イザヤ書における神と救い【イザヤ書解説ー悲しみの人#3】

目次

第七章 信仰の試練

イザヤ書はここまで、神託(神様からのメッセージ)と預言を扱ってきましたが、三六章からしばらくの間、歴史上の出来事を描いています。三六~三九章は、主として預言を含む一~三五章と、さらに広く預言を扱っている四〇~六六章をつなぐ橋渡しになっています。この四章(三六~三九章)は、ヒゼキヤ王と、彼が恐れていた二つのこと(アッシリアの侵攻〔三六~三七章〕と、彼自身の差し迫った死〔三八章〕)を扱っています。そして、彼が気づいていなかったものであり、彼が屈服してしまった三番目の危険(バビロニアの使節の訪問〔三九章〕)を扱っています。

イザヤ書の前の部分(一四ノ二四~二七)で、「やがてアッシリアがユダを脅かす」と預言されていました。事実、南王国は脅威にさらされました(二一ノ二、二四ノ一六、三三ノ一)。今やそれが起こったのです。もう一人の王が戦争に向かいました。センナケリブの軍勢は、ヒゼキヤの治世第一四年(紀元前七〇一年前後)に、ユダに押し寄せて来ました。イスラエルの破滅と国外追放の後しばらく、ユダはアッシリア帝国に貢ぎ物を納めていました。センナケリブによる公式の碑文は、ヒゼキヤは三〇キカルの金(約一トン)と八〇〇キカルの銀(約二五トン)を貢いでいた、と記しています。他のアッシリアの記録は、ユダの王はニネベにも、自分の娘、側室、音楽家、象牙、象皮などを納めなければならなかった、と報告しています。

これは、ユダの経済にとって深刻な痛手であったはずです。貢ぎ物を納めるのを中止することは、当然アッシリアによって反逆(列王記下一八ノ七)と見なされたでしょうが、なぜヒゼキヤ王がそのように決心をしたかは容易に理解されるでしょう。聖書は、ヒゼキヤが忠実に神に従っていた時(同三~七節)、主はユダを豊かに祝福された、と記しています。ヒゼキヤはおそらく、もし彼がアッシリアとの同盟関係を解消するなら、神が共にいてくださると考えたのでしょう。

アッシリア帝国は、軍事的脅威の政策を実行していました。それは、帝国が崩れないようにするために、いずれの配下にも脱退を許可しない、というものでした。センナケリブはヒゼキヤが協力関係に戻ってくるよう強いました。センナケリブは、この隷属の王を、反逆した者がどのようなことになるのかを示す見せしめにしなければなりませんでした。今や彼は、西の反逆者たちに向かって進軍しました。そこで彼は、ペリシテ人とタイラの町で起きている反乱に打撃を加えました。しばらくして彼の軍隊はユダに突き進みました。

最初にこの軍隊は、南王国中のへんぴな領域にあるすべての要塞化した町を組織的に破壊しました。正式な年代史の中で、センナケリブは彼が攻撃した四六の場所に言及しています。彼はその一つの攻略をあまりに強く誇りに思っていたので、その包囲作戦の様子をニネベにあった彼の宮殿の壁に刻み込んだほどでした。また彼は、その町から取り上げた戦利品を収めるために、一つの部屋全部を使っていました。

センナケリブは、エルサレムに降伏するよう、ラキシュから軍隊だけでなく個人的な派遣団も送りました。ヒゼキヤは、アッシリア王が軍隊をユダから撤退するよう説得を試みました。「わたしは過ちを犯しました。」彼はアッシリアの支配者に告げました。「どうかわたしのところから引き揚げてください。わたしは何を課せられても、御意向に沿う覚悟をしています」(列王記下一八ノ一四)。センナケリブは、三〇〇キカルの銀と三〇キカルの金を要求しました。その貢ぎ物を納めるために、ユダの王は、神殿と王室の宝庫にあるすべての銀を使わなくてはなりませんでした。彼はまた、神殿の扉とそのわき柱から、金の被覆材料をそぎ取りました。少しの間、アッシリアの王は、わいろを受け入れたように思われ、ユダに対する圧力を和らげました。しかし、しばらくして彼は攻撃を再開しました。おそらく彼は、ユダがいかなる同盟を買い取ることもできないよう、その経済を消耗させるために、貢ぎ物を要求しただけだったのでしょう。

イザヤ書は、列王記下に記されているヒゼキヤの降伏を無視していますが、それは「出来事を、神と地上の王国の間の戦いとして描く」という預言者の神学にとって重要なことではないからです。イザヤは「『信仰の有効性』を示すことができることをストレートに教えようとしているのであって、『信仰深さの結果』を伝えようとしているのではありません」。1

