ヒップホップから神へ【聖書とポップミュージック】#3

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目次

出エジプト32章に見られる4つの罪

神は僕に、とても興味深いものを示されました。出エジプト32章を見てみましょう。

主は、僕に終わりの時代に起こる音楽に関することを示されました。15節見てみると、モーセが十戒の書かれた板をもらったときのことが描かれています。

モーセは身を転じて山を下った。彼の手には、かの二枚のあかしの板があった。板はその両面に文字があった。すなわち、この面にも、かの面にも文字があった。その板は神の作、その文字は神の文字であって、板に彫ったものである。ヨシュアは民の呼ばわる声を聞いて、モーセに言った、「宿営の中に戦いの声がします。」

しかし、モーセは言った、「勝どきの声でなく、敗北の叫び声でもない。わたしの聞くのは歌の声である。」モーセが宿営に近づくと、子牛と踊りとを見たので、彼は怒りに燃え、手からかの板を投げうち、これを山のふもとで砕いた。出エジプト32:15(口語訳)

そして、25節と26節には次のように書かれています。

モーセは民がほしいままにふるまったのを見た。アロンは彼らがほしいままにふるまうに任せ、敵の中に物笑いとなったからである。モーセは宿営の門に立って言った、「すべて主につく者はわたしのもとにきなさい」。レビの子たちはみな彼のもとに集まった。出エジプト32:25,26(口語訳)

ここを深く読むと、イスラエルの民には、エジプトから持ってきた4つの罪があるのをわかります。まず、18節に「わたしの聞くのは歌の声である」とあり、最初の罪はクリスチャンの価値観とは異なる歌を歌っていたことであることがわかります。

さらに19節には「モーセが宿営に近づくと、子牛と踊りとを見たので」とあり、偶像礼拝とそれに携わる踊りの2つの罪がみられます。

そして、25節を読みますと「彼らはほしいままにふるまう」と表現されています。英訳の聖書には、裸であったことに言及している訳し方をしているものもあります。

ここを読むと、イスラエルの民の間に、この4つの罪が流行っていたことがわかります。クリスチャンの価値観と合わないダンスや歌、偶像礼拝に裸、つまり淫らな行為です。

これらがイスラエルの民にまん延していたのです。

今の時代もまったく同じような罪がまん延しています。だれも神について歌っておらず、クリスチャンの価値観と合わないダンスばかりです。性への間違った考えを植えつけるような歌やダンスなどは、当時のイスラエルの民が行なっていたことと変わりありません。

僕はさらに、金の子牛は何を示しているのだろうかと考えました。今日の世の中で、それに変わって人々が持っているもの、あるいは崇拝しているものはなんだろうか。

それはお金です。また、すべてのラッパーがその動画で表現しているジュエリーや車などもそうです。神に変わる何らかのものを大切にすることは、心に偶像を持つということになるのです。

さて、裸であることはどうでしょうか。かつてのMTVでは服を着用していましたが、今はロックやラップに関わらず、一つ残らずといっていいほど、体のラインが露わになっています。

体を清く保つことはとても大切です。聖書には淫らな行為をしてはいけないとあります。モーセが山から降りてきた時、まさにそれらの4つの罪が行われていたのです。

神はある目的を持って、モーセを山から降りてくるのを遅らせました。

イスラエルの民を試すために、わざとモーセを山に長くとどめたのでしょうか? そうではありません。

神はイスラエルの民に、モーセを迎え入れる準備をするように望んでいました。心を探り、神に向き合う準備、罪から離れることを望んでいたのです。少しでも多くの民が悔い改めることが出来るように、神はモーセの帰りを遅らせたのです。

しかし、モーセが帰って来るのが遅かったときに、「モーセが山から下りてこない!どうなっているんだ!」とイスラエルの民は言い始め、罪を犯してしまったのです。

忍耐されているキリスト

キリストは、ふたたびこの地上へ戻ってくることを約束して、天に昇られました。しかし、すぐにこの地球に帰ってこようとはされず、モーセのときのように、遅れているように思われます。なぜでしょうか?

