【エズラ記とネヘミヤ記】法の精神を犯す【解説】#5

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今日に至るまで、私たち人間は、富、貧困、貧富の差の問題、またそれに関してできることに頭を悩ませています。確かにイエスは、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」(マタ26:11)と言われましたが、それは彼らを助けるために何もしないことの言い訳などではありません。それどころか、聖書は援助という私たちの務めを教えています。さもなければ、私たちは自分をクリスチャンなどと呼べません。

エルサレム再建のために戻った捕囚の民の試練と苦難のさなかに、この主題(単に貧困と貧しい人々の問題ではなく、富める人が貧しい人を虐げるというもっと深刻な問題)が登場するというのも、なんと興味深いことでしょう。それは捕囚前に問題だったことで、自分たちの土地に戻った今になっても、再びあらわれたのです。

私たちは今回、この昔ながらの問題がまたもやあらわれるのを目にします。ネヘミヤはこれに対処するため、いかに努力したのでしょうか。あとでわかるように、この抑圧を一層悪くしたのは、それが「律法の条文」の範囲内でなされていたことでした。言ってみれば、これは、規則や規定を私たちが目的(イエスの御品性を反映すること)への手段ではなく、目的そのものにしないよう、いかに注意しなければならないかということの絶好の実例なのです。

人々の不満

問1

ネヘミヤ5:1~5を読んでください。ここではどのようなことが起きていますか。人々は何を嘆いているのですか。

ユダの人々の共同体は、ネヘミヤの指導のもと、外圧に対して団結しているように見えます。しかし、迫害に立ち向かい、外国の攻撃から身を守る民の中で、すべてがうまくいっていたわけではありません。敵に対する粘り強さや結束した努力といった外見にもかかわらず、この共同体は内部が分裂していました。指導者や富める人々が、自分の利益のために貧しい人々や恵まれない人々を利用していたのです。状況は、そのような家族が救済を求めて叫び声をあげるほどにひどいものでした。子どもに食べさせる食べ物がないと言う家族もいれば、飢饉のために財産を抵当に入れたので何もないと叫ぶ家族、子どもが奴隷になっているのにペルシアの税を払うためにお金を借りなければならないと嘆く家族もいました。

この問題のおもな元凶は、貧しい人々に隣人たちの助けを求めさせた飢饉や納税であったようです。ペルシア政府はユダ州に銀350キカルの税を毎年要求しました(『アンドリュース・スタディー・バイブル』のネヘ5:1~5の注を参照〔598ページ、英文〕)。もしだれかが強制的な税の指定された割当額を支払えなければ、通常、まずその家族が財産を抵当に入れるか、借金をしました。しかし、もし翌年お金を稼げないと、彼らは負っている負債に関して何かをしなければなりませんでした。たいていの場合、債務奴隷になることが次の選択肢でした。彼らはすでに土地を失っていたので、働いて負債を返済するために家族の中からだれか(通常は子どもたち)を送り、貸主に使ってもらいました。

私たちは人生の中で、自分の行動の結果として困った事態に陥ることもあれば、言うまでもなく、自分に落ち度はないのに、病気や経済的苦境に陥ってしまうこともあります。前述の話は、政府の政策が人々に損害を与え、厳しい貧困をもたらした時代について物語っています。出口のない、深まりゆく貧困の連鎖に彼らは捕らえられてしまったのです。

律法の精神に反して

問2

ネヘミヤ5:6~8を読んでください(出21:2~7も参照)。なぜネヘミヤは憤ったのですか。

今日の私たちにはどれほど理解しがたいとしても、古代世界において奴隷制度は文化的規範でした。親は、自分自身が奴隷になることもあれば、子どもを売ることもありえました。社会的にも、法的にも、親には自分の息子や娘を売る権利があったのです。しかし、神は自由を与えることをとても大切にしておられるので、7年ごとに奴隷を解放することを貸主に求めることによって、イスラエルの中でそれを慣例化なさいました。このようにして神は、人々が永続的な奴隷にならないように彼らを守り、また、彼らに自由に生きてほしいという御自分の願いをはっきり示されたのです。

