イザヤ書における神と救い【イザヤ書解説ー悲しみの人#2】

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第五章 エッサイの芽

イザヤ八章は死人に助言を求めようとしている者たちへの陰鬱なのろいの言葉で終わっています。しかし、九章ではアッシリアの侵攻の矢面に立つ者たちに対してさえ望みがあるとしています。預言者イザヤは先に、北王国の運命を予告しておりました。しかも今や神御自身がその託宣を通し、苦しめる者たちに、もはや暗い影を落とすことのないような時が来ると宣言されるのです。彼らは「辱め」を受けますが、神は後には、「海沿いの道、ヨルダン川のかなた 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」ようになさるのです(八ノ二三)。イスラエル王国の人々は裁きを受け、しかしそこから回復へと進ませられるのです。

ガリラヤを含むゼブルンとナフタリの部族の地は紀元前七三三年のアッシリア侵攻によって苦しみをこうむります。この出来事は恐らく、池のほとりでイザヤがアハズ王に会ってからほんの数ヵ月後でありました。アッシリアの軍勢はエフライムの丘陵地帯を除く北王国のすべてを占領しました。ティグラト・ピレセル三世による三度にわたるその年の侵攻の結果、異邦人のガリラヤはメギドの行政区に、海沿いの道はドルの行政区に、そしてヨルダン川の彼方の地はギリアデの行政区に組み入れられることになったのです。

現時点でのこのような不遇な状況にもかかわらず、いつかそのうち、これら三つの地域は「栄光を受ける」(二三節)時が来るのだと神は約束されたのです。イスラエルの中で最初に陥落した地が、また最初に栄光を見ることとなるのです。しかも、特にガリラヤは最大の栄誉を受けることとなるのです。旧約聖書の中では、イザヤだけが異邦人のガリラヤとその地を呼称しておりますが、それは恐らく、その地には取りわけ異邦人が多数居住していたからでしょう。まもなく救い主でもあり驚くべき指導者でもあるお方の住まいとなるのであります。キリストの時代とその後の数世紀にわたる期間、ガリラヤ地方は、ユダヤ人及びユダヤ人クリスチャンたちのパレスチナでの主要な居住区となるのです。1

イスラエル人たちは、最も暗い所を歩まねばならない自分たちを発見するでありましょう。しかし同時に彼らは偉大な御光りを見るのです。彼らはあたかも収穫時のように、あるいは戦利品を分配する時のように喜び祝うようになるのです。古代世界では食糧はいつも不足の状態でしたが、しかし収穫の時には他のどんな時期よりもより多くの食べ物をもつことになります。すべての古代文化には、ほんの束の間の豊かさと、更に翌年の豊作とを願って祝う収穫の祭りがあります。食糧品と物質とは常に欠乏の状況にありました。戦争へと人々を駆り立てる動機づけの一つは、戦争によって金銀その他衣類など、またあったとしても購入できないような諸々のものを獲得しようとしたところにあります。ここで預言者は、決して戦争を容認し大目に見ているわけではありません。そうではなく、ただ神がイスラエルをあがない始められる時に、その民が感じるであろう喜びの具体例として戦利品を分配し合う折の興奮した感じを用いてみたのです。

イスラエルがこうむる圧制は、ちょうどエズレルの谷でギデオンがミデアン人の軍勢を打ち破って北王国を解放した時のようにして粉砕されるのです(士師記六、七章を参照)。ミデアン人を敗北させたその出来事は、それより五百年も前に起こったことであったとはいえ、圧倒的に優勢な敵に直面していても、神はそこからどのようにして救出され得るのかの歴史上最も顕著な実例としてイスラエルの民はこの出来事をよく記憶していたのです。

「驚くべき指導者」

今や、預言者イザヤは全聖書の中で恐らく最も顕著な預言を提示いたします。

「ひとりのみどり子がわたしたちのために生まれた。

ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。

権威が彼の肩にある。

その名は、『驚くべき指導者、力ある神

永遠の父、平和の君』と唱えられる」(九ノ五)。

恐らく預言者は、一連の名前を挙げているのではなく、これらの特性を備えた一人の人物を指し示しているのです。古代近東では人々の名はしばしば文章や句からなっていて、それはそのような人になるとの信仰あるいは期待を示したのです。2

