この記事のテーマ
エズラ3章から6章は、主題によって構成されており、さまざまな歴史的時期における神殿再建への反対を扱っています。主題によるこの手法を認識することは、全体のメッセージを明らかにするうえで役に立つでしょう。
エズラの名前が初めて出てくるのは、エズラ7:1においてです。彼が紀元前457年に到着したことで事態が変わり、城壁とともにエルサレムの町の再建が突発的に始まりました。その13年後、(紀元前444年にアルタクセルクセスによって派遣された)ネヘミヤが到着し、城壁の建築が遂に再開されます。反対は激しかったものの、その作業は52日間で完了しました(ネヘ6:15)。
神の働きに対する抵抗が、エズラ記とネヘミヤ記における全般的な主題です。それゆえ、神殿とエルサレムの再建が反対や迫害を引き起こしたことは、驚くに当たりません。今日の世界のどこを見ても、主の働きは反対を受けています。サタンは、福音が素早く広まらないようにしようとします。彼の支配が脅かされるからです。エズラ記とネヘミヤ記において、ユダの人々はどのように反対に対処したのでしょうか。
反対が始まる
問1
エズラ4:1~5を読んでください。捕囚を免れたイスラエルの人々は、神殿の建築において、なぜほかの人たちの協力を断ったのだと、あなたは思いますか。
一見すると、その申し入れは親切で隣人らしいものに思えますが、なぜその支援を断ったのでしょうか。ある程度、その答えは聖句そのものの中に見いだされます。「敵」が支援を申し出たのです。「敵」です。それだけでも、なぜイスラエルの人々があのような反応をしたのかについて、有力なヒントが得られます。
なぜこの人たちは「敵」と呼ばれたのでしょうか。列王記下17:24~41は、(北王国イスラエルの人々が追放されたあと、)この人たちがほかの国々からサマリアとその周辺地域へ連れて来られた、と説明しています。アッシリアの王は彼らのもとに祭司を送り、その祭司たちは土地の神、つまりイスラエルの神をいかに礼拝するかを教えなければなりませんでした。しかし、結果として生じた宗教は、カナンの神々をも取り込んだものだったのです。それゆえ、捕囚を免れたイスラエルの人々は、このような宗教が彼らの神殿の礼拝に持ち込まれることを恐れました。そういうわけで、最善にして最も賢明なことは、彼らがしたこと、つまり「必要ありません」と答えることだったのです。
私たちは、なぜこのようなことが起こり始めていたのかも思い出さねばなりません。先祖たちが周囲の異教信仰と絶えず妥協し続けたことが、神殿の破壊や捕囚をもたらしたのでした。おそらく、神殿を新しく建築する過程において、彼らが最もやりたくなかったことが、周囲の人々とあまりにも密接に連携することだったのでしょう。
問2
この拒絶がなぜ正しい選択であったのかを、(エズラ4:4、5の中の)ほかのどのようなことが示していますか。
預言者が励ます
エズラ4章から6章に記されているように、残念ながら、周囲の国々から受けた反対によって、ユダの人々は神殿建築を恐れるようになり、やる気を失いました。
先に述べたように、エズラ4:6~6:22は年代順に書かれていません。それゆえ、私たちは4章の前に5章を見ます。
問3
エズラ5:1~5を読んでください。神はなぜ預言者ハガイとゼカリヤを遣わされたのですか。彼らが預言した結果はどうなりましたか。
ユダの人々は恐れていたので、建築を中断していました。しかし神は、神殿と町を再建するためにハガイとゼカリヤをユダへ遣わされました。計画を持っておられたのです。ユダの人々が恐れていたので、神は彼らを励ますために何かをしなければなりませんでした。それゆえ、神は2人の預言者を介入させられたのです。人間の反対は神を止めることなどできません。たとえユダの人々が、自らの行動によってこの反対を助長していたとしても、神は彼らをお見捨てになりませんでした。彼らをやる気にさせ、再び行動を起こさせるために、神は預言者たちを通して働かれました。
問4
ハガイ1章を読んでください。ユダの人々に対するメッセージはどのようなものですか。私たちは自分自身のために、そのメッセージから何を得ることができますか。
