【エズラ記とネヘミヤ記】律法の言葉を読む【解説】#6

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エルサレムの城壁は完成しました。城門を取り付けたことで、イスラエルの人々は、ネヘミヤの指導のもとでこの主要な仕事を終えたのでした。城壁が完成したとき、周辺諸国の民は畏怖し、これは「神の助けによって……なされたのだ」(ネヘ6:16)と認めました。敵は、イスラエルの神が実在されることを悟りました。なぜなら、イスラエルの人々が信じがたいほどの反対と憎悪を味わったにもかかわらず、着手した仕事をやり遂げたからです。

城壁が完成したあと、ネヘミヤはエルサレムの長官(彼の兄弟ハナニ)と要塞の長(ハナンヤ)を任命しました。この2人は、家系によってではなく、誠実さ、信頼性、神に対する畏敬の念によって選ばれました(ネヘ7:2)。城壁はエルルの月(ユダヤ歴の第六の月、同6:15)に完成しました。

次になすべき仕事は何だったでしょうか。ネヘミヤ記のこのあとの章(8~10章)は、ティシュレの月(第七の月)に行われた一連の重要な出来事を記しています。私たちはこの箇所の中に、イエスラエルの子らが神の言葉に従おうといかに決心したのか、彼らがいかにそれを喜んだのかという実例を目にすることができます。

人々が集まる

問1

ネヘミヤ8:1、2を読んでください。私たちはこのことから、民にとって神の言葉がいかに重要であったかということについて、何を学ぶべきですか。

ユダの人々が最終的に城壁の建設を終え、エルサレムの中へ引っ越すと、彼らはみな、第七の月にエルサレムの町の広場に集まりました。第七の月、つまりティシュレの月は、イスラエルの人々にとってたぶん最も重要な月でした。なぜならその月は、ラッパの祭り(月の1日目。神の裁きに備える日)、贖罪日(月の10日目。裁きの日)、仮庵祭(月の15日目。神によってエジプトから救出され、荒れ野を旅する間ずっと食物が与えられたことを思い出す日)などにささげられていたからです。集会は月の1日目に、つまりラッパの祭りを祝う日に行われました。指導者たちはこの特別な集会に同胞の男女を呼び集めました。律法を朗読することで、彼らの神と歴史について学ぶ機会を与えるためです。

人々は、彼らの前に律法の書を持って来てそれを読むように、とエズラを招きました。彼らはこの時のために、木の壇さえ造ったのです。それは、指導者たちが会衆に強制したものではありませんでした。それどころか、「彼ら」、つまり人々がエズラに、律法の書を持ってくるよう求めたのです。たぶんエズラが人々に読んだのは、モーセの五書からだったでしょう。そこにはシナイ山でモーセに与えられた律法が含まれていました。

問2

申命記31:9~13を読んでください。神は人々にそこで何と言われましたか神の言葉から、私たちはどのような教訓を得ることができますか。

申命記31:9~13において、モーセはイスラエルの人々に、仮庵祭のときに集まって神の律法を一緒に読まねばならない、と言いました。男、女、子ども、町の中に寄留する人たちなど、さまざまなグループが集まるようにと言っています。

律法を読み、聞く

エズラは、読むために会衆の前に「律法の書を持って来」ました。エズラは彼らに何を読んだのでしょうか。半日の間、十戒だけを何回も繰り返し読んだのでしょうか。律法の書という表現は、ヘブライ語の「トーラー」として知られる「モーセ五書」、つまり創世記から申命記までと理解されるべきです。それゆえ、「律法」という言葉は、朗読の中に含まれていたものの一部にすぎません。それは「教え」と訳されたほうがよいかもしれません。それらは、私たちが目標を見失わないように歩むべき道を知ることのできる神の教えなのです。エズラが読んだとき、人々は神の民としての自分たちの歴史について聞きました。それは天地創造に始まり、ヨシュアの時代に至る歴史でした。物語、歌、詩、祝福、律法を通して、彼らは神に従うために苦労したこと、彼らに対する神の忠実さを思い出しました。「トーラー」には「律法」が含まれていますが、「トーラー」は「律法」以上のものです。それは神の民の歴史を包含しており、とりわけ神の導きを明らかにしています。従って「トーラー」は、帰属意識やアイデンティティー(自己認識)を共同体に与えました。

