【エズラ記とネヘミヤ記】私たちの赦しの神【解説】#7

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仮庵の祭り(スコット)が終わったあと、指導者たちは再び民を集めました。彼らは祝いのために時間を過ごしたばかりでしたが、今度は、神の前で自分たちの罪を告白し、悔い改めるという、やり残したことのために戻って来たのです。

確かに、先日、指導者たちは民に、自分の落ち度について嘆いたり、悲しんだりしてはならないと言いましたが、それは、嘆いたり、告白したりすることが大切ではないという意味ではありません。それゆえ、祭りを祝った今は、適切に告白をする番でした。

ここでの出来事の順序は、必ずしも、喜ぶことと告白が常にこの順序でなされることを意味しているのではありませんし、必ず逆の順序でなされねばならないという意味でもありません。普通なら私たちはまず告白し、それから祝うかもしれませんが、おそらく私たちの生活の中で神を祝うことを第一にすべきなのでしょう。何しろローマ2:4が、私たちを悔い改めに導くのは「神の憐れみ」である、と述べているからです。私たちは、「神の憐れみ」のゆえに神を称賛し、祝宴を催すべきですが、その一方で、自分が赦され、清められ、再創造されるために神を必要としていることも思い出すべきです。

断食と礼拝

問1

ネヘミヤ9:1~3を読んでください。人々はなぜ、異民族との関係を断ったのですか。

ネヘミヤは、人々がこの機会を喜びの時にするよう強く願っていましたが、彼は今、その会衆を断食へと導いたのです。彼らは神の前に謙遜になり、粗布をまとう一方、土をその身に振りかけました。異民族の人たちはイスラエルの人々の集団的罪を共有していなかったので、イスラエルの人々は彼らとの関係を一切断ちました。赦されるべき罪は自分たちの罪であると知っていたからです。彼らは国民としての罪を認めました。その罪が彼らを捕囚に追い込んだのでした。

イスラエルの人々の集団的祈りと告白は、彼らが罪の性質を深く理解していることを示していました。イスラエルの人々は、自分たちの祖先が失敗を犯し、国民全体を捕囚へ追い込んだのだ、と怒ることもできました。あるいは、彼らの指導者の選択や、先の世代が見せた信心深さのなさに愚痴をこぼしながら時間を過ごすこともできました。そのことが、(ほんの一握りの帰還者しかいないという)現状をもたらしたからです。しかし彼らは、憎しみや不満を心に抱く代わりに、謙遜になり、告白し、神に頼りました。

ネヘミヤ9:3は、人々がその日の四分の一の時間をかけて律法の書を朗読し、ほかの四分の一の時間で罪を告白し、神を礼拝した、と記録しています。「トーラー」を読むのは、これが三度目です。「トーラー」を読むことは告白の中心であり、告白は真実に基づいていなければならず、神からもたらされるものです。私たちが聖書を読むことを通して、神は私たちに近づき、聖霊は私たちに話しかけ、教えてくださいます。御言葉の真理が私たちの考えや理解を形作り、私たちを勇気づけ、高めるのです。またイスラエルの人々は悲しみ、涙を流しました。なぜなら、神の聖なる御臨在の中で時間を過ごすことは、神のすばらしさ、憐れみを彼らに認識させ、(私たちが値しないにもかかわらず)宇宙の創造主が私たちとともにいることを選択してくださることがいかにすごいことであるかを私たちに印象づけるからです。それゆえ、生活の中に神がおいでにならなければ、私たちは信仰の先祖たちと何ら変わらないことに気づきます。神が私たちのうちで働いてくださることによってのみ、私たちは本来の自分でありうるのです。

祈りの最初の部分

聖書の朗読に対する人々の応答は、イスラエルの不忠実な歴史とは対照的な神の憐れみを詳しく述べた長い祈りでした。その応答は祈りよりもむしろ説教に近い、と言う人もいるかもしれません。なぜなら、ほぼすべての節が聖書のどこかと似ているからです。

問2

ネヘミヤ9:4~8を読んでください。これら最初の数節において、この祈りが焦点を合わせている主題は何ですか。それはなぜですか。

人々は祈りの最初の部分で、神と、特に神の御名を賛美しています。ヘブライ人の文化において、名前というのは、単にだれかを呼ぶものではなく、その人に自己認識を与えるものでした。従って、神の御名をほめたたえることは重要です。なぜならそれは、神の御名が賛美し、ほめたたえるに値することをこの世にはっきり示す行為だからです。これは宇宙の創造主の名前なのです。この祈りは、創造主として、またすべてのものを「支え(る)」お方として(ネヘ9:6、さらにコロ1:16、17も参照)神を礼拝することで始まっています。