エルサレムへの挑戦

ラキシュから馬で上ってきたアッシリアの派遣団がヒゼキヤ王の代理人たちに会ったのは、何年も前にアハズが「主はエルサレムを救い出す」という神からのしるしを受け入れなかった場所でした(イザヤ七ノ三)。アハズは神に対する信仰を示すことを拒んだのです。今ヒゼキヤはユダの不信仰の結果を刈り取っていました。しかし神は、ヒゼキヤの信仰のゆえに、エルサレムの全壊を妨げられたのです。

ラブ・シャケ(「酌取り長」という意の肩書きであり、おそらくここでは野戦司令官、あるいは州知事を指していると思われる)が、ユダの人々の言語であるへブライ語で演説をしました。それは四つの点を強調していました。彼は、「アッシリアに抵抗できるというエルサレムの確信は妄想である」と宣言した後、「ユダはエジプトからの助けを期待することはできない」と力説しました。ナイルの王国は、ユダにとって頼りにできるような支えではなく、何の助けにもならない、ただの折れた葦だったのです(三六ノ六)。

エジプトは当時、比較的弱い国でしたが、以前アッシリアに対抗するパレスチナの小州間で連合を作ろうとしていたことがありました。ユダの政府の中でエジプトに味方する派閥は、エジプト人との同盟を形成したいと思っていたのです。しかし、アッシリアの役人がエルサレムの人々に思い起させたように、エジプトは誰をも助けることができない状態でした。アッシリアは、エルテケでエジプトの遠征軍を撃退していました。すでにイザヤが言ったように、エジプトと同盟を組むことは、死が保証されることと同じでした。それは死と契約を結ぶことでした(イザヤ二八ノ一五)。

次にラブ・シャケは「ユダは、彼らの神に頼ることはできない」と主張しました。不思議なことに、アッシリアの役人は今、エルサレムが(礼拝を)正しく行なっていたことを指摘しています。それは、ヒゼキヤが、神殿における公の礼拝を限定するように、聖なる高台と祭壇を取り除いたことでした(イザヤ三六ノ七、列王記下一八ノ三、四)。アッシリアのリーダーは、民の宗教を排除しようするとき、多くの人々の間で反対が引き起こされる、ということを悟りました。(聖なる高台のすべてが異教の神々に関わっていたわけではありません。多くの高台――ほとんどではないにしろ――は、ユダの神に献げられた伝統的な宮でした。2真の礼拝と偽の礼拝が入りまじった混合宗教に陥りやすいという弱点がありました)地方の宮と礼拝所を閉鎖することは、田舎で礼拝することを難しくしました。人々は、エルサレムまで旅をしなければならなかったのです。その上、古い高台と宮は長い間の伝統を持っていましたし、人々に馴染みの深いものでした。長く守られてきた宗教の慣例と建物を変えることほど、宗教的な人々を混乱させるものは他にあまりないでしょう。ラブ・シャケはそのような憤りを引き起こしたかったのです。

次に、アッシリアの代表は、エルサレムのいやがること――つまり、たとえ侵略者が二千頭の馬をユダに与えたとしても、この小さな王国にはそれを使う人々が十分にいない、という事実――をずけずけと言いました(イザヤ三六ノ八)。「戦車について、騎兵について、エジプトなどを頼みとしているお前に、どうしてわが主君の家臣のうちの最も小さい総督の一人すら追い返すことができようか」(九節)。ユダはアッシリアに抵抗する資源を全く持っていなかったのです。

最後にラブ・シャケは、アッシリアはユダを攻撃するために、神からの権威を持っている、と主張しました。「わたしは今、主とかかわりなくこの地を滅ぼしに来たのだろうか。主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになったのだ」(一〇節)。明らかにアッシリアのスパイは、イザヤがエルサレムに与えていた警告を報告していたのです。

興味を引くようなことが起きるときには、いつでも人々が集まるものです。エルサレムの住民たちが、金色の石灰岩でできた町の壁に沿って並び、ラブ・シャケの演説を聞いていました。アッシリアの代表は、相手から、抵抗しようという気力を奪うために、ユダの人々に対して心理的な攻撃をしていました。ヒゼキヤの役人たちは、ラブ・シャケの言葉が士気をくじく効果を持っていることに気づき、センナケリブの派遣団に、当時の国際的外交語であったアラム語に変えるよう要求しました(一一節)。(後に、アラム語はパレスチナの共通言語になります。)

アッシリアの役人はそれを拒否し、ユダの言葉で話し続けました。彼は、包囲された町で捕らえられた者が耐え忍ばねばならなかった恐怖をほのめかした後(一二節)、耳を傾けているエルサレムの市民に直接語りました。ラブ・シャケは、ヒゼキヤは侵略者を負かすことはできない、と告げ、町の住民は、「人々の神が彼らを救われる」という王の宣言に耳を貸してはならない、と命令しました。その代わりに、センナケリブに平和を求めるべきだというのです。人々がもしそうするなら、アッシリア王が彼らをほかの地に移す手配をするまで、平和と慰めのうちに生きることができる、というのです。それは、さらなる包囲攻撃や戦争の苦しみを免れさせるだけでなく、人々には、今住んでいるものと似た新しい家が与えられるのです(一六、一七節)。現在の住居で飢え死するか剣で亡くなるより、新しい家に住む方がいいではないか、というのです。

