【ペトロの手紙1・2】主の日【3章解説】#12

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これまで長年にわたって、神を信じない人々は信頼できない、危険でさえある、とみなされてきました。なぜでしょうか。その考え方は単純です。もし神を信じていないなら、彼らは、自分たちが神の前で自らの行為の釈明をしなければならない未来の裁きを信じていないからです。この動機づけがなければ、人々は悪事を働く傾向が大きくなります。

今日、こういった考え方は時代遅れ(であり、「差別的」)ですが、その裏にある理屈や理由を人は否定できません。言うまでもなく、正しいことを行うために、多くの人は未来の裁きを恐れる必要はありません。しかしその一方で、神に釈明するという見通しは、確かに正しい行いの動機づけになりえます。

すでに触れたように、ペトロは、悪事を働く者たちが神の前で直面する裁きについて警告することを恐れませんでした。なぜなら、そのような裁きがやって来ると、聖書がはっきり述べているからです。ペトロはこのような背景において、時代の終わり、裁き、イエスの再臨、「自然界の諸要素は熱に熔け尽く(す)」(IIペト3:10)時などについて、明瞭に述べています。ペトロは、私たちがみな罪人であることを知っていました。それゆえ、こういう先の見通しの中で、「あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません」(同3:11)と、彼は言います。

権威の系統

ペトロは、教会が遭遇するであろう危険な教えについて読者に警告するとともに、自由を約束しながらも人々を罪の束縛(キリストにおいて約束されている自由とは正反対のもの)に連れ戻す者たちに釘を刺しました。

しかし残念なことに、教会が直面するであろう偽の教えは、これだけではありませんでした。危険な教えがもう一つ、やって来ます。しかしペトロは、その具体的な警告を与える前に、まずほかのことについて述べています。

問1

IIペトロ3:1、2を読んでください。なぜ読者がペトロの書いていることに耳を傾けるべきなのかということについて、ペトロはここでどのような主張をしていますか(ヨハ21:15〜17も参照)。

ペトロはIIペトロ3:1、2において、「聖なる預言者たち」によってすでに与えられていた、霊感を受けた言葉を読者に思い出させています。それによって、彼は読者の目を聖書に、つまり旧約聖書に向け、彼らが「確かな預言のみことば」(IIペト1:19、新改訳)を持っていることを再認識させています。ペトロは、彼らの信仰が神のみ言葉に根差していることをはっきりさせたかったのです。新約聖書の中のいかなるものも、旧約聖書がもはや無効であるとか、ほとんど重要でないとかいった考えを正しいと認めていません。それどころか、新約聖書と、イエスについてペトロが訴えている主張の妥当性を確立するうえで助けとなるのは、旧約聖書です。

しかし、それだけではありません。ペトロは次に、旧約聖書の「聖なる預言者たち」から、「主であり救い主である方の使徒たち」の1人としての自分に至る明確な権威の系統を主張します。ペトロは、今彼がしていることをするようにと主から受けた召しについて明快でした。彼が確信をもって語っているのもうなずけます。ペトロは彼のメッセージの源を知っていました。

あざける者たち

ペトロは読者に、「聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出して」(IIペト3:2)もらおうとしたあと、具体的な警告に取りかかります。たぶんこの教えがどれほど危険になるかを知っていたので、彼は権威をもって書くことによって警告を印象づけようとしたのでしょう。

IIペトロ3:3、4を読んでください。偽りの自由を宣伝する者たちと、キリストの再臨について疑いを表明する者たちとの間には、重要な類似点があります。前者は「汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み」(IIペト2:10)、キリストの再臨を否定する者たちは、「欲望の赴くままに生活して」(同3:3)いました(罪深い欲情が偽の教えにつながるというのは、単なる偶然の一致でしょうか)。

ペトロは、あざける者たちが、「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」(IIペト3:4)という辛辣な質問をするだろうと警告しています。そうすることによって彼らは、イエスがこの地球に間もなく戻って来られるという、クリスチャンの長年にわたる信仰に挑戦するでしょう。結局のところ、彼は特に終末時代について語っているので、これらのあざける者たちは、多くのクリスチャンがすでに死に、世の中のことはいつものように続いているという否定しがたい事実を指摘するでしょう。