すべてを創造されたお方は、「忠実な心」のほかにまったく特別なところのなかったアブラハムという1人の人間を選ばれたお方です。アブラハムはたびたび信仰を欠いたと思えるかもしれませんが、息子をあきらめるように求められたとき、彼はためらいませんでした(創22章参照)。彼は忠実であることを、一夜にして身につけたのではなく、長い道のりを神とともに歩むことで身につけたのです。ヘブライ人の思考において、「心」は「意識(考え方)」を指します。言い換えれば、アブラハムは思考と行動において忠実さを深めたのであり、それによって神に認められたのでした。

祈りの最初の数節は、①創造主、②支え主、③約束の守り主としての神に焦点を合わせています。人々はまず、神がどのようなお方であるかを思い出します。神は私たちを創造し、支え、常に約束を守ってくださる忠実なお方です。その事実を覚えていることは、私たちの人生を正しく捉え、最も困難な状況においても、すなわち神が私たちから遠く離れており、私たちの問題に無関心であられるように思える状況においても神を信頼することを学ぶ助けとなります。

過去からの教訓

問3

ネヘミヤ9:9~22を読んでください。祈りのこの部分は、最初の部分とどのように異なりますか。

祈りは、忠実さのゆえに神をほめたたえることから、エジプトと荒れ野の経験におけるイスラエルの人々の対照的な不忠実さを詳しく述べることへ移行します。それは、神がイスラエルの人々にお与えになったさまざまなもののあらましを述べていますが、残念ながら、それらの賜物に対する「先祖」の態度は、傲慢で、かたくなで、神の恵み深い行為を無視するものでした。

神に対する真の献身が人間に欠けていると自覚することは、告白と悔い改めへの重要な一歩です。聖句でははるか昔の人たちについて語っていますが、私たちの中のだれ1人として、これらと同じ問題を抱えていることを否定できません。

言うまでもなく、ここにおいて、私たちのための福音であり、また彼らのための福音がもたらされます。私たちは自分の罪を告白することで救われるのではありません。私たちに代わってキリストが払ってくださった犠牲によってのみ、私たちは救われるのです。悔い改めを伴う告白は、私たちがキリストによってのみ義とされねばならないことを認めることの中心を成しています。「悔い改めと信仰を通して私たちがキリストを救い主として受け入れるとき、主は私たちの罪を赦し、律法違反に対して規定された罰を免じてくださる。その結果、罪人は神の前に正しい人として立ち、天の支持を受け、“霊”を通して父や御子と交わるのである」(『セレクテッド・メッセージ』第3巻191ページ、英文)。

それに加えて、神の憐れみが私たちに罪の告白と悔い改めを促すので、私たちは神の力によってその罪を捨てる決心もしなければなりません。肝心なのは、イスラエルがかたくなであったにもかかわらず、神は愛情深かったという点です。イスラエルの民のために神がされたことを振り返ることで、人々は、神が彼らを現時点においても、将来においても、世話し続けてくださることを思い出しました。なぜなら、神が過去において彼らのためにあれこれしてくださったからです。だからこそ、神が人々の歴史においてどのように行動されたのかを思い出すことは、とても重要でした。彼らは、それを忘れたときに面倒を起こしたのです。

律法と預言者

問4

ネヘミヤ9:23~31を読んでください。イスラエルの人々は、神の「大きな恵み」(ネヘ9:25)とは対照的に、どのように描かれていますか。

祈りと説教の次の部分は、イスラエルの人々が神から与えられた土地を所有したときのカナンにおける生活に焦点を合わせています。彼らは、すぐに使える土地、町、ぶどう畑、田畑を手に入れましたが、それらすべてを当然のものとみなしました。25節の終わりに、「彼らは食べて飽き、太り」と書かれています。太るという表現は、聖書の中で数回しか見られないもので(申32:15、エレ5:28)、いずれの場合も否定的な意味合いを持っています。

人々は「大きな恵みを受け、満足して暮らした」かもしれませんが、彼らは神に満足していたのではなく、むしろ彼らが得たものに満足していました。どうやらあらゆるものを持つと、人は神に寄り添って歩かなくなるようです。私たちはしょっちゅう、「これやあれが手に入りさえすれば、私は幸せになれるのに」と考えます。残念なことに、イスラエルの人々は神からあらゆるものを得ましたが、それらゆえの「幸福」は、彼らを神に献身させなくさせただけでした。あまりにもしばしば、私たちは与え主を忘れ、あまりにもたやすく、賜物に焦点を合わせてしまいます。これは致命的な惑わしです。

これは、神が私たちに与えてくださるものを喜ぶことはできないという意味ではありません。神は、私たちが神からの賜物を喜ぶことを望んでいますが、神から与えられるものに対するこの喜びは、神との関係を保証しません。それどころか、私たちが注意しなければ、これらのものはつまずきの石になります。

それにもかかわらず、この章において、指導者たちは、彼らが神に不忠実であったあり方を告白しました。彼らは自分たちの歴史を顧みて、民として犯した罪を具体的に挙げました。いくつかの側面が特に重要なものとして浮かび上がっています。なぜなら、それらの側面は繰り返されているからです──①イスラエルが神の律法を捨てたことと、②彼らが預言者を迫害したことです。