彼を待っているはずの神の民である、この世界のクリスチャンたちが、キリストが来ないことを理由にイスラエルの民と同じように罪を犯しているからです。

クリスチャンの価値観に合わない歌やダンスを楽しみ、欲のままに生き、偶像を拝むなど、モーセのときと同じように、今もこれらの罪がまん延しているのです。

「ショーン、わたしはすぐにくる」と主は僕に示されました。

そして、神は今もモーセが当時、神の民に語られたように、「すぐに来る」と僕たちに語り続けているのです。この世界には罪がまん延しているが、わたしはすぐに来る、だから用意していなさいと僕たちの心に働き続けています。

このメッセージをみなさんに伝えるために、神が暗闇からまばゆい光へと導いてくれたのだと、僕は確信しています。神はもうすぐ帰ってこられます。心を探り、悔い改めましょう。

「神がもうすぐ戻って来ると、どうして分かるのか?」と不思議に思っている人もいるかもしれません。しかし、それはこの世界の状態をみれば、簡単にわかります。

罪深い歌やダンスはもちろん、卑しい行為、偶像礼拝などが世界中にあふれていることから、神はもうすぐ来られるということが分かるのです。

レビ族の特徴

さらにレビ族について学んでみると、興味深いことに気づきました。

イスラエルの民が罪を犯しているとき、金の子牛を礼拝しなかった唯一の部族が、レビ族だったのです。他の11部族は騒ぎ、踊り、子牛にひれ伏していましたが、「わたしたちはモーセが山から下りてくるのを待つ」とレビ族だけが言いました。レビ族だけなのです。

ほかにも、レビ族には面白い特徴があります。民数記1章50節を開いてみましょう。

あなたはレビびとに、あかしの幕屋と、そのもろもろの器と、それに附属するもろもろの物を管理させなさい。彼らは幕屋と、そのもろもろの器とを持ち運び、またそこで務をし、幕屋のまわりに宿営しなければならない。幕屋が進む時は、レビびとがこれを取りくずし、幕屋を張る時は、レビびとがこれを組み立てなければならない。ほかの人がこれに近づく時は殺されるであろう。民数記1章50節(口語訳)

ほかの部族が幕屋に触れようとすると、殺されてしまいました。レビ族だけが許されていたのです。

レビ族だけが、幕屋を運ぶことを許され、聖所について教えることが許されていたのです。

ほかにも面白い特徴があります。歴代志上15章16節には次のようにあります。

ダビデはまたレビびとの長たちに、その兄弟たちを選んで歌うたう者となし、立琴と琴とシンバルなどの楽器を打ちはやし、喜びの声をあげることを命じた。歴代志上15章16節(口語訳)

これを読んだ時、思わず「おぉ!」と声を漏らしましたことを覚えています。さらに、歴代志下29章25節を見てみましょう。

王はまたレビびとを主の宮に置き、ダビデおよび王の先見者ガドと預言者ナタンの命令に従って、これにシンバル、立琴および琴をとらせた。これは主がその預言者によって命じられたところである。歴代志下29章25節(口語訳)

これを読んだとき、僕はふたたび感動を覚えました。

レビ族の3つの特徴は、モーセを待つ唯一の部族、聖所のメッセージを与えられている部族、そして、本当の音楽について教えるよう命じられている部族ということなのです。

1844年、多くのプロテスタント教会が集まり、イエスの再臨を待っていました。しかし、その理解が誤っており、イエスが帰って来ないことがわかったとき、アドベンチスト教会の創始者たちをのぞいて、すべての人が去っていきました。

アドベンチストの初代パイオニアたちは、まるでレビ族のように、他の人々が去っていったにも関わらず、「わたしたちはとどまり、キリストを待つ」とその信仰を持ち続けました。

レビ人の2つ目の特徴は、聖所についてのメッセージを知っているということでした。レビ族だけが幕屋に触れ、運ぶことができたように、それはセブンスデー・アドベンチストだけが持っているメッセージです。

セブンスデー・アドベンチストと同じ聖所についてのメッセージを持っている教会はありません。三位一体や沈めのバプテスマなど、セブンスデー・アドベンチストと他教派が共通する教理はいくつもありますが、聖所のメッセージは僕たちだけの理解です。

レビ族の最後の特徴に、音楽についてのメッセージが与えられていることがわかります。それは、真のクリスチャンのための音楽です。エレン・ホワイトの著書には、音楽についてアドバイスがあります。

レビ族と同じように僕たちに与えられた特徴とはなんでしょうか?

