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この記事はこんな人におすすめ!
・キリスト教の歴史をざっくり知りたい
・それぞれの教派の違いが知りたい
・キリスト教の視点で世界史を学びたい
世界史に大きな影響を与えているキリスト教。その歴史を知っていますか?
この記事では、ざっくりとキリスト教の視点で世界史を見ていきます。
これを読んだら、歴史の見方が変わるかも?
キリスト教の始まり
イエス・キリストの生涯と十二使徒の活躍
イエス・キリストは、今から2000年ほど前、イスラエルの小さな町ベツレヘムの馬小屋で誕生します。その後、30歳を超えてから宣教生活に入っていきました。
キリストは、宣教活動中にさまざまな教えを説き、奇跡を行い、12人の弟子たちを選ばれましたが、これが後に十二使徒と呼ばれる人たちになります。
最後にキリストは、当時の指導者たちの妬みにより、無実の罪で十字架で処刑されていきますが、聖書はその後、キリストが復活したことを記録しており、これがキリスト教の信仰の中心となっています。
その後、弟子たちがキリストの教えを伝えていきます。
この当時、キリスト教が広まるための環境は以下のように整えられていて、これによってキリスト教は急速に発展し、広まっていくのでした。
キリスト教が広まった要因
- パレスチナ、また地中海沿岸の各地の情勢が安定していた
- ローマは整備された道路網を張り巡らしていた
- ギリシャ語という共通言語が存在した
- ローマに征服された民族は自分たちを守れなかった神々への信仰を失っており、その空白を埋める思想がなかった
キリストの誕生日はクリスマスじゃない?
12月25日のクリスマスは、キリストの誕生日として知られていますが、これは後付けのもので正確な誕生日はわかってはいません。キリストは紀元前4年に誕生したと考えられ、その時期には諸説あります。
イエス・キリストの教え
当時、イスラエルの人々は律法主義(行い)によって救われようとし、メシア(救い主)の到来によってローマの支配から解放されると信じていました。
しかし、メシアであると宣言されたキリストは、自身を神であるとし、それを受け入れ、聖書の教えから離れていることを認め、キリストにあると信じることによって救われると説きます。
また、メシアの役割がローマの支配から解放し、新しい王国を築くことではなく、人類の罪を背負って死に、人々に平安と希望を与えることであるとします。
キリスト教以前のローマ帝国の宗教
古代ローマの宗教の一つであるミトラ教は、太陽神ミトラス(ミスラス)を主神とする密儀宗教で、特にローマ帝国の兵士たちが魅了された。
しかし、ミトラ教はキリスト教の発展と共にその勢力を失うことになる。
ローマ帝国とキリスト教
迫害と異端の混乱下でのキリスト教【ローマ帝国による迫害】
1世紀後半から4世紀初頭まで、皇帝たちはキリスト教徒を迫害しましたが、その理由には以下の4つが挙げられます。
キリスト教の迫害の理由
- 皇帝礼拝を拒否したこと
- ローマの神々に犠牲をささげなかったこと
- 民衆の憎しみを受けたこと
- さまざまな誤解を受けた場合など
ローマ帝国が定めた神々に犠牲をささげなかったため、無神論者であるとされ、キリスト教徒が神々の怒りを買い、災害を引き起こしていると非難されたのです。
このようななかで、キリスト教を擁護するために活躍した人々がいました。
2世紀前半に活躍した人々を使徒後教父といい、2世紀後半に活躍した人々を弁証家または護教家といいます。彼らはキリスト教に対する誤解、非難などに対してキリスト教の正当性を訴えていったのです。
グノーシス主義
2世紀のキリスト教会を混乱させた異端。
善は霊であり、悪は肉(物質)であるという二元論を教えの基本としている。
そのような思想から、神であるキリストが悪である肉体を持つはずがないとそれを否定した。
加えて、天地創造を描いている旧約聖書を否定し、旧約聖書の神は悪である物質を創造した下等な神であるとした。
またこの時代には、グノーシス主義のような異端が生まれてきたため、使徒信条と呼ばれる教会が出した正統的な立場の声明もつくられました。
しかし、この使徒信条もすべての神学問題に対応できたわけではありませんでした。次の三点において、この信条では明らかにされていないのです。
- キリストは神の子とされているが、神であるのか
- 聖霊も神なのか
- キリストが神であり、人でもあるなら、この関係をどう考えるのか
これらの疑問のうち、1つめについてはニカイア公会議(325年)で、2つめはコンスタンティノープル公会議(381年)で、3つめはカルケドン公会議(451年)で解決されました。
ニカイア公会議、コンスタンティノープル公会議、カルケドン公会議とは
- ニカイア公会議=「キリストが神であり、人であること」を宣言
-
ニカイア公会議は、アレクサンドリア教会の長老であったアリウスの異端的な考えを解決するために開かれた会議です。