問3

ネヘミヤ8:3、申命記4:1、6:3、4、ヨシュア記1:9、詩編1:2、箴言19:20、エゼキエル37:4、マタイ17:5を読んでください。これらの聖句は、神の言葉といかに関わるかということについて、何を教えていますか。

人々が神の言葉を聞きたいと強く願ったのは、おそらくエズラが13年ほど前にエルサレムに到着して以来、御言葉を朗読し、教えてきた結果だったのでしょう。彼は神の働きに献身し、変化をもたらそうと心に決めていました。神の言葉は、人々がそれをエズラから聞き続けるにつれ、彼らにとって現実的なものになったのです。結果として、彼らは聞こうという意識的な決定を下しました。神から聞くことに興味があったからです。それゆえ彼らは、この機会に、敬意と、学びたいという強い願いを持って「トーラー」に近づきました。

御言葉に没頭することは、私たちの生活の中で神をより深く求める気持ちを生み出します。

御言葉を読み、説明する

問4

ネヘミヤ8:4~8を読んでください。律法の朗読は、どのように行われましたか。

朗読する間、13人ずつの男たちから成る二つのグループがエズラと一緒に立っていました。最初の13人のグループ(ネヘ8:4)は神の言葉の朗読の手助けをし、第二の13人のグループ(同8:7)は、朗読した箇所の理解の手助けをしました。このような手配りが広場においてどう機能したのかについては、情報がありません。しかし、朗読を手助けした人たちは、(ヘブライ語の巻物は重く、朗読者以外の人が広げる必要があったので)たぶん「トーラー」を持つとともに、交代しながら連続して読んだのでしょう。彼らは朝から真昼まで朗読していたので、広場のすべての人に伝える方法を考え出したのです。

「彼らは……めいりょうに読み、その意味を解き明かしてその読むところを悟らせた」(ネヘ8:8、口語訳)という言葉は、その箇所を通訳したとも、翻訳したともとれます。この場合は、いずれもありえそうです。人々は長年住み続けたバビロンから帰還したのであり、そこでの第一言語はアラム語でした。それゆえ、ヘブライ語の朗読を聞くことは、多くの人にとって、とりわけ若い世代にとって理解しにくかったかもしれません。その一方で、聖書の朗読者たちは、説明や注釈によって恩恵を受けることができます。説くことと説明は、聖句に息吹を吹き込み、その情報を個人的に生かすよう、聞き手に迫りました。

問5

使徒言行録8:26~38を読んでください。先の聖句においてエルサレムで起きていたことと似ているどのようなことが、ここで起きましたか。私たちにとって、ここでの教訓は何ですか。

プロテスタントである私たちは、信者それぞれが自ら神の言葉を知らなければならないし、また聖書の真理に関するいかなる人の言葉も、彼らの権威にかかわらず、うのみにしてはならないと理解しています。その一方で、聖句の意味をだれかに説明してもらったことで、祝福された経験のない人がいるでしょうか。私たちは各自、自分の信じることを自ら知る必要がありますが、それは、折に触れて、私たちがほかの人の教えによって啓発されることはないという意味ではありません。

民の応答

エズラが神の言葉、つまりヘブライ語の「トーラー」を開くと、民は立ち上がりました。エズラは読み始める前に、神をほめたたえますが、読んだあと、人々は両手を天に挙げながら、「アーメン、アーメン」(ネヘ8:5、6)と唱和して応答しました。次に彼らは頭を垂れ、顔を地に伏せて礼拝しました。

問6

ネヘミヤ8:9~12を読んでください。指導者たちはなぜ、「嘆いたり、泣いたりしてはならない」と民に言ったのですか。

「後年、エルサレムにおいて、バビロンから帰ってきた捕虜に向かって神の律法が読み聞かされ、人々が自分の罪に泣いた時、やはり恵み深い言葉が語られた。

『「嘆いたり、泣いたりしてはならない」……「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分けて与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」』(ネヘミヤ八ノ九、一〇)」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング新装版』84ページ)。