モティヤーは、センナケリブはアッシリアの故郷から戦争のために長く離れることを避けたかったのではないか、と言います。いずれにしても、彼がバビロンでの反逆を鎮圧した後、ニネベでさえも政治的抵抗が起こる可能性が常につきまとっていました。アッシリアの野戦司令官は、エルサレムをできるだけ早く降伏させようと試みていました。「彼は自分の提案をできる限り魅力的に見せようとしていました――悩まされない現在(一六節)と、快い未来(一七節)によって――。彼は、よく知られていた国外追放政策を隠すことはできません。しかし彼は、その苦い薬を甘くするために最善を尽くしたのです」。3

「あなたたちの運命は決定されたのだ」とラブ・シャケは宣言しました。「ヒゼキヤが、『主は我々を救い出してくださる』と言っても、惑わされるな。諸国の神々は、それぞれ自分の地をアッシリア王の手から救い出すことができたであろうか。ハマトやアルパドの神々はどこに行ったのか。セファルワイムの神々はどこに行ったのか。サマリアをわたしの手から救い出した神があっただろうか。これらの国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したか。それでも主はエルサレムをわたしの手から救い出すと言うのか」(一八~二〇節)。アッシリアの役人の演説は、へブライ語の「信頼」という言葉を繰り返し用いています。彼はユダが信頼しようとするすべてのものをあざ笑い、次の問いを投げかけました。「エルサレムはどこに信頼を置くのか?」それは、町の人々が自分たちの運命を決めるために答えなければならない、極めて重要な質問でした。

古代近東の人々の多くは、国が戦いに行く時、彼らの国の神々が敵の神々と戦う、と信じていました。片方が負けたのは、その神が敵の神に負かされたからだ、と信じていたのです。アッシリアの神アッスールは、他の国々のすべての神々を打ち負かしたのだ、とラブ・シャケは主張しました。もしエルサレムが断固として抵抗し続けるなら、アッスールはヤハウェに勝利する、というのです。「アッスールの手とアッシリアの王は、主の手より強い」と。事実、サマリアの神は、ユダの神と同じであると認められていたので、エルサレムの神はすでにアッシリア人に負けているのだ、というわけです。アッシリアのリーダーは、主に対して真っ向から挑戦したのです。

ヒゼキヤ王が、アッシリアのリーダーには一言も応えてはならない、と命じていたので、人々も王の代表者たちも、応答しませんでした(二一節)。何にもまして彼らの沈黙は、戦車の上に立っているラブ・シャケを少なくともいくらかはいらいらさせたに違いありません。馬具のかさかさ鳴る音と、馬が休むことなく動くためにでるキーキーという戦車の車輪がこすれる音だけが沈黙を破っていました。今日の近東の文化においても、人々はとても積極的に感情や感覚を表現します。アッシリアの役人は、彼の心理作戦がエルサレムの人々に効果的だったのだろうか、と思いました。しかし、その通りだったのです。三人のユダの役人が宮殿に帰る途中、彼らは服を裂きました。それは、聖書にある、悲しみの一般的な表現でした(二二節、イザヤ二〇ノ二、列王記上二〇ノ三一、ネヘミヤ九ノ一、ダニエル九ノ三参照)。

ユダの王は、自分の服を引き裂いただけでなく、粗布をまといました。それは、さらに強い悲しみのしるしでした。そして彼は神殿に行きました(イザヤ三七ノ一)。聖書は、彼がそこで何をしたのか記していませんが、おそらく町を救ってくださるよう、神に導きを祈っていたのでしょう。さらに彼は、エルヤキム、シェブナ、祭司の長老たちにメッセージを託し、イザヤに送りました。

「ヒゼキヤはこう言われる。」彼らは預言者に告げました。「今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを生み出す力がない」(三節)。人々は悲しみと恐れで無力になり、世界は完全に終わりのように思われました。三人の役人がイザヤに告げたことを、今度はイザヤが神に知らせることを役人たちは期待していた、と聖書の語りは示唆しています。「最初に、失敗の告白がありました(三節)。『苦しみ』は逆境という事実を表現し、『懲らしめ』によって、困難を招いたのは彼らに責任があることを認め、『辱め』は続いて経験する公の恥を示し、『胎児は……生み出す力がない』は計画されていたすべての人々の挫折を意味していました」。4

おそらく、王の派遣団はイザヤに次のように言おうとしていたのです。「『主である、あなたの神』は、センナケリブから送られたラブ・シャケの挑戦を聞かれた。彼ら(アッシリア)はヤハウェから自分自身を引き離していたのではないか。ヤハウェを、自分たちの神にではなく、イザヤとヒゼキヤの神にしようとしていたのではないか。彼らは、神が、地の上で言われたすべてのことを聞いておられることを確かに信じていたはずだ。それとも、彼らはそれさえも疑っていたのか」と。しかしヒゼキヤの要求ははっきりしていました。「ここに残っている者たちのために祈ってほしい」(四節)。王は、イザヤが長い間伝えていた「残りの者」というテーマを聞いていたのです。

