【アモス書】この言葉を聞け【3章解説】#3

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イスラエルの歴史をたどると様々な教訓に満ちています。アモスは彼らの過去の経験や誤りを思い起こさせて、教訓を与えましたが、そこには今日の教会や私個人への学びが見いだされます。

アモスは激しく、しかもはっきりと、イスラエルの罪とその罪がもたらす刑罰について神の代弁者として語ります。愛と憐れみに満ちた主は、必然的な罪の結果と、正義の神が罪に対して下される最終的な刑罰からイスラエルを救おうとしておられました。イスラエルに対する恐るべき告発と警告の背後にある真のメッセージは、「善を求めよ、悪を求めるな/お前たちが生きることができるために」ということでした(アモ5:14)。それは私たちに対する神のメッセージで、次の言葉が天に鳴り響く終わりの時まで変わることがありません。

その時まで、そしてなお希望があるうちに、神はご自分の民に神との救いの関係に入るように求めておられます。終わりの時には一切のものが無となるからです。この世から救われるのは、ただキリストの血によってあがなわれた魂だけです。ほかの一切のものは永遠に滅び去ります。灰すらも残りません。神が「この言葉を聞け」と言われるのも不思議ではありません。この言葉は「命の言」、キリストにある命、キリストが世の罪のために流された血です。

心から離すことなく

「イスラエルの人々よ/主がお前たちに告げられた言葉を聞け。――わたしがエジプトの地から導き上った全部族に対して――地上の全部族の中からわたしが選んだのはお前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちをすべての罪のゆえに罰する」(アモ3:1、2)。この聖句はイスラエルの目を出エジプトに向けています。聖書の中で、主は何度もそのようにしておられます。「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である」(レビ 11:45)。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(申命5:6)。「イスラエルの神、主は仰せになる。『イスラエルをエジプトから導き上ったのはわたしだ。わたしがあなたたちをエジプトの手から救い出し、あなたたちを圧迫するすべての王国からも救い出した』と」(サム上 10:18)。

問1

なぜ神はこれほどしばしばヘブライ民族に出エジプトを思い出させるのでしょうか。申命4:9

クリスチャンが直面する危険の一つは、個人として、団体としてキリストがしてくださった御業を忘れることです。主がイスラエルの子らに、出エジプトの出来事を忘れず、そのことを「生涯心から離すこと」(申命4:9)のないように教えられたのはそのためです。彼らはそのことを子供たちに教えなければなりませんでした。それは子供たちが神の大いなる御業について知るためばかりでなく、語ることによって自分たち自身も忘れないようになるためでした。

イスラエル史を見ると、人間がいかに忘れやすいかがわかります。これは教会にとって大切な教訓です。世代が新しくなるごとに、私たちは原点から離れ、先駆者たちの経験を忘れがちです。そこに流れる原則を忘れず、心に留めるのは重要なことです。

正しくふるまうことを知らない

アモス書3:10は「彼らは正しくふるまうことを拒んでいる」、あるいは「彼らは正しくふるまうことができない」と言うのでなく、彼らは正しくふるまうことを「知らない」と言ってます。なぜそのようなことがありうるのでしょう。「地上の全部族」(アモ3:2)にも増して主が知る民、これほど多くの真理を与えられた民が、正しくふるまうことを「知らない」とはどういうことでしょうか。

ホセア書4:6「わが民は知ることを拒んだので沈黙させられる。/お前が知識を退けたので/わたしもお前を退けて/もはや、わたしの祭司とはしない。/お前が神の律法を忘れたので/わたしもお前の子らを忘れる」。

ここに答えがあります。彼らは知ることを拒みました。知ることを拒めば、当然、知識に欠けるようになります。つまり、いくら光が与えられていようとも、もしそれを受け入れ、従い、学び、大切にしなかったなら、遅かれ早かれ、その光は失われてしまいます。光が失われるとき、人々は結局、「正しくふるまうことを知らな」くなります。まさに、これがイスラエルの状態でした。

問1

ヘブライ5:14で教えようとしている原則を学びましょう。

罪の恐ろしさは感覚麻痺(まひ) という現象です。万引きをしてうまく誰にも見つからないと、また同じことを繰り返し、やがて良心の痛みも感じることなく、ごく自然に盗みができるようになってしまいます。罪も同じです。罪は人の感覚を麻痺させるので、やがて罪深いとも、悪いとも感じなくなり、ついには「悪を善と言い、善を悪と言う」(イザ5:20)ようになります。