お金を貸すことは律法によって認められていましたが、利子を取ることは認められていませんでした(聖書の規定が高利貸しを禁じていたからです。出22:24~26〔口語訳25~27〕、レビ25:36、37、申23:20、21〔口語訳19、20〕参照)。それでも、その金貸したちが課した利子は、周辺諸国が人々に課したものに比べればわずかでした。彼らは毎月1パーセントの利子を払うように要求したのです。西暦7世紀のメソポタミアの文書は、銀に対して年率50パーセント、穀物に対して年率100パーセントの利子が課せられたと示しています。それゆえ、年率12パーセントの利子は、メソポタミア諸国の慣例に比べれば低いものでした。しかし結局のところ、神の言葉によれば、貸主がやってはならない唯一のことが利子を課すことであり(ネヘ5:10)、興味深いことに、人々は不満を抱きながらもそのことを一切口にしていません。そのほかのことはみな、社会的規範や律法の規定の範囲内のことだったのです。では、なぜネヘミヤは「大いに憤り」を覚えたのでしょうか。珍しいことに、彼はすぐに行動を起こさず、この件についてじっくり考えます。

ネヘミヤが断固とした態度でこの問題に対処したことは、極めて称賛に値します。ネヘミヤは、それが厳密には律法を犯していないとか、社会的に容認されるとか、ましてやその土地の慣例に比べれば「良い」などという理由で、苦情を放置しません。この状況下で犯されていたのは、法の精神でした。とりわけ経済的に困難な時期には、互いに助け合うことが人々の義務だったのです。神は、虐げられている人や困窮する人たちの味方であり、貧しい人たちに対してなされた悪や暴力を非難せよ、と預言者たちに命じずにはおられなかったのでした。

行動するネヘミヤ

一見したところ、「あなたたちは同胞に重荷を負わせているではないか」(ネヘ5:7)という貴族や役人に対する非難は、望ましい結果をもたらさなかったようです。それゆえ、ネヘミヤはそこで立ち止まらず、虐げられている人たちのために戦い続けました。彼は、貴族や役人を教えようとしたがうまくいかず、この問題を放り出さざるをえなかった、と言うこともできました。何しろ、彼が立ち向かおうとしたこの人たちは、土地の財産家、権力者だったのですから……。しかしネヘミヤは、この問題の解決策が実行されるまで、たとえその過程で強力な敵を生み出すとしても満足しませんでした。

問3

ネヘミヤ5:7~12を読んでください。現状に対するネヘミヤの反論は、どのようなものですか。彼は何を用いて、誤りを正すよう人々を説得しましたか。

ネヘミヤは大きな集会を招集します。つまり、この問題に対処するため、すべてのイスラエルの民が呼び集められたのです。彼はどうやら、すべての人がいる前でなら指導者たちが恥じ入り、抑圧し続けることを恐れさえする可能性に期待したようです。

ネヘミヤの冒頭の主張は、奴隷制に重点を置いています。ユダの人々の多くは、十中八九ネヘミヤも含めて、外国人の奴隷となっていたほかのユダの人を買い戻して自由にしました。そこでネヘミヤは貴族や役人たちに、同胞を買ったり、売ったりすることを容認できると思うのか、と尋ねます。ユダの人々を買って自由を与えても、最終的にその同胞を自分の奴隷にしてしまうのなら、それはイスラエル人にとって道理にかなっているのでしょうか。

指導者たちは、この主張が道理にかなっていると思うので何の返事もしません。それゆえ、ネヘミヤは続けます。彼は指導者たちに、「(あなたたちは)敵である異邦人に辱められないために、神を畏れて生きるはずではないのか」(ネヘ5:9)と尋ねます。それから、彼自身が人々にお金や穀物を貸してきたことを認めるのです。ネヘミヤは、「わたしたちはその負債を帳消しにする」(同5:10)と宣言することで、同胞のヘブライ人を相手にこの慣例を行うことを禁じた律法を支持し、長官である彼の指導のもとで互いを気遣ってほしいという気持ちを人々にはっきり示したのです。驚くべきことに、返事は全員一致でした。指導者たちはすべてを人々に返すことに同意したのです。

誓い

問4

ネヘミヤ5:12、13を読んでください。ネヘミヤはなぜ、同意したことを守らない人たちに呪いの言葉を発したのですか。

指導者たちは、差し押さえた物を持ち主に返すことに同意しますが、ネヘミヤは単なる言葉には満足しません。彼は確実な証拠を必要とします。それゆえ、祭司たちの前で彼らに誓わせるのです。この行為は、万一ネヘミヤが同意したことに後日言及する場合、訴訟手続きに法的正当性を与えました。