この会議では、正統派のリーダーとあったアタナシオスの立場が採用され、「ニカイア信条」でそれが表明されました。
ニカイア信条において、アリウス派は異端とされ、またグノーシス派も否定されている。
アタナシオス(正統) アリウス(異端) キリストは神によって創造されていない キリストは神によって創造された 父なる神とキリストは「同質」である 父なる神とキリストは異なる アタナシオスとアリウスの主張の違い - コンスタンティノープル公会議=聖霊が神であり、三位一体の教義を採択
-
この公会議では「ニカイア・コンスタンティノープル信条」が決められた。
この信条は、「ニカイア信条」を追認し、聖霊が神であることを明記して三位一体の教義を主張している。
- カルケドン公会議=「キリストが神であり、人であること」の意味を討議
-
ニカイア公会議で「キリストが神であり(神性)、人であること(人性)」は確認されたが、この神性と人性の関係においてはさまざまな考えが説かれるようになっていた。
そのため、カルケドンで開かれた会議でこの問題への正統的な見解として「カルケドン信条」が決められた。
ミラノ勅令と東西分裂、そして滅亡【ローマ帝国の変化】
ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌスは、313年にミラノの勅令を交付して、これまでの帝国の政策を変えて、キリスト教を公認しました。
- コンスタンティヌスがキリスト教に改宗したのでキリスト教を保護するために勅令を出した
- キリスト教を敵にするより、キリスト教を保護したほうが得策であるという政治的判断による勅令であった
いずれにしても、コンスタンティヌスはキリスト教を保護する政策を次々と実行していった。
その後、皇帝テオドシウスが、390年に市民がキリスト教を信仰すべきであると宣言、391年にはローマの伝統的宗教信仰を禁止するなどしてキリスト教をローマ帝国の国教としました。
これにより信者が増加したのに加え、そのほかの要因もあり、聖職者制度が変化します。
- 帝国の住民区の分割区分に合わせて、分割区分が生まれた
- 司教の上に大司教が立つという、上下関係が生まれた
これにより、アレクサンドリア、エルサレム、アンティオキア、コンスタンティノープル、ローマに総大司教職が置かれることになります。
また、4世紀から5世紀にかけて、ローマ帝国は大きく変化します。
330年、皇帝コンスタンティヌスは首都をローマからビザンティウムに移し、コンスタンティノープルと改称します。
さらに395年、皇帝テオドシウスが帝国を二分。西ローマ帝国の首都をローマ、東ローマ帝国の首都をコンスタンティノープルにしたのです。
これにより、ローマ帝国は東西に分裂することになりました。
その後、7世紀にはイスラム勢力の台頭によって、有力であったアレクサンドリア、エルサレム、アンティオキアは壊滅的な影響を受け、ローマ教会とのコンスタンティノープル教会のみが総司教区として力を持ちつづけます。
さらにその他の要因も加わり、西方教会(ローマ・カトリック教会)と東方教会(ギリシャ正教会)に分かれることになるのです。
ローマ・カトリックの発展の理由
- ローマ帝国の首都にある教会であった
- ローマは使徒ペテロやパウロの殉教地であり、名声ある教会として発展した
- ペテロが最初の教皇と考えられ、ローマの指導者はその系統を継いでいると考えられていた。
- ローマの教会は有力な指導者を輩出できた
- イスラム勢力の台頭によって、有力であったアレクサンドリア、エルサレム、アンティオキアの3大総司教区が壊滅的影響を受けた
- 西ローマ帝国が476年に滅亡し、西方における唯一の権力者となれたのに対し、東方教会は国家の一部となっていった。
中世ヨーロッパとキリスト教
叙任権闘争とカノッサの屈辱【教皇権の最盛期】
教皇グレゴリウス7世は、聖職者の叙任に世俗の権力者が介入すべきではないとし、1075年に『教皇令』を発布します。
- ローマ教会は神によって建てられた教会である
- 教皇のみが正統で普遍的な存在である
- 教皇は無謬(過ちを犯さない)である
- 教皇のみが司教たちを廃位し、皇帝たちを罷免できる
これによりグレゴリウス7世は、教皇は世俗の権力者より上位にあるとしたのです。
帝国の中心的な存在である司教の任命権を手放すわけにはいかない、皇帝ハインリヒ4世が反応し、大論争が始まります。
ハインリヒ4世は教皇の廃位を決め、それに対して教皇グレゴリウス7世は皇帝を廃位し、破門すると言って対抗します。
当時の教会の教えでは、破門は地獄に落ちることを意味していました。
加えて、帝国内の諸侯は教皇に従わなければ新しい皇帝を選ぶという立場をとったために、ハインリヒ4世は1077年1月、グレゴリウス7世のいる北イタリアのカノッサ城に行き、許しを求めたのです。
この出来事はカノッサの屈辱といわれ、教皇の権威を示した出来事でした。
ヨーロッパにおける中世とは?いつのこと?
