【ペトロの手紙1・2】キリストのために苦しむ【解説】#6

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キリスト教の最初の数世紀における迫害の歴史はよく知られています。聖書自身が、とりわけ使徒言行録が、教会を待ち構えていたことを垣間見せています。苦しみを伴う迫害は、ペトロが手紙を書き送っている先のクリスチャンたちの生活においても、明らかに目の前の現実です。

ペトロは最初の章で、次のように述べています。「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(Iペト1:6、7)。

手紙のほぼ最後の言葉も、同じ考えを述べています。「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(同5:10)。

短いこの書簡の中に、読者が受けているキリストのための苦しみを扱っている箇所が、さらに三箇所もあります(Iペト2:18〜25、3:13〜21、4:12〜19)。それゆえ、どう考えてみても、迫害によって生じた苦しみがペトロの手紙Iの大きな主題であり、私たちはこの主題に目を向けることにします。

初期のクリスチャンへの迫害

Iペトロ1:6、5:10を読んでください。〔西暦の〕最初の数世紀の間、クリスチャンであるというだけで、恐ろしい死を招く可能性がありました。ローマ皇帝トラヤヌスに宛てて書かれた1通の手紙は、初期のクリスチャンたちの安全がいかに危ういものであったかを示しています。この手紙は、執筆当時、(Iペト1:1に記されている二つの地域)ポントスとビティニア地方の総督であったプリニウス(在職111〜113年)から送られたものです。

プリニウスはトラヤヌス帝に〔この手紙の前に別の〕手紙を書き送っており、クリスチャンであると告発された人々にどう対処すべきか、助言を求めていました。プリニウスは、クリスチャンであると主張した者たちを処刑した、と説明しています。かつてはクリスチャンであったものの、もはや自分は信者でない、と言う者たちもいました。プリニウスは、トラヤヌス帝や他の神々の像に香をそなえ、イエスをのろうように命じることで、これらの者たちに自分の無罪を証明する機会を与えました。

生きている皇帝を礼拝することは、ローマではめったに行われませんでした。しかし、ペトロの手紙Iが送られたローマ帝国の東部地域では、皇帝が自分たちの神殿を建設することを許可し、ときにはそうすることを促しました。こういった神殿のいくつかは、専属の祭司や、犠牲をささげる祭壇も持っていました。プリニウスは〔元〕クリスチャンたちに、香をそなえさせ、皇帝の像を礼拝させることで帝国への忠誠を明らかにさせましたが、そのとき彼は小アジアにおける長年の慣行に従っていました。

1世紀には、クリスチャンたちがクリスチャンであるという理由だけで大きな危機に直面した時期がありました。特に、皇帝ネロ(在位54〜68年)と皇帝ドミティアヌス(81〜96年)の治めていた頃がそうでした。

しかし、ペトロの手紙Iの中で触れられている迫害は、もっと地方に限定されたものです。ペトロが語っている迫害の具体的な例は、手紙の中にほとんどありませんが、おそらくは、根拠のない悪口(Iペト2:12)、侮辱や非難(同3:9、4:14)だったのでしょう。試練は厳しいものでしたが、少なくとも当時、その試練が広範囲における投獄や死を招いたようには思えません。たとえそうであっても、クリスチャンとして生きることは、信者たちと1世紀のより広い社会の有力階級との関係を悪化させ、信仰のゆえに彼らを苦しめることになりました。それゆえ、ペトロはこの書簡を書いたとき、心から深刻な懸念を述べています。

苦しみとキリストの模範

Iペトロ3:13〜22に目を通してください。ペトロは、「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです」(Iペト3:14)と述べていますが、それは、「義のために迫害される人々は、幸いである」(マタ5:10)というキリストの言葉を繰り返しているにすぎません。続いてペトロは、クリスチャンは自分たちを攻撃してくる者たちを恐れたりせず、心の中でキリストを主としてあがめなさい、と命じています(Iペト3:15)。このように心の中でイエスを支持することは、彼らが直面する敵対者たちからの恐れを鎮めるのに役立つでしょう。

