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この記事はこんな人におすすめ!
・キリスト教の教えを知りたい
・クリスチャンの価値観を知りたい
世界宗教であるキリスト教。どんな教えなのか、実は知らないという人も多いのではないでしょうか?
そんな人におすすめ! この記事では、キリスト教の教えをざっくり紹介します!
キリスト教の「救い」とは
キリスト教の聖典『聖書』が書かれた目的
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ヨハネの黙示録12章7ー9節
さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。
テモテへの手紙Ⅱ 3章15節
また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。
ヨハネによる福音書5章39節
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
聖書には、世界の始まりに善と悪の戦いがあったと書かれています(ヨハネの黙示録12章7ー9節)。この戦いは力と力の武力による戦いではなく、言葉による「論争」です。
この論争は、イエス・キリスト(神)とサタン(悪魔)との間で起こっている戦いです。
サタンがキリストを訴え、評判を下げようとし、キリストはサタンの訴えに反論していく。まるで情報戦のような世界観が聖書にはあります。
この情報戦の中で、キリストからの情報として聖書が与えられました(テモテへの手紙Ⅱ 3章15節)。
これを「啓示」と言います!
この聖書は主に「イエス・キリストがどのような人物であるか」について書かれています(ヨハネによる福音書5章39節)。
「キリスト教徒としての行動規範」が書かれているだけでないのです。
「こう生きなさい」ということだけを教えている本じゃないんだね!
キリスト教の聖典『聖書』
- 聖書の構成
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『聖書』は66巻の書簡が集まった本で、大きく分けて、旧約聖書と新約聖書に分かれています。
それぞれに章と節がついていて、それらを聖句とも呼んでいます。
- 旧約聖書の内容
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天地創造からバビロン捕囚後までのイスラエルの歴史が主な内容です。
- 新約聖書の内容
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イエス・キリストの生涯や教えが書かれた福音書や最初のキリスト教徒たちの活動が書かれた本、またクリスチャンの生き方について書かれた手紙が含まれています。
聖書に書かれている「天国」
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ヨハネの黙示録21章3ー4節
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
キリスト教の「救い(天国)」とは「神と人が共にいること」です。
これは天国の描写の場面で、「神と人が共にいる」ことが4回も強調されて繰り返されてることからもわかります(ヨハネの黙示録21章3ー4節)。
「救い」や「天国」という言葉で思い浮かべる、永遠の命や悲しみがないといった状態は、「神と人が共にいる」ために起こることなのです。
「救い」は何かが与えられることじゃなくて、「神と共にいること」なんだね!
ここまでのポイント
- キリストとサタンの間に論争が起こっている
- キリストがどのような存在であるかを示すために、聖書が書かれた
- 救いとは、神と人が共にいること
キリスト教の神の特徴
三位一体とは?
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申命記6章4節
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
マタイによる福音書28章19節
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
創世記2章24節
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
エフェソの信徒への手紙3章14ー15節(聖書協会共同訳)
このようなわけで、私は、天と地にあって家族と呼ばれているあらゆるものの源である御父の前に、膝をかがめて祈ります。
フィリピの信徒への手紙2章8節
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
使徒言行録5章3ー4節
すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
キリスト教の神については、「唯一の主である」(申命記6章4節)と書かれている一方、「父と子と聖霊」とも表現されます(マタイによる福音書28章19節)。
申命記6章4節にある「唯一(ヘブライ語でエハッド)」は「一つ」という意味ですが、複数の意味合いのある言葉です(注)。
たとえば、「唯一(エハッド)」は創世記2章24節では、このように使われています。
こういうわけで、男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体<エハッド>となる。
創世記2章24節
ここで出てくる「一体」は先ほどの「唯一」と同じ単語「エハッド」が使われています。
「一体」とは、夫婦として家族として、経済的にも肉体的にもあらゆる面において、「一つ」となることです。
結婚は、2人の人が合体して1人になることでもなく、また別々に歩いていくことでもありません。
「父」「子」「聖霊」の神も同じように、3つであり、1つなのです。目的と向いている方向、そして思いにおいて一つなのです。
- 父なる神
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この世界の時計を巻き戻していったときに、最後に行きつくのは「あらゆるものの源」です。聖書はそれを「父なる神」と呼んでいます(エフェソの信徒への手紙3章14ー15節)。
- 子なる神
-
イエス・キリストのことで、神であるにもかかわらず、人間になられて、わたしたちの罪を背負って十字架にかかられました(フィリピの信徒への手紙2章8節)。
- 聖霊なる神
-
キリストの弟子の一人、ペテロは聖霊を神と呼んでいます(使徒言行録5章3ー4節)。また、聖霊は三位一体の位格のひとつで、父なる神や子なる神(キリスト)と同様、人格的な存在です。
苦しまれる愛の神
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イザヤ書43章7節(口語訳)
わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた。
出エジプト記33章18ー19節
モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」
ヨハネの手紙Ⅰ4章8節
愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
聖書は神の存在の証拠よりも、神の行為を説明することに、多くの時間を費やしています。神の行為の一つひとつは、神が人格的な方であることの証拠です。
聖書の神は、わたしたちと同じように人格を持たれ、考え、行動され、悩まれ、苦しまれる人格的な存在なのです。
聖書は、「わたしたちは神の栄光のために創造された」としています(イザヤ書43章7節)。
「神の栄光」とは、神の品性や性質、つまりを「神の愛」を連想させる言葉です(出エジプト記33章18ー19節、ヨハネの手紙Ⅰ4:8)。
人々が思い描く理想の一つが、二人の愛ゆえに子どもたちが生まれることですが、同じように、神の愛ゆえにわたしたちは創造されました。
キリスト教の神は世界を創造した愛の神なんだ!
ここまでのポイント
- 唯一の神であり、三位一体の神です。
- 三位一体の位格には「父なる神」「子なる神」「聖霊」があります。
- キリスト教の神は人格的な存在で、世界を創造した愛の存在です。
創造論と進化論
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ローマの信徒への手紙1章20節
世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
ローマの信徒への手紙2章14ー15節
たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
聖書は神からのメッセージ(啓示)でしたが、自然界、歴史、わたしたちの良心なども啓示であるとされています(ローマの信徒への手紙1章20節、2章14ー15節)。
宇宙の膨張が観測されて以降、宇宙は「無」から生まれたというのが定説です。
この宇宙の膨張(宇宙は膨らんでおり、宇宙には誕生がある)ということを発見し、ノーベル賞を受賞したジョージ・スムートは「宇宙の誕生を発見したということは、神の顔を見たようなものだ」と言ったとされます。
一方、進化生物学者スティーヴン・グールドは、小さな細胞から人間に進化していく可能性は「ほとんどゼロ」であるした上で、彼はこの進化の過程は奇跡的な偶然であると述べています(注)。
わたしたちには2つの価値観があります。
1つは宇宙は「無」から生まれ、数学的にありえないとされる確率で誕生したが、本質的には偶然に過ぎないという価値観。
もう1つは必然的に創造されたという価値観です。
聖書にある「罪」とは?
