第八章 捕囚前夜
ヒゼキヤ王は致命的な病気から癒された後、外国からの使節団の訪問を受けましたが、彼らがどこから来たのかということについてイザヤがヒゼキヤ王にした質問と、それに対するヒゼキヤの答えはこの書の残りの部分を予想させます。代表団はバビロンから来ました。そしてヒゼキヤの民は、そのバビロンに自分たちの継続的な謀反と背教のゆえに連れて行かれることになるのです。イザヤ四〇章からこの書は、この都が通過するであろう未来と、将来起こり、あるいは滅びていく帝国について語ります。バビロンこそが、イザヤを最初任命されたときに神様がほのめかした(その時は名前を挙げませんでしたが)イスラエルを滅ぼし、その民をその地から連れ去るという勢力だったのです(イザヤ六ノ一一~一三)。
死海写本QIsaaにおいて、イザヤ四〇章一節は、三九章八節の段が終わった二行あとから始まると、現代の翻訳家たちはみています。従ってイザヤ三九章五~七節の破滅の言葉と、イザヤ四〇章一節の慰めの言葉は、隣り合わせに置かれていることになります。1イザヤ書は裁きを宣言しますが、その後すぐに慰めのメッセージを語っているのです。
三つの匿名の声あるいは使者がそのメッセージを宣言します。最初はイザヤ四〇章一節から、二番目は三節から、三番目は六節からそれぞれ始まります。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」。二節で神は預言者に「エルサレムに優しく語りかけよ」(訳者注――英文ではtenderlyとなっている。新共同訳では「心に語りかけ」となっている)と言われます。この言葉はヘブライ語では「心に語りかけよ」という意味です。聖書では一般的にこのフレーズは、誰かがある人を安心させようとしたり、あるいは、愛情を取り戻そうとするときに使われています(例、創世記五〇ノ二一、士師記一九ノ三、サムエル記下一九ノ七、ホセア二ノ一四)。イザヤ書をさらに読んでいくと、「わたしの民」というのが、実は特にバビロンに捕囚として連れて行かれる民のことであることがわかります。エルサレムは罪に定められるけれども裁きはまだ下っておらず、神は御自分の民を、その未来に近づきつつある時にあって励ましているのです。彼らが受けることになるであろう苦しみは、これまですでに経験したものよりもさらにひどいものとなるでしょう。しかしそれもいつかは終わるのです。ここに出てくるエルサレムとは、捕囚を経験する民を象徴しているのです。
民は神から顔をそむけましたが、神は民をお見捨てになりませんでした。神の民は、自分たちの行なってきたことのために裁きを受けなければなりませんが、神の公正さも、その過程の中で示されなければなりません。「咎は償われ」(二節)、神と民との関係は、神の究極の計画に前進するのです。苦難の時期を過ごした後、彼らは「罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受け」(二節)ることになるのです。一目見ただけでは、この聖句は民の受ける刑罰が、当然受けるべきものの倍になると言っているように見えるかも知れません。しかし、実際にはそう言っているのではないのです。「倍」とは「折りたたむ、半分に折る」(出エジプト記二六ノ九)という意味で、ここに出てくる名詞(kiplayim)はヨブ記一一章六節にしか出てきません。しかもその箇所では、神の知恵は両面性を持ったもの、つまり人間の思いを超えた隠された現実をいつも含んでいる、といった意味で使われているのです。従ってこの部分は必要以上の刑罰が科せられるということではなく、私たちの理解を超えた現実を含む罪の取り扱いについて語られていると言えます。2
私たちは、自分ならばどのように罪を取り扱うかということについて考えているかも知れませんが、罪の持つ全ての影響について完全には理解していません。罪を実際にどう取り扱えばいいのかを知っているのは神だけなのです。私たちの安易な解決策は、より多くの問題を起こすだけでしょう。罪と罪が引き起こす結果は、人間の理解を超えています。しかし、もっと人間の理解を超えているのは、神のもとに民が帰ってきたときのために、神が民のために計画しておられることです。
私たちの神のための広い道
二番目の声は、「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と宣言します(イザヤ四〇ノ三)。これは重要な騎手の差し迫った到着のイメージです。古代人は原始的な道路だけを持っていました。彼らは主にロバとラクダの背中に人間と商品の両方を載せて輸送しました。庶民は車輪のついた車を持っていましたが、広範囲にわたってそれらを使いませんでした。輸送車のために作られた道路は舗装されていませんでした。アッシリア帝国時代の後期には、舗装された道路もいくらかでき始めましたが、古代近東地域での舗装道路の広域な環境整備は、ローマとその工兵の出現を待たなければなりませんでした。
