【アモス書】「シオンに安住する」【6章解説】#7

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「シオンに安住」とはどういう意味でしょう。当時のイスラエルとラオディキアの共通点、愛の神が「憎む」とは?悔い改めないイスラエルに降る運命などを学びましょう。

宇宙には四つの大きな力が働いていると物理学者は信じています。四つの力とは引力、電磁気、弱い原子力、強い原子力です。物理学者たちはいつの日にか、これら四つの力が宇宙を統合・支配する一つの大きな力の各側面であることを理論づけたいと望んでいます。すべての物理現象を説明する一つの力を解明するこの試みこそ、物理学の究極的な目標と、多くの人は考えています。

この試みの成否は分かりませんが、仮に解明されれば、その結果に驚嘆するでしょう。宇宙を説明する一つの力とは愛、神の愛です。イエス・キリストは、堕落した、忘恩で無情な世界の罪のために十字架の上で死ぬことによって、永遠に、疑問の余地のない宇宙の最大の力が神の愛であることを証明されたのです。今週は、神の愛が様々なかたちで、しかも時には「憎しみ」というかたちで表現されるということを学びます。愛の神が憎まれることがあるのでしょうか。

安楽な生活

「災いだ、シオンに安住し/サマリアの山で安逸を(あんいつ) むさぼる者らは」(アモ6:1)。

アモス 6章は裕福な生活を送る人々を描写しています。彼らは「象牙の寝台」に横たわり、長いすに寝そべり、子牛を取って宴を開き、「ダビデのように楽器を考え出」し、「最高の香油」を身に注ぎ、安楽に暮らしています(4~6節)。しばらくはそれも悪くはないでしょう。

「ぜいたくとばか騒ぎに満ちた彼らの生活は、象眼で飾った寝台に横たわり、長いすに寝そべり、最上の肥えた子羊と子牛を取って宴を開き、みだらな歌や音楽によってその堕落した精神を慰め、儀式用の大杯をもって酒を飲み、最高級の香油を身に注ぐことに表されています。しかしその退廃した精神は『ヨセフの破滅に心を痛める』ことも、貧しい兄弟たちを思いやることもありませんでした。イスラエルに臨む滅びは、征服者アッシリア人の台頭しつつある勢力とアモスの警告によって予告されていましたが、それもばか騒ぎと浮かれ騒ぎに慣れた彼らの心を動かすことはありませんでした」(H・ヘイリー『小預言書注解』114ページ)。

問1

ソドムとアモスの時代の状態を比べてください。エゼ16:49

イエスはマタイ19:24で「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。この言葉は金持ちの青年に対して語られたものです。イエスはこの青年を救おうと望んでおられました。同じことがアモス書でも言えます。神は外面的には豊かに見えるイスラエルの民に警告し、彼らを救おうとしておられました。しかし、彼らは招きを受け入れようとはしませんでした。

ラオディキアに安住する(黙示3:14~20)

「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨め(みじ) な者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(黙示3:17)。

アモスの時代の教会とラオディキアの教会との間にはいくつか共通点が見られます。ラオディキアの教会へのメッセージを注意深く読み、それをアモス書6:1~6のメッセージと比較してください。全く同じでないにしても、そこには共通点が見られます。

問1

二つの使命の共通点、相違点は何でしょうか。どちらも同じ問題を扱っているのでしょうか。

アモスはおもにイスラエル人の物質的な面、つまり経済的な富や物質的な繁栄について述べているように思われます。ラオディキア人へのメッセージは、教会の物質的な面よりも(ラオディキアの人々は必ずしも裕福ではなかった)、むしろ霊的な状態を扱っているように思われます。ラオディキアの人々にとっては、お金が最大の関心事ではありませんでした。彼らは自分たちの霊的状態が優れていると考えていました。すでに学んだように、イスラエル人も同じ問題を抱えていました。彼らの富は霊的な堕落をもたらしました。

アドベンチスト教会は世界の多くの国にあります。非常に裕福なアドベンチストもいれば、非常に貧しいアドベンチストもいます。しかし、富んでいても貧しくても、私たちはみな神の前に平等です。神が私たちをあがなうために同じ代価を支払ってくださったからです。裕福な人の魂も貧しい人の魂も、あがなうためにかかった代価は全く同じで、どちらも高価な代価がかかっています(Iペト1:18、19)。