悪の始まり
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エゼキエル書28章14ー15節
わたしはお前を翼を広げて覆うケルブとして造った。お前は神の聖なる山にいて火の石の間を歩いていた。お前が創造された日からお前の歩みは無垢であったがついに不正がお前の中に見いだされるようになった。
イザヤ書14章13ー14節
かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り王座を神の星よりも高く据え神々の集う北の果ての山に座し/雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。
ヨハネの黙示録12章7ー9節
さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。
罪の発生を完全に理解することはできませんが、その起源はルシファーの高ぶりにあります。
ルシファーは天において特別に祝福された天使でしたが、いつからか彼はキリストの地位を欲するようになります(エゼキエル書28章15節、イザヤ書14章13ー14節)。
こうして、ルシファーは神の「敵対者」となります。「敵対者」はヘブライ語で「サタン」です。
エデンの園での堕落
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創世記3章1ー7節
主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
天から追放されたサタンは、神が愛し、創造したものを破壊するために、活動を開始します。
エバが与えられている自分の地位に不満を抱き、サタンと同じように神から離れるように、サタンは誘惑します。
エバはサタンの誘惑に負け、アダムにも同じことをするようにも勧めました。これによって、神によって最初に造られた人間であるアダムとエバは罪を犯しました。
それは彼らだけではなく、その子孫にも影響を及ぼし続けるものだったのです。
罪とは
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マタイによる福音書5章21ー22節、27ー28節
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。……「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
聖書の中で、「罪」は次のように定義されています。
罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。
ヨハネの第一の手紙3章4節
ここに出てくる「法」つまり、聖書の教えは「律法」とも言われています。
この「律法」はヘブライ語ではトーラーと言い、「人々が歩むべき正しい道、あるいは方向の指示」という意味の言葉が語源となっています(注)。
対して、「罪を犯す」という動詞は、ハターといい、「道から外れる、神の指示から離れて歩む、目的を見失う」という意味になります。
興味深いことにギリシャ語でも、「罪」は「的外れ」という意味を持つハマルティアという言葉で表現されています。
聖書の教えは、良心の声と同じようにわたしたちの歩むべき道を示すものなのです。
そこから外れたとき、「罪」をわたしたちは犯してしまいます。
日本社会で「犯罪」といえば、法律から反した行動のことを指しますが、聖書の「罪」は心の中の律法から反した思いまで含みます(マタイによる福音書5章21―22節、27―28節)。
罪が自分の心の中の思いまで含んでいるため、クリスチャンは自分の力では救われないと考えています!
ここまでのポイント
- 罪の発生を完全に理解することはできないが、その起源はルシファーにある。
- アダムとエバが犯した罪の影響は、その後の子孫たちにも及び、神と人が離れてしまった。
- 聖書の「罪」は律法を犯すことで、それは心の中の思いまで含んでいる。
モーセの十戒
出エジプト記の中に、預言者モーセに神が十の戒めを与えられたことが書かれています。これは「十戒」と呼ばれていて、聖書のさまざまな教えの基盤となっています。
十戒の一覧
- あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
- あなたはいかなる像も造ってはならない。……あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。
- あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
- 安息日を心に留め、これを聖別せよ。
- あなたの父母を敬え。
- 殺してはならない。
- 姦淫してはならない。
- 盗んではならない。
- 隣人に関して偽証してはならない。
- 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。
出エジプト記20章3節ー17節(新共同訳)
キリストの十字架の意味
神であるキリスト
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ヨハネによる福音書5章18節
このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。
マタイによる福音書14章33節
舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
ヨハネによる福音書5章18節
このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。
フィリピの信徒への手紙2章6ー7節
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
古代史の学者たちは事実上、イエス・キリストは歴史上実在した人物であったとの見解で一致しています。それは幾千もの歴史的文書と考古学的発見がイエス・キリストの実在を裏付けているからです。
このキリストがどのような存在であったかについては、いくつか議論がありますが、キリスト教会では「イエス・キリストは神であり、人となられた」という理解をしています。
イエス・キリストの生涯と復活
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コリントの信徒への手紙Ⅰ15章3ー6節
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと
エフェソの信徒への手紙2章14ー16節
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
キリストは、宣教活動中にさまざまな教えを説き、奇跡を行い、12人の弟子を任命したりしましたが、最後には当時の指導者たちの妬みにより、無実の罪で十字架で処刑されてしまいました。
しかし、聖書はその後、キリストが復活したことを記録しており、これがキリスト教の信仰の中心となっています。また、そのシンボルとして処刑道具であった十字架が選ばれ、今では多くの教会でこのシンボルが建てられています。
キリストの十字架での犠牲は、罪を犯したわたしたちと神を和解させるものです。
キリスト教の中で最も大切なことが、キリストの復活なんだね!
