【ペトロの手紙1・2】奉仕型の指導者【5章解説】#7

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成長している教会に関する研究は、たいてい効果的な指導者の重要性を浮き彫りにします。このような指導者は、神と御言葉からビジョンを得、福音の務めを実行するために霊的な賜物を用いる機会を教会員全員に与えます。

しかし、教会の指導は極めて大変です。常に多忙でありながらも、自分の時間をしばしばささげるボランティアたちが、おもに教会を運営しています。教会員は、何か賛同できないことが起きると、教会に通わなくなることで「反対の意思表示」をします。さらに、有能なクリスチャン指導者は、非常に霊的でなければなりません。また私たちは、ペトロが手紙を書いている先の教会は迫害を受けていることを忘れてはなりません。教会の指導者は、そのようなときにとりわけ攻撃を受けやすいのです。だとすれば、いったいだれにこのような仕事をする能力が備わっているのでしょうか。

Iペトロ5:1〜10において、ペトロは地域の教会におけるクリスチャン指導者の課題に取り組んでいます。これらの聖句の中で、彼は地域の教会の指導者だけでなく、教会員にも必要とされる重要な特徴のいくつかについて書いています。彼の言葉は、当時と同様、現代の私たちにとっても意味があります。

初代教会の長老たち

問1

次の聖句を調べてみてください(使徒6:1〜6、14:23、15:6、Iテモ5:17、Iペト5:2)。初代教会とその指導者たちが直面していた問題に関して、私たちはこれらの聖句からどんな洞察を得ることができますか。

大勢の人が信徒になって教会に加わることは、神からの大きな祝福です。しかし、初期のクリスチャンたちの体験が示しているように、急成長は問題をもたらす可能性があります。

例えば、使徒言行録1章から5章は、聖霊の導きと、多くの人がキリスト教に改宗したことを記録しており、使徒言行録6:1〜6は、その結果を示しています。その集団は、指導者たちにとって大きくなりすぎ、教会の日々の機能を果たすために、体制を整備する必要がありました。

組織の体制におけるそのような弱さを明らかにした問題は、差別に関する苦情でした。ギリシア語を話すグループから、彼らのやもめが日々の分配において軽んじられているという苦情が出ました。そのことへの対応として、執事という一連の人々が、教会の資源を管理することで十二使徒を助けるために特別に任命されました。

確かに、初代教会は聖霊によって特別な形で導かれていました。しかし当時でさえ、教会の体制を整える必要がありました。かなり早い段階で必要とされた教会指導者の主要な集団の一つは、各地域の教会のために立てられた長老でした。実際、新たに形成されたこれらのクリスチャン集団を導くために長老を任命することは、パウロとバルナバが、イエスのことをまだ聞いていない場所へ行った際に行ったことです(使徒14:23)。

初期のキリスト教において、長老にはさまざまな役割が与えられました。彼らは、自分が所属する共同体の指導者として、新しい改宗者を教える教師の役を務めることも時折ありました。彼らは説教をすることもあれば、共同体の福利のために必要なことが確実に行われるようにもしました(使徒15:6、Iテモ5:17、Iペト5:2)。

長老

Iペトロ5:1〜4を読んでください。ペトロは長老たちへの指示を、彼自身が長老の1人であると言うことによって始めています。そして次に、彼自身に関する二つのことを指摘しています。彼がキリストの苦しみを目撃したことと、やがてあらわれる栄光にあずかることを期待していることです。そう述べることによって、ペトロは長老の中に見いだされるべき第一の特徴を明らかにしています。長老は、キリストが私たちのために苦しまれたことと、彼が私たちに提供しておられる大いなる希望の重要性を理解している必要があります。

ペトロは長老の役割を、神の群れの世話をする羊飼いになぞらえています。彼が教会を羊にたとえていることは、教会員が羊のように、時折、勝手な単独行動を取るという考えを示しています。それゆえ、彼らは羊飼いによって群れへ引き戻してもらい、群れと協調して働くように助けてもらう必要があるのです。長老はまた、クリスチャンはいかに行動すべきなのか、その謙虚な模範になるという役割も果たさなければなりません。

羊飼い(牧者)である者たちにとっての警告がここにあります(エレ10:21、エゼ34:8〜10、ゼカ11:17)。クリスチャン指導者の重要な役割の一つは、羊飼いが羊たちと一緒に働く必要があるように、教会員と一緒に働くことです。長老は教会員を優しく呼び集めなければなりません。それは礼拝のためであったり、イエスと彼の中に見いだされる救いを知る必要のある人に、彼のメッセージを伝えたりするためです。