専門家の多くは、中世の始まりをゲルマン民族の大移動(5ー6世紀)の時としていますが、歴史家の中にはグレゴリウスが教皇になった590年を中世の始まりとしている。
ゲルマン民族の大移動を起点にするのは、定住したゲルマン民族がその後の歴史に大きな影響を与えたためである。
同様に、グレゴリウスが教皇になったのを起点にするのは、彼が最もカトリック教会と教皇の権力を増し加え、中世カトリック教会の基礎を築いたからである。
いずれにしても、その頃からルネサンス期に至る約1000年が中世と呼ばれている。
十字軍の目的【教会の腐敗】
この頃、人気があった巡礼地の一つであるエルサレムが、セルジューク・トルコの手に落ち、巡礼が困難になりました。
加えて、セルジューク・トルコの進出に脅威を覚えた東ローマ帝国は、教皇を通じて西ヨーロッパ諸国に助けを求めていたのです。
これにより、教皇ウルバヌス2世は聖戦を決議し、十字軍が結成されます。
ウルバヌス2世は「十字軍に加わる者は罪を赦され、償いも免ぜられる」(贖宥の特権)と説いていきます。これは、当時の人々にとって重要な意味を持っていました。
カトリック教会の教えでは、善行を積まなければ死後、煉獄へ行き、さまざまな苦しみを経て、天国に行くと教えていたからです。
人々にとって、十字軍は天国への切符となったのでした。
スコラ哲学とトマス・アクィナスの『神学大全』
スコラ学の目的は、キリスト教の教義を哲学的論理によって説明し、体系化することである。
『神学大全』を書いたトマス・アクィナスによって、スコラ学は大成される。
彼は、善行を積まなければ死後、煉獄へ行き、さまざまな苦しみによって罪を償わなければならないと述べ、煉獄の教えを体系化させていった。
また、十字軍は富を得る機会とも見られました。そのため、十字軍遠征も後期になるとより実利的な動機で参加する人が増えていきました。
わかりやすい十字軍のそれぞれの目的
- 教皇
- 聖地の奪還し、支配権を拡大させ、威信を高めたい
- 分裂していた東西の教会の統一
- 十字軍に従軍した人々
- 罪と償いが赦され、煉獄に行かずに、天国へ行きたい
- 富を得て生活苦から解放されたい
- 商人たち
- 商業圏の拡大と富を得ること
- 諸侯たち
- 土地を得て、支配権を拡大したい
マルチン・ルターとジャン・カルヴァンの宗教改革
ワルド派とアルビジョア派の働き
ワルド派(ワルデンセス)の人々が北イタリアでカトリックに反発して、信仰を保っていました。
「Waldensian(ワルデンセス)」とは、「渓谷の人々」という意味があります。
ワルド派は、自分たちの信仰の起源が、何世紀も前にさかのぼった初代教会の信仰にあり、その信仰を受け継いていると主張していました。
一説によると、ワルド派を創始したのは12世紀のピーター・ワルドであると言われています。
ピーター・ワルドはリヨンの商人で、キリスト教を伝えることに生涯をささげましたが、彼は最初のワルド派ではありませんではなく、ワルド派のルーツは彼よりもずっと前にさかのぼるとも考えられています。
初期のワルド派の名称のひとつはインサバティです。
初期ワルド派は土曜日を安息日(サバス)としてを守る人々であり、彼らが礼拝をおこなう、まさにその日にちなんで名付けられたのです。
ワルド派が活動した谷間の至る所にあった数多くの学校の一つであるバーブス・カレッジは今日も建っています。彼らはここでヨーロッパ全土の宣教師となる若者たちを教え、訓練しました。
彼らは手作業で書き写した聖書を手に、学生や労働者として各国に宣教師として出かけていきました。
当時のヨーロッパでは、聖書を持つことは違法であったため、コートの内側に聖書の分冊を隠し持ち、関心のありそうな人を見つけるとコートから聖書を取り出し、メッセージを伝えたのでした。
このワルド派はアルプス山脈のイタリア側で暮らしていましたが、同じ信仰をもつ集団がフランス側にもいました。
彼らはアルビジョア派と呼ばれ、南フランス全域に広がり、東はアルプスから、西はピレネーにまで及びました
ヨーロッパに点在する他の集団と同じように、ローマ・カトリックの傘下に入る動きに抵抗していました。
もし、この動きが妨げられていなかったら、宗教改革は16世紀ではなく、13世紀に始まっていたとある歴史家は述べています。
13世紀初頭、教皇イノセント3世は十字軍を発足し、1209年から1229年までの20年にわたりアルビジョア派に対する弾圧を強めました。
