【ペトロの手紙1・2】偽教師【2章解説】#11

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ペトロの手紙Iにおいて、ペトロは大きな牧会的心配から、迫害の危機に関して読者を励まそうとしました。ペトロが具体的にどのような種類の迫害のことを述べていたのかはわかりません。しかし異教のローマ帝国が、「クリスチャン」と呼ばれる人々の、拡大しつつある運動を消滅させようとしたときに、教会が厳しい試練に直面するだろうことはわかります。

ところが、サタンは二面攻撃を始めました。確かに、外部からの迫害——凶暴な力と暴力——は強力な道具です。しかし、教会はもう一つの脅威、おそらく外部からの迫害よりも危険な脅威に直面しました。それは内部からの脅威でした。かつてユダヤ民族が偽預言者に対処しなければならなかったように、ペトロの時代のイエスの弟子たちは、教会に「滅びをもたらす異端をひそかに持ち込(む)」(IIペト2:1)偽教師に対処しなければなりませんでした。そしてさらに悪いことに、多くの人がこの「みだらな楽しみ」(同2:2)を見習うだろうと、ペトロは警告しました。

ペトロが警告していたこういう教えとは、どのようなものだったのでしょうか。ペトロはそれらにどう反応したのでしょうか。そして今日の私たちは、やはり内側からの脅威に直面するときに、彼の警告からどんな教訓を得ることができるでしょうか。

偽預言者、偽教師

初代教会は、イエスの初期の信者たちの間に大きな平和と調和のあった時代だと考え、それを理想化することは、ときとして簡単です。

しかし、それは誤りでしょう。イエスがおられた当時でさえ、教会はしばしば内部からの争いに直面しました(ユダのことを考えてください)。新約聖書の書簡が示すように、問題の多くは教会内での偽の教えから生じました。初代教会は外部からの迫害だけでなく、内部からの問題にも苦しみました。それはどのようなものだったのでしょうか。「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません」(IIペト2:1〜3)。兄弟姉妹の間に大きな平和と内部的調和のあった時代とは、とても思えません。

問1

IIペトロ2:1〜3、10〜22を読んでください。ペトロはここで何について警告していますか。教会内で広がりつつあった偽りには、どのようなものがありますか。

IIペトロ2:1は、主の霊感によってペトロが手紙を書いた理由を明らかにしているようです。ペトロは教会員に、かつて偽預言者がいたように、これから偽教師があらわれるだろう、と警告しています。彼は、この教師たちが「滅びをもたらす異端」(IIペト2:1)を持ち込むことや、不用心な者たちを滅亡の奴隷(同2:19)や他の多くの過ちへ導くことなど、彼らに対するさまざまな非難を繰り返し述べています。ペトロが書いたことから、これらの教えが非常に危険なものであったこと、そして彼がなぜこれほど強くそれらに反応したかがわかります。教理(教え)は重要ではないなどという考えを、彼は持っていませんでした。

キリストにある自由

問2

「彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです」(IIペト2:18)。ペトロはこの聖句で、何について警告していますか。彼の心配を説明する助けとなる次の節(同2:19)で、彼は何と言っていますか。この節における「自由」という言葉は、なぜ重要なのでしょうか。

可能な限り強い言葉で、ペトロは偽教師の危険性に対する警告を読者に与えています。IIペトロ2:18〜21において彼は、偽教師たちが自由を約束しながらも、実際には人々を束縛へ導くだろう、と警告します。

なんという福音の完全な曲解でしょう!キリストにある自由は、罪の隷属からの自由を意味しなければなりません(ロマ6:4〜6)。人を罪の束縛の中に残す「キリストにある自由」という概念は、いずれもペトロが警告しているような種類の誤りです。学者たちは、ペトロがここで取り上げている異端がどんな種類の異端であったかについて論じてきました。しかしそれが何であれ、罪の問題や人が罪の奴隷であるという問題全体とつながっていることは明らかです。