神の言葉を聞いていたとき、民は自分の罪深さを痛感し、泣きだしたのです。神が私たちに御自分を示し、神が愛、善意、憐れみ、忠実さにあふれておられることを私たちが理解し始めると、私たちの不十分さや、なるべき姿になっていないことが前面にあらわれます。御言葉を通して神の聖さを見ることで、新しい光の中、私たちの悲惨さを目にすることになるのです。このような自覚のためにイスラエルの人々は嘆き、泣いたのですが、彼らは悲しむべきではありませんでした。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘ8:10)からです。言い換えれば、彼らは自分の落ち度にもかかわらず、神の力を信じることができたのです。

それは特別な日、聖なる日、ラッパの祭り(ローシュ・ハシャナー)の日でもありました。その日、短く吹き鳴らされる角笛の音が、主の裁き(贖いの日、ティシュレの月の10日目の祝い)に「心」を備えることの大切さを伝えました。角笛を吹き鳴らすことは、神の前に立って悔い改めよ、という呼びかけの合図でした。その日は、神に立ち帰ることを人々に思い出させるために制定されたので、嘆くことや泣くことは理解できました。しかし指導者たちは、ひとたび悔い改め、神がそれを聞き入れてくださったのだから、今は神の赦しを喜ぶべき時であることを人々に思い出させたのです。

主を喜び祝うこと

「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘ8:10)という言葉は、私たちが人生を喜び、楽しむことは神の御旨にかなっていることを思い出させる役割を果たします。とりわけ、それはただの喜びではなく、私たちが神と神の愛の現実を知っているがゆえの喜びです。神と神の憐れみを喜ぶこと、神が私たちに与えてくださったすべてのもののゆえに喜ぶことは、努力して日々行うべきことです。さらに、神を喜ぶことは、毎日に立ち向かう力、身に降りかかることに対処する力を私たちにもたらします。

問7

ネヘミヤ8:13~18を読んでください。どのようなことがここで起きましたか。それは、この時点での民や指導者たちについて、何を物語っていますか。

翌日、民の指導者たちは、神の書からもっと学ぶためにエズラのもとへ行きます。指導者たちによって発揮された自発性は、彼らが共同体を神へ導きたいと願っていることを示していました。彼らは、自ら神を求め、神からの知識を求めなければ、人々を正しい道に導けないことを理解していたのです。

問8

レビ記23:39~43を読んでください。イスラエルの人々は何をするように命じられていましたか。それはなぜですか。

ネヘミヤ8:15において、彼らがしていたことは「書き記されている」とおりであった、と述べられている点に注目してください。私たちはここでも、彼らが神の言葉に従いたいといかに真剣に願っていたかという、もう一つの実例を見ます。理想的に考えれば、彼らは何十年もの捕囚生活を経て、不服従に関する教訓を学んでいたからです。また、レビ記の聖句において、彼らはこの祭りを行い、「あなたたちの神、主の御前に七日の間、喜び祝(わ)」(レビ23:40)わねばなりませんでした。言い換えれば、神の憐れみと恵みと救いの行為を思い出すとき、人々は、神が彼らのために成し遂げてくださったことを喜ぶべきだったのです。

さらなる研究

参考資料として、『国と指導者』第56章「律法の公布」を読んでください。

「今彼らは、神の約束に対する信仰を表さなければならなかった。神は彼らの悔い改めを受け入れられた。今彼らは、罪の赦しの確証が与えられ、神の恵みに回復されたことを喜ばなければならなかった。……

真に主に立ち返るごとに、生活には永続的喜びが与えられる。罪人が聖霊の感化力に服従するときに、彼は、心を読まれる偉大な主の神聖さと比較して、自分自身の罪と汚れを見るのである。彼は自分が罪に定められているのを見る。しかし彼は、そうだからといって絶望はしない。なぜならば、彼の赦しはすでに確保されたのである。彼は罪が赦されたことを感じ、罪を赦して下さる天の父の愛を喜ぶことができる。悔い改めた罪深い人間を、愛の腕にいだいてその傷を包み、罪から彼らを清め、救いの衣を彼らに着せることは、神の栄光なのである」(『希望への光』633ページ、『国と指導者』下巻267、268ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2019年4期『エズラ記とネヘミヤ記─忠実な指導者を通して神がなしうること』からの抜粋です。

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