教皇イノセント3世の命により、十字軍はトゥルーズを攻撃し、征服。その後、南下して、1209年7月にベジエという町を攻めます。
多くの兵士が町を取り囲み、攻撃を仕掛け、十字軍が町になだれ込むと虐殺が行われました。
記録によると血は水のように流れ、町の人々はすべて惨殺されました。誰ひとり助かる者はいませんでした。教会に避難していた人々でさえも殺されたのです。
当時、町の人口は1万5千人ほどでした。しかし、この日には、約6万人がいたと考えられています。近くの町や村の人々が避難して来ていたのです。
この地域にある他の都市や町も陥落し、同じような運命をたどりました。彼らは民族こそ異なりましたが、信仰を同じくする人々でした。
しかし、アルビジョア派は撲滅されたわけではなく、数世紀にわたって小さな単位で残り続けました。
また、これらの虐殺行為がヨーロッパに知れ渡ると、教皇庁の威信は大きく損なわれました。
ジョン・ウィクリフとヤン・フスの働き【宗教改革の先駆け】
イギリスのオックスフォード大学の教授であったジョン・ウィクリフは、当時の教会のあり方に疑問を持つようになり、改革者となります。
ジョン・ウィクリフもまた、聖書を信仰の基準とし、カトリック教会の教義は聖書に教えられていないとして否定しました。
1382年、カンタベリー大司教は教会会議を開き、ウィクリフの教えが誤りであると決議します。
これにより、彼はオックスフォードの教授をやめなければならなくなりますが、人々の支持もあり、改革運動を続けました。彼に従った人々は、ロラード派と呼ばれます。
また、ウィクリフの功績は英訳聖書を完成したことです。これにより、イギリスの人々は自国語で聖書を読めるようになりました。
1415年、コンスタンツ(南ドイツ)会議で異端とされ、死体は掘り起こされ、彼の著書とともに焼かれました。
イギリスのリチャード2世がボヘミアのアンナと婚姻。これにより、ボヘミアから留学生がイギリスにやってきました。
彼らを通して、ボヘミアにウィクリフの思想が伝えられます。
ヤン・フスは、プラハ大学の教授であり、また学長でもありました。1398年頃から、改革運動を始め、ウィクリフ同様に、聖書のみが信仰の基準であると主張し、教会の腐敗を攻撃します。
これにより異端とされ、破門。1414年のコンスタンツ会議で異端とされ、処刑されていきます。
ルネサンスとキリスト教
ルネサンスは、14ー16世紀に起こった中世時代の封建制度や教会の権力からの解放を求め、人間の自由や個性を尊重した文化運動。
ルネサンスと宗教改革は同時期に起こった運動で、どちらも原点復帰を目指していた。
ルネサンスは、古代ギリシア・ローマの文化への復帰を、宗教改革は聖書の原点への復帰を目指した。
マルティン・ルターとジャン・カルヴァンの違いとは?【16世紀の宗教改革】
中世末期にはさまざまな改革が行われましたが、歴史を動かすまでの動きには至りませんでした。
しかし、16世紀の宗教改革は短期間に驚くべき規模の運動へと発展するのです。その理由として、主に以下の3つが挙げられます。
- マルティン・ルターやカルヴァンなどの優れた指導者があらわれた
- 近代的世界の台頭とともに、普遍的で世界的な権威を主張するカトリックに対して批判的な見方が増えた
- グーテンベルグによって活版印刷術が発明された
この宗教改革の目的は、聖書の原点への復帰です。前に扱ったウィクリフやフスの主張も、聖書のみが信仰の基準という点でした。
宗教改革の中心的メッセージの一つが、聖書至上主義です。
この宗教改革を進めていった第一人者がルターです。
罪の意識に悩み、心の平安を望んでいたルターは、アウグスティヌス派の修道院に入ります。その後、修道院での生活が認められ、1507年司祭になり、1512年神学博士の学位を受けました。
彼はヴィッテンベルグ大学で教えるようになり、1516年から『ローマの信徒への手紙』の講義を担当します。その準備をしているときに、人の救いは行いによるのではなく、ただ神の恵みによって、信仰によって救われると聖書は教えていると、ルターは確信したのです。
宗教改革の中心的メッセージの二つめが、信仰義認論です。
1517年10月31日、ヴィッテンベルグ大学の城教会の扉に『95か条の提題』をルターは貼り付けます。この目的は、免罪符販売についての公開討論を求めるものでした。
免罪符の意味とは?免罪符と贖宥状の違いは?