問3

ヨハネ8:34〜36を読んでください。ここにおけるキリストの言葉は、ペトロが言っていることを理解するうえで、いかに助けとなりますか。

これらの偽教師がどのようなことを伝えていたにしろ、彼らは餌食——主イエスを見いだしたばかりの人々——をこれまでの罪深い生き方へ引き戻していました。純粋さや聖さを軽視した、ある種の安価な恵みの福音や、抜け出てきたばかりのこの世の「滅亡」(IIペト2:19)の中へ彼らを再び巻き込んだ何かを想像することは難しくありません。ペトロがこういう教えを鋭く、強く非難し、それに従った結果がどうなるかについて警告したのも当然です。

犬は自分の吐いた物に戻る

問4

IIペトロ2:17〜22、マタイ12:43〜45を読んでください。キリスト教に改宗した者が以前の生き方に戻るとき、どのような危険がありますか。

ペトロは、偽教師たちが以前の罪に引き戻した者たちの運命を心配しています(IIペト2:18)。偽教師は自由を約束しますが、ペトロの指摘どおりに、彼らが約束する自由は、イエスが弟子たちに約束された自由とはまったく異なるのです。

ペトロが与えた警告に目を向けてください。義の道を知ってから古い生き方に戻るよりは、「義の道を知らなかった方が」(IIペト2:21)よかったでしょう。

言うまでもなく、これは、彼らが絶望的だという意味ではありません。私たちはみな、主に背いたものの、のちに立ち戻った人たちの話を知っています。さらに、彼らが戻るときに主は歓迎し、喜んで彼らをもとに戻されることも知っています(ルカ15:11〜32参照)。つまるところ、主に背くことは非常に危険な道であり、また不愉快な道だということです。自分が吐いた物のところへ戻る犬というのは、それをあらわす下品で辛辣な表現方法ですが、ペトロはこのようなイメージで自分の主張を述べています。

IIペトロ2:20でイエスの言葉が繰り返されているのは、たぶん意図的なのでしょう(マタ12:45、ルカ11:26参照)。イエスは汚れた霊から自由になった人のたとえ話を語られました。その霊は休む場所もなくうろつき、やがて「出て来たわが家」(マタ12:44)に戻ります。着いてみると、そこは空き家で、整えられています。そこで霊は戻って入るのですが、自分よりも悪いほかの七つの霊も一緒に連れて来ます。こうしてイエスが言われるように、「その人の後の状態は前よりも悪くなる」(同12:45)のです。イエスが説明され、ペトロが描写する危険は現実です。新しい信徒は、聖霊に属するものが、かつてその人の人生を支配していたものに取って代わる必要があります。もし教会に関わり、新しい信仰を共有することが、それまでの世俗的な活動に取って代わらないなら、その人のかつての生き方に戻ることはあまりにも簡単です。

ペトロとユダ

ユダ4〜19はIIペトロ2:1〜3:7のほぼ繰り返しであると、多くの人が認めてきました。聖書がメッセージを繰り返すときは、神が重要な何かを伝えたいと願っていることに、私たちは留意すべきです。内容が似ているこの箇所において、ペトロとユダは1つの重要な真理——神が悪人たちの運命を支配しているという真理——を私たちに知らせるために多くの行数を用いています。ペトロもユダも、神は悪を注意深く監視しているということに関して明快です。不正を行う人であれ、堕落した天使たちであれ、神は彼らの悪を特に注目し、裁きの日に彼らを罰することを計画してきました(IIペト2:9、17、ユダ6)。

IIペトロ2:1〜3、7、ユダ4〜19を読んでください。ペトロとユダは、神が過去になさった復讐の三つの実例を記録しています。その三つとは、ノアの時代以前の世界を大洪水によって滅ぼしたこと、ソドムとゴモラを焼き払ったこと、滅ぼし尽くすために堕落天使たちを鎖につないだことです。これらはみな、最終的な滅びをにおわせています。聖書は神の憐れみと恵みについて大いに語っていますが、神の正義が最終的に罪を滅ぼすことにおいて重要な役割を担っています。

このような厳しい罰を引き起こした罪とは、どのようなものだったでしょうか。それらには、破壊的な異端を持ち込むこと、権威を侮ること、自分を打ち負かした者に服従すること、神の恵みを不道徳への許可と曲げて解釈すること、唯一の支配者、主としてイエス・キリストを認めないこと、身体を汚すこと、無意味な大言壮語をすること、中傷することなどが含まれます(IIペト2:1、2:10、19、ユダ4、8、IIペト2:18、ユダ10)。