ペトロはまた、長老たちは、強制されてではなく、自ら進んで監督をしなさい、とも言っています。教会で指導をするという困難に自ら進んで挑む人を見いだすことは、必ずしも容易ではありません。このことは、役員推薦員会などで特に明らかです。しかし、教会がきちんと機能するためには、果たされなければならない異なる役割がたくさんあります。多くの人が指導者の役割を担いたがらないことには、理由があります。こういう役割のいくつかは、かなりの時間の投資を求められますし、そのような役割に適した人は、すでに多くの責任を担っているかもしれないからです。また人によっては、この役割を担うには、自分は十分な準備ができていない、と感じるかもしれません。しかしペトロは、もし私たちが頼まれ、そうすることができるのなら、進んで指導の役割を引き受けるべきだ、と言っています。

奉仕型の指導

Iペトロ5:3、マタイ20:24〜28を読んでください。ギリシア語聖書において、Iペトロ5:3の中の重要な言葉は、「カタキュリユーオンテス」です。この同じ言葉はマタイ20:25にもあり、だれかに対して「支配権を振るう」とか、「威張る、権力を振るう」とかいったことを意味します。それゆえ、Iペトロ5:3で長老たちに与えられている指示は、「あなたが任されている人たちに権力を振るってはならない」とも訳すことができ、マタイ20:25におけるイエスの言葉を反映しています。

マタイ20:20〜23は、24〜28でイエスがおっしゃったことの背景を説明しています。ヤコブとヨハネの母親が、願いを持ってイエスに近づいて来ました。その願いとは、イエスが王座に着かれるとき、1人の息子を彼の右に、もう1人を彼の左に座らせてほしい、というものでした。

「イエスは、兄弟たちよりも有利な立場を占めたいという彼らの利己心を責めないで、彼らのことをやさしく忍耐される。イエスは彼らの心を読まれ、彼らが深く主を慕っていることをお知りになる。彼らの愛はただの人間的な愛ではない。それは、人間の世俗的な水路によってよごれてはいるが、主ご自身のあがないの愛という泉から湧きあふれたものである。主は責めないで、それを深く愛し、清められる」(『希望への光』957ページ、『各時代の希望』中巻366ページ)。

イエスは、この名誉ある地位を与えるのは御自分でなく、父なる神である、と説明なさいます。しかし次に、イエスの王国と異邦人の王国との重要な違いは、彼の王国に登場する指導者の種類である、と説明を続けられます。イエスが王であられる国で指導者になりたい者は、僕にならねばなりません。というのも、イエスの王国における指導者は、イエスに似ているからです。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(マタ20:28)……。

それゆえ、ペトロは教会の指導者たちに、同じ理想を目指すよう呼びかけています。イエスに見られる服従と自己否定が、彼らの中にも見られなければならないのです。

謙遜を身に着け

ペトロが生きていた古代世界では、社会が階級化されていました。支配階級のエリートたちは、「威風堂々」と今日呼ばれるものを持っていました。彼らの周りには下層階級の人々が集まり、あらゆる階級の中で最も低いのは奴隷でした。謙遜は、そのような下層階級の人が上の階級の人に対して持つのに適当な態度でした。「謙遜」に相当するギリシア語は、「低い身分」「取るに足りない」「弱い」「貧しい」といった意味を持っています。この言葉は、社会において地位や権力を持っていない人を言いあらわしています。ユダヤ教やキリスト教の外の世界では、「謙遜な」という言葉は低い地位の人たちに関連づけられており、謙遜にふるまうことは、自由人にとり適切な行動として、必ずしも推奨されなかったでしょう。

Iペトロ5:5〜7を読んでください。聖書では、謙遜というものが、ペトロの生きていた時代や文化の中での見方とは異なる見方で捉えられています。ペトロは七十人訳聖書(ギリシア語訳旧約聖書)の箴言3:34を引用しており、この聖句はヤコブ4:6でも引用されています。旧約聖書の中では、歴史における神の働きの一環は、地位の高い者や力の強い者たちの高ぶりをくじくことです(イザ13:11、23:9、ヨブ40:11)。

人間が神に対して持つのにふさわしい態度は謙遜です。「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(Iペト5:6)。高慢でなく謙遜が、クリスチャンと神との関係、クリスチャン同士の関係の特徴です(同5:5)。