それは聖所と音楽の賜物です。アドベンチストには音楽の賜物が与えられているのです。清い音楽で神を賛美するようにしましょう。

レビ族の使命

さらにレビ部族は、モーセが出て行ったとき、他の部族も悔い改めるように働きかけたと、『国と指導者』の中でエレン・ホワイトは述べています。

アドベンチスト教会は、特別な使命を持っています。なぜなら、レビ族は、すべての真理、聖所の真理、音楽についての真理を持っていたからです。

僕たちは霊的なレビ族です。

僕の経験を通して、特に強調したいのは、音楽についての真理を知らなくてはならないということです。

世俗的な音楽を楽しむことは避けましょう。クリスチャンロックやクリスチャンラップのように、たとえ歌詞は神について書かれているものであっても、それらは神の望む音楽ではないのですから。

それらを楽しむことは、あやまった礼拝に参加するようなものなのです。

レビ族の仕事の一つは、毎安息日に音楽について教え、演奏するものでした。どのような音楽を教会の会衆に届けるべきかを祈り、神からインスピレーションをもらっていました。彼らは音楽を通して、神のことを伝えたのです。

また彼らは、音楽や日々の活動を通して神と深い関係であったため、子牛を拝む偽の礼拝に参加ことを選択したのです。

レビ族は今日の僕たちです。

あなたは霊的なレビ族、使命を果たすために選ばれた民です。

ラップや、ロックや、コンテンポラリー音楽を聴いたり、作曲したりして楽しむことをやめましょう。神を心から賛美する音楽を大切にすることは、僕たちに託された重要な責任です。僕たちは、この時代のレビ族なのです。

クリスチャンの精神

僕が音楽について、このようなメッセージを語ると、青少年の子供を持つ両親がこう言ってくることがあります。

「ショーン、わたしたちはあなたに対して怒っています。わたしたちの息子はやっと教会に来るようになり、エレキギターを片手にクリスチャンロックをして、神に仕えようとしているのに、あなたのメッセージによって息子は失望して、教会を去ってしまったのです」

しかし、みなさん、神に従うとき、神の道を歩むとき、だれもが自分の持っているものをあきらめなくてはならないときがあります。

僕は大金を捨て、音楽を辞め、名誉を捨てました。神が望まないものは、すべて手放したのです。

みなさんはどうでしょうか?

この世のものを捨てて、神に従うという決断をしているでしょうか。神はふたたび戻ってこられるのですから、僕たちは無駄なものを手放し、準備しなくてはならないのです。

終わりの時代には、学びに学びを加えて、聖書を学んでいくでしょう。

僕たちが今までに良いと思っていたものは、真理の光が与えられるとともに、はるかに良いものと置き換えられるのです。これが終わりの日まで続きます。

「あれもこれも欲しいのです!」ではなく、「主よ、捨てます、捨てます、すべて捨てます。あなたのために何もかも捨てましょう」と、わたしたちは祈る必要があります。

クリスチャンの精神とは犠牲の精神なのです。

それは退屈な人生を意味しているのではありません。

神は「音楽を捨て去りなさい、クラシックだけ聴きなさい」と言われているのではありません。

「音楽をしたいのなら、こうしたらどうだろう」とそれらにかわるより良いものを与え、導き、示されるのです。

しかし、多くの場合、若者たちは、カインのようなささげものをしがちです。

カインのささげものとは、「これが僕の選んだささげものです。お受けください」という精神です。

つまり「僕はあなたに従いますが、僕がしたいように音楽に関わります。受け入れてください」というもので、自分で決める、自己中心的な心からの捧げものです。

100%の主に従う従順な心からのささげものではないのです。これがカインのささげものです。

「主よ僕にどうして欲しいでしょうか。どのようにしたら良いでしょうか。そして、どのように歌い、どのように音楽を演奏したら良いでしょうか」という精神が、アベルのささげもので、神にすべてを委ねるものです。

神に言われたことを素直に受け止め、それを行動に移して、ささげものをするのです。これがアベルのささげものです。

主がカインのささげものを拒絶されたとき、カインはその後、どのような態度をとったでしょうか?

彼は怒ったのです。

「わたしは音楽について示されました。終わりの時代には堕落した音楽やダンスが広がります。クリスチャンの価値観と合わない世俗的な音楽から離れなさい」。

そのように預言者が語るのを聞いたなら、あなたはどう応えるでしょうか。

「僕はロックで神を賛美したいんだ。神はただそれを受け入れてくださるだけでいいんだ。これが僕のささげものです。僕は神のために自分の好きな歌を歌います」と応えるでしょうか?

神は「小羊をささげなさい」と命じられています。好き勝手にささげなさいとは言われていないのです。

神はきっと次のように言われるのではないでしょうか?

「ささげたい気持ちはわかった。しかし、残念ながらわたしの示したささげもの以外は、なんの意味もないのだ」。

だからこそ、従順にもとづいた犠牲が大切なのです。音楽は賜物であり、主の御前で行うささげものなのです。どうかみなさん、音楽とはどのようにあるべきかを考え、祈り、聖書を読み進めましょう。

預言者が語ったことに従順でいましょう。

みなさんが、アベルのささげもののような、神に喜ばれ、尊ばれるものをささげることができますように。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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