「驚くべき指導者」とは、神がこの王を導かれるということを示しています。この王は、人間界の指導者や、時としては異教の神々でさえも登用したような、他からの助言者を必要としないのです。士師記一三章一八節で見られるように、「不思議」とは、「超自然的」という意味を内包しております。イザヤ二八章二九節では、「その計りごとは驚くべく、その知恵はすぐれている」(口語訳)として主を描写しております。「平和の君」とは士師記六章二四節の「平和の主」を思い起こさせます。

神の民が絶え間ない戦争で苦しんでいた時、この「平和の君」という呼称は特別に意義深い響きを持っていました。しかし、そこにはより深い概念が宿されています。なぜなら、「イスラエル人にとって平和とは、単に戦争がないとかあるいは他の手段により、継続している戦いが抑制されている状況というのではなく、人間も動植物もすべてのものが、それぞれに定められている摂理に、平穏に従っている状況を指して用いられている言葉です。それゆえ、平和とは、ただ総ての被造物が、神を認識し、それに従って生きかつ行動しているときにのみ存在するものなのです」。3

その子の名は、神の御性質と御力とを確証づけております。それは、来るべきもろもろの事柄についての一つの約束です。再度、イザヤの言葉はこの世の境界線を打ち破って超自然の世界へと誘ってます。神の民も異邦人も両方ともこの預言の意味を理解することになるでしょう。古代のエジプト人やメソポタミア人たちは、時として、驚嘆すべき変革をもたらす王について「予言」をしました。紀元前千百年頃のマルドク予言と呼ばれているバビロンの文書の一つは、神殿を建て直し社会変革をする一人の指導者について語っております。彼は繁栄と安定とをもたらします。その王はあまりにも神々に喜悦をもたらす者となるため、神々は永遠に天の門を開くこととなり、彼の支配を通し平和と正義とが流れ出ることとなるというのです。恐らく、このマルドク予言は一人のバビロン人の支配者によってその支配が始まった時、自分の支配権を合法化するための宣伝のようなものであったと考えられます。しかし、それに対しイザヤの預言は、未来に、そして地上のどんな王よりも遥かに抜きん出て偉大なある人へと目を向けさせております。

アッシリアのアシュルバニパル王の治世の時代の一つの託宣には、飢えている者は食べさせられ、裸な者たちは着せられ、捕われ人たちは解放されるというくだりがあります。そして、アッシリアの諸文書には自分の民に正義をもたらすバルテの町の若枝あるいは子孫であるとして、ティグラト・ピレセル王を描いている文書さえあります。

約束の王の権威は継続的に増大して行きます。4そしてこの王が樹立する平和は終わりなきものとなるでありましょう。新しいダビデの王権は「正義と恵みの業」によって君臨するのです(九ノ六)。ここのくだりは、「万軍の主の熱誠がこれを成し遂げるのだという熱烈な祈りで終わる。古くからの勝利者としての神の御名を用いたこの祈願は、イスラエルをして紅海を渡らせ、エリコの城壁を崩壊させ、ギデオンの前にミデアンの軍隊を壊滅させるような不可思議な干渉を可能にしたのは、まさに、この万軍の主の熱誠だけであったことを認識させている」。5

イスラエルへの審判

イザヤは今やもう一度警告と審判という方向に振り子を戻します。預言者は神がどのようにして北王国に向け警告を送ったのかを語ります。しかし、悔い改めるどころか意図的に神の警告を拒絶し、それに対しむしろ脅しました。実際彼らは誇りとおごりを持って、「それが起こるなら起こらせなさい。それがどうしたのです?」と言ったのです。