エレン・ホワイトは次のように述べています。「すべての罪深い満足は、機能をまひさせ、知的霊的知覚力を鈍らせる。そして、神の言葉や聖霊も、心になんの印象も与えることができなくなるのである」(『各時代の大争闘』下巻 203ページ)。

破棄された契約

「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。/イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか」(ホセ11:8)。

救いの計画の核心をひと言で言うなら次のようになります。すなわち、人類は罪によって神と仲たがいしたが、神はキリストによってその仲たがいをいやしてくださいました。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(IIコリ 5:19)。

聖書の歴史は、エデンから始まってこの主題の繰り返しです。人間は罪と反逆によって神から離れてきましたが、神はつねに人間をその翼の陰に集めようとされてきました(詩17:8)。アモス書においても同じことが言えます。イスラエルは神との契約を破りました。神は御自分の契約に忠実でしたが、イスラエルは契約を守りませんでした(ホセ6:7、8:1、エレ34:18参照)。

問1

イエスは彼を拒む人たちのために最善を尽くして救いをもたらそうとしましたが、悲しい結果を生みました。今日、私たちも同じ罪を繰り返すことはありませんか。

今週の研究に関連して、ドイツの神学者ディートリヒ・ボンヘッファーの次の言葉を読んでください。「十字架がすべてのキリスト者の上に置かれている。だれもが経験しなければならない最初のキリストの苦しみは、この世の愛着を捨てることである。これがキリストとの出会いの結果として、古き人に死ぬということである。弟子となるとき、われわれは自分自身をキリストにゆだね、キリストの死と一つになる。すなわち、自らの生を死に引き渡すのである。……キリストが招かれるとき、彼は人に来て、死ぬようにと言われる」(『弟子となることの代償』99ページ)。

必然的な結果(アモ3:1~8)

アモス書3章で、神はイスラエルの罪を列挙しておられます。初めの 8節を読んで、注意深く分析してください。何気なく読んだだけでは意味を十分に理解することができないかもしれません。それらは次のように要約することができます。*お前たちはわたしの家族であって、特別な恩恵にあずかっている。したがって、わたしが罰することはふさわしい(アモ3:1、2)。

  • 獅子(しし) が森の中でほえるのは獲物を見つけた証拠である(4節)。
  • わなにかかった鳥は、イスラエルが自らの罪のゆえに自分で仕掛けたわなにかかることを例示している(5節)。
  • 警告が発せられると、人々は恐れる(6節)。
  • 神はあらかじめ預言者に御心を啓示することなしには災いを送らない(7節)。
  • 神が語られるとき、預言者が預言する(8節)。

これらの言葉は一見無関係のように見えますが、じつは共通点を持っています。それらは必然的な結果について述べています。

問1

パウロはガラテヤ6:7で生命の因果律をどのように表現しましたか。

ヘブライ語に「アハリット」という語があります。これは「背中」と関係がありますが、文字通りの意味は「後にくるもの、遅れて現れる結果、最終的結果、終局」です。箴言 19:20には「勧めに聞き従い、諭しを受け入れよ。将来[アハリット、最終的結果として]、知恵を得ることのできるように」。

私たちの行為は必然的な結果を伴います。遅かれ早かれ、私たちはみな自分の「アハリット」に直面します。それは大部分、私たちの現在の行為にかかっています。アモス書において、イスラエルは自らの行為の結果を刈り取っています。イスラエルは自らの「アハリット」にあずかりました。罪は避けがたい結果を伴います。サタンはその「アハリット」を私たちに見せたがらないということです。彼は今を楽しむように勧めます。

裁き(アモ3:11~15)

イスラエルに対する神の契約に関する訴訟(そしょう)の 最後の段階で、契約条件に従わなかった者たちに対する裁きが宣告されています。11節には、サマリアを滅ぼすために神によって用いられる「敵」のことが述べられていますが、それは後にイスラエル人を捕囚にするアッシリア帝国をさしています。

羊飼いの描写遊牧民のイスラエル人にとっては、羊に関する描写はわかりやすいものでした。羊飼いアモスは羊を捕らえる獅子について述べています。イスラエルの反逆がなぜこれほど厳しく罰せられなければならないのかは、私たちにはなかなか理解できないところです。アッシリア人は征服した民に対しては恐ろしく残酷でした。

主が外部の権力を用いて御自分の民を罰せられたのは、もちろんこのときだけではありません(イザ 13章参照)。いつの場合もそうですが、今回の刑罰にも略奪、強姦、死、奴隷など、数々の恐ろしい災いが含まれていました。こうした聖書の記録を見て、多くの人が神の品性を疑うようになったとしても無理ないことかもしれません。