神と人との和解のステップ
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コリントの信徒への手紙I 12章3節
ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
エフェソの信徒への手紙2章14ー16節
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
ローマの信徒への手紙8章15ー16節
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
エゼキエル書36章26節、31節
わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。……そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。
フィリピの信徒への手紙1章6節
あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
コリントの信徒への手紙I 15章51ー53節
わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。
*ラッパの時は、キリストの再臨のときです(テサロニケの信徒への手紙一4:13ー18)
マタイによる福音書6章14ー15節
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。
マタイによる福音書22章37ー40節
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
この神と人との和解のステップは個人個人でなされるもので、このステップには5つのステップがあります。
「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言え」ません(コリントの信徒への手紙I 12章3節)。
この和解のステップは、神の働きかけによってスタートするのです。
専門用語では「義認」と言います。ゆるされることで和解が起こります。
最後のステップがその「神の子」として今から生きていくことで、専門用語では「聖化」と言います。
具体的には、祈りと聖書を通して、キリストとの関係を深め、キリストに似た品性を持つものに変えられていく経験のことを指します。
聖書の「罪」は心の中の律法から反した思いまで含むので、神の力によって心そのものが新しくなるような変化が必要があると、聖書は教えています(エゼキエル書36章26節、31節)。
キリストの再臨のときまでに、わたしたちの心は少しずつ変えられていきます(フィリピの信徒への手紙1章6節
)。また再臨のときに、わたしたちの体も変えられ、罪の影響を受けていない身体と心となります。これを専門用語では「栄化」と言います。
よく使われるキリスト教用語の一覧|福音・義認・贖罪・贖い
- 福音
-
キリストによって神と人の関係が和解し、回復することです。
- 義認
-
義認とは「神との正常な関係に入ること」や「神から見て正しいと認められること」を意味し、「義とする」とも表現されます。
- 贖罪
-
贖罪とは「一致してる関係(和解)」を意味する言葉です。
1526年、ティンダルが新約聖書を英訳していた時には、まだ「和解」を意味する言葉がなかったために発案されました。
- 贖い
-
ある人が貧困のために土地を手放し、奴隷となったならば、彼とその財産を買い戻す義務が一番近い親族に発生しました。
この買い戻すことが「贖い」で、これは人と神との関係にも当てはめられ、キリストの働きをあらわすときに使われます。
隣人愛とアガペー
わたしたちが神から愛され、ゆるされたように、わたしたちも他の人を愛し、ゆるしていくことが求められます(マタイによる福音書6章14ー15節、マタイによる福音書22章37ー40節)。
また、新約聖書に出てくる神の愛を「アガペー」と言います。
これは、もともと愛情をあらわすギリシャ語でしたが、新約聖書で使われるようになってからは、神の愛や自己犠牲的な愛をあらわす言葉となりました(注)。
黄金律
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
マタイによる福音書7章12節
最も有名な教えの一つであるこの聖句は、黄金律とも呼ばれています。
孔子の「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」に代表されるように、多くの宗教や思想では「してほしくないこと」が中心となりますが、キリストは「してほしいこと」を中心とした教えを説いていきました。
これもまた、神のゆるしと隣人愛に基づいた教えでもあります。
キリストの「再臨」とは
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使徒言行録1章11節
言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」
マタイによる福音書24章30節
そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。
テサロニケの信徒への手紙Ⅰ4章16ー17節
すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
テサロニケの信徒への手紙Ⅰ4章16ー17節
すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
伝道の書(コヘレトの言葉)9章5ー6節(口語訳)
生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない。
聖書の死生観
再臨とは、「キリストが再び臨む日」のことです。再臨は文字どおり、キリストが肉体を持って(使徒言行録1章11節)、目に見え(マタイによる福音書24章30節)、耳に聞こえるかたちで戻ってこられることなのです(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ4章16ー17節)。
「死は眠りである」と聖書は、はっきりと述べています。死とは、深い眠りに落ちているような状態で、無意識の状態なのです。
「死者は何事をも知らない」状態であり、「日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない」のです(伝道の書/コヘレトの言葉9章5節,10節)。
また、聖書が言う「復活」とは、文字どおり肉体を持って復活することを指しています。墓から復活したキリストは、次のように言われています。
わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
ルカによる福音書24章39節
この復活が、キリストが来られる再臨のときに起こるのです。
死後、人々はゆうれいのようになるのでも、すぐに天国へ行くわけでもありません。人々は眠りにつき、再臨のときに起こされるのです(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ4章16ー17節)。
だから、再臨はクリスチャンにとっての最大の希望なんだね!