パレスチナ地方のたいていの建造物は太陽で乾かして作ったレンガで建てられており、それにいちじくの木を用いて屋根をかぶせたり、入り口を造ったりしたのです。いちじくの木は潅木のように急生長する木で柔らかい木材でありました。しかしユダヤ人たちはその「誇りとおごり」の故、もし侵入者たちがそれらを破壊したとしても、彼らは高価な飾り石や切り石と輸入のレバノン杉で、前よりもっと優れた建造物として再建すると決めたのです。彼らにとっては、その罪に対する裁きの故、神は彼らのもろもろの建造物を徹底的に滅ぼし尽くすようになるであろうということは明白でした。

神は、イスラエルを罰するためその北王国に敵して立つ国々を起こされます。東方からのアラム人、西方からのペリシテ人たちの攻撃は、共に「大口を開けて」その民をのみ込もうとするでしょう。

興味深いことには、カナン文書では彼らの死の神モトをすべてのものをのみ込むような巨大な口を持っている存在として描いています。唇の一方は大地をもう一方は天に達しているのです。その食欲は飽くことを知らず、したがって神々さえも彼を恐れるのです。6旧約聖書もまた、生けるものをすべてゴクゴクとのみ込むものとして死を描いておりますので(ヨブ記一八ノ一三、一四、ハバクク二ノ五、詩編一四一ノ七、箴言一ノ一二、二七ノ二〇、三〇ノ一五、一六、イザヤ五ノ一四を参照)、神の民たちも周囲の国々の人々も共にイザヤが預言したことを理解し得たし、また感謝することができました。主は万民に、主が何を為そうとしておられるかを理解してもらいたいと願っておられました。しかし、シリア人やペリシテ人たちの侵攻の脅威があったとはいえ、アッシリアこそがイスラエルの最大の敵となるのでした。

すべての民は、支配者階級から下々に至るまで、堕落背教しておりました。「民はすべて、神を無視する者で、悪を行い どの口も不信心なことを語るからだ」(一六節)。パレスチナ地方の乾き切った藪や茂みの森でよく見られる野火のイメージを用いて預言者は、北王国の邪悪さがどの様に国を破滅させてしまうのかを描写しております。彼らの悪は自分たちに対し互いに牙きばを向けるようになるのです(一七~二〇節)。肥沃な穀物畑が荒らされ、また敵軍の包囲攻撃による飢餓の故、自分たち同胞の肉を食らう恐怖をさえ感じるようになるのです。7

しかしこれらのことにもかかわらず、イスラエルは更なる神の御怒りを受けるに当然な者たちとなっていったのです。彼らはあくまでも反逆と背教とを追い求め続けたので、帰還点を遥かに通り越し、もはや、悔い改めのどんな可能性をも失ってしまった状態へと堕ちて行ったのです。神は彼らを救済できませんでした。なぜなら、彼らはもはや、救われることを願わなかったのです。

以前にも指摘しましたように、真実な聖書上の預言者は民の良心であり、いかなる種類の社会不正に対しても敢然と抗議するのです。イザヤはイスラエルの民が堕落し行なっていた幾つかの罪をリストアップしております(一〇ノ一、二)。天罰は、虐げられている者たちや弱い者たちに彼らがなしていたことに対する結果であり、彼らは刑罰を逃れ得ないのです(三、四節)。アッシリアによる鞭は、彼らのおごりとうぬぼれ、すなわち彼らの背教とごまかしを徹底的に打ち砕くこととなるのです。

しかし、一方、たとえアッシリア帝国を刑罰の鞭として神がこれを雇われたにせよ、そのことは、伝説にもなるような残虐行為の自由を彼の国に神が与えられたのではありませんでした。アッシリアは自分を欲しいがままにして国々を蹂躙しておりました。確かに、神は人々や国々の思惑と協力するようにして働かれることがあります。しかし、それでも彼らは、なぜそのような歩みをなしたかにつき、なしたことへの説明が求められ責任が問われる時が来るのです。主は邪悪な国民に他の国民を罰することを容認するかも知れません。しかし、彼らの行為の背景によこしまな動機があれば、それに対する裁きに遭わねばならないのです。主は、アッシリアがその邪悪な目的の故、戦いを挑むのであることを認識しておられました(五~一二節)。その結果の当然の報いがアッシリアにもたらされることとなります。なぜなら、主こそ歴史とあらゆる民族の真の支配者であられるからです(一二~一六節)。もし、神がその権威を与えられるのでなければ、大国であるアッシリアも何の権威もないのです(それはちょうどローマ帝国の代表者としてエルサレムに来ていた総督ピラトに主イエスが思い起こさせたようにです〔ヨハネ一九ノ一一〕)。