当時、罪は信仰によって赦されるが、罪の結果として生じた罰は、善行によって償わなければならないと、教会は教えていた。
さらに、善行を行わなかった場合、死後は煉獄へ行き、さまざまな苦しみによって罪を償わなければならないと教えていたのである。
その罰を免除できるのが免罪符であった。
しかし、正確にはこの「免罪符」という名称は誤りである。販売されていたものは、罪ではなく、償いを許すと言われていたからである。また、免罪符は贖宥状とも言う。
ルターの行動は、彼が思ってもいなかった反応を招き、宗教改革の始まりとなりました。
カトリック教会は教皇のみが聖書の解釈権を持ち、聖職者は世俗の人々より優れているとしていましたが、ルターは万人祭司説(万人が神と交われる祭司の立場にあるという説)に基づいて批判していきます。
1521年、ヴォルムスの国会でルターは著作の内容を取り消すように要求されますが、彼は拒否します。これにより、破門され、命の危険にさらされました。
その後、ザクセン公フリードリヒ3世によってヴァルトブルク城内で保護されます。彼はそこで聖書のドイツ語訳を完成させていきました。
1529年、皇帝カール5世はカトリックが唯一の正統の信仰であることを決議し、ルター派への弾圧を強めます。
これに対して、ルター派の人々などが抗議(プロテスト)し、このことから改革運動のグループがプロテスタントと呼ばれるようになりました。
1555年、アウグスブルグ講和条約が結ばれ、1648年のウェストファリア条約によって、この戦いにおける一応の結論が出ました。
わかりやすい!ルターの教えとカトリックの教えの比較
- 信仰義認論
- ルター:救いは信仰のみによる
- カトリック:信仰だけでなく行為も救いに影響を与える
- 万人祭司説
- ルター:万人が神と交われる祭司の立場にあるという説
- カトリック:教皇のみが聖書の解釈権を持ち、聖職者は世俗の人々より優れている
- 聖書至上主義
- ルター:聖書のみが信仰の基準
- カトリック:聖書に加えて、聖伝(教会の教えや教会会議の決定事項など)も信仰の権威
このルターによって始まった宗教改革の組織化と体系化をしたのが、カルヴァンです。
スイスのジュネーブで彼が著した『教会規則』に基づいて改革を進めました。
この『教会規則』によって、司教に権限を与える制度ではなく、牧師と信徒の代表である長老たちによって教会運営がされる民主的な制度となりました。
これは、のちのプロテスタント長老派や改革派の教会制度の基本となりました。またカルヴァンは教育にも熱心で、学校を開設し、長老派や改革派と言われた教派を生み出すのに貢献します。
カルヴァンの神学の影響は大きく、ルターの影響をはるかに超えていきました。
この理由としては、『キリスト教綱要』などで彼の神学が明確に述べられたことや、アメリカに渡ったピューリタンたちに受け継がれ、アメリカのキリスト教徒に大きな影響を与えたことなどが挙げられます。
また、中にはこれらの改革がまだ不十分であると考え、さらなる改革を目指したグループやカルヴァンの神学に疑問をていしたグループもあった。
再浸礼派(再洗礼派)は、幼児洗礼が聖書的でないと考え、回心後に洗礼を受けるべきで、洗礼(頭部だけを水に浸す儀式)でなく、正しい儀式である浸礼(全身を水に浸す儀式)を受けるべきであると主張し、バプテスト派の先駆者となった。
また、アルミニウスはカルヴァンの予定説に疑問を抱いた。彼の死後、体系化されたアルミニウス主義は、イギリスのジョン・ウェスレー(メソジスト)やアメリカのプロテスタントなどに影響を与え、特にアメリカのエヴァンジェリカリズムに大きな影響を与えている。
アルミニウス主義とカルヴァンの予定説
カルヴァンの神学には5つの要素があり、その頭文字を取ってtulip神学と呼ばれた。
- 全的な人類の堕落:すべての人類は堕落し、罪の中にいる
- 無条件の選び:神は特定の人々を救いに選ばれた(予定説)
- 限定された救い:キリストの救いは、神によって選ばれた人々のみに及ぶ
- 堅持の恵み:救われた人々は天国に至るまで信仰を保持する恵みが与えられる
- 抵抗できない:神が救いに選んだ人々はその恵みを拒むことができない