問1

旧約のアモスに見る「罰する神」と、新約に見る「愛し、赦すキリスト」とをどのように調和させることができますか。

この疑問に答えることは容易ではありません。私たちは罪の恐るべき性質という背景の中でこの問題を理解するしかないでしょう。大争闘は決して軽々しい事柄ではありませんでした。それは全宇宙を包括し、その争点はきわめて重要な意味を持ち、私たち人間には理解できないことがたくさんあります。パウロも言っていますように、私たちは、今は「鏡におぼろに映ったもの」(Iコリ13:12)を見ているにすぎません。はっきりしていることは、罪が重大で、致命的なものであるということです

まとめ

今週の研究が教えていることは明白です。イスラエルは神が彼らのために何をしてくださったかを忘れ、こうして彼らが主の道についての知識を失ったことです。こうして民は神との契約関係を破り、自分たちの行為の結果を刈り取ったのでした。

「罪人には、多くの悔い改めの機会が与えられた。彼らが、背信の極に達して、最大の必要に迫られていたときに、彼らに対する神からの言葉は、ゆるしと希望の言葉であった。『イスラエルよ、あなたは、あなた自身を滅ぼす。しかし、あなたの助けは、わがうちにある。わたしは、あなたの王になろう。わたしのほかに、あなたを救う者がどこにあろうか』(ホセア書 13:9、10、英語訳)。

預言者は嘆願して言った。『さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。主は、2日の後、わたしたちを生かし、3日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される』(同6:1~3)。

サタンの力に捕らえられた罪人を救うための世々にわたる計画を見失ってしまった人々に対して、主は、回復と平和を与えると次のようにおおせになる。『わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。わたしはイスラエルに対しては露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張り、その枝は茂りひろがり、その麗しさはオリブの木のように、そのかんばしさはレバノンのようになる。彼らは帰って来て、わが陰に住み、園のように栄え、ぶどうの木のように花咲き、そのかんばしさはレバノンの酒のようになる。エフライムよ、わたしは偶像となんの係わりがあろうか。あなたに答え、あなたを顧みる者はわたしである。わたしは緑のいとすぎのようだ。あなたはわたしから実を得る』(同14:4~8)」(『国と指導者』上巻250,251ページ)。

ミニガイド【サマリヤ】

サマリアは三方が山で囲まれ、周辺の平原はオリブ畑と広い穀物農場の極めて美しい景色が見られる高さ100メートルの丘の上にあり、壮麗であるばかりでなく、戦略上も指令的な役目を果たすことができる難攻不落の要害でした。イスラエルの6代目の王オムリはティルツァから都をサマリアに移し、以来、北王国の首都となりました(列王上 16:23、24)。シリアは戦いを仕掛けましたが、サマリアを攻略できず(列王上 20:1~21)、戦術に長けた強力なアッシリアも3年の年月を費やしてやっと占領できたほどでした(列王下 18:9、10)。紀元前 722年に陥落したとき、民の3万人が捕囚となり、バビロン、クト、アワ、ハマト……(シリア地方)の人たちが代わって町に住み着いています(17:24)。

サマリアは初めから偶像礼拝の中心でした。アハブの妻イゼベルはバアル礼拝を取り入れ(列王上 16:31、32)、アシラ神は公金をもって維持されました(18:18、19)。こうした異教の宗教はイスラエルに多くのもっとも低俗で、不道徳な習慣を植え付けました(ホセ 4:1~14)。王も祭司も民も、この宗教に染み、預言者たちは次々に立ってこの堕落した偶像礼拝を非難したのでした。

アッシリア、バビロン、ペルシャと支配者が変わりましたが、サマリアはこの間に他民族と共存、結婚したことから、ユダヤ民族はサマリアの人たちを「半異教徒」として軽蔑しました。ユダヤ民族がバビロン捕囚から帰還し、エルサレム神殿を再建しようとしたとき、サマリア人は協力と援助を申し出ましたが、ユダヤ人は断固拒絶しました。仕方なくサマリアの人たちはゲリジム山に礼拝の場所を造って、ユダヤ人と対立しました。キリスト在世当時のユダヤ人のサマリアへの嫌悪感はひどいもので、ユダヤからガリラヤへの旅も、サマリアの土地を通らず、わざわざペレアに迂回して行くほどでした。

*本記事は、安息日学校ガイド2001年4期『アモス書 主を求めて、生きよ』からの抜粋です。

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