クリスチャンは、指導者であればなおさら、自分が神の恵みによって救われた罪人であることを知っています。それゆえ、この最も重要な意味において、私たちはみな平等であり、キリストの十字架の前で、私たちは謙遜になります。そしてこの謙遜は、他者との関係において、とりわけ私たちが監督している人との関係にてあらわす必要があります。確かに、天地の創造主なる神の前なら、だれでも謙遜になれます。また、私たちより上の人、私たちを支配する人、私たちより地位が高い人の前でも、謙遜になることは比較的容易です。本当に試されるのは、私たちが、自分の「下」にいる人、私たちに対して力を持っていない人たちに謙遜をあらわすときです。ペトロがここで語っているのは、このような謙遜です。

ほえたける獅子

すでに触れたように、ペトロは迫害という背景のもとで書きました。大争闘という主題は、彼の読者にとって単なる抽象的な神学ではありませんでした。彼らは、私たちの多くが、少なくとも今のところ体験したことのない形で、その戦いを体験していました。

Iペトロ5:8〜10、黙示録12:7〜9を読んでください。黙示録は、善と悪の勢力の間における宇宙規模の闘いにクリスチャンが関わっていることを明らかにしています。黙示録において、善の勢力はイエスによって、つまり「神の言葉」「王の王、主の主」なる方によって導かれ(黙19:13、16)、悪の勢力は悪魔によって、つまりサタンとも呼ばれ、竜として描かれている者によって導かれています(同12:7〜9、20:7、8)。有力なメディアや、クリスチャンの中のある人たちは、サタンの存在を否定しますが、実のところ、悪魔は私たちに対する悪意しか持っていない強力な存在です。しかしうれしいことに、悪魔は最終的に滅ぼされます(同20:9、10)。

ペトロは、悪魔が意味する危険性を過小評価していません。悪魔はほえたける獅子のようで、食い尽くせるものをすべて食い尽くそうとしています(Iペト5:8)。ペトロはまた、読者が彼らの現在の苦しみの中に悪魔の力を見ることができる、と指摘しています。しかし、この苦しみは永遠の栄光という結果で終わります(同5:10)。

問2

Iペトロ5:10を読み直してください。ペトロは、私たちに何と言っていますか。

私たちには、彼らの試練がどんなものだったか正確にはわかりませんが、ペトロが表明している希望はわかります。確かに、悪魔は実在します。闘いも現実ですし、苦しみも現実です。しかし、「あらゆる恵みの源である神」は悪魔を倒されました。だから、私たちがどんなことで苦しんでいようと、死に至るまで忠実であり続けるなら(ヘブ11:13〜16参照)、イエスのお陰で勝利は保証されています。

さらなる研究

イエスの奉仕型の指導の良い実例は、最後の晩餐の中に見られます。あのときイエスは、御自分が何者であるか(神の子である)ということ、そして、まもなく父なる神のもとへ帰られることを十分に意識しておられました(ヨハ13:1)。食事のあと、イエスは弟子たちの足を洗われました。そして、「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハ13:14、15)と言われました。イエスに従う者たちは、互いの足を洗い合うたびに、この場面を再現するだけでなく、イエスの王国で指導者になるためには、僕のようにならねばならないことを互いに思い出します。きっと弟子たちは、残りの生涯の間ずっと、とりわけイエスが何者であるかをより深く理解したあと、主のこの謙遜の行為を覚えていたでしょう。そして間違いなく、ペトロが教会長老たちに、他者に権威を振り回すのではなく、謙遜を「身に着けなさい」と求めたとき、彼の心の中にはイエスの謙遜の行為がありました。

「人間になることに同意することで、キリストは謙遜をあらわされたが、それは天使たちにとって驚きであった。人間になるという行為は、キリストが天高く先在しておられたという事実がなければ、謙遜ではないだろう。私たちは、キリストが王衣も王冠も最高司令部をも捨て、人間のいる場所で人間に会い、人類家族に神の息子、娘になる道徳的力を与えるため、御自分の神性の上に人性を着られたということを実感するために、私たちの知性を開かなければならない。キリストの生涯を特徴づけた柔和と謙遜は、『イエスが歩まれたように自らも歩(む)』者たちの人生と品性の中にあらわされるだろう」(『神の息子・娘』81ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2017年2期『「わたしの羊を飼いなさい」ーペトロの手紙I・Ⅱ』からの抜粋です。

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