それに対し、オランダのレイデン大学教授であったヤコブス・アルミニウスはこの予定論に疑問を抱き、彼の死後、救いにおける自由意志を強調するアルミニウス主義が体系化された。
- 自然的な無力さ:聖霊なしでは人間は自らの救いに対して無力である
- 条件的選択:人が信じることを条件とした選択によって人間を救おうとされた
- 普遍的贖罪:キリストの贖罪の死はすべての人のためであり、これを制限するのはそれぞれの信仰によるもの
- 恵みを失う可能性:神の恵みと信仰が失われる可能性がある
- 抵抗可能:神の恵みが先行されることなしでは、人の救いは始まらず、進行することもない(先行的恵み)
また、救いに必要な神の恵みはその働かれる方法のために、人間の弱い意志によって拒否ができる
アルミニウス主義の違いとカルヴァン神学の主な違いは以下の通りである。
アルミニウス | カルヴァン |
神は予知に基づいて人を選ばれた | 神の一方的な予定 |
キリストはすべての人のために死なれたこと | 神は予定された者のために死なれた |
人は恵みを受けることも拒むこともできる | 神は不可抗的な恵みを与えられる |
また宗教改革が広がりを見せると、カトリック教会は危機感を覚え、「カトリック宗教改革(対抗改革)」を開始。
トリエント公会議(1545ー63)で、宗教改革の教義を否定し、イグナティウス・デ・ロヨラによって設立したイエズス会が設立されました。
英国国教会(聖公会)の誕生とピューリタン運動
ヘンリー8世は世襲となる男子に恵まれなかったため、離婚してアン・ブリンとの結婚を考えましたが、教皇から認められませんでした。
しかし、彼は結婚を強行。1534年に首長令を発し、王がイギリスの教会の首長であると宣言し、カトリック教会と決別します。
政治的な理由から始まったイギリスの宗教改革は、プロテスタント的な要素もありつつも、カトリック的な教理を持続するという不徹底な改革となりました。
ヘンリー8世とアン・ブリンとの間の子であるエリザベス1世は、1563年に「39か条」を発し、英国国教会(聖公会)の基本教理を示します。それは、プロテスタント的な教理でありつつも、カトリック的な要素が残っているものでした。
そのため、エリザベス1世の時代に英国国教会を純化しようとした運動、ピューリタン運動が起こり、礼拝様式や教会の主教制度などの改革を訴えていきます。
さらにその後、ジェームズ1世の時代に、ピューリタンたちは「千人請願」を王に提出し、国教会からカトリック的な風習を取り除くことを提案しますが、王はそれを拒否。事態は悪化していきます。
ジェームズ1世による弾圧が強まる中、1620年にメイフラワー号に乗って、渡米していったピューリタンの人々がいました(ピルグリム・ファーザーズ)。
彼らは英国国教会から分離した分離派で、その教理的立場はカルヴァン主義でしたが、教会制度は会衆制度であったため、会衆派と呼ばれます。
長老派と会衆派
ピューリタン運動の主力となったのは、長老派および改革派教会で、このグループの教会制度の特徴は長老と会議制である。
教会の指導の役割を担う人物を長老と言い、牧師と信徒から選んでいった。また複数の教会の牧師や長老からなる長老会が教会運営に関する重要な決定を決めていく制度であった。
これに対し、渡米したピューリタンのグループは、個々の教会のみを教会と認め、それ以上のカテゴリーの組織を教会とは認めなかった。
国教会のように国の法律によるのではなく、個々の教会が自治していくことを原則としたのである。
このような会衆制度をとったため、会衆派と言われる。
アメリカ独立革命と宗教自由
イギリスとアメリカとの摩擦は増加し、独立戦争(1775ー83)にまで発展します。1776年に独立宣言がなされ、1783年にパリ条約でアメリカ合衆国の独立を敗戦国となったイギリスは承認します。
独立革命後、合衆国憲法において、国教の禁止、宗教・言論・出版の自由の原則などが確立されていきます。国の原則として、宗教自由が認められたのは、史上初めてのことでした。
- 多くの教派が乱立したため、国教の方針を続行することが困難になったため
- クエーカー派、メノナイト派、バプテスト派などが宗教自由について主張したことの影響
- 英国における寛容思想の影響
- 啓蒙主義者たちの寛容思想の影響