「預言者ハガイとゼカリヤは、この危機に当面するために立てられた。これらの任命を受けた使命者たちは、人心を揺り動かす証言によって、人々に彼らの苦難の原因を明らかにした。物質的繁栄がなかったことは、まず神を彼らの第1の関心事にすることを怠った結果であると、預言者たちは宣言した。もしイスラエルの人々が、神の家を建てることを彼らの第1の仕事として、神を崇め、神に対する敬意と礼儀を示したならば、彼らは神の臨在と祝福を受けたことであろう」(『希望への光』599、600ページ、『国と指導者』下巻180ページ)。
工事の中止
問5
敵はエズラ4:6~24において、エルサレムの工事を中止させるために、どのようなことをしましたか。
「その地の住民」は、ユダの人々と彼らの働きに対する非難の手紙をまずダレイオス王に送り(エズラ5、6章)、次にクセルクセス王(アハシュエロス)とアルタクセルクセス王にも送りました。周辺諸国の人々は、もしエルサレムが再建されるなら、この町は過去においていつも反逆と問題の中心地であったから、王はその支配権を失うだろう、と主張しました。残念なことに、アルタクセルクセス王は惑わされ、ユダヤ人が建設をしているのは、独立を獲得したいので対立を煽り立てているにすぎないという言葉を信じてしまいました。彼が工事を中止するように命じたので、人々は町のさらなる建築を阻止するために軍隊を送りました。この強硬措置によって、神のための働きは中止させられました。
問6
エズラ4:23、24を読んでください。なぜユダの人々は建築を中止したのですか。彼らは、神が彼らに町を再建してほしいと願っておられることを知らなかったのですか。何が妨げになりましたか。
ユダの人々は、自分たちが町と神殿の再建のために神によって召されたことを認識していました。それは明らかです。しかし強い反対のために、彼らは恐れました。きっと彼らは次のような言い訳を思いついたことでしょう―─「今は適切な時期でないに違いない」「もし本当に神が私たちにこれをさせたいと願っておられるのなら、何か方法を与えてくださったであろう」「たぶん私たちはここに帰って来るべきではなかったのだ」。神が私たちを召してさせようとすることを反対が妨げるとき、私たちは、神の導きを疑問視し、疑う傾向があります。私たちは、自分がミスを犯したのだとたやすく思い込んでしまうのです。恐れは私たちの心を麻痺させ、私たちの思いは、神の力に焦点を合わせなければ、絶望と無力へ向かってしまいます。
ネヘミヤが行動を起こす(紀元前444年)
問7
ネヘミヤ3:33~4:17(口語訳4章)を読んでください。ネヘミヤの指導のもと、ユダの人々は反対に立ち向かうためにどうしましたか。何もしないのではなく、神が守ってくださると信じつつ彼らが戦う準備をしたことは、なぜ重要だったのですか。
開始と中止を繰り返したあと、人々は再び働き始めました。ユダの人々は祈り、ネヘミヤは積極的に警備を始めました。迫りくる攻撃に備えて、人々は昼夜分かたずに交代しました。ネヘミヤはまた、城壁の周囲の人々に武器を持たせて配置し、各家族が戦う備えをしました。加えて、彼は自分の部下たちを二つの集団に分け、一方の集団を働かせ、もう一方の集団には武器を持たせました。危険が最も近づいたときに、城壁の建築に携わっていたすべての人が守るべき特別規定もありました。建築作業をする者は、各自一方の手に投げ槍(口語訳「つるぎ」)を持ち、もう一方の手でレンガや石を城壁に積み、モルタルを塗ったのです。彼らは反対に直面する備えをしました。彼らは自分たちの役割を果たし、神が残りの役割を果たしてくださいました。神の守りに対するネヘミヤの信仰は、みんなを鼓舞するものでしたが、彼はただ長椅子に座って、神がすべてをしてくださるのを期待したのではありません。彼らは力の及ぶ限り準備をしたのです。
「敵を恐れるな。偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え」(ネヘ4:8〔口語訳4:14〕)。「わたしたちの神はわたしたちのために戦ってくださる」(同4:14〔口語訳4:20〕)。これらの言葉は、聖書の中に見いだされる最も感動的な言葉のうちの二つです。
ユダの人々は、頑固な反対のために建築を中止することもありえましたが、今回は恐れに負けることなく、神が彼らのために戦ってくださるという約束にすがりつきました。神の名のために、私たちが信じることのために、あるいは神が私たちを召してさせようとすることのために反対に遭うとき、私たちは、「神(が)わたしたちのために戦ってくださる」ことを覚えるべきです。