たとえ神がイスラエルを(あるいは、同じ事由の故に、他のどの民であっても)滅ぼさなければならなかったとしても、それは北王国のすべての人々にとってすべてが望みのない状態になることを意味していたわけではありません。イザヤ書一〇章一七~一九節で、神は再び九章一八節と一九節の比喩的描写に戻ります。火は滅ぼすだけではありません。それは清めます。アッシリアの侵略による荒廃は、頼るべき政治的軍事的支援の根源として、アッシリアの鞭を要請したことの愚かさを、多くの人々に教えることとなることが期待されていたのです。

かくして神が教えようと望んでおられた教訓を学んだ者たちは、イスラエルの聖なる方、主に、真実をもって頼ることを学ぶに至るのです(一〇ノ二〇)。彼らの残りの者たちは、その地に帰ってくることになります(二一節)。彼らが体験するあらゆる破滅は、最後には正義がみなぎるように導かれるのです(二二節)。アッシリアに滅亡をもたらす神の怒りの炎は、かつては「林と土肥えた田畑の栄光」であったものを枯れ果てさせたあらゆる「茨とおどろ」とを焼き尽くすこととなるのです(一七節。二三節も参照、訳者注)。

神は今や、イスラエルに、歴史の過去からの記憶をたどらせながら、彼らの望みをお支えになられます。確かに、アッシリアは過去のエジプト人たちがイスラエルの先祖たちにしたように彼らを鞭で打つかも知れません(二四節)。しかし神の憤りは、彼らからおごるアッシリア帝国へと向けられていくようになるのです(二五節)。(ギデオンを通し)神がミデアン人になされたように、神は横暴なアッシリア人を処理なさるのです(二六節)。これらの歴史上の引喩は、イスラエルを過去における神の御業に思いを至らせるだけではなく、その未来の御業にも目を向けさせるのです。かつてエジプトからの脱出に際し、神が成されたことの繰り返しとして、海の上に御自分の杖を伸ばされる時(二六節)、神は新しい脱出をなさせ始められることを約束しておられるのです。

イザヤは、イザヤ書一一章一五節と一六節で、その新しい脱出の表徴を広げて強調しております。すなわち、昔イスラエルの先祖たちが紅海で経験したように、神の民は徒歩でユーフラテス川を渡ることになるでしょう。出エジプトの代わりに、出メソポタミアとなるのであり、そこでの捕囚を離脱することとなるのです(三五ノ一~一〇、四八ノ二〇、二一)。

残りの者たちは最初は散らされている者たちでしょう。アッシリアは被征服国民の間に国粋主義が興隆するのを防御するために大規模な転地手段を用いました。この帝国は指導者たちも技術者たちもまた他の分類に属する者たちも皆、遠隔の地に捕らえ移し、他の民族に囲ませ、またその数でも異民族が圧倒的に優位になるように計りました。神は御自分の散らされていた子たちを地の果てから呼び集めねばなりません(一一ノ一一、一二)。捕囚としての経験を経た後、その残りの民は変えられた民となります。もはや、イスラエルもユダも互いに争うことなく、彼らは共に地を共有し、彼らの共通の敵を追い払うこととなるのです(一三、一四節)。

新しいダビデ系譜の王

しかし、このことが実際に起こる前に九章に預言されていた王が御自身の王国を据えるようにならなければなりません。

イザヤ一〇章は強い者を衰えさせ、(アッシリアのような)高い木々を切り倒して、主のために道備えをする森林レンジャーのような働きをする神の描写で終わっております(三三、三四節)。それから預言者はそこでの表徴を広げ、かつ修正を加え次のように述べております。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで

その根からひとつの若枝が育ち」(一一ノ一)。

イザヤは今や六章一三節で述べた残された切り株からの聖なる子孫のことを取り上げます。

約束されていたお方はもう一人のダビデとなるのです。それはちょうど最初のダビデがその父エッサイからの若枝であったようにです。字義通りのユダの家は滅ぼされるかもしれません。しかし、そのことは神がダビデに約束されたことが(歴代誌上一七ノ一一~一四)廃棄されたということを意味してはおりません。それどころか「ちょうどかつてそれほど重要ではないエッサイという家族から真に不可思議な方法で最も高い栄誉を受ける者として選び出されたように(サムエル上一六ノ一~一三、サムエル下七ノ一八を参照)、再度新しい若枝となる一つの芽が残された切り株という神の家族から萌え出でて第二のダビデの誕生をみることとなる(一一ノ一)。ちょうど主の霊がダビデに宿っていたように(サムエル上一六ノ一三、サムエル下二三ノ二以下)、第二のダビデもまた、神の御旨と王の心との間に一致をもたらすことになる主の霊の働きによって御業のためにととのえられることとなる」。8このことは王権への人間的な誇りあるいは願望というよりは、むしろ神の御業を土台とした一つの約束です。

不幸にして、ある人たちはここのくだりに神的要素を見ることができないでおります。その人々はここを第一のダビデのような戦士としての救世主を期待するような方向で読み取ろうと致します。新約聖書の時代には人々はローマのくびきをこぼち覆してくれるような救世主を待ち望んでおりました。その結果は当然のこととして、このような視点から、旧約聖書の預言を見、特にイザヤ書中のこれらの預言(九ノ五、六、一一ノ一~五、六三ノ一~六)を読み取ろうとします。イエスは御自身の最も近しい弟子たちの中にあってさえも、軍事的救世主というメシア観を処理しなければなりませんでした。弟子たちは主が征服するということが、その死を通してのみということを理解できなかったのです。主の戦いの場は十字架でありました。弟子たちにとっては最も期待し得ない方法でもって、異なるコースを取って預言された約束を成就するようにと神は決められたのです。後で見るように、神とは歴史を作り、御自身のもろもろの御約束(九章)を成就されるお方です。神は、新しい状況に合うように御自身の計画を修正する権利をお持ちでもあられます。9

イスラエルもユダも共に背教の王たちによって長く厳しい経験を積んできました。古代世界にあっては、王の最も重要な責任とは、正義を確立し、それを維持することでした。それは聖書にも(例えば詩編七二ノ一、二における祈りや列王記上三ノ一六~二八に見るソロモン王の事例を参照)、またイスラエル外の古文書中にも共に見られる王の責務です。異邦の支配者たちはしばしば彼らの成功は正義を貫くことの中にあると宣言しております。「王の知恵というものは錯綜とした状況の中に輝く洞察によって計られる。また彼が王座にふさわしい者であるかどうかは、社会の最も弱い者たちを扶養することへの献身の度合いによって評価される。困難な事例を解決するという能力は神から付与されるものと信じられている……それ故その解決は必ずしも法廷に提出され得る証拠に依存するものではない」。10

ソロモン王以降のたいていの王たちは、神から与えられた能力を持っていないような王たちでありました。しかしエッサイの株からの若芽であるお方は、主の霊を持つことになります。彼はソロモン王よりも賢明な判断をなさるのです。