聖書の記述によると、この預言者は祈る必要がありませんでした。彼はすでに主の答えを知っているのです。彼は派遣団に、「恐れるな」と王に伝えよと命じます。彼らは、アッシリアのプロパガンダ(宣伝)によって恐れることは何もありません(五、六節)。神は、センナケリブを追い払われます。主は、アッシリアの王をニネベに急いで戻らせるようなうわさを彼に聞かせます。そこでセンナケリブは暗殺者の剣のえじきになるのです(七節)。

ラブ・シャケが主人に報告するためラキシュに戻った時、彼は王が次の標的である、リブナという、ラキシュから北東に八マイルの所にありエルサレムにはより近い場所に進んでいたことを知りました。リブナにいる間、アッシリアの支配者のスパイは、エジプトの軍事行動についての報告を集め始めていました。「エチオピアの王、ティルハカ」は、二五番目のエジプト王朝クシュ王のことであり、彼は王朝の六番目のファラオとして紀元前六九〇~六六四年に君臨しました。しかし、その時彼はまだ王ではなく、彼の兄弟であるファラオ、シェビツクのために戦うエジプト軍の司令長官という地位にいました。5

聖霊の影響下で、センナケリブはうわさを深刻に受け止めました。しかし、はじめ彼はヒゼキヤに対する圧力を強めようとしました。これはおそらく、ヒゼキヤがすぐに降伏することを望んでのことでした。センナケリブは、ティルハカがやって来るかもしれない脅威に対抗するため、彼の軍隊を再結束させる必要がありました。アッシリアの支配者は急いで使者を送り、前に発した「エルサレムはアッシリアの力に抵抗する望みはない」という警告を繰り返しました。しかし、今回は特にユダの王にその警告を与えました。「お前が依り頼んでいる神にだまされ、エルサレムはアッシリアの王の手に渡されることはない、と思ってはならない」(一〇節)。興味深いことに、今回アッシリアの支配者はユダに対して、エジプトに助けを期待するな、とは言わず、ただ「あなたの神」に期待するな、と言っています。そして彼は、打ち負かされた国々とその神々をより多く述べています(一一~一三節)。

主を全的に信頼する

センナケリブのメッセージは、口頭と文書両方を通して与えられました。ヒゼキヤはその手紙を読んだ後、神殿に持って行き、神の前でそれを開きました(三七ノ一四)。前の王であるアハズとは違い、ヒゼキヤは主に全的な信頼を置きました。彼はエルサレムを救ってくださるよう神に祈り求めました。彼の祈りはたくさんのテーマを含んでおり、イザヤ書全体の中でひときわ高くそびえたっています。ヤハウェが国々の神であるだけでなく、唯一の神である。彼は創造主である(一六節)。ヒゼキヤは、センナケリブの、神をあざ笑うような挑戦に対して、主が応答されるよう求めています(一七節)。ユダの王は、アッシリア人が多くの国々とその神々を打ち負かしたことを認めていますが、そのような神々はそもそも本物ではありませんでした。それらは、人間の手によるただの偶像でした(一八、一九節)。「わたしたちの神、主よ、どうか今」と、ヒゼキヤは結びました。「わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主であることを知るに至らせてください」(二〇節)。私たちを救うことによって、あなたが誰であるかをお示しください、と彼は嘆願したのです。センナケリブは主をあざけりました。それに対して、神は応えなければなりませんでした。

やがてイザヤは、センナケリブへの神のメッセージを伝えました。それは、ヒゼキヤの祈りに対する神の応答でした。主は、預言的な言葉でセンナケリブとアッシリア帝国に告げました。

アッシリアは、エルサレムを軽蔑しあざけりました(二二節)。エルサレムをもの笑いにしたことによって、アッシリアは実際、シオンの神を侮辱していたのです。

「お前は誰をののしり、侮ったのか。誰に向かって大声をあげ、高慢な目つきをしたのか。イスラエルの聖なる方に向かってではなかったか」(二三節)。

帝国は、征服してきたことを自慢しましたが(二四、二五節)、アッシリアは、イスラエルとユダの神がお許しになった時だけ勝利することができたのです。どんなに混沌としているように見えても、歴史はまだ、神の究極的な支配の下にあるのです。

「お前は聞いたことがないのか。はるか昔にわたしが計画を立てていたことを。いにしえの日に心に描いたことをわたしは今実現させた」(二六節)。

アッシリアは、歴史における神の働きの一部とされたからこそ、国々を荒らすことができました(二六、二七節)。しかし、神はアッシリアが古代近東をあばれ回ることをお許しになりましたが、その国家は自分がしたことに対して責任を取らなくてはなりませんでした。帝国は、征服した国々を、収穫物にすぎないものと見なしていました(二七節)。アッシリアの残虐な行為は、罰を免れるわけにはいきませんでした。神が、帝国に進むことを許されたのはそれまででした。そして神は、センナケリブが主を直接攻撃したことをお見逃しにはなりませんでした。