荷馬車の通る道は、杭が打たれ区画され地面が平らにされているだけでした。これらの道路はたいてい主要な通商航路に沿ってありました。全ての道路は簡単に浸食されてしまうようなものでした。アッシリア帝国としては、地元住民が道路を使用可能な状態に修復しながら利用することを期待していました。エサルハドンというアッシリアの王の一人が、一人の家臣と条約を取りまとめ、あらゆる点で円滑な(エサルハドンの後継者の)道を造るように、地元の支配者に要求しました。3従って王が旅行する時はどこへ行っても、地元住民ができる限り通行可能な道を作って、王と側近たちが使うことができるようにしておくことが期待されていました。
イザヤ書の預言的託宣は荒れ野に道を通すように叫んでいます。そのためには谷は埋められ、山や丘は削られ、でこぼこな土地は平らにされなければなりません(四節)。これは、古代の道路を造る人たちの能力をはるかに超えたイメージです。さらに重要なことは、その道は行進用の道になるということです。バビロニアのある讃美歌はノブ神の礼拝者たちに「良き道を作れ、道を敷き直せ、道をまっすぐにせよ」と命じています。4
ここでイザヤが語っている道とは、軍用の道ではなく、自然を超えたお方つまり宇宙の神のための道のことです。また、「荒れ野」という言葉は、出エジプトの時に神がどのようにイスラエルの民を導かれたかを思い出させ、従って神が再びそのようなことをすることがおできになるという希望をいだかせます。
預言されていた王が来られるとき、彼は特別に準備された広い道を通って旅をし、全ての民が彼を見ることになるのです(五節)。神の到来は隠すことができないのです。地の全ての人々はその栄えある行進を目撃することになるのです。また、道が注意深く準備されてきたので、その方の到来は確実なものとされたのです。どんな通行不可能な地形も、どんな壊れた車輪も車軸も、その方の来られるのを阻止することはできないのです。
しかし、その方は前触れもなく来られることはありません。六節は王室からの使者のイメージを用いています。新聞も雑誌もラジオもテレビもなかった時代には「ふれ役」の助けによってニュースは広がっていきました。この「ふれ役」が重要な出来事や命令やその他の情報を報告するのを助けたのです。こうした王室の、あるいは個人的な伝達者があらゆる状況の中で用いられていました。ラブ・シャケがエルサレムに来て、降伏条件についてどのように議論したかについては、すでに学んだ通りです。
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」というのが「ふれ役」のメッセージでした。熱い砂漠の風は、草や花やその他の植物をたちまちのうちにしおれさせてしまいます。聖書の中では一般的にこのような枯れ果てていく植物は、一時的なはかなさを象徴しています。聖書の著者が何を思ってこの部分を書いたのかをはっきりと断定することは困難です。人々が霊的なテストという強烈な熱風によって枯れ、しおれてしまうという意味なのでしょうか。あるいは、著者は人間の存在のはかなさを強調している一方で、神が約束を成就してくださるのを待っているのでしょうか。明らかな対比は、神の言葉はとこしえに立つということです(八節)。ここに出てくる「とこしえに」という言葉の背後にある強調点は永続性です。これは単に終わりのない日々というよりも、古代近東地方にあった不滅の概念です。5神は決して御自分の意志、最終目的を変えることはありません。あらゆる人間的な抵抗にもかかわらず神は御自分の約束を果たすために働き続けるのです。
使者(エルサレムに向かって語る人、あるいはエルサレム自身)は、人目につく高い山に行き「良い知らせ」を宣言するよう命じます。九節に出てくる「良い知らせ」というヘブライ語の訳として七〇人訳聖書で使われたギリシャ語は、新約聖書の中で「福音」と訳されているのと同じ言葉が使われています。メッセージは明瞭です。
「見よ、あなたたちの神 見よ、主なる神。
彼は力を帯びて来られ 御腕をもって統治される。
見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前を進む」(九、一〇節)。
敵を征服した王のように、イスラエルの神は戦利品を御自分の大切な人々――残りの民、御自分に忠実な民――のためのほうびとして持ち帰ることでしょう。
一〇~三一節は、交差法で書かれています(前の章ですでに一つの例をあげました。イザヤ書にはたくさんの交差法が出てきます)。6細かなところまでは注目しませんが、この文学形式を通して著者が強調しようとしていることについて取り上げてみることにします。第一に、神は権力を持って来られることと(勝利を得た王)、神は御自分の民を気にかけておられることが強調されています。著者は、古代近東の人々に良く知られた、人々の羊飼いとしての王、という象徴で神を描写しています。この概念はシュメールのルガルザゲッシ(紀元前二四五〇年頃)の時代にまでさかのぼった頃の文書に出てきます。旧約聖書ではしばしばこの象徴が用いられていますし、イエスご自身も新約聖書の中で、御自分を良い羊飼いのイメージで表現しておられます(ヨハネ一〇ノ一一)。ここイザヤ書では、神は小羊を抱き、雌羊を優しく導き、御自分の羊を優しく世話しておられます。