神が「憎」まれるとき(アモ6:7~11)

「わたしはヤコブの誇る神殿を忌(い) み嫌い/その城郭を憎む」(アモ6:8)。

聖書全体に流れるテーマの一つは、神が無限の愛と憐れみの神であるということです。主が何かを「嫌う」と言われるときには、耳を傾けてその真意をはっきりと理解する必要があります。

問1

主が憎まれるものは何ですか。詩編10:3、詩編11:5、詩編78:58

アモスは今日の研究に関連して、主がヤコブの誇りと「そのもろもろの宮殿」を「憎む」と述べています(アモ 6:8、口語訳)。「正直に稼いだお金を仰々しい建物のために浪費することはまさに悪ですが、イスラエル人は不正直、特に貧しい人々に対する不正によってそのぜいたくと繁栄を手に入れました。……ヤコブの『誇』と『もろもろの宮殿』に対する神の憎しみは、神の憎まれるのが人ではなく、人の罪深い行為と業であることを示しています」(『SDA聖書注解』第 4巻 974ページ)。

主の名

「『いない』と答え、『声を出すな、主の名を唱えるな』と言う」(アモ6:10)。

アモス書6:9、10は将来に目を向け、イスラエルが罪の結果どのようになるかについて述べています。興味深いことに、10節の終わりには、イスラエル人が「主の名」を唱えなくなると書かれています。ヘブライ語聖書では、「主の名」が賛美、崇敬、喜び、権威、救いの象徴ということを考えるなら(出エ 33:19、申命 31:3、詩 7:18〔口語訳 7:17〕、20:8〔口語訳 20:7〕、116:4、13、使徒2:21)、彼らが主の名を唱えないというのは信じがたいことです。

『SDA聖書注解』第 4巻974、975ページには、当時のイスラエル人がなぜ主の名を唱えようとしなかったのかについて考えられる理由がいくつか挙げられています。

(1)失望感から神を呼び求めても手遅れだと感じていた。

(2)不信仰のゆえに主の名を唱えようとしなかった。

(3)自分たちの受けた裁きを神のせいにした。

(4)主の名を唱えると人々の笑いものになると考えていた。

問1

アモス6:10をどう理解しますか。

もう一つ考えられるのは罪悪感です。罪悪感はサタンが用いる強力な武器の一つです。私たちが罪を犯すと、罪悪感が頭をもたげます。罪悪感そのものは悪ではありません。聖霊はこの罪悪感を用いて、私たちを悔い改めと祈りと十字架に導かれることがあります。このような罪悪感は「善」です。一方、罪悪感が悪となるのは、私たちが自分の罪のゆえに神の前に出ることができないと感じるときです。神の憐れみと赦しを求めるには、自分はあまりにも罪深いと感じることがあります。イスラエル人のように「主の名を唱える」ことを恐れます。再び赦されると考えるのは無遠慮すぎるように感じます。これが魂の敵の狡猾(こうかつ) な方法です。サタンは罪悪感を用いて私たちを唯一のいやしの源である十字架から引き離そうとします。

アッシリアの捕囚を逃れる道はない

「しかし、イスラエルの家よ/わたしはお前たちに対して一つの国を興(おこ) す」(アモ6:14)。

アモス書6:11~13には、イスラエルの現状が興味深いたとえを用いて描写されています。主はここで何を言おうとしておられるのでしょうか。特に興味深いのは12節にある問いかけです。「牛が海を耕すだろうか」。これはイスラエルが悔い改めなかったので裁きを受けること、避けようとしても無益であるという意味です。

問1

イスラエルを滅ぼすことになった国はどこでしょうか。列王下18:9、10、アモ6:14

アッシリアの王ティグラト・ピレセル 3世は、イスラエルの王ペカを暗殺し、ホシェアをかいらいの王として即位させ、彼に重い貢物を納めさせました。窮したホシェアはエジプトと同盟を結び、アッシリアに対抗します。ティグラト・ピレセルの後を継いだシャルマナサルはイスラエルを攻め、サマリアを包囲します。彼はその治世の最後の年(前723/722)にサマリアを占領しました。