「お前がわたしに向かって怒りに震え、その驕りがわたしの耳にまで昇ってきたために、わたしはお前の鼻に鉤をかけ、口にくつわをはめ、お前が来た道を通って帰って行くようにする」(二九節)。

アッシリアは軍事作戦中にはいつでも冷酷にふるまい、捕虜の鼻をかぎ針で引っ掛けて連れて行きました。センナケリブと彼の軍隊は、自分たちが行なった冷酷な取り扱いを受けることになったのです。

神はアハズに、歴史を支配なさるご自身の力に関して、しるしを与えておられました。今や神は、ヒゼキヤのために同じことをなさったのです。主は、センナケリブの退却はただの偶然ではないということを明らかにされました。預言者イザヤは、しるし――働かれているのは主であるということを示す証拠――を「加え」ました。二年間、アッシリアの侵略によって、農業は不可能になっていましたが、三年目に例年通りの耕作が始められるようになるまで、土地はひとりでに十分な収穫を産しました。6

アッシリアの進軍は、紀元前七〇一年に、例年並みに作物を育てることを妨げていました。しかし、危機が過ぎ去り農夫が通常の仕事を始められるまでは、自然にまかれていた穀物7が人々に必要な食物を供給することになっていました。広範な管理が必要なぶどう園でさえ、収穫物を産するのです(三〇節)。神は、土地がユダを支える、ということを明らかにしたかったのです。そしてそれは、神が侵略者を撃退したことのしるしになるのでした。

しかしそのこと以上に、予期していなかった収穫は、「残りの民」――イザヤ書という織物を貫いている金の糸――を示す一つのシンボルでした。「ユダの家の中で難を免れ、残った者たちは再び根を下ろし、上には実を結ぶ。エルサレムから、残った者がシオンの山から、難を免れた者が現れ出る。万軍の主の熱情がこれを成就される」(三一、三二節)。

センナケリブはどうかと言えば、エルサレムを占領しようとする彼の試みは失敗に終わるのでした。彼は包囲作戦を開始することさえできずに、ニネベへ戻って行くことになるのです(三三~三五節)。アッシリアの王を退却させる原因の一つは、彼の軍隊から多数の死者が出たことでした。聖書は、天使が彼らを撃った、と告げています(三六節)。その天使は、伝染病を通して働いたのかもしれません。包囲作戦の間に多数の人々を集めることは、危険でした。兵舎の原始的な衛生管理は、病気の感染に関して最悪の状態でした。事実、包囲作戦は、侵略する軍を一掃してしまう病気と、守る側を死に至らせる飢え、のどちらが早いか、という競争のようなものになってしまうのでした。センナケリブの軍隊のほんの一部が、エルサレムを囲みました。かなり多くの死者が出たということは、彼らに死をもたらしたものは、ユダの他の場所にいるアッシリアの軍隊にも広がっていたのではないか、とビムサンは推測しています。8

意義深いことに、センナケリブの公式な碑文は、彼はエルサレムにいたヒゼキヤは「かごに入れて捕まえられた」と記していますが、彼が町を占領したとか、包囲作戦を始めたとさえも伝えていないのです。碑文は、彼がパレスチナの反乱を鎮圧した、ということを強調しています。彼は、ラキシュが倒れたことはレリーフに描かせましたが、はるかに重要なエルサレムのことは書かせていません。何人かの学者は、ヒゼキヤのわいろについての詳しいリストは、エルサレムに対する作戦が実際には失敗したという事実から、人々の目をそらすために書かれたのではないか、と推測しています。9

次第にセンナケリブは、古代の支配者たちが常におびやかされてきた暗殺という危険が自分にも迫ってきていることに気づきました。ある日、王は彼の神を礼拝しに行きました。古代の記録には「ニスロク」という神についての記述は見つかりませんが、聖書記者は、聖書の記録がしばしばそうであるように、意識的に、政治的な目的で、異教神の名を作り上げたのかもしれません。紀元前六八一年、センナケリブが神殿で礼拝している時、二人の息子アドラメレクとサルエツェルが剣で彼を殺し、二人はアララト(ウラルト)――ヴァン湖近くの王国で、現在のアルメニア――に逃亡しました(三八節)。聖書外の記録では、アドラメレクの名はアドラムリッシとなっており、古代バビロニアの歴代誌はセンナケリブ暗殺と、もう一人の息子エサルハドンの即位を記録しています。