エルサレムの神の偉大さ
このイザヤ四〇章一二節で、イザヤ書の中で顕著な概念である創造のイメージに切り替わります。神は建築家のように宇宙を測定し、天秤で地球を重量測定します。神はあまりに無限であられるので、山々でさえ、はかり皿の上の塵のようです。それらはあまりにもとるに足らないものなので、それらを吹き飛ばす価値さえありません。そして、一三節は近東に共通の別のイメージを取り上げ、それと逆のイメージを描きます。古代の人々は、神々は、神々の協議会の中で主要な決定をしたと信じていました。しかしイスラエルの神は、御自分が何をするべきであるかを教えてくれるカウンセラーを必要としないのです。
「主に助言し、理解させ、裁きの道を教え
知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか」
(一四節)。
様々な概念と象徴は、エルサレムの神の理解しがたい偉大さを伝えることを探ります。神はあまりにも無限なので、全ての国々は天秤の上の塵、バケツにこぼれる一滴のしずくにすぎないのです(一五節)。神はすべての国家を支配します。そのような壮大な神は礼拝を要求します。しかし、どのように礼拝すればいいのでしょうか? 犠牲を捧げることによってでしょうか? 肥沃なレバノンのすべての木材と動物さえ神に捧げるにふさわしい犠牲を提供しないでしょう(一六、一七節)。
交差法の真ん中の部分は常に、著者が一番重要と考えている事柄を含んでいます。一八~二〇節がこの箇所の真ん中の部分になります。聖句は次のように尋ねます。
「お前たちは、神を誰に似せ
どのような像に仕立てようというのか」(一八節)。
神は人類に知られているあらゆるものを超えたお方なのです。明らかに神と比較することのできないものを一つあげるとすれば、それは偶像です(一九、二〇節)。イザヤがその書の中で幾度となく主張しているのはこの点です。
偶像――無価値の神
古代の近東の人々は、彼らの偶像が実際神であったとは信じていませんでした。偶像とは、神が人々の間にご自身を現したいと望むときに、一時的に神が宿る物体にすぎないと考えられていました。エジプトとメソポタミアの両方において、偶像は「開口」と呼ばれた特別な儀式によって神聖化されました。それは象徴的な命を、対象となる物体に与える儀式で、エジプト人がミイラの命を回復させると信じて行なっていた儀式と似ていました。その儀式の後、それが神自身であるかのように、人々は偶像に祈ったのです。イザヤは、旧約聖書の他の部分と同じく、偶像とそこに宿った神とを区別していません。彼は異教の全ての神々を人間が造り上げたものと見なしています。また、想像上の神の姿を物質的な表現で作り上げる行為の愚かさに注目して異教の礼拝をあざけります。
旧約聖書の他の箇所では、真実で無限なる神が住むに値する地上の家を人間が作るという考えに対してさえ、疑問が投げかけられています。ソロモンはエルサレム神殿を捧げる儀式の中で次のように尋ねています。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(列王記上八ノ二七)。しかし、神自身にしろ神が宿る場所にしろ、創られたものがそれを作るという考えは、ばかげています。神は創造物を測ることができますが、創造物が神を測ることはできません。
それでも、人間はどうにかすれば自分たちの神を作ることができると考えます。イザヤ四〇章一九、二〇節はその考え全体に対する反論です。この聖句はカナン人の偶像の製造に注目します。エジプトやメソポタミアの他の地域のものとちがって、パレスチナの偶像は大抵四~一〇インチほどの小さいものでした。それらは、木を彫って作られるか、7粘土(ここでは言及されていませんが)の型で造られるか、金属で鋳造されました。ここでは後者の方法に注目しています。
古代の偶像職人はロウ除去法という鋳造法を用いていました。まずロウで像の形を作り、それから職人がそれを粘土で包みます。それを火で熱することによって中のロウが溶けだし、空洞の鋳型が固まります。次に溶かした青銅を、偶像の足の裏にある穴から注ぎ込み、木の台座に固定するために使う刀根のような伸ばした棒を足の裏に出しておきます。金属が冷えたら、粘土の鋳型を壊します。最後に、金槌で偶像の表面に金箔または銀箔を打ち付けていきます。考古学者はこうした小さな偶像をいくつも発掘してきました。あるものは表面に貼られた金箔や銀箔の痕跡がまだ残っているものもあります。そして、これらが全世界を創造し維持することのできる神々を象徴すると思われていたのです!