「北王国の陥った破滅は、天からの直接の刑罰であった。アッスリヤ人は、神がご自分の目的を達成させるためにお用いになった器に過ぎなかった。……『彼らはその神、主のすべての戒めを捨て、自分のために二つの子牛の像を鋳て造り、またアシラ像を造り、天の万象を拝み、かつバアルに仕え』、頑強に悔い改めることを拒み続けたために、『主は……彼らを苦しめ、彼らを略奪者の手にわたして、ついに彼らをみ前から打ちすてられた』(列王下 17:16、20)」(『国と指導者』上巻258ページ)。

まとめ

イスラエルが安眠をむさぼり、神の警告をまったく無視していたとき、神の裁きは地平線のかなたから近づいてきました。

「主は、十部族に下った恐るべき刑罰の中に、賢明であわれみ深いご計画を秘めておられた。神は、先祖たちの地においては、もはや彼らに実行させ得なくなったことを、異邦人の間に彼らを離散させることによって達成しようとなさったのである。人類の救い主によって、ゆるしを受けようとするすべての者に対する神の救いの計画は、なお達成されなければならなかった。そして、イスラエルに与えられる苦難によって、神は、神の栄光が地の諸国にあらわされる道を備えておられたのである。捕らえられて行った者が、みな悔い改めなかったのではなかった。彼らの中には、神に忠実に仕えたものがあり、神の前に自らを低くした者があった。このような『生ける神の子』によって、神は、アッスリヤ帝国の大群衆に、神の品性の特質と神の律法の恵み深さとをお知らせになるのであった(ホセア書 1:10)」(『国と指導者』上巻258,259ページ)。

ミニガイド【サマリアで安逸をむさぼる人たち】

サマリアは城壁をもって囲まれた丘の上の堅固な町で、住民は敵襲も恐れることはありませんでした。特に富を豊かに持つ上流階級は贅沢(ぜいたく) に囲まれて、周辺諸国の脅威をまったく感ぜず、平和だ、無事だと安心しきっていました。強大な軍事力を誇るアッシリアでさえも陥落させるのに 3年を要したほどです。

上流階級の贅沢さは、彼らが象牙の飾りのついたベンチに身を横たえて宴会をしている光景によく表れています。当時は土間に座して食事をとるのが普通でした。食べ物も柔らかい、若い子牛、子羊の肉を食べ、広口の鉢で酒を痛飲し、高価な香油を身に塗って、日夜富を浪費しており、切迫している裁きに気を留めていません。残忍なアッシリア軍はまずこうした高位高官たちを捕縛して捕囚の地に連れていったのでした。

ミニガイド【アッシリア帝国】

古代メソポタミアで軍事大国として君臨したアッシリアはその戦争、壊滅の手段、残忍さで知られていました。「アッシリアの捕囚にだけはなるな」が当時の言い伝えとして残っています。彼らは捕虜とした者の耳をそぎ、手足を切り、目をくり抜き、体に傷をつけて恐怖感を与えました。王の宮殿の柱、天井には捕虜の皮膚を剥(は) いで貼り付けるという残酷さが、れんがで造った城壁や彫刻に、克明に刻まれています。こうして征服した民族が決して反乱、報復、謀反(むほん) を企てないようにと徹底的な屈従を意図したのでした。

もう一つは征服した民族を他民族と混合させる雑婚政策でした。民族主義や愛国心を起こさせないために、自分がどこの国に属するかとの意識を希薄にさせたのです。こうしてアッシリアへの敵愾(てきがい) 心や独立心、反抗勢力の結集を殺(そ) いだのです。

アモスが活躍したころ、アッシリアはチグリス川のほとりの小国でしたが、前745年にティグラト・ピレセルが王位につくや、急速に勢力を伸張し、以降シャルマナサル、サルゴン、センナケリブ、エサルハドン、アシュルバニパルと絶頂期を迎えました(6人の王の名前は旧約聖書に出てきます)。イスラエル(首都サマリア)はアッシリアによって前 722年に滅ぼされました。

*本記事は、安息日学校ガイド2001年4期『アモス書 主を求めて、生きよ』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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