ヒゼキヤの病

イザヤ三八ノ一で、イザヤは王のところに来てショッキングなメッセージを伝えました。ヒゼキヤは死ぬ、というのです。10差し迫った死は、支配者に対する罰でも裁きでもありませんでした。11事実聖書は、彼が、並外れた善王であったとみなしています(列王記下一八ノ三、歴代誌下三一ノ二〇、二一)。明らかに彼は、病気の蔓延していた世界に住んでいたがゆえに、死に直面したのです。軍事作戦や包囲作戦の間には、ほとんど常に伝染病が起きる、という現実についてはすでに述べました。列王記下と歴代誌下の平行記事中では、この出来事はエルサレム包囲作戦の文脈の中で述べられているので、彼の病気とこのことには何か関連があるのではないか、と思う人もいるでしょう。原因が何であれ、王は致命的な病を得、その結果に対して対処する必要がありました。「家族に遺言をしなさい」という神の命令には、後継者を選ぶことも含まれていたかもしれません。12

当然ヒゼキヤは、自分の運命を受け入れ難いものと思いました。誰がそんなことを受け入れることができるでしょうか。彼は顔を壁に向けましたが(不満と挫折を示す聖書的表現)、陰鬱な気分に対処しようとしたのか、あるいは、そうすることによって人の目を避けて一人になりたかったのか、わかりませんが、少なくとも王は祈りました(イザヤ三八ノ二、三)。「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください」(三節〔列王記下二〇ノ三参照〕)。彼は、列王記の著者がユダの善い支配者を紹介するために使用した言葉を使いました。ヒゼキヤは、延命を直接求めることはせず、自分がどのように主に仕えてきたかを神はお忘れにならないでください、と祈っただけでした。

神は、王がこの状況に対してどのように反応するかを見ようとしておられたのでしょうか。主は、ご自分に対するヒゼキヤの信頼を試すために、病によって提供された機会を利用なさったのでしょうか。もしそうなら、主が病気を与えたことにはなりません。王は、混雑した町で捕らえられた結果の一つを刈り取っていました(遠いところから来た人々は、アッシリア人から逃げるために、町を離れていたことでしょう)。そして王は、衛生状態が崩壊した時に、病気にかかったのです。主は、ご自分の目的のために、その結果を用いられたのです。

列王記下では、主がイザヤにメッセージを送る前に、預言者は宮殿を出ようとしていました。イザヤ書はいつも、そのような描写を省いています。しかし両方の記事は、「神はヒゼキヤの祈りを聞き彼をいやす」というメッセージを王に知らせるために、神がイザヤにどのように告げられたのか、を説明しています。それだけでなく、神は、王の命を一五年も延ばされる、というのです(イザヤ三八ノ五)。古代近東の平均寿命は当時で約二〇年ですから、一五年は人生の半分以上に匹敵します(イザヤはすでに三九歳でした)。さらに神は、アッシリア王の手にあったヒゼキヤとエルサレムを救い出す、というのです(六節)。

神は、アハズにもしたように、ヒゼキヤに第二のしるしを与えました。13主は、日時計の影(おそらく階段状もの)を、一〇度戻しました(列王記下二〇ノ九~一一)。14

イザヤ三八ノ一〇~二〇は、いやしについてのヒゼキヤの讃美を記録しています。多くの古代支配者のように、王は、霊性向上のための文書に興味を持っていたと思われます。この詩に加え、箴言二五ノ一は、ヒゼキヤが、ソロモンの箴言のいくつかを書記に集めさせ写しを作成さ14せた、と知らせています。そして歴代誌下二九ノ三〇は、ヒゼキヤが神殿での礼拝を復興させた時、レビ人にダビデとアサフの詩編を使わせた、と報告しています。イザヤ書に記されたヒゼキヤの詩は、それらの詩編の影響をいくらか受けています。それは、彼の嘆きの描写(イザヤ三八ノ一〇~一四)と、主のいやしについての詩的な記述(一五~二〇節)で構成されています。

最初ヒゼキヤは、人生の絶頂時にシェオル――死の領域――に送られるという事実と格闘しました(一〇節)。もし死ななければならないなら、彼はもう、神とも命ある者とも交わりを持つことができなくなるのです(一一節)。生きる者だけが神を意識できるのです。王は、自分の運命を嘆き、それをいくつかのイメージによって表現しました――引き抜かれた羊飼いの天幕、織機、そして切り取られた織物(一二節)。破られた羊飼いのテントと織機の分解は、はかなさの象徴です。そして、織機かれる音は、彼の人生が今や終わりを迎えた、ということを表現しています。また、その状況はヒゼキヤに、餌食を噛み砕く獅子を思い起こさせ(一三節)、彼は鳩のようにうめきました(一四節)。王は、悲しみのゆえに眠ることができませんでした(一五節)。一六節から、彼は、自分を健康な体にしてください、と神に求めています。神は彼の罪を赦していましたが(一七節)、死が、赦しに対する彼の感謝と讃美を止めさせます(一八節)。生きる者だけが、神を讃美できるのです(一九節)。二〇節で彼は、神が死から救い出してくださるという確信を得、残された生涯、神殿で音楽を通して主を讃美する、と告白しています。いやしは神から来ましたが、主はしばしば自然の過程を通して働かれます。今回のケースもその一つの例かもしれません。預言者イザヤは、宮中で仕える医者に、いちじくの湿布を患部にあてるよう命じました。この短い記述は、ヒゼキヤに潰瘍、中毒、あるいは何か他の症状があったのか、を知らせてはくれません。一方、「いちじくのかたまり」をあてた、ということは、「行動となってあらわされた」神託、あるいは、しるしであったのかもしれません。いずれにしてもヒゼキヤは、直ちに回復しました。彼は致命的な病を得ていたにもかかわらず、三日目には神殿に行くほど良くなっていたのです(列王記下二〇ノ五~八)。そして彼は感謝しました――しかしそれは十分な感謝ではありませんでした。