一見すると、それは不合理な質問ではありません。エノクでさえ、「義人も悪人も共に土に帰り、それですべてが終わるもの」(『希望への光』44ページ、『人類のあけぼの』上巻82ページ)と思い悩んだと、エレン・G・ホワイトは記しています。大洪水の前に生きていたエノクでさえ、このような疑問に悩みつつ生きていたのなら、その後の数千年の間に生きた者たちや、さらに「終わりの時」に生きる者たちは、なおさらそうでしょう。

セブンスデー・アドベンチストである私たちは、今日どうでしょうか。私たちの名前は、キリストの再臨という考えを宣伝しています。それにもかかわらず、主はまだおいでになっていません。ですから、ペトロが予告したように、私たちはあざける者たちに遭遇するでしょう。

「一日は千年のよう」

ペトロはIIペトロ3:8〜10において、あざける者たちが持ち込む意見に応じています。キリストがまだ戻られない理由を理解するうえで、現在の私たちの助けとなることを彼は言っています。ペトロは、この世の不変性という問題に対応しています。彼は読者に、この世が天地創造以来変わっていないというのはうそであることを思い出させます(ペトロが彼の情報源、根拠として、聖書にすぐ立ち戻るところに注目してください)。かつてはなはだしく悪い時代があり、その後、神はその世界を大洪水で滅ぼされました(IIペト3:6)。そして確かに、大洪水はこの世に大きな変化をもたらし、その世界が今日の私たちに残されています。それからペトロは、次に来る滅びは水によるものではなく、火によるものだと述べています(同3:7、10)。

彼はまた、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(IIペト3:8)とも書いています。ペトロはこう書く際に、詩編90:4の言葉を思い浮かべていたのでしょう——「千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」。言い換えれば、私たちの時間概念は、神の時間概念とは異なるということです。ですから、時間に関して下す私たちの判断は、慎重でなければなりません。

人間的な観点からすると、キリストの再臨は遅れているように思えます。しかし、私たちは物事を人間的観点からしか見ていません。神の観点からすると、遅れはありません。それどころかペトロは、延長時間が認められてきたのは、神が忍耐を示しておられるからだと述べています。神は1人も滅びないことを願っておられます(IIペト3:9)。それゆえ、多くの人に悔い改める機会を与えるために、延長時間が認められてきました。

しかし神の忍耐は、イエスについての決心を先延ばしにする機会と受け取るべきではないと、ペトロは警告します。主の日は、夜中の盗人のように思いがけなくやって来るでしょう。夜中に来る盗人は、たぶん気づかれずに立ち去れると思っています。しかし、主の日は盗人のようにやって来ますが、はっきりと気づかれるでしょう。「天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽く(す)」(IIペト3:10)とペトロが言うとおりです。このように、ペトロのメッセージはパウロのメッセージと似ています——「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(IIコリント6:2)。

だから何なの?

ある青年が母親にあかしをしようと、イエスの死と再臨の約束について話しました。彼はとても説得力のある話ができたと思い、自分をかなり誇らしく思いました。しかし、青年がイエスと再臨についての小さな説教を終えたとき、母親は彼を見てこう言いました。——「だから何なの?今の私とどんな関係があるの?」

IIペトロ3:11〜13を読んでください。すでに述べたように、セブンスデー・アドベンチストという私たちの名前は、キリストの再臨という現実への信仰をあらわしています。この教えは基礎的なものです。私たちのキリスト教信仰の全体は、キリストの再臨とそれが約束するあらゆるものがなければ、意味がなくなるでしょう。

しかし私たちは、マタイ24:45〜51のたとえ話に出てくる悪い僕のようになる危険にさらされていないでしょうか。私たちはこのたとえ話の中に描かれているような悪事を働いていないかもしれませんが、その点が問題ではありません(これは、あくまでもたとえなのです)。そうではなく、このたとえ話が警告しているのは、私たちが簡単に基準(とりわけ、他者の扱い方に関する基準)を下げ、ますます世的になって、主の再臨を熱心に信じなくなりうるという点です。

確かに、独自の図表と預言の計算を使って、キリストの再臨の日を知っていると主張する人々に、私たちは時折遭遇します。しかしほとんどの場合、アドベンチストが直面している危険は、キリストの速やかな再臨の日付を設定することではありません。むしろその危険とは、年月が経つにつれて、再臨の約束が私たちの考えの中でより小さな役割しか果たさなくなることです。