しかし、彼はなぜ呪いの言葉を発したのでしょうか。ネヘミヤは、あたかも何かをつかみ取るかのように自分の上着をたくし上げ、次に何かを失うしるしであるかのように上着を振り払うという象徴的な行為をします。このように、誓いを破る人はすべてを失うのです。呪いの言葉を口にするというのは、ある律法や規則の重要性を人々に印象づけるための決まり事でした。呪いの言葉が律法を破ることと結び付けられたとき、人々はそれを犯しにくくなります。どうやらネヘミヤは、成功の可能性を高めるために何か思い切ったことをする必要があるほどに、これが重要な問題であると感じたようです。

問5

旧約聖書の次の聖句(民30:3〔口語訳2〕、申23:22~24〔口語訳21~23〕、コヘ5:3、4〔口語訳4、5〕、レビ19:12、創26:31)は、この人たちにとっての誓いの神聖さについて、どのようなことを教えていますか。

結局のところ、話をする能力というのは、神が人間に与えてくださった強力な賜物です。それは、動物が持っている能力とは根本的に異なるものとして存在します。そして、私たちの言葉には力があります。それは生死にさえ関わる力です。それゆえに私たちは、自分が何を言うか、何をすると約束するか、どのような口約束をするかということに極めて慎重でなければなりません。また、私たちの行動が言葉と一致していることも重要です。言葉はクリスチャン的なのに、行動は程遠い人たちによって、どれほど多くの人がキリスト教にうんざりさせられてきたことでしょうか。

ネヘミヤの模範

問6

ネヘミヤ5:14~19を読んでください。「長官の手当」(ネヘ5:18)を人々に要求しないことについて、ネヘミヤはどのような理由を述べていますか。

これらの聖句における報告をネヘミヤが書いたのは、ユダの地の長官としての12年間のあと、アルタクセルクセス王の宮殿に戻ってからの可能性が高いようです。長官は臣民から収入を得る権利がありましたが、ネヘミヤはこの権利を主張せず、むしろ自分の生活費も工面したのです。彼は自分の出費を支払うだけでなく、家族とともにすべての臣下をも養いました。ネヘミヤ以外に私たちが名前を知っている長官は、初代長官ゼルバベルだけです。ネヘミヤが「以前の総督ら」(5:15、口語訳)と言うとき、十中八九、彼は自分とゼルバベルの間の長官たちを指しているようです。結果的に、ネヘミヤは任期を終える頃までにお金を失った可能性が大きいでしょう。人が誉れ高い地位から期待するように、彼は富を得るどころか、たぶん財産と所有物を失ったのです。ネヘミヤは裕福であったがゆえに日々の食事を多くの人に提供できましたが、彼はまた、多くのものをほかの人に提供するほど気前がよかったのです(ネヘ5:17、18)。

これは、アブラハムが周辺の民によって囚われた人たちを救ったあとにしたことと同じではありませんが(創14章参照)、それにもかかわらず、ネヘミヤがここでしていることは、同様の重要な原則を明らかにしています。

問7

ネヘミヤ5:19を読んでください。彼はここで何と言っていますか。福音の観点から、私たちはこれをいかに理解したらよいのでしょうか。

私たちがネヘミヤに見るのは、主と主の働きを自分の個人的利益よりも優先する人の模範です。私たちの個々の状況にかかわらず、これは良い教訓です。多くの犠牲を払わずに主のために働くことは、たやすいからです。

さらなる研究

参考資料として、『国と指導者』第54章「搾取に対する譴責」を読んでください。

「ネヘミヤはこの残酷な圧迫のことを聞いた時に、彼の心は憤りに満たされた。『わたしは彼らの叫びと、これらの言葉を聞いて大いに怒った』と彼は言っている(同5:6)。ネヘミヤは圧迫的搾取の習慣を打破しようとするならば、正義のために決定的立場を取らなければならないことを認めた。彼はその独特の精力と決意をもって、兄弟たちの救出に乗り出した」(『希望への光』626ページ、『国と指導者』下巻249ページ)。

「イエスはさらに進んで、誓いを立てることが不必要になる原理を規定なさった。イエスは、真実そのものが話の法則となるべきことをお教えになった。『あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである』(マタイ5:37)。

この言葉は、冒とくに近い無意味な言葉や、ののしりの言葉をすべて非難している。また、一般社会や実業界の常である心にもないお世辞や、真実の回避や、へつらいの言葉や、誇張や、商売上のうそなどを非難している。この言葉はまた、自分を実際以上に見せかけようとしたり、本心を伝えない言葉を口にしたりする者は、誠実とは言えないことを教えている」(『希望への光』1151ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2019年4期『エズラ記とネヘミヤ記─忠実な指導者を通して神がなしうること』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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