バビロンからの使節

歴代誌下三二ノ二五は、次のように記しています。「ヒゼキヤは受けた恩恵にふさわしくこたえず、思い上がり、自分とユダ、エルサレムの上に怒りを招いた」。メロダク・バルアダンからの使節の訪問を受けた時にヒゼキヤが行なったことを見るなら、彼が自分の救いを感謝することに失敗していたことがわかります。アッシリアとバビロニアの文書の中で、マルドゥク・アプ・ラ・イディンナ二世、として知られているこの男は、カルデア人ビテゥ・ヤキン族の首長でした。紀元前約七三一年、彼はティグラス・パイルサー三世と共に、バビロニアのもう一人の支配者に立ち向かいました。しかし彼は、アッシリア帝国に対して盲目的に忠実であったわけではありませんでした。すでに述べたように、彼はしばしばアッシリアの支配に対して反逆しました。そして紀元前七二二年、シャルマネセルの死後、彼はアッシリア軍を追い出し、サルゴンに負かされるまで一〇~一二年の間、支配しました。しかし、その後もメロダク・バルアダンは、あきらめませんでした。彼はずっと陰謀を企て続け、ついに、サルゴンの支配が終わった紀元前七〇五年、アッシリア帝国東西の領域で反乱が起きたのです。

イザヤ三九ノ一は、この休むことのない家臣が秘密経路を通じて、ユダの支配者が致命的な病気から奇跡的に回復したことを知り、ヒゼキヤに使節を送ったことを記録しています。そのバビロニア国粋主義者は、ヒゼキヤに贈り物と手紙を送りました。聖書は手紙の内容を明らかにしていませんが、メロダク・バルアダンの絶え間ない陰謀を考慮するなら、彼は自分の運動に加わるようヒゼキヤにしきりに促したに違いありません。ユダの王が、使節に宝物庫と武器庫を見せて回った、という事実は、ただ単にヒゼキヤが富を自慢していたということだけではないでしょう。王は、戦いに貢献できる軍事的資源を見せていたのです。

神は、ユダが外交、同盟、軍事力にではなく、ご自分に頼ることを望んでおられました。しかし、ヒゼキヤは、アハズと同じ過ちを犯してしまいました。イザヤがヒゼキヤに、派遣団がどこから来、王は彼らに対して何をしたのかを尋ねた時、ヒゼキヤは、事の深刻さを理解することなく、彼らはバビロンから来、「王宮にあるものは何もかも見ました。倉庫の中のものも見せなかったものは何一つありません」と預言者に答えました(四節)。

主は、王のためにメッセージを持っておられましたが、それはある意味で死の宣告よりさらに悪いものでした。いつかバビロンが来て、ヒゼキヤが使節に見せた物をすべて取り去る、というのです。「何も残らなくなる日が来る、と主は言われる」(六節)。北王国で起きたように、土地は荒廃し人口は減るのです。王自身については、彼の子孫の幾人かは、バビロン王の宮殿で仕えるために去勢される、というのです(七節)。子どもを持つことを個人的不死の形とみなす文化の中では、父親になることができないということは、残酷な運命でした。それに加え、ダビデ王の継承15者の子どもが去勢されるということは、預言されていたエサイの若枝が出現することを妨げることになってしまうのです。

まさにアハズがアッシリアにしたように、ヒゼキヤは主に頼る代わりに、望みと信頼をバビロンに置いてしまいました。彼の国は、彼のこの行動の結果を刈り取ることになります。モティヤーの言葉によれば、預言者は王に次のように言ったのです。「あなたは、あなたが持っているものをすべてバビロンに委ねたいのだ。それゆえ、あなたが持っているものはすべて、将来バビロンに行くことになるのだ」。15モティヤーはまた、この聖書の箇所は交差法の構造を持っていると指摘しています。その構造は、王に見られる、神に対する信頼から世の力に対する信頼への変化と、その変化の結果を強調しています。

イザヤがヒゼキヤのところに来た時、彼は病気でしたが、バビロニアの使節が彼を訪ねた時、王は元気でした。両方の場面で、王は、どのように応えるのか選んでいますが、その選択はとても異なっていて、結果は劇的に反対になっているのです。片方の選択は王だけでなくエルサレムも救いましたが、もう一つの選択は町を悲劇的な運命に定めてしまったのです。最初の選択は命に導き、他方は死――国家全体の死――に導きました。

