなされたのは、すでに神の御心にあった愛を現すためであった」(『サインズ・オブ・ザ・タイムズ』1895年5月30日)。
いけにえという古風な言葉は、人類に対する神の関係について誤った意味を伝えるかもしれません。ある背景においては、それは敵意のある、怒った神をなだめるという暗示を含みますが、これは神についての正しい観念ではなく、異教的な観念です。
「いけにえ」と訳されているギリシア語(ヒラスモス)は、「あがない」(あがないの行為、あがないのなされる方法)あるいは「贖罪の献げ物」を意味します。ヨハネは、全世界の罪責がキリストの上に置かれた事実を述べているのです(イザ53:6、Ⅱコリ5:21、Iペト2:24)。
「われわれの身代りまた保証人としてキリストの上にわれわれ全部の者の不義がおかれた。律法による有罪の宣告からわれわれをあがなわんがために、キリストは、罪人にかぞえられた。アダムの子孫ひとりびとりの不義がキリストの心に重くのしかかった。罪に対する神の怒り、不義に対する神の不興の恐るべきあらわれが、み子の魂を非常な驚きと恐れで満たした」(『各時代の希望』下巻274、275ページ)。
真の服従(ヨハネの手紙一 2章3節~5節)
ヨハネはためらうことなく強い口調で語っています。それだけ問題が重大だからです。彼がここで述べているのは、神を知っていると言いながら、その生活と行動が言っていることと一致していない人たちのことです。彼らは神と神の性質について立派なことを論じますが、神を受け入れて、自分たちの悪い性格を変えようとはしません。後世の多くの人々と同様、彼らは理論だけで、実践が伴っていません。私たちもまた、信仰と生活の間に矛盾がないかどうか反省する必要があります。
不服従は真に神を知らないことの証拠ですが、服従も誤った動機から出ている場合があります。
「神の戒めは、従うべきものであるという、単なる義務の観念をもって守ろうとする人は、服従の喜びを味わうことができない。このような人は、従っていないのである。……真の服従は、内部に秘められた原則が、外にあらわれ出ることである。それは、義と神のおきてを慕う愛から発するのである。あらゆる義の本質は、わたしたちのあがない主に対する忠誠である。この忠誠心が、わたしたちに、正しいことであるからという理由で正しい行ないをさせ、善行は、神が喜ばれることであるからという理由で義を行なわせるのである」(『キリストの実物教訓』72ページ)。
重要なのは心の動機です。律法が要求しているからという理由で従うだけでは十分ではありません。義に対する正しい理解、義を行おうとする愛、個人的な好みを超えたキリストへの愛がなければなりません。態度や動機が誤っているなら、たとえ律法を守ろうとしても、守っていないことになります。ヨハネの次の言葉はこのことを言っているのです。「しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています」(Iヨハ2:5)。キリストを愛し、キリストの力を受けるときに、私たちは服従する力を与えられます。そして、心からの服従は神に対する私たちの愛を深めます。
イエスのように生きる(ヨハネの手紙一 2章6節)
「神の完全な写真は一枚しかない。それはイエス・キリストである」(『原稿』第70号、1899年)。この言葉は何を教えていますか。
イエスは私たちに神を示すために来られました(ヨハ1:18、12:45、14:9)。したがって、神としてのイエスの、目に見える臨在によって、私たちはサタンの偽りとは対照的な、神の真の性質と品性を見ることができます。イエスはあらゆる善、純潔、真実なるものの象徴です。私たちはもっとキリストの生涯について瞑想すべきです。キリストの生涯のうちに、あらゆる状況下における神の行動が如実に描写されているからです。
イエスは私たちの模範であると、よく言われます。多くの点で、これは事実です。イエスはクリスチャンの理想的な生き方を示し、実際的な信仰の模範を示し、罪深い世の中にあっていかに生きるべきかを身をもって示されました。しかし、イエスは救いを必要とはされませんでした。救いを得る方法に関してイエスに見習おうとすることは危険です。これは行いによる義、すなわち自分自身の努力によって天国に入ろうとすることにつながります。イエスが来られたのは私たちに生き方を示すためでした(黙示3:21)。そして、私たちの救いとなられるためでした。
したがって、私たちはイエスを生き方の模範とすべきですが、自分ひとりで歩むことができると考えてはなりません。
イエスはどのように生きられましたか(Iペト2 :21―23)。特にあなたに関係があると思うことを福音書の中からあげてください。
「イエスはどのように歩まれただろうか。神ご自身が証言しておられるように(マタ3:17、12:18、17:5)、確かに神の光に従って、天の父の御心に完全に従うことによってである。しかし、彼は貧しい群衆や日ごとに出会う失われた人々に対する愛のうちに歩まれた(マタ9:36)。光の中を歩むとは、罪がないということだけではなく、同じくらい重要なことだが、愛があるということをも意味している。キリストのうちにとどまる(宿る)者たちは、キリストに似た品性によって聖霊の実を表す」(デビッド・ジャックマン『ヨハネの手紙のメッセージ』50ページ)。