確かに、私たちが地上に長くいればいるほど、私たちは再臨に一層近づきます。その一方で、私たちが地上に長くいればいるほど、私たちは日々の生活に影響を及ぼさないほど遠くに主の来臨を思い描きやすくなります。聖書はこの種の気の緩みを警告しています。ペトロが言うように、もしイエスが再臨され、私たちが裁きを受けるのであれば、クリスチャンは聖なる信心深い生活を送らなければなりません(IIペト3:11)。再臨の真実性は、それがいつ起ころうと、私たちの現在の生き方に影響を及ぼすべきです。

最後の訴え

ペトロは、最初からずっと述べてきた主題で彼の書簡を終えています。聖い生活を送り、「不道徳な者たちに唆されて」(IIペト3:17)堕落しないように注意しなさいという主題です。

IIペトロ3:14〜18を読んでください。ペトロが「愛する兄弟パウロ」(IIペト3:15)の書き送ったものへの訴えで彼の書簡を終えているのは、実に興味深いところです。パウロもまた、イエスの再臨を待ちながら平和に暮らすこと、また聖い生活を深めるためにその時間を用いることの必要性について書きました(ロマ2:4、12:18、フィリ2:12参照)。

また、パウロが書き送ったものへのペトロの言及の仕方から、キリスト教史の初期において、それらが高く評価されていたことがわかる点にも注目してください。ペトロが、現在の新約聖書の中にあるパウロの手紙のすべてを指しているのか、それとも一部だけを指しているのかは、判断できません。それにもかかわらず、ペトロの言葉は、パウロの手紙が高く評価されていたことを示しています。

最後の点として、ペトロは、パウロの手紙が、聖書のほかの部分と同様に曲解されうることがあると述べています。〔「聖書」に相当する〕「グラファ」というギリシア語の文字どおりの意味は「書かれたもの」ですが、ここでは明らかに、モーセの五書や預言の書などの「聖なる書かれたもの」を意味します。ここには、パウロの手紙が旧約聖書と同様の権威を獲得していたという極めて初期の証拠があります。

そして、自由を約束する偽教師たちについて私たちが先に読んだことを考慮するなら、自由や恵みに関してパウロが書いたことを罪深い行為の言い訳に用いていた人々を想像するのは難しくありません。パウロは信仰のみによる義を強く主張しましたが(ロマ3:21、22)、彼の手紙のいかなる箇所も罪の許可証を人々に与えてはいません(同6:1〜14参照)。パウロ自身が、信仰による義について彼が説教し、教えてきたことに関するこの誤解に対処しなければなりませんでした。しかしペトロは、彼が書いたものを曲げて解釈する者たちは「自分の滅び」(IIペト3:16)という危険を冒しているのだ、と警告しています。

さらなる研究

私たちの観点からすると、再臨はひどく遅れているかのように思えます。イエスは、私たちがそのように感じるであろうことを明らかにご存じでした。そこで、いくつかのたとえ話において、私たちがその間に注意深く、警戒していないとどうなるかを、彼は警告なさいました。(水曜日の研究で触れた)マタイ24:45〜51における2人の僕のたとえ話を取り上げましょう。彼らはいずれも、主人が帰って来ると思っていました。1人は、主人がいつ帰って来てもよいように備えなければならないと心に決め、もう1人は、主人が遅れているからこの機会を利用して悪いことをしようと言いました。

「キリスト来臨の正確な時はわからないのだから、目をさましているようにと命じられている。『主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである』(ルカ12:37)。主の来臨を待ち望んでいる者たちは、何もしないでただ期待して待っているのではない。キリストの来臨を期待することによって、人々は主を恐れ、不義に対する主のさばきを恐れるのである。彼らは主がさし出された憐れみをこばむ大きな罪を自覚するのである。主を待ち望んでいる者たちは真理に従うことによって自らの魂をきよめる」(『希望への光』1007ページ、『各時代の希望』下巻102、103ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2017年2期『「わたしの羊を飼いなさい」ーペトロの手紙I・Ⅱ』からの抜粋です。

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