A1       (イザヤ三八ノ一)      ヒゼキヤ、死に直面する

B1       (一節)          「イザヤが……来て……〔言った〕……主はこう言われる」

C1       (八~二二節) ヒゼキヤの献身

C2       (三九ノ一、二)         ヒゼキヤの失敗

B2       (三~七節)    「イザヤは来て……言った……主の言葉を聞け」

A2       (八節)          ヒゼキヤ、命を得る16

この箇所は、勝利から悲劇に向かっています。死に直面したときヒゼキヤが示した信仰は、延命された生涯で彼が行なったことより忠実なものであった、ということなのです。

イザヤ三八ノ一で、神はヒゼキヤの死を預言しました。王は、主が将来を変えてくださるような形で応答しました。しかしイザヤ三九ノ六の預言は変わりませんでした。モティヤーは次のように観察しています。「イザヤ三九ノ六の預言はどの点から見ても、祈りがかなえられ神の憐れみにより祝福に変えられた三八ノ一の預言と同じように断定的です。しかし、この章の流れの中で働きが信仰に取って代わり、人が神に取って代わり、そして誇りが謙遜に取って代わっています。ひとりよがりのうぬぼれが涙と祈りに取って代わる時、神の言葉はその動かし難い力を示し、恐ろしい目的を果たすのです」。17

神がこの預言を成就する他に選択がなかったことは、ヒゼキヤの応答の仕方に示されています。「主の言葉はありがたいものです」と彼は預言者に言いました。なぜでしょうか。それは「彼は、自分の在世中は平和と安定が続くと思っていた」からです(イザヤ三九ノ八)。ユダの不幸な運命は、将来の世代の心配事であって、彼自身のものではなかったのです。18

恐ろしい破滅がユダを待ち受けていました。バビロン捕囚に運命づけられていたのです。ユダは、悲しみの人々になるのです。しかし神は、彼らを見捨てませんでした。これから私たちがイザヤ書の残りの部分で見ていくように、主は、彼らのために希望を約束してくださったのです。

参考文献

1.        J.A.Motyer, 「Isaiah: An Introduction and Commentary」, p.222

2.        例えば、この出来事に記されている宮はサムエル記上9:11~25に記録されている。

3.        J.A.Motyer, p.224

4.        同

5.        ベーツは、ティルハカはクシュの王として確認され、よってエルテケの戦いの少し前のエジプト王位の継承者である、と言っている。Robert D.Bates,”Could Taharqa Have Been at the Battle of EL Tekah?”, Near Eastern Aachaeology(2001)を参照。

6.        同上p.229-230

7.        おそらく、畑の端に沿って生えていて刈られることのなかった穀物と、落穂拾いをした人に見落とされた作物。

8.        John J.Bimson,”2 King”, New Bible Commentary, p.381

9.        J.H.Walton, V.H.Matthews, and M.W.Chavalas, The IVP Bible Background Commentary: Old Testament, p.406, 454.

10.      この出来事の年代順配列は、明らかではない。ヒゼキヤは29年間支配し、神は彼に15年間の命を約束したことから、この事件は彼の治世第14年に起きたに違いない。それは大体、センナケリブの侵略と同じ時期である(列王記下18:2)。ビムサンは、列王記下の出来事は、ヒゼキヤにとって好意的になっていないので年代順には記されていない、と結論づけている。「これらの出来事は、18~19章に描かれていることと対照的に示すために、意識的に他の部分から離されている。そしてそれらは、マナセの支配とその結果への橋渡しを提供するために、もっと前ではなく、ここに配置されているのである」(Bimson,p.380)。

11.      Richard Nelson,”First and Second Kings”, p.243

12.      Donald J.Wisemen, 1&2 Kings: An Introduction and Commentary, p.286

13.      列王記下20:8で、支配者はしるしを求めている。イザヤ38:7は、ヒゼキヤの要求なしに、しるしを告げられた神を描いている。

14.      その列王記下の記事で神は、王に、影を進ませるのか、後退させるのか、という選択を与えている。

15.      J.A.Motyer, p.233

16.      J.A.Motyer, p.233からの引用。

17.      J.A.Motyer, p.242

18.      「ヒゼキヤにとっては、延期の中に慰めがあった(イザヤ39:8)。しかしイザヤにとってはそうではなかった。明らかに彼は、家にこの重荷を持ち帰った。そして、イザヤがその重さの下で生きたがゆえに、神が再び彼に語りかけた時、イザヤは『心の中で』バビロンにすでに長く住んだ者としてそのメッセージを聞き(6~7節)、神は、まだ生まれていない捕囚の世代の『こころに語りかけよ』(イザヤ40:2参照)と言うことがおできになった」(D.Kidner,”Isaiah”, p.655)。

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