次にペトロは、クリスチャンはいつでも自分たちが抱いている希望について説明できるようにしなさい(Iペト3:15、16)、ただし、「優しく、慎み恐れて」(同3:16、新改訳)訴えるような方法でそうしなさい、と勧めています(「慎み恐れること」は、ときとして「敬意」〔新共同訳〕と訳されます)。

クリスチャンは自分たちを非難させるような理由をほかの人に与えないようにしなければならないと、ペトロは主張します。クリスチャンは後ろめたいところがないように良心を保たなければなりません(Iペト3:16)。これは重要なことです。なぜなら、そうすれば、クリスチャンを非難している者たちが、非難されているクリスチャンたちの非のない生き方によって、恥をかかせられるからです。

明らかに、悪を行う者であるために苦しむことには、何の価値もありません(Iペト3:17)。良いこと、正しいことをするために苦しむことは、決定的な違いを生み出します。「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(同)のです。

次に、ペトロはイエスの実例を挙げます。キリストは御自分の義のために苦しまれました。彼の聖く純潔な生き方が、彼を憎む者たちにとって絶え間ない非難だったからです。悪いことではなく、正しいことをして苦しんだ人がだれかいるとしたら、それはイエスでした。

しかし、イエスの苦しみはまた、救いの唯一の手段をもたらしました。彼が罪人の代わりに(「正しい方が、正しくない者たちのために」〔Iペト3:18〕)死んだので、彼を信じる者たちは、永遠の命を得る見込みがあります。

火のような試練

Iペトロ4:12〜14を読んでください。(IIテモ3:12、ヨハ15:18も参照)。クリスチャンであるために迫害に苦しむのは、キリストの苦しみにあずかることだと、ペトロははっきり述べています。それは予期せぬことではありません。それどころか、パウロなら、「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」(IIテモ3:12)と書くところです。イエス御自身が弟子たちに、彼らが直面するであろうことについて、「そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる」(マタ24:9、10)と警告なさいました。

「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者たちはみな、このようになるであろう。キリストの霊に満たされている者たちすべてに、迫害と非難が待っている。迫害の性質は時代によって変わるが、その本質、すなわち、その根底にある精神は、アベルの時代以来主の選ばれた者たちを殺害してきたのと同じものである」(『希望への光』1576ページ、『患難から栄光へ』下巻280ページ)。

問1

黙示録12:17を読んでください。クリスチャンに対する終末時代の迫害の現実について、この聖句は何と言っていますか。

間違いなく、忠実なクリスチャンにとって、迫害は絶えず付きまとう現実になりえます。これこそ、読者が直面していた「火のような試練」についてペトロがここで警告している現実です。

火はぴったりの比喩でした。火は破壊をもたらしますが、不純物を一掃することもできます。何が火で燃やされるかによります。家は火によって破壊され、銀や金は火によって精錬されます。人は意図的に迫害を招くべきではありませんが、神は迫害の中から良いものを引き出すことがおできになります。それゆえ、パウロは読者(や私たち)に、「確かに、迫害は悪いものだが、あたかも予期せぬものであるかのように、それによって失望してはならない。信仰によって前進しなさい」と語っています。

裁きと神の民

Iペトロ4:17〜19を、イザヤ10:11、12、マラキ3:1〜6と比較して読んでください。これらの箇所において、裁きの過程は神の民から始まるように描かれています。ペトロは、読者の苦しみを神の裁きに結びつけることさえしています。彼にとって、クリスチャンの読者が味わっている苦しみは、神の家族から始める神の裁きにほかならないのかもしれません。「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」(Iペト4:19、強調著者)。

問2

ルカ18:1〜8を読んでください。この箇所は、神の裁きを理解するうえで、いかに助けとなりますか。

聖書の時代、裁きは通常、とても望ましいものでした。ルカ18:1〜8のかわいそうな未亡人の描写は、裁きに対するより幅広い考え方を捉えています。このやもめは、彼女の一件を裁いてくれる裁判官を見つけることさえできたら、勝訴することを知っています。やもめにはその一件を審理してもらうだけの十分なお金と地位がありませんが、彼女は最終的に裁判官を説得し、その件を審理させ、彼女が受けるに値するものを得ます。イエスはおっしゃいました。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」(ルカ18:7)。罪がこの世に悪をもたらしたので、神の民は、神が物事を再び正されるのを、時代を超えてずっと待ってきました。

