【イザヤ書】いと高き平和の君【9ー12章解説】#5

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「最初の原子爆弾の製造を指揮したロバート・オッペンハイマー博士が連邦議会委員会の前に姿を見せました。委員会が博士に、原子爆弾に対する防御策はあるかと尋ねた時、偉大な物理学者はこう答えました。

『もちろんです。それは……』。オッペンハイマー博士は、息をのんで見守る聴衆を見渡し、静かに答えました。『平和です』」(ポール・リー・タン編『7700の例話百科事典』989ページ、1985年、英文)。

平和は、人類の手の届かない永遠の夢です。有史以来、世界が全く平和だったのは、歴史のわずか8パーセントにすぎません。この間、少なくとも8000の条約が破棄されています(同987ページ)。「すべての戦争を終わらせる戦争」となるはずであった第1次世界大戦後の半世紀の間でさえ、戦争のない平和な時間は、1年のうちのわずか2分間しかなかった計算になります。

ダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベルは1895年、平和のために目覚ましい貢献をした人に贈る基金を設立しました(同988ページ)。しかし、近年、ノーベル平和賞の受賞者の中にさえ、武力衝突に関わる人が出ています。

今回は、真の永続的な平和をもたらすことのできる唯一のお方について学びます。

ガリラヤの辱めが終わる(イザ9:1~5)

問1

イザヤ8:23(口語訳9:1)が、前の章の記述とは対照的な内容を導く言葉である「先に」(口語訳では「しかし」)で始まっているのはなぜでしょうか。

イザヤ8:21、22は、真の神よりも心霊術(オカルト)に頼る人々の悲惨な状態を、「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放」と描写し(同22節)、続いて対照的に、彼らは「辱めを受けたが/後には……栄光を受ける」と描いています(同23節)。ここで、特別な祝福である「大いなる光」を受ける民として、ガリラヤ地方の人々が選ばれています(同9:1〔口語訳9:2〕)。神が「虐げる者の鞭」を折ってくださったので、彼らは深い喜びと大きな楽しみに満たされます(同9:2、3〔口語訳9:3、4〕)。

ここにガリラヤ湖地方が描かれているのは、それがイスラエルの領土で最初に征服された地域だったからです。ティグラト・ピレセル3世は、アハズ王の救援要請に応えて、北イスラエル王国のガリラヤ地方とヨルダン川東岸地域を手に入れ、住民の一部を捕囚にし、この地域をアッシリアの属州にしたのでした(王下15:29)。ですから、イザヤのメッセージは、最初に征服された〔ガリラヤの〕人々が最初に救出されると述べているわけです。

問2

神は、だれを用いてご自分の民を救出されますか。イザヤ8:23~9:4(口語訳9:1~5)の預言は、いつ、どのように実現しましたか(マタ4:12~25)。

イエスがガリラヤ地方でみ国の福音を宣言し、病人をいやすことによって希望を与え、悪霊にとりつかれた人々を悪霊から解放することによって伝道を開始されたのは、偶然ではありません(マタ4:24)。

これは聖書が、旧約時代に起こった出来事を新約時代に起こる出来事としてあらかじめ示す完璧な例の一つです。主は、一つの時代の出来事を別の時代に起こる出来事と重ね合わされますが、マタイ24章では、紀元70年におけるエルサレムの滅亡と世の終わりの滅亡をだぶらせておられます。

ひとりのみどりごが生まれた(イザ9:5、6)

問3

この聖句に記された「みどりご」は、どんな点が特別なのでしょうか(イザヤ9:5、6〔口語訳9:6、7〕)。

この「救い主」には、この方を描写するためのいろいろな名前、または呼び名があります。古代中近東地方では、王たちや神々は、その偉大さを示すために多彩な称号を持っていました。