これにより、キリスト教は新しい時代を迎えます。それは国教から自由教会への転換です。
教会は権力に強制されるものから、望んだ者のみが選んだ教会に加わるものになったのです。
近現代におけるキリスト教
フランス革命とキリスト教
フランス革命時、人々は第1身分(聖職者)、第2身分(貴族)、第3身分(平民)に分かれていました。
少数の第1、第2身分は、特権階級で多くの土地の所有し、国家の重要な官職を独占し、免税の特権などがありました。それに対して、国民の9割を占める第3身分の平民は、税の負担によって苦しい生活が強いられていたのです。
これにより、革命が勃発。その際に、革命の指導者たちは宗教を否定し、理性を重んじていきます。さらに王政が倒れたことによって、王権神授説を意味をなさなくなり、カトリック教会は国教として力を失っていくことになりました。
この革命は啓蒙思想に大きな影響を受けました。人間の理性を重んじた啓蒙思想家たちは、キリスト教を批判し、特にカトリックを攻撃していきます。
さらに、1793年には非キリスト教化運動が展開され、教会が閉鎖され、カトリックの儀式が禁止され始めました。また、一部の人々は理性の宗教を押し付けようとし、理性の女神の祭典を開いたりもした。
この革命の指導者であるロベスピエールは至高存在を提唱し、神と霊魂の不死を含む、理神論の宗教を採りました。
ただ、無神論者も多かった革命指導者たちには、このロベスピエールの立場はあまり支持されませんでした。
啓蒙思想と理神論
啓蒙思想とは、「神ではなく、人間をあらゆることの中心におく」という価値観。
また理神論とは、合理主義の影響を受けた思想で、「神の存在を認めるが、神は世界の支配者ではない」という価値観である。
理神論者は、世界が創造された後はそれ自体の法則によって世界は動いているとし、神の介入や奇跡、預言、啓示などを認めず、キリストは歴史上の教師にすぎないとした。
信仰復興運動と再臨運動
ジョン・ウェスレーとメソジスト運動
後のメソジスト教会の創始者であるジョン・ウェスレーは、イギリスの信仰復興運動の指導者である。
イギリスにおいて、16世紀の宗教改革に匹敵する運動で、歴史家はこのメソジスト運動がフランス革命や産業革命と並ぶ18世紀最大の歴史的現象であるとしている。
彼は野外で説教をし、組合と呼ばれた信徒の集まりを組織し、信徒の伝道参加を求め、大衆伝道を試みていった。
アルミニウス主義に影響を受け、救いの体験、聖化、聖霊の内住などを強調した彼の運動には、多くの賛同者が現れることになる。
彼自身は英国国教会との分裂を望まなかったが、彼の死後、賛同者たちは英国国教会を離れ、メソジスト教会を組織。特にアメリカで多くの信徒を得て、19世紀にはアメリカにおけるプロテスタント派の中で最大教派となっていった。
1789年頃には、18世紀の独立戦争が安定した教会を壊し、知識階級の人々の多くは理神論に惹かれていました。
先に起こった信仰復興運動の影響はフランス革命や理神論によって、その大半が帳消しとなってしまったのです。
こうして、ニュー・イングランドにおいて、第二次大覚醒が始まります。
イェール大学学長のティモシー・ドワイトは、フランス革命の無神論や理神論などを批判し、何回も信仰復興運動を行い、大きな影響を与えました。
そのほか、さまざまな覚醒運動が起き、バプテスト教会、メソジスト教会の発展へと繋がります。
また、フランス革命によるカトリックの権威の衰退を目の当たりにした研究者たちは、聖書に預言された教皇権の至上権の崩壊が成就し、終わりの時代を迎え、キリストが帰ってくる再臨の日が近いと確信しました。
アメリカのバプテスト教会の信徒説教者であったウィリアム・ミラー、再臨が近いことを説くと、多くの賛同者が集まり、大規模な運動(再臨運動)へと発展しました。
このグループは、最終的に1844年10月22日に預言が成就し、再臨が来ると信じて待ちましたが、その聖書の理解が誤っており、再臨は起こらず、多くの信徒たちは大失望を経験しました。
この信徒たちの中に、初期のセブンスデー・アドベンチスト教会指導者となったジョセフ・ベーツ、ジェームス・ホワイト、彼と結婚したエレン・ホワイトなどがいました。
ファンダメンタリズム(原理主義)とは?福音派とは?