有限な人間が自分たちの神々を作る? そんなばかげたこと、と聖書は宣言します。真の神は無限なのです。神の目から見たら、人間はバッタのようなものです(二二節)。神は宇宙を創られ、そこに住むはかない被造物の歴史をコントロールされるのです(二二~二四節)。神の「基」(二一節)が天と星8を形作ると同じように、国々と社会の組織を形作ります。主は支配者の中の支配者であるばかりでなく、主には挑戦者となりうるライバルの神など存在しないのです。再び神は尋ねます。
「お前たちはわたしを誰に似せ
誰に比べようとするのか、と聖なる神は言われる」
(二五節)。
人間は自分たちの有限性を学ぶ必要があります。星を見上げなさい、と神はイザヤを通して宣言します。神はそれらを造り、保っておられるのです(メソポタミアの占星術学者や、現代、星が人類をコントロールしていると思っている人々との対比)。現代の天文学は肉眼で見ることのできる宇宙の広大さや複雑さを明らかにしています。私たちは、聖書が書かれた時代に生きていた人々が感じていたよりはるかに、自分たちの有限性を感じるべきです。なぜなら、天地創造の広大さを見ることによって、神というお方が、預言者たちが感じ取っていたことをはるかに越えた存在であることを知っているからです。真に、神と比較することのできる存在などありえないのです。
神の民は、神がご自分の世界――特に歴史に、どのように働きかけてこられたのか、ということを理解するのに苦心しています。実のところ、神が関わられたということ自体が疑問視されています。アッシリアや他の異教の国々は、もう少しでダビデの王国を滅ぼしていたのではなかったでしょうか。エルサレムは絶えず危機にさらされていたではありませんか。捕囚の脅威は彼らの上に迫って来ていませんでしたか。それでも、神は、彼らの神であると主張なさいました。もしそうなら、神は彼らを守るべきではなかったでしょうか。
主は彼らの質問を知っておられ、彼らとその疑いを和らげられます。
「ヤコブよ、なぜ言うのか
イスラエルよ、なぜ断言するのか
わたしの道は主に隠されている、と
わたしの裁きは神に忘れられた、と」(二七節)。
神の民は、神が彼らに何の注意も向けておらず、神はご自分の義務を果たしていないと考えていました。彼らは、自分たちを助けるために主が何をなすべきなのかということを知っていました。しかし、神は何一つなさらない様子でした。神は多くの異教の神々と同じように、人類とその抱えている問題に気づかないお方なのでしょうか。神が彼らを助けるために何かしてくださるのでしょうか。しかし、神が彼らに与える唯一の答えは家長ヨブになさったのと同じものでした。すなわち、神は創造主であり、神のなさることは、本来、しばしば人間の理解を超えているということです(二八節、ヨブ記三八~四一章)。さらに、神は「倦むことなく、疲れること」がありません(イザヤ四〇ノ二八)。古代近東の神々は疲れたり忘れっぽくなることがありました。死んでしまうことさえありました。しかし、イスラエルの神は、決して尽きることのないすべての力の源でした。
悲しいことに、神の民は、何世紀にもわたって神が教え導いてきたにも関わらず、これらすべてをまだしっかりと捕らえていませんでした(二八節)。神は彼らを慰めたいと切望しているのです。しかし、神が人類歴史を含むすべての創造主であるということを、民がしっかりと捕らえたときに初めて、神は彼らを助けることができるのです。民は神を待つ(訳者注――三一節の「望みをおく」は、欽定訳ではwaitとなっている)ことを学び、神にご自分の時と方法で働いていただくことを学ぶ必要がありました。