「主よ、だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。聖なる方は、あなただけ。すべての国民が、来て、あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが、明らかになったからです」(黙15:4)。

試練の中における信仰

すでに触れたように、ペトロは、信仰のために苦しんでいる信者に手紙を書いていました。そしてキリスト教史が示してきたように、少なくともしばらくの間、事態は悪くなる一方でした。その後の数年間、確かに多くのクリスチャンが、ペトロの書いた物の中に励ましと慰めを見いだしました。間違いなく、今日でも多くの人がそうです。

なぜ苦しみがあるのでしょうか。言うまでもなく、それは大昔からの疑問です。聖書の中で最初に書かれた書の一つであるヨブ記は、苦しみを主題にしています。確かに、(イエスを除いて)「人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者」(Iペト4:15)ではないのに苦しんだ人がだれかいるとしたら、それはヨブでしょう。何しろ神でさえヨブのことを、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」(ヨブ1:8)と言われたのでした。それにもかかわらず、哀れなヨブが悪人だからではなく、善人であるために、どんなことに耐えたか、考えてみてください!

次の聖句は、苦しみの起源に関する疑問に答えるうえで、助けとなります。(Iペト5:8、黙12:9、2:10)。簡単に言ってしまえば、私たちが苦しむのは、キリストとサタンの大争闘の中に私たちがいるからです。これは、私たちの性質における善と悪の単なる比喩や象徴ではありせん。本物のサタンと本物のイエスが、人類のために本物の戦いを行っているのです。

Iペトロ4:19を読んでください。私たちが苦しむとき、とりわけその苦しみが私たちの悪行の直接的な結果として生じたものでないとき、私たちは、ヨブが何度も問いかけた「なぜ」という疑問を自然に問いかけてしまいます。そして、たいていの場合がそうであるように、私たちには答えがありません。ペトロが言うように、苦しみの中においてさえ、私たちにできることは、神に魂をゆだね、私たちの「真実であられる創造主」(Iペト4:19)を信頼し、「善い行いをし続け(る)」(同)ことだけです。

さらなる研究

日曜日の研究では、クリスチャンが直面していた迫害を扱いました。以下の文章は、最初の数世紀にクリスチャンが苦しめられたことについて皇帝に宛てて書かれた手紙からの長めの引用文です。

「さしあたって私は、クリストゥス信者として私の前に告発されてきた者に対し、次のような手続きをとってきました。彼らに先ず、クリストゥス信者であるかどうかを尋ねました。告白した者には処罰すると脅しながら、二度も三度も問い質しました。それでも固執した者は、処刑のため連れ去るように命じました。というのも、彼らの告白している信仰がいかなるものであれ、その強情っ張りと頑迷狷介は、処罰されるべきだと信じて疑いませんでした……。クリストゥス信者である、あるいはあったことを否認した者は、私の先導で、ローマの神々の名を呼び、祈りの言葉を復唱し、あなたの像——これはこの時のため、神々の像とともに法廷に持ち込ませました——に、香料と葡萄酒を捧げ、さらにクリストゥスを罵りましたら——このようなことは、もし彼らが正銘のクリストゥス信者であれば、強制されても決して受けつけないと言われています——釈放すべきだと考えました。密告者から名を挙げられた者の中には、初め自分はクリストゥス信者だと言っていて、間もなく否認した者もいました。たしかに信者であったが、今は信仰を捨てた、ある者は3年前に、ある者はもっと以前に、中には20年も前に捨てたと申しました。この者たちも皆、あなたの像やローマの神々の像を崇め、そしてクリストゥスを罵りました」(『プリニウス書簡集』講談社学術文庫422、423ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2017年2期『「わたしの羊を飼いなさい」ーペトロの手紙I・Ⅱ』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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