このお方は、「不思議」(新改訳2017)です。主の使いがサムソンの父に自らの名を「不思議」と名乗ったのと同じです(士13:18、両者はヘブライ語で同じ語根)。

み使いはその後、マノアの祭壇から犠牲の炎と共に天に昇りますが(同20節)、これは1000年以上も後に実現するご自身の犠牲を予示しています。

このお方はまた、聖なる者(「力ある神」)、永遠の創造主(「永遠の父」)とも言われています(ルカ3:38参照─「……アダム。そして神に至る」)。

このお方は、ダビデ王朝の「王」であって、その平和の王国は、永遠に続きます。

問4

これらの特徴から考えると、この「みどりご」は唯一、だれを指していますか(ルカ2:8~14参照)。

これに当てはまるお方は、唯一、神のみ子にして創造主なるイエス・キリストだけです(ヨハ1:1~3、14章、コロ1:5~17、2:9、ヘブ1:2)。

「キリストがこの世においでになられた時、サタンはすでに地上にいて、飼い葉桶からカルバリーに至るまで、キリストの歩まれるすべての道で、その前進しようとする歩みの一歩一歩を邪魔した。サタンは、彼にとってまったく意味のないことである他者のための自己犠牲を天使たちに要求される神を非難した。それは天でのサタンの神に対する非難であり、後にこの邪悪な者が天から追い出されてからも、彼は主に対して、ご自分ではされない奉仕を強制される方だと言って非難し続けた。キリストは、これらの偽りの告発に答えるために、そして父なる神を現わすために地上においでになったのである」(『セレクテッド・メッセージ』Ⅰ巻406、407ページ、英文)。

問5

この引用文は、神のご品性について、私たちにどのようなことを述べていますか。

神の憤りの杖(イザ9:7~10:34)

この個所は、心霊術に頼り、アッシリアの軍隊による征服と圧制のえじきとなった民、闇の中を歩み、虐げられていた民の救出を告げるイザヤ8:23~9:4(口語訳9:1~5)、「虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった」(イザ9:3〔口語訳9:4〕)ことをさらに詳しく説明しています。

問6

上記の聖句を読み、神の民の苦難について、レビ記26:14~39の呪いと比較してください。神はなぜ、民を一度にではなく、段階的に罰せられたのでしょうか。このことは、神のご品性と目的について、どんなことを教えていますか。

神は「士師」の時代のように、ユダとイスラエルの民に、彼らの愚かな行為の結果を体験させることによって、彼らが、まず自分たちのしていることを理解し、より良い選択をするチャンスをお与えになったのでした。しかし、彼らがなおも悪に執着し、神とそのメッセンジャーを通して与えられた勧告に対して、心を頑なにしたので、神はその保護を取り去られました。

問7

イザヤ9:7~10:2(口語訳9:8~10:2)を読んでください。ここに言われている民の罪は何ですか。だれが、だれに対して、その罪を犯しているのでしょうか。

ここで、聖書全体を通して語られている自由意志の現実について考える必要があります。神は、人間を自由な存在としてお造りになりました(そうでなければ、人間は決して真の意味で神を愛することはできないからです)。この自由は、過ちを犯す選択肢を含みます。神は、時間をかけて何度も、その愛とご品性を現わすことによって、私たちが主に帰るよう懇願されます。しかし同時に、神は、私たちが自らの誤った選択の結果として、痛み、恐れ、悩みなどを刈り取ることをお許しになります。これらはすべて、神から離れたとき、人はどうなるかを私たちが知るためです。自由意志は、かけがえのないものです。自由意志がなければ、私たちはもはや人間ではありません。しかし、この尊い賜物を誤って用いる人のなんと多いことでしょうか。

「根」と「枝」は一つ(イザ11章)

問8

「エッサイの株」から育つ「芽(若枝)」(イザ11:1)とは、だれのことですか(ゼカ3:8、6:12参照)

イザヤ11:1は、10:33、34で切り倒された木を再度登場させます。「エッサイの株」は、エッサイの息子であるダビデの王朝が力を失ったことを表しています(ダニ4:10~17、20~26)。しかし、見捨てられたかに見える「株」から一つの「芽(若枝)」がでます。それは、ダビデの血を引く統治者を意味します。