結局のところ、ユダの人々は、彼らが行っていることの背後に主がおられることを自覚し、そのことが彼らに前進するための勇気を与えたのでした。
「大きな工事」をしている
問8
ネヘミヤ6:1~13を読んでください。ネヘミヤは、自分がエルサレムで行っている働きを、なぜ「大きな工事」(ネヘ6:3)とみなしているのですか。神の敵による、彼を止めようとする企ては、どのようなものでしたか。
ネヘミヤ6章は、ネヘミヤの命を狙った多くの企てを描写しています。サンバラトとゲシェムは、会談という名目でネヘミヤを彼らのもとに来させようとして手紙を送り続けました。しかしその会談は、敵の領地であるオノの谷(平野)においてであり、そのことは招待の真の意図を明らかにしていました。サンバラト、トビヤ、ゲシェムは、チャンスは城壁が完成し、城門が閉ざされるまでしかないと思っています。ユダの人々はペルシア王の庇護を得ており、それゆえ彼らの敵は全面攻撃によって彼らを征服できません。しかし、もし指導者を取り除いてしまえば、彼らは工事の進捗を妨げるどころか、ユダの人々を永遠に止めることさえできるかもしれないのです。彼らはあきらめていませんでした。たとえネヘミヤが返事をしなくても、彼らは努力し続けました。事あるごとに反対に対処しなければならないというのは、ネヘミヤにとって腹立たしかったに違いありません。ネヘミヤは彼らに、「わたしは大きな工事をしている」(ネヘ6:3)と言って返事をしました。
この世の基準からすれば、ネヘミヤは王の献酌官として大いなる仕事をしていました。それは誉れ高い職で、彼が王の相談役として働く国において最高位の役職の一つでした。しかし、廃墟の町を建設することに、この世の重要性があったでしょうか。それが、『大きな工事』と彼が呼ぶものなのでしょうか。ネヘミヤは神のための仕事を「大いなるもの」、何よりも重要なものと考えました。なぜなら、エルサレムにおいて神の御名の名誉が懸かっていることを、自覚していたからです。
また、神が聖所の奉仕をお定めになったとき、祭司制度を制定されました。人々の思いの中で聖所が聖く、特別な場所であり続けるために、神は、神殿内部の仕事をすることを祭司だけに許されました。独力では、私たちはなかなか神の聖さを理解することができません。それゆえ神は、イスラエルの人々が畏敬の念を持って神の御前に出られるように準備をしてくださったのです。ネヘミヤは、神殿の庭がすべての人のものであるのに対して、内部の部屋はそうでないことを知っていました。シェマヤは、聖所の中で会うという言葉によって、彼が偽預言者であることを露呈するだけでなく、神の命令に反することを提案することで、裏切り者であることもさらけ出したのです。
さらなる研究
参考資料として、『国と指導者』第53章「市街の建てなおし」、第54章「搾取に対する譴責」、第55章「隣国の陰謀」を読んでください。
「ネヘミヤの時代の建設者たちが、公の敵や、友人を装った者たちから受けた反対と失望は、今日、神のために働く者が経験することの象徴である。キリスト者は、敵の怒り、嘲笑、残酷さなどに苦しめられるばかりでなく、友人であり、援助者であることを誓った人々の無関心、矛盾、生ぬるさ、裏切りなどにも悩まされる」(『希望への光』625ページ、『国と指導者』下巻245ページ)。
「ネヘミヤの敵が、彼を自分たちの手中に入れることができなかったのは、神の働きに対するネヘミヤの固い献身と、それと同様に固い神への信頼によるものであった。怠惰な人はやすやすと誘惑に陥る。しかし高尚な目標と熱烈な決心をもった人に、悪は足場を見つけることができない。常に前進している人の信仰は弱らない。彼は、上にも下にも前方にも、神のみこころに従ってすべてのものを備えて下さる、無限の愛の神を認めるのである。神の真のしもべたちは、恵みの座に常により頼んでいるから、くじけることのない決意をもって働くのである」(同上631ページ、同上下巻261ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2019年4期『エズラ記とネヘミヤ記─忠実な指導者を通して神がなしうること』からの抜粋です。