「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。

目に見えるところによって裁きを行わず

耳にするところによって弁護することはない。

弱い人のために正当な裁きを行い

この地の貧しい人を公平に弁護する。

その口の鞭をもって地を打ち

唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。

正義をその腰の帯とし

真実をその身に帯びる」(一一ノ三~五)。

新しい王は正義をもたらすだけではなく、その王の支配の世界自体が全く異なるものとなるのです。動物界でも肉食が止み、子供たちも危険な生き物を恐れて生きるようなこともなくなるでしょう(六~九節)。この六節から九節までに描かれていることは古代世界に生きていた多くの人々が願っていたことの反響です。少なくともスメリア人たちの時代に遡ると、エンキとニンフルサクの神話の中でライオンは他を殺戮することなく、また狼は子羊を餌とはしないような驚嘆すべき世界のことを述べています。

イザヤ書全体で見られることですが、その第一一章の言葉は現実のこの世を越えた何かの存在を指し示しております。それらの言葉は、人間界と超自然界すなわち、神の世界との間のもろもろの障壁を打ちこわしております。

遂にこのことが実現した後では、神の民は、賛美をほとばしらせることになります(一二ノ一~六)。前章には出エジプトのほのめかしがありました(一一ノ一六)。そのように今やここではモーセの歌の反響を見ます(一二ノ二と出エジプト記一五ノ二を比較せよ)。ただ単に彼らの救い主に感謝するだけではなく、彼らは世界中のもろもろの国民に自分たちのため神が成してくださったことを述べ伝えるようになるのです(一二ノ三、四)。

「主にほめ歌をうたえ。

主は威厳を示された。

全世界にその御業を示せ。

シオンに住む者よ

叫び声をあげ、喜び歌え。

イスラエルの聖なる方は

あなたたちのただ中にいます大いなる方」

(五、六節)。

参考文献

1.        「ガリラヤ」と訳出されているヘブライ語は元来固有名詞ではない。それは単に地域を意味した語である。70人訳聖書の訳者はそれを「ガリラヤ」と訳出したのである。アンソン・レーニーは「海沿いの道」を、ガリラヤの北方、ゴラン高原と地中海との間の地域に相当するであろうとしている。主イエスは異邦人の地で活動的であられた(例えば、マタイ15:21;16:13を参照)。アッシリアがシリアに侵攻したときに通った道でもあり、この「海沿いの道」で、主イエスは御自身を約束されているメシアとして言い表された。悲しむべきことには、御自身の民である者たちより、異邦人たちの方がよりよく主イエスに応答したのである(Anson F.Rainey,”Milestone from the Via Maris,” a paper read at the Society of Biblical Literature annual meeting, Atlanta Georgia, Nov.24, 2003.)

2.        しかし、カイザーはここをエジプト王たちの五重の玉座名と平行した名の一覧であるとしている。ただし、その五番目の玉座名は失われているとしている(O.Kaiser, Isaiah 1-12, pp.128,129)。

3.        同pp.129, 130.

4.        恐らくは、イスラエルが世界でますます宣教の業をなし行くにつれ、着実に広がっていく地上における主の支配権という視点においてであろう。本書第13章で扱われている預言的シナリオのところを参照。

5.        John D.W.Watts, Isaiah 1-33, p.135.

6.        Theodore J.Lewis,”Mot,” Anchor Bible Dictionary (New York: Doubleiday, 1992), vol.4, p.992-924.

7.        紀元前7世紀のアッシリアの約定書には、しばしば、反逆する者たちは人食いになるといった呪いが含まれていた。

8.        Kaiser, p.157.

9.        どのようにして神は、預言を成就されるかに関する最も優れた論議については次を参照のこと。Jon Paulien, Meet God Again for the First Time (Hagerstown, Md.: Review and Herald Pub.Assn., 2003), pp.22-75; Jon Paulien, The Deep Things of God: An Insiders Guide to the Book of Revelation (Hagerstown, Md.: Review and Herald Pub.Assn., 2004), especially chapters 2 and 8.

10.      J.H.Walton, V.H.Matthews, and M.W.Chavalas, The IVP Bible Background Commentary: Old Testament, p.600.

*本記事は、レビュー・アンド・ヘラルド出版社の書籍編集長ジェラルド・ウィーラー(英Gerald Wheeler)著、2004年3月15日発行『悲しみの人 イザヤ書における神と救い』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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