キリストの再臨の前兆
キリストは、マタイによる福音書24章で再臨の前兆について述べられていますが、それらをリストにあげると次のようなものが挙げられます。
- 偽預言者の登場(マタイによる福音書24章5節、11節)
- 戦争(マタイによる福音書24章6節)
- ききん(マタイによる福音書24章6節)
- 地震(マタイによる福音書24章6節)
- 道徳の堕落(マタイによる福音書24章12節)
- 自然界の異変(マタイによる福音書24章29節)
- 福音が全世界に(マタイによる福音書24章14節)
これらはすべて再臨が近づいている前兆なのです。
それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
マタイによる福音書24章33節
ここまでのまとめ
- 再臨とはキリストがもう一度、この地球に来られること。
- 死は眠りであり、再臨の時に復活する。
- キリストの再臨はもうすぐ来ると預言されている。
まとめ
キリスト教の教えを簡単にまとめると、次のようになります。
- 1. キリスト(善)とサタン(悪)の戦い
-
- キリストとサタンの間に論争が起こっている
- キリストがどのような存在であるかを示すために、聖書が書かれた
- 2. 神と人の和解
-
- 救いとは、神と人が共にいること
- 罪の発生を完全に理解することはできないが、その起源はルシファーにある。
- アダムとエバが犯した罪の影響は、その後の子孫たちにも及び、神と人が離れてしまった。
- 聖書の「罪」は律法を犯すことで、それは心の中の思いまで含んでいる。
- 3.愛の神
-
- 唯一の神であり、三位一体の神。
- 三位一体の位格には「父なる神」「子なる神」「聖霊」がある。
- キリスト教の神は人格的な存在で、世界を創造した愛の存在。
- 神と人を和解させるために、キリストは十字架で犠牲になった。
- 4.死と復活
-
- 再臨とはキリストがもう一度、この地球に来られること。
- 死は眠りであり、再臨の時に復活する。
- キリストの再臨はもうすぐ来ると預言されている。
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参考文献
神の唯一性はまた、ユダヤ人が“シェマ” と呼ぶ聖句(申6:4)の中にも見られます。……
申命記6:4 の“シェマ” には、「一つ」を意味する同じ語の“エチャード”が神について用いられています。一体を意味するこの“エチャード” は数学的な総数ではなく、複合体の一致を暗示します。ここには、別々の部分の一致について、何かが確言されています。申命記において神が唯一であるように、創世記2:24 によれば、夫と妻は「一体」(“エチャード”)となるべきです。
跳躍が成功する可能性が急降下することを数値的に示している。跳躍が成功するたびに、次に跳躍が成功する(もっと高い峰に移る)までの待ち時間は倍々に増加するというのだ。……跳躍がはじめて成功するまでにかかる平均試行数は2回だとすると、10回目の成功を見るまでには1000回以上の試行を重ねなければならない。これでは、もっといいところに移る可能性はじきにほとんどゼロになってしまう。地質学的な時間は長いといっても、無限ではないからである
トーラーは、神の指示と教えの全集です。ヘブライ語のトーラーは、人々が歩むべき正しい道、あるいは方向の指示、という意味を持つ【ヤラー】という語根からきています(「罪を犯す」という動詞は、【ハター】で、道からはずれる、神の指示から離れて歩む、目的を見失うという意味)。
悔い改めの意味で用いているギリシア語(メタノエオー)は複合語であり、メタは「変える」、ノエオーは「考え」を意味します。したがって、悔い改めとは、何かについての考えを変えるという意味です。
ギリシア語の動詞“メタノエオー”は、「自分の心を変える」という意味です。
アガペーは新約以前には単なる「気に入る」や親愛の情を示す程度の意味であったが、新約聖書で用いられるようになって、神的、自己犠牲的、他者中心的な愛という意味を持つようになった。