ここに出てくるヘブライ語は「待つ」または「希望」のどちらともとることができます。ここでは、概念が重なり合っています。すなわち「待つ希望」あるいは「希望的に待つ」です。イスラエルのせっかちさと、神からの即座の行動を要求するところは、自分を破滅させるものでした。神とそのご計画を待つという姿勢は、力を与え、危機において立ち上がらせ、倦まず、疲れず、進み続けさせてくれるのです。鷲の翼という表現は適切です。鷲は、その力強い羽によって上昇するのではなく、上昇気流がその固定した翼を押し上げることによって舞い上がるのです。待つ(訳者注――新共同訳の三一節を意識するならば「主に望みをおく」と訳した方がよいと思われる)者たちとは、持ち上げられる準備ができている者たちであり、聖霊の神の時と方法によって上に持ち運ばれる者たちなのです。9
一〇~三一節の交差法の部分は、始まりの部分と同じような感じで終わります。すなわち、神は私たちの理解を超える力であり、ご自分の群の弱い者を助け力づける羊飼いのようであると述べています。羊が、どのように羊飼いが彼らを世話するかを理解しないのと同様に、神の民は神が苦労して約束を果たそうとされることを理解しませんが、それでも主は、弱っているイスラエルに対してご自分の群れの中にとどまっている限り、力を与えてくださるのです。
これは、神の民が現在も学ぶ必要がある教訓です。主は私たちが期待する通りに、あるいは望む通りの方法で働かれるとは限りません。しばしば神は、私たちにとって意味がないと思われるようなことをなさいます。古代人たちは木や石や金属や粘土で偶像を作りました。私たち現代人は哲学や神学や予言のチャートやその他の実在物を現代の偶像に変えてしまうことができます。そして、異教徒たちが自分たちが彫ったものや鋳造したものを信頼したように、私たちもそうした現代の偶像を信頼するのです。しかし、それも偶像礼拝なのです。なぜなら、神以外のものの上に私たちの信頼を置いているからです。
神に従う現代人たちは、神がこの地上に永遠の王国を立ててくださるのを今でも待っています。神はどうしてまだ来ていないのでしょうか。明らかな遅延が私たちを惑わします。私たちの信仰はしぼむかもしれません。世界の歴史は続いていき、私たちは草のように滅びます。しかし、神はそれでも神なのです。この地球とそこで起こる出来事の創造主なのです。そして、それが、神が確かに約束を果たされるという究極の保証なのです。
イスラエルとヤコブのように、神が創造主であるということが私たちの慰めの源であるにちがいありません。
神は国々の支配者です。そして、それがどういう意味なのかを熟考するべく、四一章で、神は国々を議会に召喚するのです。
参考文献
1. J.A.Motyer, Isaiah: An Introduction and Commentary, p.242
2. 同p.243, 244
3. J.H.Walton, V.H.Matthews, and M.W.Chavalas, The IVP Bible Background Commentary: Old Testament, p.625
4. Motyer, p.244
5. Walton, Matthew, and Chavalas, p.626
6. John D.W.Watts, Isaiah 34-66 , Word Biblical Commentary (Waco, Tex.: Word Books, 1987), vol.25, pp.88.89
7. 面白いことに、偶像製作者はここで朽ちない木を選んでいる(イザヤ40:20)。朽ちる木から作られた神々は永遠の神と著しい対象をなしている。
8. John D.W.Watts, Isaiah 34-66, p.92
9. 同p.95, 96
*本記事は、レビュー・アンド・ヘラルド出版社の書籍編集長ジェラルド・ウィーラー(英Gerald Wheeler)著、2004年3月15日発行『悲しみの人 イザヤ書における神と救い』からの抜粋です。