問9

新しいダビデの血を引く統治者は、「エッサイの根」とも呼ばれていますが(イザ11:10)、それにはどんな意味があるのでしょうか(黙22:16)。

イザヤ書の描写と「ダビデの根、その子孫」(黙22:16〔新改訳2017〕)の両方を満たすお方は、イエス・キリストだけです。

問10

ダビデの血を引く新しい統治者は、どのように罪と背信による悪の影響をくつがえしますか(イザ11章)。

新しい統治者は、主のみ心を自分の心として考え、行動します。彼は公平に裁き、悪人を罰し、ダビデよりも偉大で、創造の本質である平和を回復します。捕食動物は肉食をせず、かつての獲物と穏やかに共存します(イザ11:6~9)。

問11

イザヤ11章は、キリストの初臨についてだけ語っていますか。再臨についてだけですか。その両方ですか。それぞれについての預言を書き出してみましょう。

イザヤ11章では、イエスの初臨と再臨が一つの光景として描かれています。人類救済の計画が完結するためには、初臨と再臨の両方が必要です。初臨はすでに実現しました。私たちクリスチャンは、すべての希望が成就する時として、キリストの再臨を待ち望むのです。

「わたしを慰められた」(イザ12:1~6)

イザヤ12章は、憐れみと力に満ちた慰めのために神に感謝を捧げる短い詩編(賛歌)です。

問12

この賛歌を、黙示録15:2~4の、モーセと小羊の歌と比較してください。両者は神に何を賛美していますか。

イザヤ12:2は、来るべき解放者をほぼイエスと見なしています。「神はわが救い」(口語訳)、「わたしの救いとなってくださった」(聖書協会新共同訳)とあります。「イエス」という名前は、「主は救い」という意味です(マタ1:21と比較)。

問13

私たちにとって、イエスの名前にも含まれる「主は救いである」との考えは、どのような意味で重要なのでしょうか。

主は救いを与えるだけではなく(イザ12:2)、主ご自身が救いです。私たちのただ中におられるイスラエルの聖なるお方は、私たちのすべてです(同6節)。神が私たちと共におられます。イエスは奇跡を行われただけではなく、「肉となって、わたしたちの間に宿られた」のです(ヨハ1:14、強調付加)。イエスは十字架の上で私たちの罪を負われただけではなく、私たちのために罪となられたのです(2コリ5:21)。イエスは平和を生み出すだけでなく、私たちの平和そのものなのです(エフェ2:14)。

間違いなく、「エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ」(イザ11:10)ます。

さらなる研究

「人間の父親の心は自分の子供の上にそそがれる。彼は幼い子供の顔に見入り、人生の危険を思ってふるえる。彼は自分のかわいい子をサタンの力から守り、誘惑と戦いに会わせたくないと熱望する。神は、われわれの幼な子たちのために、人生の道を安全にするために、ご自分のひとり子を、もっとはげしい戦いと、もっと恐ろしい危険に会わせるためにお与えになった。ここにこそ愛がある。ああ、もろもろの天よ、驚嘆せよ。ああ、地よ、おどろけ」(『希望への光』687ページ、『各時代の希望』上巻35、36ページ)。

「人類の救済に必要な条件を満たすことのできるお方はキリストだけであった。いかなる天使も人間も、この大いなる働きを達成するには不十分であった。人の子だけが上げられねばならない。無限の性質だけが贖いの業を成し遂げることができるからであった。キリストは、ご自分の血を献げ、ご自分の魂を罪の供え物とするために、不従順で罪深い者たちと一つになり、人の性質を取ることに同意された。天の会議において、人の罪科が測られ、罪に対する怒りが見積もられたが、キリストは、堕落した人類に希望を与える条件を満たす責務を負う決意を表明されたのであった」(『サインズ・オブ・ザ・タイムズ』1896年3月5日、英文)。

まとめ

イザヤの時代に、神は「主の救い」という名前の方が、国家的な背信の結果として彼らの上に下った圧制から、残りの民を救うことを約束されました。この希望の預言は、究極の意味で、「主は救い」という意味の名前を持つイエスのうちに成就します。

*本記事は、安息日学校ガイド2004年2期『イザヤ わが民を慰めよ』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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