神を知ることの意味【ヨハネの手紙解説#4】
聖書は「知る」という言葉の古い意味を伝えています。えています。それは単なる知的同意や事実認識ではなく、むしろある親密な関係を描写するために用いられています。いくつか例をあげてみましよう。
「アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもって」(創世4:1)。「カインは妻を知った。彼女は身ごもって」(創世4:17)。「再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み」(創世4:25)。「エルカナは妻ハンナを知った。……ハンナは身ごもり……男の子を産んだ」(サム上1:19、20)。「子が生れるまでは、〔ヨセフは〕彼女を知ることはなかった」(マタl :25、口語訳)。
「知る」という言葉は、結婚生活における親密な肉体関係を描写するために用いられています。この夫婦間の結合は、神が私たちとの間に望んでおられる交わりを例示しています。神は私たちと一つになり、永遠の霊的きずなによって結ばれることを望んでおられるのです(ヨハ17:21~26参照)。
神は献身的な男女の愛の関係を用いて、ご自身が私たちとの間に望まれる関係を美しく描写しておられます。このような関係は全的な信頼に基づくもので、何ひとつ秘密がなく、非常に親密です。教会はキリストの「花嫁」(黙示21 :9)であり、キリストの最高の愛の対象です。この教会に、あなたや私が含まれています。これこそ、ヨハネ1・2章の主題である、神を「知る」ということです。
知識とゆるし(ヨハネの手紙一 2章12節、13節)
ヨハネは確信をもって書いています。彼は自分の言葉を弱めるようなことはしていません。彼ははっきりと、「イエスの名によってあなたがたの罪が赦されているからである」と言っています。ここに重要な教訓があります。私たちはゆるされていると「感じ」ないかもしれませんが、実際には、真心から悔い改め、告白している限り、私たちはゆるされているのです。
私たちは、罪を犯してから30年も神にゆるしを求めながら、なお自分がゆるされたと信じることのできなかった女性に似ています。これは神の言葉を否定することです。このように考えている限り、私たちの霊的経験は向上することがありません。
実際には、「私たちが悔いた心と誠意をもってゆるしを求めるそのときに、神はゆるしてくださる」のです(『サインズ・オブ・ザ・タイムズ』1893年9月4日)。悔い改めようとする心さえ、神の働きです。キリストは十字架上のご自分の愛を示すことによって、罪人を引き寄せておられます。この十字架が罪人の心を和らげ、彼らを悔い改めに導くのです(エレン・G・ホワイト「レビュー・アンド・ヘラルド』1890年4月1日参照)。
すでに学んだように、この神についての知識は「頭だけの知識」ではなく、神と人類との全的な関係を表す言葉です。ヨハネが知識という言葉を用いてこの手紙を書いたのは、同じようにこの知識という言葉を用いている初期のグノーシス主義者の影響力を食い止めるためでした。これら初期のグノーシス主義者たちは、「隠された知識」こそが救いの鍵であると考えていました。ある種の神秘的な思想は霊的に選ばれた人たちにしかわからないと考えられていたのです。面白いことに、ヨハネはキリストを「初めから存在なさる方」と呼んでいます。後のグノーシス主義の中心となった考えの一つに、イエスが一種の被造物、神の「発散物」の一つであったという考えがありました。
キリストの完全な神性を否定することは、たぶん最もひどい背信といえるでしょう。イエスのうちに神の性質と品性の完全な反映を見ることができなくなるからです。神だけがご自分の律法を破った者たちをあがなうことができます。神だけが人間の罪のために身代わりの死を遂げることができます。
知識と勝利(ヨハネの手紙一 2: 13、14)
これらの聖句は先の聖句と並行しています。へプライ人は並行法を好んで用いました。旧約聖書の詩は大部分、この形式によって書かれています。一つの思想が述べられると、次の行において同じ思想が並行的に述べられるわけです。ヨハネはここで詩的な書き方をしていると思われます。ヨハネは父たちと若者たちに書いていることを繰り返しています。しかし、「子供たち」に書いていることには対比が見られます。つまり、12節では彼らのゆるされた罪について述べているのに対して、14節では彼らの御父についての知識について述べています。
どちらが先に来るのでしょうか。私たちはゆるされるときに御父を知るのでしょうか、それとも、ゆるされてから御父を知るのでしょうか。どちらも正しいのです。神のゆるしの性質が、御父の中心的な特徴として強調されているのです。
しかし、罪を取り除くことが唯一の目的なのではありません。「神の許しは、罪の宣告からわたしたちを解放する法的行為であるばかりではありません。それは罪の許しであるだけでなく、わたしたちを罪から救うことです。心を変えるものは、あふれでる贖罪的愛です。ダビデは、『神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください』と祈った時、許しということを正しく理解していました(詩篇51:10)」(「思いわずらってはいけません』150ページ)。
その結果は霊的清め、罪に対する勝利、キリストのあがないの愛を受け入れることです。悔い改め、ゆるしを受け、霊的にいやされることによって、「あなたがたが悪い者に打ち勝った」のです(Iヨハ2:13、14)。これこそ、内住するキリストの力による、実り多い信仰生活の目印です。私たちに対する神の望みは、私たちが神と一つになること、またお互いに和解することです。そのためには、私たちを助けることのとに来る必要があります。罪をゆるすことは神のゆるしの一部分でしかありません。私たちが病気になって、医者のところに行けば、医者は「私はあなたをゆるす」とは言いません。医者は治療を施してくれるはずです。同じように、私たちが霊的な病にかかれば、神はただ「わたしはあなたの過去の罪の責任を取り除く」とは言われません。神は聖霊によって私たちの心の中に入り、変化といやしの働きを始めてくださいます。