興味深いことに、これらの記述の中には、暴力行為や、私たちをしばしば憤慨させるひどい残虐行為は含まれていません。その代わりに、一つの共通性を持つ、あまり目立たない罪が記されています。これらは、ときとして教会共同体の中で許されている罪です。この事実は、教会における誠実な悔い改めと改革が大いに必要であることを私たちに気づかせます。

旧約聖書のさらなる教訓

IIペトロ2:6〜16を読んでください。聖書の中で初めてソドムに触れているのは、創世記13:12、13です。ロトとアブラハムは、「財政的な」理由から別々に住むことにしました。ロトはヨルダン川の低地を選び、「ソドムまで天幕を移し」(創13:12)ました。聖書は、「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」(同13:13)と述べています。のちに神がアブラハムに、ソドムを滅ぼすと警告されたとき、アブラハムは、もし正しい者が10人そこにいれば滅ぼさない、という協定を行いました(同18:16〜33)。ソドムには正しい者が10人もいなかったことは、ロトを訪ねた使者たちの身に起こったことで十分説明されています。この町は滅ぼされ、ロトと2人の娘だけが逃げました(同19:12〜25)。

ペトロはこの物語から二つの教訓を引き出しています。第一、二つの町(ソドムとゴモラ)は、不信心な者たちに罰が与えられることを例示している(IIペト2:6)。第二、主は試練の中から正しい者を救い出す方法をご存じである(同2:7〜9)。次にペトロは、ソドムとゴモラで滅ぼされた者たちの特徴をいくつか記しています。彼らは、汚れた情欲に溺れ、権威を侮り、あつかましく、わがままで、天使たちを中傷することをためらいませんでした(同2:10、11)。これらの特徴には、偽教師と彼らに従う者たちについてペトロが説明していることと共通点があります。

バラムの話は民数記22:1〜24:25に記されています。彼は、イスラエルの人々を呪うようにとモアブの王バラクに雇われていました。最初は気乗りしなかったのですが、多額の金を受け取ることで説得され、この仕事を引き受けます(民22:7〜21)。途中、バラムは「主の御使い」に立ちふさがれ、彼のろばが道をそれたのでかろうじて死を免れました。バラムはろばを打ちましたが、彼の目が開かれ、「主の御使い」を見たときに、自分の誤りを悟りました(同22:22〜35)。最終的に、バラムがイスラエルを祝福することで、物語は終わっています(同23:4〜24:24)。ペトロは、姦通と強欲によって誘惑された人々の例としてバラムを用いました(IIペト2:14:15)。そのような人たちはバラムに似ています。彼らは歩むべき道を外れたからです。

さらなる研究

私たちは、クリスチャンが「キリストにある自由」について語るのをとてもよく耳にします。そして言うまでもなく、これは根拠のある概念です。罪の刑罰から逃れること、そして、私たちの業ではなく、キリストが私たちのために成し遂げられたことのゆえに救いの確信を持つことは、確かに自由です。宗教改革者マルティン・ルターと、彼が恵みを理解する前に苦しんでいた隷属に関する物語は、この自由がどのようなものであるかを示す良い例でしょう。しかし、ペトロの手紙の中で見たように、このすばらしい真理は曲げて解釈されることがあります。

「救いに関して私たちがまったくキリストに依存しているという大いなる真理は、誤った憶測と隣り合わせており、キリストにある自由は、多くの人によって無法だと誤解されている。キリストが私たちを律法の刑罰から解放するためにおいでになったので、律法は廃止され、律法を守る者は恵みから落ちこぼれていると、多くの人が力説する。偽りと真理が似ているように見えるとき、聖霊に導かれていない魂は、偽りを受け入れるように導かれ、そうすることで彼ら自身をサタンの欺きの力のもとに置くことになる。真理の代わりに偽りを受け入れるように人々を導くことで、サタンはプロテスタント世界の尊敬を手に入れるのである」(エレン・G・ホワイト『勝利されたキリスト』324ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2017年2期『「わたしの羊を飼いなさい」ーペトロの手紙I・Ⅱ』からの抜粋です。

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