19世紀にはさまざまな伝統的なキリスト教と異なる価値観が生まれていきました。
- 高等批評学:聖書の各巻の著者や成立年代、特徴などを研究する学問。伝統的な理解を否定する考えができたため、正統的な信仰を守ろうとした人々から危険な学問とされた。
- 営利主義:宗教的価値より生活水準の物質的価値を重視する考え方。
- 進化論:1859年チャールズ・ダーウィンの『種の起源』で唱えられた。聖書の記述に基づき、神の創造によって人が生まれたと考えていたキリスト教徒に衝撃を与えた。
- 共産主義:『共産党宣言』(1848年)によって発表されたマルクス・エンゲルスの無神論の立場に立つ経済史観。キリスト教を攻撃し、キリスト教的価値観から歴史を見るのではなく、階級闘争が歴史を動かす力であるとした。
これらの影響で、キリスト教会内においては聖書批評学が発達し、聖書の特に旧約聖書に書かれている記述を神話として見ていく動きが出てきました。
たとえば、聖書は神の言葉でも権威ある書でもないとしたシュライエルマッハーは大きな影響を後世に与え、自由主義神学が19世紀末から20世紀初頭にかけて欧米で広まります。
自由主義神学者たちは、科学の時代に合うような現代的なものにキリスト教を落とし込もうとしました。そのため、聖書の批評的な研究を受け入れ、従来の聖書解釈の多くを否定しました。
その結果、正統的なキリスト教徒からの批判が生じ、新正統主義神学やファンダメンタリズム(根本主義)が台頭することとなりました。
カール・バルトがその創始者ともいわれる新正統主義神学は、神の超越性と人間の理性の限界を説いていきます。しかし、聖書批評学は受け入れていたため、伝統的なキリスト教の立場からは多くの批判がなされています。
このような動きの中で、ファンダメンタリズム(根本主義、原理主義)が生まれます。これは、20世紀初頭に現れたアメリカの保守的なキリスト教のグループの神学を意味する言葉です。
この神学は、プロテスタントの保守派の中で受け入れられ、1940年以降、ファンダメンタリズムにルーツを持ちつつも、より柔軟な姿勢を持つ福音派(エヴァンジェリカルズ)が台頭します。
ファンダメンタリストはいかなる聖書批評学も受け入れませんでしたが、福音派はその原理を認め、取捨選択してその成果を受け入れるようになったのです。
また、20世紀のキリスト教における注目すべき運動は、聖霊カリスマ運動と教会一致運動(エキュメニカル)です。
聖霊カリスマ運動は聖霊のバプテスマを強調していき、ペンテコステ派やカリスマ派となっていきました。
また、教会一致運動は、キリスト教会が対立を捨てて再び一つになることを目指す運動で、カトリック、正教会、英国国教会、プロテスタント諸教派の間で試みがなされています。
年表でキリスト教の歴史が早わかり【まとめ】
イエス・キリストは、今から2000年ほど前、イスラエルの小さな町ベツレヘムの馬小屋で誕生。
その後、30歳を超えてから宣教生活に入り、最後には無実の罪で十字架で処刑されていく。
しかし、聖書はその後、キリストが復活したことを記録しており、これがキリスト教の信仰の中心となる。
ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌスは、313年にミラノの勅令を交付し、キリスト教を国教化。
ニカイア公会議で「キリストが神であり、人であること」を宣言し、カルケドン公会議でその意味を討議。コンスタンティノープル公会議で三位一体の教義を採択した。
西方教会(ローマ・カトリック教会)と東方教会(ギリシャ正教会)に分かれる
教皇は世俗の権力者より上位にあると宣言され、カノッサの屈辱が起こる。
ルターによって宗教改革が始まり、カルヴァンによって宗教改革の組織化と体系化がされる。
ヘンリー8世がイギリスの教会の首長であると宣言し、カトリック教会と決別。
しかし、カトリック的な要素が残っていたため、英国国教会を純化しようとした運動(ピューリタン運動)が起こっていった。
啓蒙思想に影響されたフランス革命を経て、理神論が台頭。
また、このフランス革命に並ぶ歴史的現象として、メソジスト運動がある。
加えて、フランス革命の無神論や理神論などを批判したドワイトなどによる第二次大覚醒や再臨運動などが起こった。
19世紀になると、科学の時代に合うような現代的なものにキリスト教を落とし込もうとする動きが生まれ、自由主義神学が誕生。
このような動きの中で、ファンダメンタリズム(根本主義、原理主義)が生まれ、ここにルーツを持ちつつも、柔軟性を持ったグループとして福音派が生まれた。
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参考文献
E.E.ケァンズ『基督教全史』聖書図書刊行会
山形正男『キリスト教2000年の歴史』福音社
今橋朗、徳善義和『よくわかるキリスト教の教派』キリスト新聞社
ホープチャンネル『リニエージ』
辛啓勲『闇は光に勝たなかった』永遠の福音社