神を知る(ヨハネの手紙一 2章13節、14節)
「人が何か重要な情報を入手すると、ふつうそれが本当であるかどうかを確かめるためにいくつかの情報源を調べる。もし情報源が信頼できないものなら、その情報も疑わしいものとされる。しかし、調べてみて信頼できると判明した情報源は、信頼できる情報を提供するものと見なされる。
神についての情報もこれと同じである。人々は時々、情報源を調べないで神についての事実を受け入れる。神についての情報が巧妙にマスコミによって伝えられることがある(それはふつう聖書の神について悪く報道するものである)。神についての印象はまた、両親や自分自身からも来る。その結果、私たちの理解する神は私たち自身がつくり出したものということになる。したがって、『神』とはしばしば父親像あるいは自己の願望の投影にすぎないという、心理学者の言葉は部分的に正しい。
このような認識に基づいた神についての理解は、誤りということなろう。しかし、クリスチャンには確実で信頼できる神について知識がある。なぜか。私たちの情報源が、「父のふところにいる独り子である神』であって、『この方が神を示された』(ヨハ1:8)かである」(ロイ・マテソン『神の家族を愛する』37ページ)。
「私たちの信仰生活の全体は、神の品性についての私たちの考えによって形成される」(エレン・ホワイト『レビュー・アンド・ヘラルド』l887年4月5日)。
私たちの神についての理解は、ほかのすべての教理に対する考え方に影響を与えます。私たちは、少しでも曲げられ、ゆがめられた、神の性質についての考えを受け入れてはなりません。
試金石となるのはイエスの啓示であり、「神の言葉があなたがたの内にいつもあ」るということです(Iヨハ2: 14)。聖書に教えられていない考えはもちろんのこと、イエスの思想や行動と一致しないものはすべて拒否すべきです。私たちは先入観をもって聖書を把握し、固定観念によって神を理解することのないように注意しなければなりません。
世を愛する(ヨハネの手紙一 21章5節、16節)
あるものは容易に見分けがつきます。身分の象徴である、大きな家、高級車、大型モーターボートを持つことは、まさに「世を愛する」ことと言えるかもしれません。それらを持っておらず、また将来もとても持てそうにない人にとっては特にそうです。「もちろん私は世を愛していません」と言うかもしれません。しかし、私たちは無視できない世界に住んでいて、だれもが何らかの点でこの世の考えや信仰を受け入れています。また、世にあるもののすべてが悪いということでもありません。
では、はっきりと悪だと断定できない考えはどうなのでしょうか。競争すること、相手と戦うことはどうなのでしょうか。良いことでしょうか、悪いことでしょうか。これはクリスチャンの信仰や生き方とどんな関係があるのでしょうか。実業の世界で真のクリスチャンであることは可能なのでしょうか。
あなたの第1の目的は何ですか。あなたは何をいちばん望んでいますか。あなたはばく大な財産を望まないかもしれませんが、ほとんどの人はもっとお金があればよいと思っています。
人間関係はどうでしょうか。私たちの人間関係は世の影響を受け、愛や道徳はゆがめられています。
もしこの世のものによってゆがめられていないと考えるなら、イエスの次の言葉に心を向けてください。「ロトの妻のことを思い出しなさい」(ルカ17:32)。
「失われた人間を救うために十字架で死なれたイエスを見る時、心にはヨハネの言葉が鳴り響いてきます。『わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわた
したちを知らないのは、父を知らなかったからである』(ヨハネ第I・3:1)。クリスチャンとそうでない人の最も決定的な違いは、神をいかに考えるということです」 (『セレクテッド・メッセージ』1・246ページ)。
永遠に生きる(ヨハネの手紙一 2章17節)
ヨハネI・2:17によれば、永遠に生きるのはどんな人たちですか。
ある流行歌に、「永遠に生きたいと思う人はだれ?」という一節があります。この世における人生なら、だれもそうは思わないでしょう。クリスチャンの考えは異なります。あなたがこの世で心を寄せるものはすべて、いつかは滅びます。イランの詩人ウマル・ハイヤーム(1123年没)は次のように言います。
人々が心の頼みとするこの世の望みは灰と化す―たとえ栄えたとしても、
やがてはほこりだらけの砂漠に降る雪のようにほんのしばらく輝いて―消え去るのだ。
砂漠の雪のように―これがこの世の望みの本質です。はかなく、一時的で、流れ去るだけで、長くは続きません。もしこの世のものしか持っていないとすれば、実にむなしいことです。昔の人々もみな、このことをよく知っていました。
人ははかない存在である。それ以外の何物か。
―ピンダロス(ギリシアの詩人、前5世紀頃)
それ以外の何物でもない。人は夢の影、それだけである。
人生は1日にすぎない。
―キーツ(イギリスの詩人、1795-1821)
木のこずえからたれるはかない一滴の露。
永続的な満足、意味、目的を見いだす唯一の道は、永遠の神のみもとに来ることです。「この世は過ぎ去り<消滅し>、またそれとともにこの世に属する禁ぜられた渇望<激情的な願望、欲望>も〔過ぎ去ります〕。しかし、神のみこころを行なう<自分の生活の中に神の目的を遂行する>者は、永遠にとどまる<ながらえる>のです」(ヨハネ第1 ・2:17、詳訳聖書)。
まとめ
神を知ることは、救い主にして主なる神との深い、個人的な関係に入ることを意味します。その結果は、神のゆるしと、私たちを滅ぼそうとするサタンに対する勝利となって表されます。したがって、クリスチャンはこの世とこの世の価値観に従いません。彼らは神との友情・交わりを求め、神の御心を行おうとします。その結果は永遠の命です。
*本記事は、ジョナサン・ギャラガー(英:Jonathan Gallagher)著、1997年第2期安息日学校教課『神は愛である ヨハネの手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』からの抜粋です。