言い換えれば、彼らは、神の律法と神の預言者が、信心深い民、信心深い個人として成長するために不可欠であったことを自覚していたのです。祈りは、「これら〔掟と律法〕を行う人はそれによって命を得る」(レビ18:5、ネヘ9:29はこれに基づく)と述べることと、預言者を通して語られたのは“霊”であることを際立たせることによって、結論を強調しています。神は私たちに、豊かな人生を送るために掟を与え、神の真理を理解するうえで私たちを導くために預言者を遣わされました。これらの賜物を用いて何をするかが、私たち全員にとっての根本的な問題です。

賛美と嘆願

問5

ネヘミヤ9:32~37を読んでください。告白の祈りの結論は、何に焦点を合わせていますか。

祈りの内容は、神を称賛することへ再び変わります。神が偉大で、力強く、畏れ多く、忠実に契約を守られるお方であることへの称賛です。人々は、彼らに対する神の憐れみを本心から認めているようです。

彼らはまた、神と契約を結ぶという形で嘆願しています。その詳細は10章に記されています。彼らの嘆願は、どのようなものでしょうか。

「今この時/わたしたちの神よ/偉大にして力強く畏るべき神よ/忠実に契約を守られる神よ/……あなたの民の皆が被ったその苦難のすべてを/取るに足らないことと見なさないでください」(ネヘ9:32)。

共同体は、彼らを支配する王に貢物を納めなければなりません。周囲からの抑圧は、イスラエルという小さな群れを苦しめており、彼らはそれにうんざりしています。次から次へと圧政に耐えなければならず、一時的救済を願っていたのです。

興味深いことに、彼らは自分たちのことを「奴隷」と呼んでいます。背いた民としての自分たちの認識を概説したあと、彼らは自分たちをその言葉で呼んで祈りを終えているのです。言うまでもなく、奴隷は彼らを支配する人に服従しなければなりません。従って、この言葉を用いるということは、先祖とは異なる形で主に服従する必要を彼らが自覚していることを意味します。これは、主と主の戒めに忠実でありたいという彼らの強い願いのあらわれです。そして、彼らは神の奴隷として、自分たちのために介入してください、と神に求めているのです。

エズラとネヘミヤの共同体は、現在の体験を「大いなる苦境の中にある」(ネヘ9:37)と表現しています。それは、イスラエルの人々がエジプトで味わった苦痛に匹敵するものです(同9:9)。彼らの祈りは、エジプトにおける彼らの苦痛を見て、見過ごされなかった神を賛美しています。そして共同体は今、過去において神がなさったように、介入してください、と求めているのです。ただし、王も高官も祭司も預言者も先祖もだれ1人として忠実ではなかったので、彼らはそれに値しませんでした。それゆえ、主が彼らのために介入してくださることを期待しつつ、自分自身や先祖の業に頼るのではなく、神の恵みと憐れみにのみ頼っていました。

さらなる研究

参考資料として、『キリストへの道』の「告白」の章を読んでください。

ヘブライ人たちはネヘミヤ9:25において、彼らの祖先が神の大きな恵みを受け、いかに楽しんだか(口語訳「楽しみました」)について語っています。この「楽しみました」に相当するヘブライ語の動詞の語根は、「エデンの園」(創2:15)のエデンと同じです。ですから、おそらく最もふさわしい翻訳は、「エデンにいるように暮らした」といったところでしょう。

結局のところ、福音とは回復であり、私たちが最終的に回復されるべき姿をあらわすのに、エデンよりふさわしい象徴があるでしょうか。神はヘブライ民族を興し、彼らを古代世界の中心地に連れて行かれました。それは、堕落した世界に存在しうるエデンに最も近い似姿を再現するためでした。捕囚と帰還のあとでも、その可能性はまだ残っていました。「主はシオンを慰め/そのすべての廃虚を慰め/荒れ野をエデンの園とし/荒れ地を主の園とされる」(イザ51:3)のです。

確かに、人々は、神が約束しておられた物質的な祝福を楽しみました。その祝福は、堕落した世界の中で可能な範囲において、エデンの豊かさを思い出させるものでした。そして、それはすばらしいものでした。彼らはもともとその祝福を楽しむことになっていたのです。神は、まさに人間が楽しめるようにこの物質界を創造してくださり、(神に祝福された)古代イスラエルもそれを楽しみました。彼らの罪は、神の大きな恵みを受けて楽しんだことの中にではなく、彼らが楽しんでいた恵みの与え主を忘れたこと(エゼ23:35)の中にあったのです。祝福が、周囲の人々に神を明らかにするという目的のための手段ではなく、目的そのものになってしまったのでした。

*本記事は、安息日学校ガイド2019年4期『エズラ記とネヘミヤ記─忠実な指導者を通して神がなしうること』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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