「もし、私どもがキリストにあり、神の愛が私どもの心に内住するならば、私どもの感情も、思想も、行動も、神のきよいおきてに現わされた神のみ心に調和するようになります。『子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行なう者は義人である』(ヨハネ第1.3:7)。義とは、シナイ山で与えられた十戒に現わされた神のきよいおきての標準によって定められるものであります」(『キリストへの道』80ページ)。
古くて新しい淀(ヨハネの手紙一 2章7節、8節)
聖書に対してよくなされる非難の一つは、旧約聖書と新約聖書があまりにも違いすぎるということです。これらの聖書が別々の「神神」によって与えられたのではないかと言う人たちさえいます。しかし、実際のところ、事情や状況は異なっていても、神が伝えようとされる救いのメッセージはいつでも同じです。それはまさに「永遠の福音」です。
イエスは「古い」掟を用いてご自分の教えと使命を表現されました。同じように、イエスの言っておられることは決して新しいことではないと、ヨハネは言っています。神は首尾一貫したお方です。「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」です(ヘブ13:8)。神はご自分の民のために様々な方法を用いて働かれますが、神の望まれることはいつも同じです。すなわち、神はご自分の子らに自発的な愛と信頼を望まれます。彼らを救い、いやすためです。
ヨハネは創造から現代にいたるまでの福音の歴史を強調しています。そして、イエスがそれを「新しい掟」(ヨハ13:34)とお呼びになったことを思い出しています。それが新しいのは、イエスが「古い」掟を廃止するためではなく、「完成」するために来られたからです(マタ5:17)。イエスは神と神の品性についての最も明らかな表示です。
ヨハネは自分の読者に、彼らが受けた初めの福音は唯一の、正しい福音であると言っています。それは最初のもので、かつ最高のものです。パウロがガラテヤの人々に強調しているように、「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」(ガラ1:8)。サタンは真の福音を曲げようとしているので、クリスチャンはみな「修正された」真理を受け入れることに対して警戒しなければなりません。結局のところ、「その真理はキリストのうちに見られます。……そして、まことの光がすでに輝いています」(Iヨハ2:8、現代英語訳)。
「私たちは神の言葉を神が語られた通りに信じなければならない。すなわち、私たちはキリストをその言葉の通りに受け入れ、キリストが父なる神を表すために来られたこと、キリストにおいて表された父なる神が私たちの友であること、神が私たちの滅びることを望まれないこと、だからこそご自分の御子を私たちの犠牲として与えてくださったことを信じなければならない」(「レビュー・アンド・ヘラルド」1892年3月8日)。
兄弟愛(ヨハネの手紙一 2章9節~11節)
神は光であり、また神は愛です。憎むことは闇を意味し、愛することは光を意味します。兄弟姉妹として互いに愛し合うことによって、私たちは神の道に従っていることを示すのです。愛は、私たちが神を受け入れていること、神の道が正しいと信じていることの表れです。逆もまた真理です。すなわち、もし私たちがだれかを憎むなら、神の性質が私たちのうちにないことになります。
サタンもまた、愛が人々を一つにするという霊的真理を知っています。私たちは様々な神学について学び、朝から晩まで聖書を研究することもできます。しかし、もし互いに愛し合っていないなら、私たちはなおサタンの陣営にいることになります。「騒がしいどら、やかましいシンバル」( I コリ13:1 ) のように、真の結果を生み出さないで、ただ大きな騒音を立てているだけです。たとえすべての点において一致することがなくても、方法や態度はいつでもキリス卜のようでなければなりません。
ある父親が娘に、「自分が闇の中にいることはどうしたらわかる?」と聞きました。娘はすぐに、「何かにぶつかるから」と答えました。彼女の答えは霊的真理を説明しています。フィリップスはこの聖句を次のように訳しています。「自分の兄弟を憎む者は光から隔離され、自分がどこに行くのかを知らないで闇の中を手探りで進むのです。闇の中を進むことは、目隠しをしたままで進むことです」(Iヨハ2: 11、フィリップス訳)。それは苦痛に満ちた、非常に愚かな経験です。ある場合には、だれかに対して憎しみを抱き続けるという無益な満足のために、闇の中に生きる苦しみに耐えるのです。憎しみとは、それほど強いものです。
まとめ
イエスはだれをも憎まず、どんな人でも愛されました。私たちもそうあるべきです。私たちの目標は罪から遠ざかることですが、たとえ罪を犯すようなことがあっても、神の悔い改めの賜物を受け入れるなら、神は再び私たちを受け入れてくださいます。神は私たちに罪を克服する力を与えてくださいます。私たちは神の恵みを軽く扱ってはなりません。むしろ、完全な服従を求めるべきです。このような服従はキリストとキリストの義を愛する心から来ます。服従は単なる義務感から来るものではありません。日ごとに、私たちはイエスの模範に従うべきです。